ベイマックスの「政治的正しさ」とクールジャパン - Togetterまとめ
ある程度消化できた気がするので書き残しておこう。
ベイマックス観てきた。すごかった。凄すぎてゾッとした。出来が良すぎる。隅々まで違和感がない。ジャパニメーションの優位性だと思ってたものが完全に取り込み終わってる。「PCに配慮なんかしてたら〜」ってのが甘えにしか聞こえなくなる。「クールジャパン」なんて一瞬で踏み潰されるぞこれ。
PCに適合するっていうのは、配慮することじゃないんだな。リスペクトできてるってことなんだ。いろんな物事に対する敬意があるってこと。それをすごく感じた。PCに適合しない作品はどんどん売れなくなると思う。面白さの質が全く違う。偏見のせいで魅力を取り込めないって意味になると思う。
日本の感覚がこのままだと、ジャパニメーションやクールジャパンは偏執的なだけのB級扱いに落ちるだろうって言ってたツイートみたけど、その意味がよく分かった。こういう感性の作品がこれからどんどん量産されるのかと思って、観ながらずっと恐ろしかったよ。これは同じ土俵に乗れなくなるレベル。
いやほんと、それ以前の問題、って表現がぴったりします。端的にダサいんだなと。PCに適合してなくてもいいってことは、あえてそのダサさを味わう、ダサいと分かってるけど、ってことにこれからはなるんだなと思いました。
一部の引用なので全文はリンク先へお願いします。
とりあえず「PC」ってなんやねん、という話から。PCとはもちろんパーソナルコンピュータの略ではなくて「Political Correctness」。日本語に訳すと「政治的な正しさ」という意味だそうです。
ポリティカル・コレクトネス(英: political correctness、略称:PC)とは、言葉や用語に社会的な差別・偏見が含まれていない公平さのこと。職業・性別・文化・人種・民族・宗教・ハンディキャップ・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現、およびその概念を指す。
1980年代に多民族国家アメリカ合衆国にて始まった、「用語における差別・偏見を取り除くために政治的な観点から見て正しい用語を使う」という意味で使われる言い回しである。「偏った用語を追放し、中立的な表現を使用しよう」という運動のみでなく、差別是正全体を指すこともある。この運動は日本語など、他の言語にも持ち込まれ、いくつかの用語が置き換えられるに至った。しばしば(伝統的な)文化や概念と対立する。
日本語では「政治的に正しい」と訳される場合があるが、それを皮肉った『~おとぎ話』などの書籍も存在する。
「政治的な正しさ」なんて、訳語にすると強烈に胡散臭いワードなんですが、「看護婦、看護士⇒看護師」と改められた一連の流れを思い出してようやく理解できました。差別や偏見を防ぐための表現のことなんですね。このまとめの要旨をざっくり書くと「PC配慮の面で遅れているクールジャパンは、このままだと世界の舞台で勝負出来なくなるぞ」ということになるのかな。
まとめにも出てますが、
PCってのは、日本で海外向けに物語的な製品作ってる企業では意識することがもはや当たり前なので、今更ってとこはある。そりゃ老害とかクライアントがアレだとかで、全方位の対処は難しくても、少なくとも現場でその重要性を全く知らない人はいないのでは?
