三酔人の独り言

ルポライター・星徹のブログです。歴史認識と国内政治に関わる問題を中心に。他のテーマについても。

石川健治教授(憲法学)『週刊金曜日』インタビュー記事

2015-07-08 21:29:20 | 憲法
 圧倒的多数の憲法研究者や数多くの元内閣法制局長官らが「憲法違反」と断じる安全保障関連法案(政府案)について、国会で“審議”が続いている。政府・与党(自民・公明)は、近代立憲主義と熟議デモクラシーを忘れ、屁理屈と時間稼ぎと「数の力」を以って、憲法違反の法案を強引に成立させようとしている。今月中の衆院「強行採決」も現実味を帯びてきた。

 「2014.7.1閣議決定」に始まる安倍内閣・与党の「憲法殺し」「反立憲クーデター」とも言える一連の暴挙を、絶対に許してはならない。私たちはまず、「日本の政治中枢でいま何が進行中か」を知ることから始めなければならない。

 『週刊金曜日』2015.6.19号(1044号)に掲載された石川健治東京大学教授(憲法学)インタビュー記事を、同誌編集部の許可を得て以下に転載する。

                            ≪無断転載禁止≫

【石川健治・東京大学教授に聞く】戦争法制で日本から立憲主義がなくなる
              
                        【聞き手・まとめ】星徹

■石川健治(いしかわ・けんじ)さんプロフィール
 1962年生まれ。東京大学教授。専門は憲法学。「立憲デモクラシーの会」呼びかけ人。昨年末に編著『学問/政治/憲法─連環と緊張』(岩波書店)を刊行。

【リード文】
 多くの憲法学者が「憲法違反」と断じ、かつての自民党幹部や閣僚らもその危険性を指摘し「反対」「撤回」と声を上げる戦争法制案。安倍政権への包囲網が狭まる中、6月24日に「法案のすみやかな撤回」を求める緊急声明を発表する「立憲デモクラシーの会」呼びかけ人の石川健治・東京大学教授に聞いた。

【本文】
──「安全保障関連法案」が国会審議中ですが、そのベースにあるのは昨年7月の「集団的自衛権の行使容認」を含む閣議決定です。この約1年の流れをどう見ますか?

 与党の公明党は、この閣議決定を「個別的自衛権に毛が生えたもの」などと言って同意しました。もしそれが本当なら、その後の安全保障法制に関する論議は、もっと抑制されたものになっていたはずです。しかしそうはならず、さらなる「拡大解釈」の方向に進みつつあります。およそ1年間の冷却期間をおいて再開された安全保障論議は、「やはりあの閣議決定は憲法9条の根幹に関わる大転換だった」ということを明らかにしてきている、と言えるでしょう。

昨年7月閣議決定の本質
──閣議決定は、憲法9条解釈の根本を変えるものだった?

 ええ。あの閣議決定の本質は、憲法9条に基づく安全保障政策から、9条の許容しない同盟政策への交代劇だった、と思います。この両者は、規範論理的な構造が違います。共通の敵を想定した軍事同盟を結んでその抑止力に期待するのが同盟政策であり、戦争につながりかねない敵対関係を予(あらかじ)め抱え込んでいます。それに対し、「敵を作らない」のが本来の安全保障政策であり、日本国憲法が前文や9条で想定しているものです。

 しかし、二国間の安全保障条約が容易に同盟条約に変質し得ることは早くから指摘されており、実際、日米「安全保障」条約も、同盟条約の実質を備えるようになりました。にもかかわらず、かろうじて首の皮一枚で9条とつながってきたのは、日本側に「集団的自衛権の行使を認めない」という判断があったからです。

 けれども、閣議決定により「首の皮一枚」は切れ、名実ともに日米安全保障条約は、日米同盟条約になりました。それは、これまで憲法9条の政府解釈が条件付きでギリギリ許容してきた枠を、明らかに超えるものです。

──政府の憲法9条解釈は、50年以上にわたり、個別的自衛権と集団的自衛権の「質的違い」を明確に区別し、後者の行使は認めてきませんでした。しかし、昨年7月の閣議決定では、両自衛権を渾然一体化した上で、判断基準を「量的違い」に転換しました。

 そうですね。個別的自衛権行使の量的拡大に過ぎないかのような体裁に見せて、実際は質的に違うものを持ち込んだのです。そして、ひとまず小さく産み落とされた異質の論理が、やはり大きく育ちつつある、というのが現状です。

