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研幾堂の日記

Quemadmodum desiderat cervus ad fontes aquarum,
ita desiderat anima mea ad te, "Veritas".

Noli foras ire, in te redi,
in interiore homine habitat veritas.

An invenisti, anima mea, quod quaerebas?

ΛΕΓΕ ΑΥΤΟΣ ΚΑΙ ΠΕΡΑΙΝΕ

ex magna luce in intellectu magna
consequuta est propensio in voluntate.

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人文学の・・・
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サヨウナラ サヨク
2015-05-03
2015-05-01

2015-07-17 人文学の・・・ このエントリーを含むブックマーク

 しばらく前、国公立大学文系学部を縮小させるという方針が、文科省から示された。そこまではっきりした物言いではなかったけれど、要はそういう意味だったと思う。

 そこでは社会的利益だか、社会に役立つだかといった基準から、文系の諸学科で学んだことには、それらの研究成果には、そしてそれらを学んだ人には、そうしたものが高く見出されないから、という理由も述べられていた。これも、もう少し言い方が違ったような気がするけれども、つまりはそういう意味だったと思う。


 これに対してネットの各所で、こう言ってはなんだけれども、予想できるというか想像できるというか、どうも定型的なともいうか、そう、まあ、当然の反応が見られた。それらはごく自然な、至極人間標準な、日本人の社会的発言の型での、そして知的なレベルを何か別のものの高さに取り違えてできた自意識自己認識からの、それでまあ、どこにもかしこにも向けての非難が聞かれた。

 ・・・それらひっくるめて全てに対してではなく、そうざっと半分ぐらいであるが、いやその、悪いけれど、自分雇用を守るという意識が強く感じられてしまって、あまり共感できなかった。


 そうしたのを読んでいると、ついこう言いたくなる。大学でのいわゆる人文学的諸学科の状況は、最後の時に何をするかの相談の時期に、すでにもう至っている。ごく身内でのささやかな葬儀で済ますか、それとも少しは人に出席してもらうものにするか、せいぜいそうした思案をするだけが、やるべきこととして残されているだけである、と。

 さらには、こうも言おうか。もちろん、そんなことを気にかけずに、商店街の中に時折ある、古びた看板で、数十年前のままの内装で、そして日に焼けた商品を置いて、いつまでも開き続けている店のように存在し続けるという選択もあろう。店じまいということを、まるで忘れてしまって・・・


 大学の人文系諸学科が概してあまり振るわないものになったのは、もう二、三十年前からである。マスコミで需要のあるおかげで、なんだか賑やかなものに見える社会学とか心理学も、学問的という観点から見れば、まるで稚拙な一発芸の如き使われ方であり、当然そこから、そうした使い方ができる程度にしか理解していないんだろうと想像されるものになってしまっている。

 ・・・つい最近ドイツ社会学者ベックが亡くなったときラジオなどにコンスタントに出演する、有名な社会学者がコメントして、なぜだがルーマンにまで話を広げた上に、”gewaltlich” という単語を口にしていた。そんな形容詞形があったかと驚いて、念のために Duden の大辞典を開いてみたが、gewaltig の形しか記載されていなかった。この確認と同時に、そんな程度か・・・との判断を下さざるを得なかった。もともと大した人じゃないとおもっていたけれども、それでもガックリとなる気分になってしまった。

 大学の文学部は、多方面で、あんまり振るわない。教職員の水準、授業の内容、学生姿勢や関心、そして必要な文献の用意、研究発表、翻訳評論による一般社会への知識の普及等々。とはいえ、文学部系の諸学科のそれぞれや、もっと細かく個々の研究者、学生をみれば、振るわないという形容が一概に当てはまるわけでもないが。


 人文学と言うべきか、文系諸学科と言うべきか、文学部と言うべきか、私は混乱している。人文学と言って、人文科学と読み替えられて、そして社会科学のことではないと切り離されるのはおもしろくない。文系理系といった、私にはどうしても受験生用語若者の符牒的表現でしかないと思える言葉を、いい歳して使うのは恥ずかしい。文学部と言えば、昨今のデタラメな大学科目では、一義性までは求めないけれども、最低限の規定性が期待できない。