という製作者サイド(?)の意見もあるので、全く配慮してないなんてことはないと思いますが、「まだまだ日本の創作物はその水準に達していない」というのがまとめられているツイート主さん達の認識のようです。
このようにまとめ内(外?)でPC配慮について絶賛されている「ベイマックス」ですが、この「ベイマックス」の表現は、本当に世界の全ての人から支持される「政治的に正しい」表現なのでしょうか。
ぼくは「ノー」だと思います。「批判が一切ないことを証明せよ」なんて悪魔の証明ですけどね。
以前のブログ(年末年始に盛り上がった話題についてあれこれ - Fuzzy Logic)にも書きましたけど、「誰も傷つけない」表現なんてこの世に存在しない。大多数に支持されている(であろう)「ベイマックス」が誰かの心を傷つける可能性を否定することは誰にも出来ません。
では、どうやって「正しい」表現を担保するのか。一義的に表現を吟味するのは製作者ですが、製作者が配慮できるのはあくまで「製作者が『問題がある』と認識している差別表現」のみであって、認識していない差別表現はそもそも配慮することすら出来ません。「正しさ」は人の数だけ存在する。しかし人間の認識には限界があるから、製作者は自身の認識や思想、信条に基づいて、あくまで「正しそうな」表現を選択することしか出来ない。だから「正しい」の頭に「政治的に」なんてつけないといけなくなる。誰もが納得する絶対的な「正しさ」なんてこの世に存在しないからです。
国と国、民族と民族にもそれぞれの「政治的な正しさ」があります。どこかの国に対して作品を出していく際に、その国の「政治的な正しさ」に配慮することは必要だとは思っています。継続的に見てもらえなければ、ショーバイにならないですから。
しかし、「正しさ」は時代と共に移り変わっていくものだと思います。なので、いつかは「人を容姿で判断することは政治的に正しくない!」とされる時代も来るかもしれません。そうしたら「○○君カッコいい! △△はキモい!」みたいなキャラが登場する作品は「PCが配慮されていない!」という理屈によって淘汰される日が来るかもしれないですね。
そうやって「誰かにとって不快なもの」を排除する論理が働き続ければ、いずれ何も表現できなくなる日が来る。だから、論理的な批判という目的を超えて、自分の気に入らない表現を攻撃し排除する目的でPCという言葉を使っている人に対しては、ぼくは賛意を表明することは出来ません。
最後に、今回の記事を書く上で多大な影響を受けたブログの記事を紹介して終わります。
とりあえず作ってみた(仮) 正しいポリティカル・コレクトネスのあり方
ポリティカル・コレクトネスを推進する人々にも、色々な立場があるのです。ポリティカル・コレクトネスを推進する人々の中には、そういう表現を「差別」「人権侵害」として「根絶やし」にしようとする人がいるのは事実です。また、性表現などの場合は、法律を用いて「取り締まろう」とする人までいます。
しかし一方では、単にステロタイプな表現を「ステロタイプでない表現と同じぐらいに抑えよう」と考える人や、逆に「そうでない表現を増やそう」と考える人もいるのです。
でも、ポリティカル・コレクトネス表現を推進する人の、政治的に正しい表現ってつまらない。そう思う人も多いでしょう。私も、正直そう思います。人工知能学会の表紙絵批判に積極的だったスプツニ子さんの寿司ロボットの話は、抑圧される女性対支配する男性みたいな古典的な内容で、とてもつまらないです。ただ、同じつまらない表現なのに、男性主人公が女性を悪役から助けにいくようなものは、大衆受けがするんです。一方で、フェミニズム的な内容は、政治的なものとして受けが悪い。(一般的に流通している女性を優遇・美化する表現と、本物のフェミニストが描くフェミニズム表現とは、かなり差があります。)
思うに、正しいポリティカル・コレクトネスのあり方はステロタイプを「根絶やしにする」ことではなく、「一つの選択肢にとどめる」「ポリティカル・コレクトな表現と近い割合にする」もしくは「ステロタイプに過ぎないということを広める」ことにあると思います。したがって、一つのステロタイプな表現が話題になると、それを集団で集中的に攻撃するというやり方は、誤りなのです。
表現の自由というのは、そもそも相対主義です。間違った表現や劣悪な表現でも許されるからこそ、表現の自由と言えるのです。裏を返せば、「当たり前の表現だから」批判されないというのもまた誤りなのです。
何がポリティカル・コレクトのかは人により異なります。男女共働きも役割分担も両方あるのがポリティカル・コレクトであると考える人もいれば、男女共働きのみの世界がポリティカル・コレクトだという人、そして男性は仕事女性は家庭こそがポリティカル・コレクトだという人もいます。男性は家庭、女性は仕事という人さえいるでしょう。また、現時点では人間と動物の絆を認めるのも間違いという主張を受け入れられる人は少ないでしょうし、ポケモンブラック/ホワイトを自粛するのもよくありません。しかし、多様な価値観があるからこそ、批判すべきものは批判し、その批判が間違いでたると思うならば、批判を退けるというプロセスが必要なのです。