【ハッカーの系譜】スティーブ・ウォズニアック(1/6)世界で最も愛されるハッカー

「ハッカー」という言葉の定義は曖昧だ。高度なプログラミング技術やネットワーク技術を持つ技術者をハッカーと呼ぶこともあれば、セキュリティを破ってデータを盗む犯罪者をハッカーという場合もある。辞書には「コンピューターに熱中している人」(大辞林)と漠然と記されているだけだ。定義が定まっていないのは、彼らが表立って自らを語ることが少なく、その実態が掴みにくいからだろう。そんな彼らについて正しく理解するには、本物のハッカーの生き方、考え方、技術力を知るのが近道だ。

本連載では、テクノロジー業界の人々が敬意を込めてハッカーと呼ぶ人物に焦点を当てることで、世界を動かす原動力になっているハッカーたちの実像に迫りたい。第1回では、スティーブ・ジョブズと共にアップルを設立したスティーブ・ウォズニアックを取り上げる。ビジネス面ではジョブズばかりが注目されるが、ウォズニアックというハッカーがいたからこそ、アップルという企業は誕生し、歩き出すことができたのだ。少しでも多くの読者にハッカーという生き方の魅力が伝われば幸いである。

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ステファン・ゲーリー・ウォズニアック――愛称ウォズ。世界で最も愛されるハッカーだ。アップルの創業者で、アップルⅠ、アップルⅡはほとんどをウォズが一人で開発した。アップルⅡは1298ドルという高価なパーソナルコンピューターであったにもかかわらず、200万台以上が売れた。アップルはこの成功により株式公開を果たすことになる。

ウォズが素晴らしいエンジニアであったことも、愛される理由のひとつだが、人柄も素晴らしかった。いつもにこにこし、気さくで、偉ぶることはまったくない。楽しいことが大好きで、人に対するおもいやりも深い。もうひとつ、ウォズが世界から尊敬される理由がある。それはウォズは生粋のシリコンバレーっ子であることだ。彼はシリコンバレーという名称がまだないころの1958年、7歳の頃にサニーベールに引っ越してきて以来、大学時代の1年をのぞいて、ずっとシリコンバレーで暮らしている。世界中から敬愛されるとともに、シリコンバレーの住人にとっては地元のヒーローでもあるのだ。

シリコンバレーは、サンノゼ、マウンテンビュー、サニーベール、サンタクララなどが中心となった地域だが、1955年までは、ITの影すらなく、温暖な気候と日当たりのよさから、果物の一大産地だった。リンゴ、あんず、なしといった果樹園が延々と広がる地域だった。そのような場所から「アップル」というネーミングの企業が興ってくるのは当然ともいえる。アップルの他にも、アプリコットコンピューター、ペアコンピューターなどという企業が現れては消えていった。近くにスタンフォード大学があり、パロアルトにはヒューレットパッカードがあったが、この当時は計測器を製造する企業で、社員数は900人もいたが、現在の33万人とは比べようもない、地方の有力企業にすぎなかった。後にシリコンバレーと呼ばれる地域にITらしきものはそれぐらいで、あとは果樹園が広がっているだけだった。

シリコンバレーにデジタルの種が撒かれたのは、ショックレー半導体研究所が設立されてからだ。ウィリアム・ショックレーはベル研究所でトランジスターを発明し、1956年にノーベル物理学賞を受賞した。そして、トランジスターを改良、大量生産するために1955年、マウンテンビューに研究所を設立した。ショックレーがマウンテンビューを創業の地に選んだのは、母親がマウンテンビューに住んでいたため、近くに住みたいという理由からだった。
ショックレーは天才的な科学者だったが、経営はまったくの素人で、風変わりな経営手法をとっていた。それは社員は全員博士号を取得していなければならないというルールをつくったのだ。ショックレー研究所は、天才の集まりでなければならない。オフィスの掃除夫ですら博士号を取得していることを要求した。こうして、シリコンバレーに優秀な人材が集まり始めた。

このような風変わりの経営がうまくいくはずはない。すぐに8人の社員(全員博士号取得者だ)が辞職して、フェアチャイルドセミコンダクターを近所に創業する。この8人のうちの2人、ロバート・ノイスとゴードン・ムーアは、フェアチャイルドからさらに飛びでて、インテルを創業する。こうして、ショックレーの母親がマウンテンビューで暮らしていたという理由で、果樹園の谷に、工学系の天才たちが集まり始め、シリコンの谷へと変貌していった。

シリコンバレーが産まれるには、母親だけでなく、父親も必要だ。サニーベールにはモフェット海軍飛行場があった。ショックレー研究所と時を同じくして、その飛行場に隣接した空き地にロッキード社の一部分が移転してきた。この部門は、ポラリスミサイルを開発、製造する部門だった。ポラリスミサイルは、60万トンの核弾頭を搭載できるミサイルで、潜水艦から発射できるというのが特徴だった。大陸間弾道弾の開発競争で、ソ連に遅れをとった米国は、移動できる核ミサイル発射台として潜水艦を使うことを考えたのだ。

