文章を書いていると、想定外の方向から、「その表現は差別的だ!」と批判のメッセージをいただくことがあります。

たとえば、文脈によっては「ホームレス」「困窮者」「障害者」「ハーフ」といった言葉は、それ自体が「差別的だ!」という批判を受けかねないものです。「渋谷の路上でホームレスを見かけた」「ハーフの友人とランチ♪」というつぶやきは、ある人にとっては差別的に映るのです。

ゆえに、ぼくはなるべく「ホームレスの人々」「生活に困窮している人々」など、より「カテゴリー感」のない表現を使うようにしています。極端な話ですが、「障害者」という言葉を使うと、「いや、『障害者』なんて人々はいない」という批判を受けてしまうのです。

ちょっと困ってしまうのは、たとえば「ホームレス」という言葉を文章中に使った際に、「あなたはホームレスを見下している!傷つけるような表現だ!」という批判を、特に当事者、または当事者に近い人からいただくケースです。

無論、このとき、ぼくに差別意識はありません。単に便宜上、言葉として「ホームレス」なり「障害者」という語を使ったのみです。

しかし、ぼくを批判する彼・彼女は、この言葉づかいに、ぼくの内にないはずの「差別意識」を嗅ぎとってしまうわけです。そして「私(彼・彼女)は傷ついた」と、謝罪・訂正を求めます。

何が厄介かというと、これは「悪魔の証明」で、「差別意識がなかった」ことは、ぼくには立証しようがないのです。

そして、厳密な意味でいえば、自分ではない人間と相対する以上、あなたとわたしを「区別」する意識は当然働きます。「私とホームレスのAさんは違う」ということは「事実」ですが、そう記述した場合も、やはり「差別している!」と批判されてしまうことがあります。

結局は、書き手は「傷つけたことは純粋に謝罪し」「今後は気をつけます、と表明する」ことに落ち着くのですが……どうにもこの不毛な「言葉狩り」には違和感がぬぐえません。

まず、ないはずの差別意識を一方的に嗅ぎ取られ、糾弾されることは、純粋に人間関係として不快です。ぼくはそういう他人に厳しい人と仲良くなりたくはありませんし、何より、あちらも仲良くなろうと思ってくれないでしょう。単なる言葉づかい上のミスが、結果的に人間関係の断絶を生んでしまうというのは、なんとも不毛です。

また、当事者・当事者に近い人々が言葉づかいについて厳しい態度をとること自体が、皮肉にも「ホームレス」「障害者」「性的マイノリティ」などなどの存在を、社会から遠ざけることになります。「うかつに語ると当事者から批判されるテーマ」のままでは、マイノリティと言われる存在が社会に溶け込むことは困難でしょう。

そんなわけで、言葉づかいから一方的に差別意識を嗅ぎ取るのではなく、まずは他人の言葉づかいを許し、それを前提に他者とコミュニケーションを取れる人が増えていくことを望みます。信頼と武装解除から、対話は始まります。


(イケダハヤト)