ロックそのものの音楽的進化と、社会情勢の混沌、それに対する若者たちの怒りもあいまって、60年代のロックを取り巻く環境が日本を含め世界的に激動のものとなった。前回はそういうお話をしました。今回はそれを受けての70年代前半のロックの話をしましょう。
長続きしなかった「幻想」
60年代の最後の3年で音楽的に急速かつ実験的に発展し、遂には社会の変革さえも求めたロック。その理想は69年8月15~17日のウッドストック・フェスティバルで出来上がったように見えました。しかし、それは露と消えていくことになりました。その直前の8月9日には、当時のヒッピーの一部に熱狂的に支持されたカルト集団の「教祖」チャールズ・マンソンが信徒に女優シャロン・テートを惨殺させました。さらに12月には、カリフォルニアのオルタモント・スピードウェイでのフリー・コンサートで、ローリング・ストーンズの「悪魔を憐れむ歌」の演奏中に警備にあたった暴走族ヘルズ・エンジェルズが黒人青年を刺殺する事件が起こってしまいました。
また、さらに激震が走ります。70年4月、ビートルズが解散してしまったのです。かねてからジョン・レノンのベトナム戦争反対運動や、ジョージ・ハリスンのインド哲学への傾倒と社会活動など、メンバー個々の動きが激しくなっていたビートルズでしたが、最もバンド継続を望んでいたポール・マッカートニーの脱退で終止符を打つことになりました。また、70年9月から半年ほどのあいだに、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ドアーズのジム・モリソンと、「サマー・オブ・ラブ」を象徴した3人のカリスマが相次いでアルコールやドラッグで命を落としました。彼らの死は「自由」や「反抗」には代償が伴うことを象徴していました。
そして日本でも、ウッドストック以降に日比谷野音での「十円コンサート」をはじめ、ロックやフォークのフェスティバル開催が活発化したのは良かったものの、71年8月の第3回全国フォークジャンボリーでは、出演者の出順に関して出演側・客側からケチがつき、主催者側がテレビでの撮影を行っていたことに怒った観客が「商業主義的だ」としてステージに乱入したなどの理由で、その後のライブが中止になってしまいました。乱入者の中には活動家も多数混ざっていたようです。このフォークジャンボリーでの事件も、体制に反対する以前に内ゲバ(内部抗争)で自滅した当時の日本の学生運動の衰退の姿とも重なりました。
ジョン・レノン「Imagine」
傷ついたヒッピーと自然回帰のアメリカン・ロック
こうした社会の動きを受け、世界でも日本でもロックが2分化する傾向が見られるようになります。
まず、洋楽ですが、「アメリカン・ロック」と「ブリティッシュ・ロック」がハッキリと別れる傾向が生まれました。もちろん、中には矛盾もたくさん存在するし、国の名前で音楽を括ること自体、僕自身は得策ではないと思っていますが、この当時、実際に思われていたイメージに従うと、「アメリカン・ロック」がフォーク、ブルース、カントリー、ゴスペルなど、アメリカの伝統音楽を下地にした音楽性のもの、「ブリティッシュ・ロック」がハードロックやプログレッシヴ・ロックなど、アリーナ会場が普通になったロック・コンサートに映える、大音響でスケールの大きな長尺のロックでした。
この当時の「アメリカン・ロック」に関する時代背景ですが、「愛と平和の運動」に挫折したヒッピーたちが、牧歌的な生活を行うとして田舎に引きこもる、といった感じです。サイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」や、キャロル・キングが作りジェイムス・テイラーが歌った「君の友だち」での「君が困難に直面しているときは助けるよ」というメッセージは、共にグラミー賞の主要部門に輝く栄誉を獲得し日本を含め世界的に大ヒットしましが、これもこうした「傷ついたヒッピー像」を映したものでもありました。
Carol King&James Taylor「You’ve Got A Friend」
