高校生雑誌創刊計画
福島県・相馬市の高校時代、私は高校生による総合誌をつくろうという「高校生雑誌創刊計画」の発起人・代表をやっていたんだけど、相馬高校・相馬女子高校・双葉高校・浪江高校などを中心に福島県内で50人くらいメンバーが集まった。試作品をつくり、それを新聞各社や出版社に送った。朝日新聞・東京本社の教育面の担当記者から連絡があって、「計画について詳しく知りたい」という返事をもらった。
私は相馬メンバーと一緒に東京へ行って、朝日新聞社で記者と打ち合わせをした。記者から「いまインターネットが流行ってきているから、高校生雑誌のホームページを開設してみませんか。そうしたら朝日の紙面で取り上げようと思います」と言われて、「IBM ホームページビルダー」を貸してくれた。あと、宿も取らずに上京してきた私達を心配してくれて、カプセルホテルを紹介してくれた。
じゃマール
カプセルホテルを活動拠点に、関東でもメンバーが募れないか情報収集をしていたんだけど、リクルートの個人情報誌『じゃマール』を見つけた。これに載せれば関東メンバーを募れるかもしれないと思って、私は関東メンバーの募集告知を『じゃマール』に載せた。
溶血性貧血の埼玉の彼女
そうしたら、東京・千葉・埼玉などの高校生から手紙が届いて、関東メンバーが集まった。彼ら・彼女らと文通で連絡を取っていたのだけど、その中でも埼玉の吉見町に住んでいる女子高生と頻繁に連絡するようになって、東京へ会議に出てきたときに色々手伝ってくれた。
その子は溶血性貧血で1年間入院したことがあって、年齢よりも学年が1つ下だった。溶血性貧血が再発したらもう助からないという話も聞いた。私はその子の力になりたかった。その子が相馬の私の自宅まで手伝いに来てくれたときに、私は告白して、2人は遠距離恋愛で付き合うことになった。
東京に上京したときに、彼女の家に泊まった。池袋から東武東上線で東松山市まで行って、そこから自転車に2人乗りして吉見町の彼女の家まで行った。彼女の母親は学生運動の元活動家で、バリケードの中で機動隊とぶつかった人だった。彼女の母親からも2人の仲を公認されて、何度も泊まりにいったり、一緒に吉見町をデートしたりするようになった(吉見百穴とか)。
高校生雑誌創刊計画の頓挫と大学受験
高校生雑誌創刊計画の方は、マルチメディア実行部長を立ててホームページ制作を進めたのだけど、1997年頃の情報ではなかなかホームページを作ることが出来ず、主要メンバーの大学受験の時期を迎えて、計画は頓挫。ホームページビルダーは朝日の記者に返却した。
私も大学受験をすることになって、志望大学を選択することになったのだけど、彼女の家の隣の東松山市にキャンパスのある大東文化大学を志望校に入れた。第一志望は国際基督教大学(ICU)、第二志望は大東文化大学という感じで受験に臨んだ。結果、ICUは落ちたけれど、大東文化大学には受かって、私は東松山市に住むことになった。彼女の病気が再発したら助からないのだし、いま側にいることが一番だと思った。
大東文化大学での生活
大学進学によって遠距離恋愛が近距離恋愛になったけれど、近距離になることでお互いの考え方の違いが出てくるようになった。何度もケンカをして、結局、大学進学から数ヶ月で別れることになってしまった。大学に進学した大きな理由が失われた。
大学で同級生を中心に「新世界秩序研究会」(ちつけん)という研究会を立ち上げて発起人になって、そこで好きな人が出来たけれど、その子は別な人が好きで、私は寂しいときに利用されただけだった。私が帰った後に私の親友と裸で抱き合っていたという話を聞かされた。何というか…無気力になった。
テレクラ
何もかも途方に暮れて、テレクラに行った。テレクラで知り合った埼玉の女子高生と仲良くなって会った。その子との関係は短期間続いた。
塾講師のバイト
実家からは月15万円の仕送りをもらって家賃7万円の東松山のマンションに住んでいたのだけど、ノートパソコンをローンで購入したりして生活が苦しくなって、国語科の塾講師のアルバイトを始めた。だんだん塾講師の仕事が増えて、そっちがメインになっていき、大学には雄弁会のサークル活動しか行かなくなっていた。
日本の過去の戦争を美化する軍国主義者
以前のブログに書いたけれど、私は留学生の多いゼミでの発表が原因で、私は日本の過去の戦争を美化する軍国主義者として留学生団体から抗議されることになった。大学にかなり通いづらくなった。大学に行っても、サークル棟の雄弁会の部屋で本を読んだり、弁当を食べたりすることが多くなった。
進級要件単位の不足
そんなわけで大学に行かなくなっていたので、単位は全て落とした。私のいた学部では2年生から3年生に進級するときに進級要件単位があるのだけど、2年生で修得した単位数が0だったので、私は進級できないことが明確になった。
「大学を中退しよう」と思って、学生課に中退の書類を取りに行った。相馬に帰って、両親にも中退することを話した。両親からは激しく反対されて、父からは「お前は大馬鹿者だ」と言われたけれど、最終的には中退を認めてくれた。
教授会
その頃に大学で教授会が開かれて、私のゼミの先生などが私のことを擁護してくれて、進級要件単位に満たないけれど特別に3年生に進級させるということが決まった。その知らせを聞いたけれど、その頃には全てが遅かった。私は3年生には進級せず、中退することを伝えた。
そして東京へ…
東京で一花咲かせようと思った。中野で家賃4万円の風呂無しトイレ共同のアパートを見つけて、そこに住むことにした。そこから東京生活が始まる。