【コラム】盗作問題で再燃した「文学権力論争」

 今回の第2次文学権力論争は、15年前の論争の延長線上にある。配役は重なっており、背景にある「運動的性格」も似ている。三島由紀夫の作品とそっくりの文章を含む小説を申京淑氏が発表したのは、20年前のことだった。その小説は、随分前に盗作の烙印(らくいん)を押されていた。これをまた持ち出して問題にした上、盗作を口実にして文化権力論争を再燃させようという意図が読み取れる。ある文学評論家は「資本と批評を持つ巨大出版社が、商業的利益のため特定の作家を無限の愛情で助ける組織文化のせいで、盗作を盗作と言えない事態が生じた」と語った。

 15年前にも「評論と出版商業主義の連環を断つべきだ」という声があった。しかし、結果的には失敗した。今回の論争を通して、批評と出版の癒着は昔よりも精巧になり、文学権力は依然として強固だということが明らかになった。権力が自ら力を手放すケースはまれだ。ある作家が、受けるべき正当な評価を文壇の誤った構造のせいで受けられない、という事態は改められるべきだ。能力以上に過大評価されるケースも同様だ。しかし、文学権力論が有している流れは「私は正しいのに、お前のせいで駄目だ」という機械的な二分法だ。ここでは、権力を否定することもまた権力的行動だという事実が看過されている。「私」を含む文壇全体の内的省察につながり得ない運動には、限界がある。

 文学権力が消えれば「家出した韓国文学」が帰ってくるのだろうか。それはまた別の問題だ。それは、時代や人間を読む作家たちの見通しが深くなるべきだということを意味しており、従って、権力論では解決できない問題だ。

金泰翼(キム・テイク)論説委員
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