 すると話は最初に戻って、学としては何がという点からどうも漠然としていたということになる。どんな学が大学から消えていくのであろうか。それとも消えるのは、なんらかの学ではないのであろうか。

 文系あるいは文学部への大学関連予算あるいは補助金が減らされるとして、それで特定の学科や分野やが指定されている訳でないようである。しかし文系・文学部に採用されている教職員の数が減る、彼らに供される研究費などが減る、ということは間違いなく言えそうである。だがそれも、個々の教職員によっては、また研究テーマによっては、多分、政治力次第で税金を引っ張ってこれて、従来からの変化はないということになろう。

 ・・・それで、そうした手立てにあまり長けていない、そうした方面に身が入らない人たちが、自分の雇用、つまり給料だけは払ってもらえるように頑張って反論か批判を発してはみても、最初に記したような感想のものになってしまったのであろう。


 それはさておき、もう一つ減ることになると言えそうなのは、文系・文学部的な諸学への評価、その重要性、その必要性、その意義づけである。社会一般で、つまり普通の人々の意識では、大学でのその分野の研究・教育のためにお金をつぎ込む必要があるのか、人を雇い続ける意味があるのかといった疑問が強く持たれるようになるのであろう。いや、でもそれはこれからなるのでなく、もう既に長いことそうだったのであるが・・・

 いやまあそれでも、そういった否定的眼差しに対抗し、低評価を覆し、そうした疑念を払拭し、理解を改めねばならない、これが人文学に関心を寄せる者に求められている課題ということになるのであろう。だがね、それはもうずっと我々の課題ではなかっただろうか。そして、それに答えるにあまりにも怠り過ぎたのではなかろうか。だが、どういう仕方で、どういう方向で、それへの努力を払うべきであったのだろうか。


 文学部的学科というあたりで、外国語学や外国文学特に西洋のを思い浮かべることにして、ついでに西洋思想もくっつけておくと、この方面の研究は、あるいは大学で学科として整備されたのは、言って見れば、幕末明治初頭の強烈な西洋文明吸収意欲の余波であり、明治政府近代化政策の付帯物、悪く言えばオマケのようなものだった。

 幕末・明治初頭であれば、外国語学は、常に絶えず、外国技術・制度の吸収のために必要とされた限りのものであり、文学・思想といったところにまでは視野に入れていなかった。それを当初の目的としての外国語学の履修といったものは、洋学に携わる大多数に見出されるものでなかった。

 近代教育制度として整備された大学、そして時に各種専門学校でも、文学研究が学科の揃えということで存在したけれども、外国語学研究自体が西洋の技術・制度の吸収のためのものという位置付けから外れることはなかった。英語ドイツ語に、フランス語より多くの人が携わったことが、まさしくそうした事情を説明するものである。・・・ちょっと面白いことに、平成現在になっても、英独偏重を嘆く文句を、仏語学者の口から直接に私は聞いたことがある。

 

 戦前まで、ドイツ語が一定の履修者を得ていたのは、ドイツに法律制度や国家学を学んだからである。そうやって研究された法律や国家学の日本での意義に付帯して、ドイツ文学、思想、そして哲学を研究する意義が与えられた。また同じく法学などを履修した者の社会的地位を背景にして、それらへの関心が持たれた。前者に支えられて、後者は存したのである。

 ・・・この依存あるいは付帯的存立、あるいは派生的関心であることは、一時期まで思想・哲学への関心が、カントもしくはヘーゲル、そしてドイツ観念論に特定集中していて、それら以外へと、ドイツ思想・哲学に広く深く関心を向けるという姿勢が見られなかったことから言えよう。この広がらなかった様子については、何段落かすぐ下で。

 先に付け足しに触れた老学者の愚痴にかかわらず、戦後、ドイツ語の地位は低下し、フランス語の地位とあまり変わらなくなった。誰でも知るように、ドイツが日本の制度文物の吸収関心から外れたからである。英語偏重の時代になっても、人文系の分野が技術・制度といった実学的受容が勉められていて、その上でそれに派生的で、付随的で、悪く言えば余技的な分野として存在していたことに変わりはない。