こうしたサウンドで人気を集めたのは、ウッドストックで華々しいデビューを飾った、元バーズのデヴィッド・クロスビー、元バッファロー・スプリングフィールドのスティーヴン・スティルス、元ホリーズのグレアム・ナッシュの3人によるクロスビー・スティルス&ナッシュ(CS&N)がまずあげられます。ときにスティルスのバンドの元同胞で既にソロ・デビューもしていたニール・ヤングを加え、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング(CSNY)になるときもありましたが、ヤングがそこに加わると、これまでの美しいハーモニーや牧歌的サウンドに、荒々しいギターによる社会に対する怒りなども加わることにもなり、サウンドの多様性を上げました。
Crosby,Stills,Nash&Young「Ohio」
また、前述のジェイムス・テイラーや、CSNYともつながりの深く、時代を冷静に見つめた絵画的な歌詞と変則チューニングで音楽をイノヴェートする才女ジョニ・ミッチェルもこの時代の顔です。彼女や前述のキャロル・キング、カーリー・サイモンといった女性たちの活躍は、日本の女性シンガーソングライター台頭の強いモチベーションにもなりました。
また、イギリスでのブルース・ロックのさらなるルーツ探求精神(第4章参照)は、多くのイギリスの人気アーティストを南部に向わせ、それがアメリカへの興味を引き付けた側面もありました。ローリング・ストーンズはこうした南部化でキャリア史上の最高傑作群を発表し、ロッド・スチュワートやジョー・コッカー、ヴァン・モリソンなどのシンガーはルーツ音楽色の濃いソウルフルな楽曲でヒットを飛ばします。
また、こうしたアーティストたちとの交遊からアメリカのセッション・ピアニストだったレオン・ラッセルのソロ・ワークが注目されたり、エリック・クラプトンが渡米して組んだバンド、デレク&ザ・ドミノスでの「いとしのレイラ」でのギター・プレイを弾いたことで、デュアン・オールマンや、彼が元来所属したオールマン・ブラザーズ・バンドをはじめとしたサザンロックのシーンがブリティッシュ・ロック派に発見されたりもしました。
こうしたアメリカン・ロックの理解に役に立ったのは「ニュー・ミュージック・マガジン」の存在でした。音楽評論家・中村とうようが69年春に興した同誌は、60年代後半にサウンド、歌詞共に芸術的に進化したロックに触発されて作られたもので、かつ中村自身が元がジャズやラテンの専門家でもあったことから対象自体は広くはあったのですが、同時に彼が60年代の半ばからフォークの研究家でもあったため、必然的にルーツ・ミュージック色は濃くなりました。中村はブルース・ロックひとつとっても、「ただの流行りにさせてはいけない」と、ブルースをそのルーツから根底的に伝える姿勢を貫くなど、音楽の根本理解を目的としました。こうした姿勢があったことはやがて、当時アメリカでカリスマ的人気ながらも日本では当初浸透度がいまひとつだったザ・バンド(第4章参照)のようなカントリーやゴスペルも飲みこんだ芳醇な音楽性のバンドを時間をかけて理解させていくことにもつながりました。
時代を彩ったハードロックの雄たち
一方、「ブリティッシュ・ロック」を代表する雄と言えば、なんと言っても、世界一の人気ロックバンドの座をビートルズから奪ったレッド・ツェッペリンがやはり日本でも一番人気でした。当時最高のハードな破壊力を持ちながらも、同時にフォークやブルースの懐の深い引用やリズムの実験などを緻密なアレンジで出来ることで、彼らはハードロックの域をも超えた支持を得ました。ロバート・プラント、ジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズ、ジョン・ボーナムの4人のアンサンブルは今日に至るまで歴代最強との評もあります。ただ、今日でこそ音楽的評価も絶大な彼らですが、71、72年の来日公演時の際に、ボーナムが日本刀でホテル内の掛け軸を切るなど、当時のロッカー特有のオフ・ステージでの豪快な乱痴気騒ぎでも知られ、それが特に欧米の批評メディアの評価を下げる一因となっていました。
Led Zeppelin「Black Dog」
そして日本の場合、ディープ・パープルもツェッペリンを脅かすほどの人気がありました。バロック音楽の強い影響を受けたリッチー・ブラックモアの哀愁味の強い高速ギター・プレイは元来マイナー調メロディを好む日本人の好みに合ったと言えます。彼らの曲は後から考えたら異例なまでに当時の日本のラジオ番組で積極的に流され、72年の来日公演を収めたライヴ盤『ライヴ・イン・ジャパン』は全米アルバム・チャートで6位まで上昇し、逆輸入で世界に日本の名を強く刻みました。さらに、ユーライア・ヒープやUFOといったバンドも同様の泣きメロで日本で極地的な人気を誇りました。