真っ直ぐな性格の科学少年

ウォズの父、ジェイコブ・ウォズニアックはロッキード社に勤めるエンジニアだった。ウォズは父親がエンジニアであったことは知っていたが、具体的にどんな仕事をしているのかは知らなかった。ジェイコブは、ポラリスミサイルの開発にかかわっていたため、仕事の内容を家族にすら話すことを禁じられていたからだ。軍関係の仕事があるということは、莫大な予算が流れこむということだ。そのお金を求めて、シリコンバレーには軍関係の企業が集まり始めた。シリコンバレーが産まれるには、人材と金のふたつが必要だったのだ。こうして、シリコンバレーが生まれたが、ウォズはその変貌ぶりを7歳のときからずっと見てきた。

エンジニアを父にもつウォズは、真っ直ぐな性格の科学少年に育っていった。中学生のころから、数学と科学工作では周囲に名が知られるほどの優等生だった。科学コンクールにも毎年作品を出品し、優秀な成績を収めている。

その中でもユニークなのが、原子の電子配置をランプで表示するパネルだ。原子番号1の水素は電子が1つ、原子番号2のヘリウムは電子が2つ......という電子の配置を、原子の書かれたボタンを押すと、ランプの点灯で表示するというものだ。電子の軌道は内側から1番殻、2番殻...と7番殻まであり、原子番号が増えると内側の殻から原則的には埋まっていく。もし、規則的に内側の殻から順番に埋まっていくのであれば、このような表示模型をつくるのはむずかしくはない。

しかし、現実はそう簡単ではないのだ。原子番号18のアルゴンは、1番殻に2つ、2番殻に8つ、3番殻に8つの電子をもち、1番殻と2番殻はもう満員で、電子を収める余地はない。3番殻は18個まで電子を収めることができるのでまだ余裕がある。ところが、電子がひとつ増えた原子番号19のカリウムは、増えた分の電子がまだ余裕のある3番殻に入るのではなく、4番殻に入ってしまうのだ(その方がエネルギーが低くなり安定するから。詳しくは高校の化学の教科書を読みかえしていただきたい)。

4番殻に2個の電子が収まると、3個目でようやく3番殻が埋まり始める。つまり、内側から順々に埋まっていくのではなく、先に外側が埋まってから、もう一度内側に戻って埋まり始めるという箇所が、元素周期表には何箇所かあるのだ。この電子配置パネルは、ウォズが小学校5年生のときの作品で、優勝にあたるブルーリボンを受賞した。当時はもちろんソフトウェアなど存在しないから、ダイオードを使って配線だけで実現した。ソフトウェアがあったとしても、この電子が軌道を埋めていく一見不可思議なふるまいをアルゴリズムにするのはかなりたいへんだ(実は、きわめて規則的な法則があるのだが、それは高校の上級化学または物理で学ぶ内容で、小学5年生のウォズが理解するのはたいへんなことだったろう)。もし、時間があったら、適当な言語を使って、このアルゴリズムを記述してみていただきたい。なかなか苦労するパズルになるはずだ。

ウォズの性格は科学少年の典型ともいえる内気なものだった。後にアップルを創立してからも、人前でしゃべることを苦手としていた。一方で、ウォズ自身は明るい性格の母親から受け継いだと述べているが、いたずら好きでもあった。エンジニアリングと内気といたずら好き。これがウォズの人格を構成している。

そのいたずらの大半は罪のないものだったが、ときにはやりすぎて、周りに迷惑をかけることもあった。高校3年生とのときには、いたずらが原因で、警察に逮捕され、一晩ではあるがムショ暮らしを経験している。最初は、趣味の電子工作として、デジタル式の電子メトロノームをつくっていた。ウォズは、そのカチカチとリズムを刻む音が時限爆弾のように聞こえ、いたずらを思いついた。金属の筒の中にメトロノームを入れ、何本かをガムテープで巻き、「爆発・危険」と書いたうえで、友人のロッカーの中に入れておいた。教師がロッカーの中からチクタクという音が聞こえるのに気がつき、騒ぎとなり、校長が決死の思いでグランドの真ん中まで走ってもっていき、警察に連絡をすると、爆発物処理班がやってきたのだ。ウォズは知らなかったが、数週間前に高校に「爆発物をしかけた」といういたずら電話があったために、教師たちは神経質になっていたのだ。ウォズは警察に一晩やっかいになることになった。しかし、ウォズはそこでもいたずらをやらかした。天井についている扇風機の配線を、鉄格子に接続する方法を同房になった連中に教えたのだ。彼らがその方法を使ったかどうかはわからないが、看守が鉄格子に触れると感電することになっていた。

趣味は「紙上」でのコンピューター設計

ウォズがエンジニアから尊敬される理由は、素晴らしい設計をするからだった。その秘密は、徹底して使う部品を少なくすることだった。子供時代のウォズは、あたりまえだが自由になるお金は少ない。一方で、ようやく市場に出回り始めたダイオード、トランジスター、そしてそれらが集積されたICは、子どものお小遣いで買うにはかなり高額のものだったのだ。そのため、ウォズは工夫をして、できるだけ少ない部品でやりくりをして、求める機能を実現する習慣がついていった。