 近代日本の欧米文化への接し方は、技術・制度の吸収がまず第一のテーマとするものであり、その手段として外国語研究があった。このテーマ追求の活発さがあることで、それを条件ともし、それを土台ともして、欧米の文学、思想、そしてそれより少なくだが哲学の研究環境形成された。人文学系諸学は、言って見れば、自立的なものではなかった。

 文学、思想、文化などの分野の人文学諸学で、ある一国を遍く、包括的に捉えようとする姿勢や努力が見られなかったわけではないが、その姿勢がそれら諸学の基盤として継承されるほどに確立されたことはない。人文学としてはその意味をすこし拡張しすぎるきらいはあるが、経済学や社会学を見れば、経済思想や社会学的方法やに日本で注目が寄せられるのは、ほぼすべてが、それと関連した実際的な理論議論の盛んさが欧米でも見られたものに限られている。この連動は、後者が先であり、前者はそれにあくまでも付随したものである。

 つまり、今日に至るまで結局、人文学的な研究視点から、欧米のどれか一国に対してでも、包括的で、俯瞰的で、総覧的な探求が日本でなされなかったのは、人文学的諸学の付随的、派生的な存在仕方によるのである。


 文学部の諸学科、語学から人文的諸テーマの学まで、それらが将来大学で縮小していく事情として、明治以来の西洋文化吸収という巨大なモチベーションが消えたということも考えるべきである。

 平成の今日、明治から昭和にかけてと著しく対照的に感じられるのは、おおよそどんな分野にあっても、欧米と日本とを比較して、かつてと同じ意味での先進性、後進性といったことを意識しなくなったことである。ものによっては、そうした落差で語られることはあっても、それはもうどこかしら言葉の上でのことで、幕末・明治の日本人がそれに感じた深刻さ、リアリティ、そして何か危機感に似た切迫さはもはやそこに伴っていない。

 明治以来の重要テーマであった、技術や制度、産業や経済にあっては、もうほとんど文明的な落差などは存在しない。そして日本人がそうした分野で欧米で活動するに、明治期でのような困難はまずほとんど見られない。多少の壁、障害、そして克服すべきものどもがあるとしても、それは文明の相違によるのでなく、文化や習慣の相違によるものに過ぎない。

 使い古された表現で言えば、欧米へのキャッチアップを成し終えたのである。そしてそこには、幕末・明治以来の、近代日本を支配し続けた、欧米文化の追求という姿勢は見られない。もとより、それを維持する動機が生まれてこないのである。欧米文化、それとも西洋文明と言おうか、それはかつてのような魅力を、そこに引き寄せられる力を、その輝きを、我々日本人に向かっては放っていないのである。

 たとえ実学的関心に派生しての関心であっても、明治の最盛期から、その残響か名残としての昭和まで続いた、欧米文化を人文学的方面でも知ろうとする動機は、実学方面でそれが失われたことで、その土台を失い、それと連動して消失したのである。今日、先進性や開明性の模範やモデルとして欧米文化、思想、そして哲学の意義を説くに、かつてのごとき説得力はない、いやそもなんらの説得力もない。


 理科学系諸学では顕著に、そして早々に、かつての欧米に一方的に学ぶあり方から、いわば自立的な研究に移行し終えて、相互影響的関係にあるが、経済、金融、法律なども、ある面では(?)、自立的な姿勢になりつつあるとも言える。後者のそれらは、社会に役立つとか、社会的に有益なという表現の意味するものを、経済、金融、法律の日本的現実を捉え、それらを解明し、そしてどうしたものにしていくかの発見に用いられていることとするならば、確かに社会的に役立っているのである。

 これらに対し、人文学はどうかと言えば、今確認した意味で、社会的に役立っているとは、確かにとても言い得ない。欧米の実学吸収に派生的、余波的、連動的に生じ、それによって与えられた従来の位置づけに安住している。そして、その源が消え、その土台が変質すれば、ともに消え去っていかねばならない定めのままにある。

 西洋文明、欧米文化がかつて放っていた特別意味合いが消えた今、それらの後光に照らされなくなった今、主としてそれらに関心を向けてきた、まさしく欧米模倣でそうなったとも言える、人文学的テーマや研究方法もまた、いわば特権的な意味合いや位置づけを与えられないものとなったのである。