Deep Purple「Smoke On The Water(Live At Budokan)」
それから、ブルース・ロック出自のテン・イヤーズ・アフターやフリーも日本で高い人気を誇っていました。また、当時の日本のハードロック・ファンは実際にはアメリカのバンドも少なからず支持しており、グランド・ファンク・レイルロード(GFR)やアリス・クーパー、マウンテンなどの人気も高く、特にGFRの日本での一時の人気はツェッペリンやパープルにも負けないものがあり、71年の後楽園球場での豪雨ライブは伝説化もしています。
なお、この当時のハードロックには“悪魔”を意匠として用いる傾向がありました。それは前述のチャールズ・マンソンやオルタモントの悲劇を想起させるものがありますが、これにはイギリス人バンドからのヒッピーに対するアンチテーゼの意味合いも込められていました。当時のハードロック・バンドのほとんどがイギリスの労働者階級に属していましたが、彼らにしてみれば、裕福な家庭の子女が多かったアメリカのヒッピーの世間知らずな理想主義に心情的に共感できなかったのです。ただ、そうした背景の理解も十分でなかったこともあり、この当時欧米ではツェッペリンやパープルに迫る人気だったブラック・サバスの日本での人気がもうひとつ伸びませんでした。
日本人の知的好奇心を刺激したプログレ
一方、プログレは、ロンドン・サイケの代表的存在(第3章参照)のピンク・フロイドが、リーダーのシド・バレットを心身の不調で失うというダメージを負いながらも、そのサウンドの先進性・実験性でカリスマ化していました。1970年にはアルバム『原子心母』が全英1位を獲得していましたが、日本でも本国に次ぐくらいの人気を早くから獲得していました。それはラジオ用に68年のシングルのB面曲だった「夢に消えるジュリア」を売り出し功を奏すなど日本独自の戦略の上手さや、71年8月に行われた、動員4万人という、当時の日本としては異例の大規模ロック・フェスだった「箱根アフロディーテ」でのライヴが伝説化したことも手伝いました。
Pink Floyd「Atom Heart Mother(At Hakone)」
フロイドはこの後、ロジャー・ウォーターズの文学的かつ重厚なコンセプトやデイヴ・ギルモアの楽曲構築力が発揮された73年のアルバム『狂気』の驚異的なロングセラーにより世界的バンドとなり、それは79年の『ザ・ウォール』まで続きます。しかし、この絶頂期に来日がなかったことも災いしてか、日本でのプログレ人気はエマーソン・レイク&パーマー(ELP)やイエスといった バンドにとって代わられます。この当時、「ニュー・ミュージック・マガジン」の勢いに押され、洋楽雑誌の老舗「ミュージック・ライフ」もシリアスな方向性に進まざるを得なくなっていましたが、その分、派手なスター・プレイヤーにスポットを当てた記事展開が見られ、ELPのキース・エマーソンやイエスのスティーヴ・ハウ、ビル・ブラッフォード、リック・ウェイクマンなどが人気となります。ELPに至ってはレッド・ツェッペリンに同誌の人気投票で勝って1位になった年があるほどです。また、彼らほどには華がなく、欧米での人気とは比較にはならなかったものの、ジェスロ・タルやムーディ・ブルースも一定の評価を得ました。
プログレはジャズやクラシックを取り入れた音楽ということで、これまでロックに興味のなかった他ジャンルの音楽ファンも取り込むことに成功しました。とりわけ日本では、ピアノやエレクトーンを習っていた子女に歓迎されたとも言われています。また、プログレにより、黒人音楽がルーツになかったことでロックがなかなか広がらなかった非英語圏のヨーロッパでも、ようやく自然に受け入れられました。そしてそれが、日本のプログレ・ファンからも共感され、彼らのマニア心を欧州各国まで広げる要因にもなりました。
それに加え、プログレ特有の抽象的なテーマ性や神秘的なアートワークは文学青年を引き込み、ここからロック評論をはじめた人も日本では少なくありません。こうした文化の中、当初日本でそこまで人気の高くなかったキング・クリムゾンが断続的に支持を受け、74年の解散後のロバート・フリップの活動や81年の再結成時も支持され続けたことで、69年のデビュー作『クリムゾン・キングの宮殿』がピンク・フロイドにさえも並ぶ勢いで「プログレの最高傑作」として確立される日本特有の現象まで生んでいます。
「日本語」か、それとも「英語」か?
