最近、通訳案内士試験のために、日本史を覚えなおしています。
日本史の中で、元寇のところで、面白いな~と思ったエピソードがあったのでご紹介します。
元寇とは
ご存じとは思いますが、元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国日本侵攻のことです。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)といいます。
元寇の結果は、一回目の文永の役は日本の大敗、二回目の弘安の役は日本側の勝利に終わっています。
弘安の役の日本側の勝因として、「神風に助けられた」なんてことを習った気がしますが、実際には、日本側が終始有利に戦を進めていたということがわかっています。
竹崎季長って?
この、2度目の元寇での日本軍の勝利に大きく貢献した人物の一人に竹崎季長という下級武士がいます。竹崎季長は、下級武士ながら、一度目の元寇(文永の役)で、先陣を切り、わずかながらの戦果を挙げました。
このとき、自分の活躍を描かせた「蒙古襲来絵巻」は、元寇の様子を知るための貴重な資料となっています。
↑右端にいる、馬に乗って血だらけになってるのが竹崎季長です。
戦果をあげたにも関わらず、竹崎のもとには、幕府からの褒美の知らせが来ません。しびれを切らした竹崎は、恩賞奉行の安達泰盛という人に直訴しに行きます。
安達泰盛といえば、幕府の重役です。そんな人に褒美欲しさに直訴に行くなんて、なんて命知らずなんでしょう。下手したら、切腹ものになりかねない暴挙です。
「褒美が欲しくて言ってるんじゃない」
なんとか面会が実現したものの、なかなか自分に対する恩賞が認められない。先例がないからと言ってしぶる安達に、竹崎はこう言います。
「私は、褒美が欲しくていってるわけではないんですよ」
「一番がけの戦果に、対する褒美が認められなかったら、誰が命をかけて戦うでしょう。」
もちろん、竹崎自身も褒美は欲しかったでしょうが、それよりも、命をかけて戦果をあげたのに、褒美という形で報われない、この理不尽さに対する怒りがあったのだと思います。
竹崎の熱心さに折れた安達は、竹崎に対して、褒美として、竹崎の地元の地頭の地位と名馬一頭を与えます。
元寇の勝因
たとえ一介の武士であっても命をかけて奉公すれば必ずや報われる、このニュースはたちまちのうちに広がり、鎌倉武士の志気を高めました。それは再度の蒙古襲来、弘安の役でも勝利につながる要素の一つになったと言われています。
弘安の役の勝因としては、他にも
- 日本側が元の襲来に充分に備えていたこと
- 四方を海に囲まれ、海の戦いに慣れた日本に対して、内陸部の遊牧民から起こった元が海の戦いに慣れていなかったこと
元寇の後
元寇の後、成果を挙げた武士たちは幕府に褒美を求めます。竹崎季長に褒美を与えた安達泰盛も、将軍に対して褒美を認めるべきと進言します。
ところが、安達泰盛は元寇のすぐ後に失脚してしまうのです。そして、褒美を得られると信じていた武士たちには、充分な褒美が与えられませんでした。
頑張っても報われない、そう感じ始めた武士たちは、幕府に対する忠誠心を無くしていき、やがて鎌倉幕府は衰退しまていきます。
現代にも通じる元寇の教訓
「成果をあげれば、なんらかの形で報われる」
人のモチベーションを上げるために必要なことは、今も昔も変わりませんね。
翻って、これを現代に当てはめてみるましょう。
サービス残業を強いようとする上司に対して、われわれはこういう風にいうことができます。
「僕は、残業代が欲しくて言ってるわけじゃないんですよ」
「頑張って残業しても、それが認められないんじゃ、誰も進んで残業なんてしなくなりますよ」
働いた分はそれだけ報われる、そういう先例をつくることこそが、むしろ会社のためになるんだと、私は思います。
そして、従業員に残業代を出さない企業は、やがて衰退していきます。