 いわゆる武力行使の新三要件の起草過程で、公明党や内閣法制局が、異質の論理が膨張しないよう既存の論理の枠内に抑えこむ努力をしたことは、認めます。しかし、一旦切れてしまった論理の筋道は、なかなか元には戻りません。現実政治は、政治に固有の法則に従って、恣意的拡大解釈を続け、どんどん新しい道へと流れつつあるのです。

──安倍政権とその周辺は、安全保障上「必要だから」との理由で安全保障法制の確立を目指しますが、憲法を蔑(ないがし)ろにしているようです。

 安倍政権やその周りにいる安全保障の専門家たちは、現在の安全保障環境の中での必要性という観点から、「現状の手段では足りない」と考え、本格的な軍事同盟政策への転換を追求しているわけです。この「必要」というのは、確かに、政治を動かす固有の法則ですが、それがひとり歩きする議論は危険です。そこで、これを一定の枠内に抑えこむのが法の論理です。権力の逸脱や濫用を防ぐのが目的ですから、安保論議それ自体とは、論理の次元が違います。憲法の枠を「必要」にあわせた解釈操作で越えようにも、論理的限界というものがあります。

──安倍政権と自民党は、そういった解釈改憲を追求すると同時に、明文改憲も追求しています。

 そうですね。既成事実を積み重ねて現状を変えていき、同時並行または後付けで明文改憲を追求する手法です。こういった手法は、立憲主義としては順序が逆であり、極めて危険な動きです。

 この手法も問題ですが、安倍晋三首相という「人」の振る舞い方にも大きな問題があると思います。首相自身が反立憲主義的な振る舞いをごく自然にやってしまうのは、日本の立憲主義にとって非常に憂慮すべきことです。

内的ブレーキなき政権
──どういったことでしょうか?

 安倍首相には、政治権力に対する目障りな監督(者)を、まず潰そうとする傾向があるようですね。たとえば、政府内部の法的監督者である内閣法制局の長官を都合の良い人物に替えてしまい、昨年7月の閣議決定につなげました。また、目障りなメディアに対しては、政治的圧力とも言える動きを繰り返しています。

──安倍首相は、「選挙で勝っているから何でもできる」とでも言いたげで、政治権力を好き放題に駆使しているようです。

 どうも首相は、「地位」の問題と「統制・監督(コントロール)」の問題を混同しておられるようですね。

 政治権力の統治システムは重層構造になっており、「権限」「責任」「地位」「コントロール」と四重くらいの層をなしています。法的な権限を濫用しないか、説明責任など責任を果たしているか、地位につく人をそもそもどのようにして選任するか、こういったことは、権力の内側にある仕組みですが、「念のために外側からブレーキを掛ける」という意味で、四重めの「コントロール」がシステム化されているのです。

 「コントロール」は「コントラ・ロール」からきた言葉で、外側に対抗的存在を置くことが原義です。裁判所による法的コントロールや国会・選挙等による政治的コントロールだけでなく、世論によるコントロールなども考えられます。この「コントラ・ロール」の下での権力行使こそが、立憲的権力の真髄なのです。

 確かに首相の地位は今のところ盤石ですが、それは決して、権力への監督システムを蔑ろにしてよいということを意味しません。さまざまな局面において、「コントラ・ロール」を果たそうとする者を、政治権力にとって邪魔な存在として敵視する反立憲主義性が、安倍政権には目立ちます。

──私たちが日頃考える「立憲主義」のイメージとは、少し異なりますね。

 真の立憲主義とは、内在化されたシステムです。内的なブレーキの利かない権力は、未だ立憲的とは言えません。たとえ監督者としての裁判所が外側からブレーキを掛けていなくても、また憲法に明示的には違反していないように見えても、さらに、「ちょっと待てよ」というブレーキが自然に掛かるかどうか。戦前の憲法学者・佐々木惣一の用語をかりれば、憲法の条文に照らした「合憲・違憲」の評価とは別に、「立憲・非立憲」という内的な力学が働いているか否かがその分かれ道です。

──もし安保関連法案が成立すれば、日本の立憲主義にどういった影響を与えると思いますか?

 影響は深刻です。戦後の立憲的レジームは、ひとまず終わったことになるでしょう。しかし、それでも、諦めずに、ポスト戦後の立憲主義を追求してゆくのみですね。

 ■5月26日、東京大学・本郷キャンパスにて。
-------------------------
ほし とおる・ルポライター。ブログ「三酔人の独り言」

ジャンル:
政治
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加 mixiチェック
« 水島朝穂氏の安保法制「維新案」... | トップ | 与党高支持率のままなら「次は安... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む