ロックの潮流が2つに割れたのは何も洋楽ロックファンのあいだだけではありません。日本のロック、フォーク系のアーティストでも同様でした。そこには「ロックは日本語でやるべきか否か」という問題がありました。
「日本語派」はフォーク系のアーティストで、中でも関西フォーク系の流れを汲むURC(第3章参照) は総本山的な存在でしたが、その中で当時、もっとも勢いのあったのは、はっぴいえんどでした。彼らは東京のロックバンドでしたが、岡林の2枚目のアルバムに参加して以来、数カ月のあいだ、彼のステージでバックをつとめたことで話題を呼びました。人々はそれを、ボブ・ディランが1966年にザ・バンドをバックにロック化したときに例えたのです。はっぴいえんどは、モビー・グレープ、そして バッファロー・スプリングフィールドといった知る人ぞ知る60s後半のカリフォルニアのサイケ・バンド風のサウンドに、松本隆による都市の日常生活を「です・ます」調に歌った独自の歌詞を展開しました。それは従来の歌謡曲の「惚れた腫れた」の世界とも、当時のフォークの反体制ソングとも全く違うものでした。
岡林信康&はっぴいえんど「私たちの望むものは」
一方、 ブリティッシュ・ロックに影響を受けたものがほとんどで、「まずは演奏の技術面で世界に追いつくこと」を目的とし、モップスをはじめ、第4章で言及した「実力派GS」のアーティストたちから成り立っていました。当時GSは、粗製乱造によるバンドの質の低下やフォークのファンたちをはじめとした「興行師による音楽」との批判が支持され易い世相になったことで衰退し、こうした実力派しか残らなくなっていました。彼らの中からは、ゴールデン・カップスやパワーハウスのメンバーに、現地でウッドストックを見て来たギタリストの成毛滋やジャズ出身のつのだひろがフードブレイン、ストロベリーパス、フライド・エッグ、スピード・グルー&シンキなどのセッション形式のバンドを多く作ったほか、タイガース、スパイダーズ、テンプターズのGS屈指の人気バンドのメンバーで結成されたPYGなどのスーパー・バンドが生まれました。
また、フラワーズ(第4章参照)を母体とし、内田裕也がプロデュースしたフラワー・トラヴェリン・バンドは、日本語のロックのリズムへの乗りにくさと国際市場を目指す考えから英語で歌い、そのかわり音階やリズムなどで日本の伝統音楽を取り入れ独自性を出すことを目指しました。彼らはカナダを拠点に活動し、それなりの評価も得ました 。た内田は、「日本人が世界でロックをやっていくには英語で歌うべきだ」と日本語派に議論を吹きかけ、それは「新宿プレイマップ」の1970年10月号でのはっぴいえんどの大瀧詠一などとの座談会、「ニュー・ミュージック・マガジン」71年5月号での同じく大瀧、松本らとの座談会で展開されました。発端は、70年度のニュー・ミュージック・マガジンの「日本のロック」のアルバム年間ベスト10ではっぴいえんどをはじめとした日本語派が上位を独占し、英語派の順位が低かったためでした。
Flower Travelin' Band「I'm Dead Part 1」
この論争の終始を今の視点で実際に読んでみると、内田が1人空周りし、はっぴいえんど側の対応が落ち着いていて、他の座談会参加者の多くも彼らに好意的のように映ります。そうでなくとも、この当時の言いたいことの多かった日本の若者を考えるにつけ、「日本語で歌う」ことを選択する方が多数派になっていったのは自然なことのように思えます。事実、英語派はその後、ハードロックなどで一部残りますが、日本のバンド界隈にはあまり見られなくなります。
ただ、今日、欧米の音楽マニアが日本の過去音源を発掘してコンピレーション・アルバムを作る際、選ばれているのはむしろ実力派GSや「英語派ロック」という現実もあります。実際、2007年にイギリスでフラワー・トラヴェリン・バンドを表紙にした「Jap Rock Sampler」という本が発売され、その辺りの日本のロックが300頁近いヴォリュームで語られることまで起きています。一方、日本語派では、2003年のソフィア・コッポラの映画「ロスト・イン・トランスレーション」ではっぴいえんどの「風をあつめて」が使用され知名度をあげていますが、国外で発掘された例をほとんど聞きません。