 例えば、シェークスピアバルザック、カントやヘーゲルの哲学といったものについて、何故にそれらを学ばねばならないのか?、どうしてそれらは関心の対象となるべきものなのか?、今の我々にはそれを納得させる、十分に力のある言葉はない。個人的な関心をでなく、社会的なもの、つまり大学の学科として維持していく意義づけを与えるものを、我々は持たない。

 西洋文明に特殊な位置づけを与えて、それに習うとかそこに学ぶといった姿勢を取り続け、西洋文化の受容によって近代日本を作り上げていく時代は、とうに終わったのである。その終焉とともに、欧米文化や思想に、暗黙的な上位性、模範性を意識することを、もはや我々はしていない。それらに関心を向けてる姿勢のみならず、それらを理解しようと努める動機も、我々はごく自然に所持するようにはなっていない。


 なるほど、技術や制度、文化や思想について、なんなら理科学的知識、理論に関して、それらの思想的背景、哲学的根拠の知識及び理解を深めるという課題は、それ自体として、存在し得るものである。どんな時にも、そういう課題を立てることはできる。その課題は日本の近代化というコンテキストでのみ存在するものではない。

 だがそうした思想・哲学的反省動機付け、そうした反省的検討の努力、そしてその営みの成果について、これらの最初のものにおいてすでに我々は、近代日本の文化史的環境のゆえに、どこか手を抜いてきたし、自覚的に構築する必要がなかった。またその状況こそがかえって、そうした自覚の努力を妨げてきたとも言える。

 我々日本人は、欧米の思想的・哲学的反省を学ぶ時、その動機付けを自らがすることなくして、その反省的検討もその成果も、いっぺんに受容した。(もちろん、今だって多分にそうである。)そしてそれらを、ベースにある西洋文化全般に付与された模範性、高度性の地平の上で、またそこに立脚して、さらにより高度の西洋理解、あるいは西洋文化に関する深い知識と意義付けて、それらへの関心所持を当然のもののように意味づけてきた。


 こうした好環境が、文化的背景圧力がもはや存在していないという事実を、我々まず直視せねばならない。そういうアドバンテージ無意識にも利用することなくして、思想的・哲学的反省を、もっと広げて人文学的探求の意義を、西洋文化との関係から切り離して、我々自身のものとして示さねばならない。我々自身の中から生まれるものとして示さねばならない。こうした議論にあって、まずは何よりも、先進性後進性といった図式や、文化的受容の必要性やのトポスを用いるのをもう控えねばならない。

 なるほど人文学は、人々の社会や文化についての理解を深めて、それによって社会をある意味でより高めていくという働きにおいて、知的営みの高次の形態である。だがそれによって文化、思想の、あるいはゆるい言葉だが教養が、文字通り高まる、つまり何かしら上位の価値がそこに付与されたり、あるいは顕示しうる優秀性や優越性をもたらすわけではない。それは人々が自らがそこに属する社会または文化に対する自覚的理解、かような自己自身について構築する自意識の一形態であるに過ぎないのである。


 近代日本の欧米文化全般の受容・吸収、まるで国家の存亡をそこに賭けたといっても良いぐらいのそれへの傾斜が失われていくことは、この傾斜的姿勢に派生し、それに依存することで存在してきたものどもには、当然に不利に働き、それらの活動を縮小させていく。しかし、それに頼らないと一度決心した者には、不利も萎縮もまったく関係ない。むしろ西洋文明という暗黙の基準設定の故に、しかもそれが明示されないことでより強く、人文学全般に漠然と働いていた縛りのようなものが、それを無意識に規定していたものが、人文学的関心から取り払われるという意味では、かえって好ましいと思える。

 かつては例えばフランス革命を研究する背後のどこかしらに、日本を近代的市民国家に導く道を考えるとか、ルソーを紹介して日本の人々を市民として形成しようとするとか、そういった姿勢や関心、あるいは問題意識といったものが見られた。古い例では、シェークスピア翻訳には日本の戯曲の近代化、西洋文学の翻訳評論には日本文学近代文学化というテーマが共に合わさっていた。

