九大生体解剖事件:戦争の愚劣さ語る資料 福岡で公開

毎日新聞 2015年08月04日 14時04分(最終更新 08月04日 14時20分)

展示された平光吾一氏の「獄中日記」=福岡市中央区の東野産婦人科で2015年7月28日午後4時4分、尾垣和幸撮影
展示された平光吾一氏の「獄中日記」=福岡市中央区の東野産婦人科で2015年7月28日午後4時4分、尾垣和幸撮影
「人を救う病院で、絶対にあってはならないことだった」と事件を振り返る東野利夫さん=福岡市中央区の東野産婦人科で2015年7月28日午後3時51分、尾垣和幸撮影
「人を救う病院で、絶対にあってはならないことだった」と事件を振り返る東野利夫さん=福岡市中央区の東野産婦人科で2015年7月28日午後3時51分、尾垣和幸撮影

 太平洋戦争末期の1945年、旧九州帝国大(現九州大)で発生した「九大生体解剖事件」の資料が、福岡市中央区の医院「東野産婦人科」に並んでいる。捕虜の米兵8人が「実験手術」と称して殺され、軍や大学関係者23人が戦犯として裁かれた事件。当時、医学生として手術に立ち会った同医院の会長、東野(とうの)利夫さん(89)が「戦後70年を機に、改めて戦争が生み出す愚劣さを伝えるべきと思った」と自ら集めた資料などを初めて展示した。【尾垣和幸】

 資料は東野さんが米国立公文書館などから収集した。犠牲となった米兵の写真や裁判記録のほか、手術が行われた解剖実習室の外観や手術台の写真など約40点が並ぶ。当時九州帝大の解剖学教授で、軍事裁判で重労働25年の判決を受け9年6月で出所した平光(ひらこう)吾一氏の「獄中日記」の一部も公開されている。

 事件は1945年5〜6月に起きた。米兵8人が旧日本陸軍の大佐に連れて来られ、4回に分けて手術台に上げられた。入学して1カ月だった東野さんは、人手不足から2回の手術に立ち会わされたが、手術の目的や理由は聞かされなかった。

 8人は、不足する血液の代用として開発中の海水に体の血を入れ替えられたり、新しい手術方法の実験として肺や肝臓、脳を切除されたりして息絶えた。東野さんは「70年たっても頭に焼き付いている。心の傷です」と顔をゆがめる。

 展示された平光氏の獄中日記には、不審に思った平光氏が解剖実習室を手術で使うことに抵抗したが、外科の教授から「時局がそうさせるのだ」と押し切られる様子も記されている。

 戦後、手術に立ち会っただけの東野さんは罪に問われなかったが、平光氏は戦犯として裁かれ、出所12年後に79歳で亡くなった。東野さんは、平光氏も手術内容を知らされていなかったのに進んで罪を負ったとして、恩師の汚名をそそぐために当時の資料を収集。79年には事件の真相を訴える著書「汚名」を出版している。

 東野さんは「命を助ける立場の医師である以上、私自身もあの事件は償っても償いきれないが、軍が絶対だったあの時代の異常な空気感は言葉では言い尽くせない」と指摘。平和な時代では想像もつかない心理状況が戦争によってもたらされるとして「あの事件ほど戦争の悲惨さと愚劣さを表すものはない」と話している。展示は8月15日まで。入場無料。

◇九大生体解剖事件

 1945年5〜6月、熊本と大分の県境に墜落したB29搭乗員ら米軍捕虜計8人が、旧九州帝国大医学部で実験手術を受け死亡した。事件は連合国軍総司令部(GHQ)などの調査で発覚し、西部軍や九大関係者ら23人が48年、有罪判決(うち5人が絞首刑)を受けた。遠藤周作の小説「海と毒薬」のモデルにもなった。

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