今の視点で見れば、「日本人だからロックのリズムに乗れない」という考え方は人種差別的だし、他言語によるロックの可能性も殺しています。ただ、リズムの問題ではなくリスナーに歌詞を理解させる上で海外進出に英語はやはり必要です。 「英語で歌うことへの消極性」が、それなりに長いロックの歴史を誇る割に日本から世界に向けて大成したアーティストが少ない大きな理由のひとつになっていることは否めない事実です。また、その画期性や影響力の大きさは僕も大いに認めるものの、その後も一部そういう風潮があるように、第1~4章の歴史の流れを無視してはっぴいえんどだけに日本語によるロック創世の手柄を帰すのもやはり矛盾は残るものです。
そして、論争の際に代表的だったアーティストは商業的に成功せず、はっぴいえんどでさえ1973年には解散しました。そして、前述の第3回全日本フォークジャンボリーでのライブが絶賛されたことを受け吉田拓郎が一気に台頭していきます。吉田はCBSソニーに移籍し、古巣のエレックは泉谷しげる、古井戸が顔になります。一方、URCからも多くのアーティストがメジャーに移籍していきます。フォークは73年あたりから後に「四畳半フォーク」と呼ばれる、学生運動に挫折した青年たちが安アパートで恋人と慎ましく生きる姿を描いた楽曲がヒットする傾向が生まれましたが、これも前述したアメリカでの夢破れたヒッピーのその後の日本的展開かもしれません。
華やかなグラムロックの登場
一方、ブリティッシュ・ロックで、72年頃から変化の兆しが見え始めます。それがグラムロックの台頭で、主役はTレックスでした。派手なメイクにスパンコールの衣装で「女装」とも称されたマーク・ボランによる、ディストーションを激しく効かせた2~3分の短いギター・リフ主体のロックンロールはイギリス、そしてここ日本でもブームとなり、それは“Tレクスタシー”とまで呼ばれました。
T.Rex「Metal Guru」
日本では当初、ボランがアイドル扱いされ、尺の短いロックがハードロック派、プログレ派から「技術がない」と言われ中傷もされました。しかし、そんな日本でも、前身のフォーク・バンド、ティラノザウルス・レックス時代から影響を受けギター&パーカッション編成を組んだ頭脳警察や、派手なメイクをほどこしたハードなロックンロール・バンドの村八分など、共鳴するタイプのバンドが出ていました。ただ、彼らの方がTレックスよりも危険で過激な題材を歌にし、当時のロック系イベントで騒動を巻き起こし続けていたのは当時の日本らしいところでもありました。
一方、Tレックスに対抗するように登場したのがデヴィッド・ボウイでした。「時間制限で地球に舞い降りた宇宙人」をテーマにしたジギー・スターダストのキャラクターで話題を集めたボウイは「変幻自在」を売りにした危うくかつアートな存在感でこれ以降のロックのモードを牽引していくことになります。その影響は日本にも現れ、1973年の来日公演時に彼が着た山本寛斎デザインのコスチュームの中の文字「出火吐暴威」は、10数年後の日本のロック界に大きな意味を持つことにもなります。
参考文献
■WEBサイト
・第3回全日本フォークジャンボリー Wikipedia
・ニューミュージック・マガジンの時代」
・なつかしの70年代ポップス
・Remasters Of Reality:How Black Sabbath Killed The Hippie Dream
・飛竜のロック雑記帳
■書籍
ニューミュージック・マガジン1971年5月号「日本のロック情況はどこまで来たか」については「ミュージックマガジン増刊 スペシャルエディション【1】69-74 (スペシャルエディション)に転載されています。
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