 かつてはゲーテを読んで、ビルドゥングスロマン主人公のような自意識を人は持とうとした。これならまだ可愛い方で、サルトルを読んで、政治にアンガージュする知識人めいたものになったように人は思った。またニーチェを読んではニヒリストに。そしてこれは翻訳の読者がではなく、研究者自身がそうだったのである。学者は、欧米のそれらをモデルと位置づけ、それを日本人に示すことで、日本の人々もそれに倣っていくと思ったのである。

 そこにあって、それらのモデル性、規範性の意味づけは、学者研究者自身によって与えられるよりは、欧米文化・思想全体にすでに与えられていた上位的文化、指導的文化の意味にかなり安易に立脚し、依存していた。

 ・・・あらためて、根本的に、根源的に示す努力が為される場合には、少し面白いことに、また複雑なことに、歴史や政治の現実の転換・変化という背景が持ち出された。が、欧米人の現実認識あるいは自覚の変化が、そのままに現実世界そのものの変化に見なせるというところに、欧米追随、欧米模倣にその人がどれほどどっぷりとつかっているかが現れている。

 ・・・ニーチェの神は死んだという文句は、ある時期のドイツ人もしくは欧米人の思想文化的自覚、自己理解のなにがしかの変化を言い表しているとしても、それだからといって世界全体で神なるものが死んでしまったわけではない。アフリカの飢えている者達の前で文学はどれだけの意味が、とサルトルが言ったことで、フランス人あるいは欧米の人々に文芸創作意識に何かを付け加えたとしても、世界中の文芸活動がそんな変容を被らねばならないものでもない。アウシュビッツの後に詩はと問うことが、その事件の意味の考察掻き立てるとしても、世界中の詩作が同時に何かしら同じ問いにさらされるわけでもない。

 ・・・話を飛ばして記すと、西洋文化への圧倒的な傾斜に依存していたことで、我々の現実認識や現実理解、そして自己認識と自己理解は、著しく浅薄なものになってしまった。我々は、外国にこれこれがあるが、日本にはそれがないと言うことで、何かしら中身のあることが言えるし、言われていると思っている。こうした物言いのほぼ全てが、実は、まったく中身のない、現実を踏まえたものでないのに。どうだと言う方もウンウンと聞く方も、両者共に、知識も理解も無いのである。


 人文学が日本社会に必要であると理解されるためには、それを示すためには、社会的有益性が比較的容易に認められる諸学諸技術諸技芸などに対して、それらの理解と活用に人文学が役立つことを示さねばならない。それらの方法論的構築とそれらの方向性の指示とに人文学が取り組まねばならない。そこからまた、思想・哲学の意義と必要性も示されることになろう。

 しかもこれを、西洋化というモデルによる縛りが、古い言葉言えば西洋崇拝的感情がなくなった中で行わねばならない。もとより、そんなものを自ら捨て去らねばならない。そんなものを自ら脱ぎ捨てねばならない。

 そうして例えば、教育制度、教育学に対して、教育思想的解明を、文学に対して、文学思想的評論の企てを、経済、経済学に対して、経済思想的研究を、科学技術に対して、科学思想としての反省を、かように社会に役立っている実学に対して、人文系諸学が役立つものであることを示さねばならない。


 役立つとは、それら諸学の認識の土台を定め、概念の射程を明らかにし、方法の有効非有効を判定するといったことが出来ることを言う。それらが現実認識として、どのようなものなのかを分析し、それらが現実理解として、どのように構成されたものなのかを解明して、それら諸学自身の形成に資するものとなることを言う。

 人文学がそのような学として構築されるならば、社会に役立つ諸学を用いる人々がまず最初に、そしてそれらを知識や教養として持っている人々も次に、自分が行っている理解や判断の反省のために、人文諸学を役立てるようになるであろう。


 近代日本が西洋文化を独自に吸収したことは、世界史文化史的偉業と言って良いものである。日本がそれに成功しなかったならば、アジアの姿はまったく別のものになっていたであろう。さらには二十世紀の世界は別の様相を呈していたであろう。二十世紀後半は、日本モデルとは見えないようで、随所に日本モデルでの近代化が出現した。それなくして、今日の世界の姿は無い。これは我々の文化的資質の強力な証拠であり、我々の人文学の重要な基礎であり、そして我々の人文学が今後の世界に役立つものとなり得ることを約束している。

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2014-03-03
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579017