部品点数を減らすには、ときにはトリッキーなアイディアを用いなければならないこともあった。ウォズのそのようなトリッキーなアイディアを賞賛する人もいる。しかし、それはウォズの本質ではない。ウォズは部品点数を減らすことは、お金の節約にもなるが、構造が単純化され、後にバグなどのトラブルが生じたときに対処しやすいというメリットが生まれることを何度も強調している。

この「お金をかけない」「シンプルな構造」というウォズのエンジニアとしての特性が、のちのアップルでは大いに活かされる。安く性能のいいコンピューターを開発することができたのだ。さまざまなライバルが登場したが、そのどれよりも安く、そのどれよりも機能と性能が高かった。そして、故障も少なく、万が一故障をしても修理ができる。実際、ウォズの生みだした名機「Apple Ⅱ」は、現在でもイーベイなどのオークションサイトに出回っていて、そのほとんどが完動品であるという。Apple Ⅱの発売は1977年だから、40年近く動いていることになる。

ウォズの科学や工学に対する才能は、だれの目にも明らかだった。ときどき、いきすぎたいたずらをすることをのぞけば、将来有望な優等生だった。その才能を評価したある教師が、ウォズを高校の近くにある会社にインターンシップ生として派遣した。その会社にはほんもののコンピューターが設置してあり、ウォズは生まれた初めてコンピューターに触れ、FORTRANを使ってプログラミングをした。この当時は、コンピューターを設置してある高校などはほとんどなかった。ここからウォズはコンピューターに夢中になっていく。このコラムの読者であれば、ほとんどの人がウォズと同じ体験をしていることだろう。Hello表示から始まって、九九の表を表示させたり、エラトステネスのふるいを使って素数を次々に表示させていく。それに飽きると、今度はバブルソート、セレクションソート、インサーションソート、ヒープソート、マージソートとアルゴリズムの森に分けいっていく。

ここから先は、その人の興味にそってさまざまな方向に枝分かれしていくだろう。豊富なグラフィックに彩られたゲームをつくり始める人、データベースのようなシステムをつくり始める人、より低レベルの周辺機器や計測器を制御することに夢中になる人。ウォズの場合は、コンピューターの構造そのものに興味をもっていった。インターンシップ先の企業からコンピューターのマニュアルを借りて熟読し、自分なりのコンピューターを設計することに夢中になっていったのだ。といっても、まだ高校生であるウォズに、必要な部品を購入するお金はなかった。そのため、あくまでも紙の上で回路図を描くことに夢中になっていったのだ。ウォズはICのカタログを手に入れ、その中から実際に使えそうな部品を選び、それに基いて設計をしていった。新しい部品が発売になると、その新しい部品に入れ替えた新しい設計もしていった。実際にコンピューターを組み立てることはできなかったが、ウォズの設計に誤りがなければ、組み立てる一歩手前のところまで到達していたのだ。

これがウォズの趣味となった。さまざまなコンピューターのマニュアルを手に入れては、そのマニュアルから読み取れる動作機構から設計を逆算し、さまざまなコンピューターのウォズ版設計図を描いていく。高校時代は、一人部屋に閉じこもって、この趣味に熱中していたのだ。もちろん、ウォズ版コンピューターは、さまざまなテクニックを使って、部品点数を少なく設計されていた。ウォズによると、実際のコンピューターのだいたい半分の数のICチップで設計できていたという。

高校を卒業し、コロラド州立大学に1年、デアンザ・コミュニティー・カレッジに1年通ったところで、ウォズは休学をして働くことにした。カリフォルニア大学バークレー校に通うための学費を稼ぐ必要があったからだ。そのころ、近所のショップでデータゼネラル社のコンピューターが販売されている噂を聞いて、ウォズは友だちと見にいった。そこには確かに本物のコンピューターが置いてあり、ウォズはその会社でプログラマーとして雇ってほしいと申しでた。ウォズはすぐに採用されて、FORTRANのプログラマーとして働いた。

ウォズはその会社で自分の趣味のことを話していた。紙の上でコンピューターを設計する趣味のことだ。すると、その会社の重役が「必要なチップを手に入れてあげる」といいだしたのだ。ウォズが断るわけがない。しかし、あまりに大量のチップをもらうのは申し訳なく、ウォズはぎりぎりの20個程度に抑えた。一般的なコンピューターは数百個のICチップを使うのだから、本格的なコンピューターとはいえなかったが、小さなプログラムが動かせるものだった。

この自作コンピューターをつくっている間に、ウォズはスティーブ・ジョブズと知り合うことになる。ジョブズもエレクトロニクスが好きで、ウォズのコンピューターを見にきたのだ。そのときジョブズはまだ高校生だったが、ウォズのコンピューターを見て、すぐにそれが画期的なものであることを理解した。二人ともボブ・ディランが好きだったということもあり、ウォズとジョブズはすぐに打ち解け、親友になったのだ。

(敬称略/その2に続く、6月3日(水)掲載予定/全6回)

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