is Neet

ネトゲしながら暮したい

意識と未来

急にどうしたの

なんとなく「自分が自分を認識する」という事象が昔から不思議でたまらなかった。
過去や環境を持ち、思考し行動する物質的な部分と、その入れ物を「私である」と認識する意識にずっと齟齬があった。
宗教的にはそれを魂とでも呼ぶのだろうか。
厨二じみているけれども、踏み込んで考えたりしてみる事にした。
先に断っておくが多少非科学的なモノを信用する(というか期待する)夢想家だ。
あと、別にアカデミックな背景を持っている人物の文章でもないので、間違っている所もあるかもしれない。ご指摘いただければ。
今思っている事をダラダラと文章化しているだけで、後々考え方が変わったり、新しい発見があったら追記してゆく。

ロボットは意識を持てるか

近い将来、AIが人間の頭脳に打ち勝つ日がやってくるらしい。それが2045年だと言われている。いわゆるシンギュラリティだ。
シンギュラリティの真贋はともかくとして、AIが人知を超えた時、AIは思想や意識を持ち得るのだろうか。意識を持ち、その結果人間を滅ぼすか、生かすかという議論がとても頭が良い大人たちによってされているらしいがそれは今はどうでもよい。
もし、ロボットが意識を持ち得るとしたら「意識」とはボンヤリとした物ではなく計算可能な物だと言える。逆にロボットが意識を持てないのだとすると「意識」とは少なくとも現在のアルゴリズムや数式では計算不可能な領域だと言える。
「意識とは一体何か」という、一体何から手をつけていいか分からないくらい膨大な命題だ。ロボットが意識を持てるか否かというアプローチから探るのも悪くないのではないか。もしロボットが意識を持てるとしたら「どうやって?」、持てないのだとすると逆説的に、「人間の特別性」から意識とは何かが見えてくるのではないか。

ペンローズの量子脳理論

ロジャー・ペンローズという数学者が既にロボットが意識を持つことを否定することで背理的に意識とは何か、という命題に迫っている。
烏滸がましい話だが要約すると、

  • ロボットは意識を持つことが出来ない
    ※ これはゲーテルの不完全定理を用いて論理的に否定している(ちょっと理解できない部分もあるが…)
  • 意識とは計算不可能な領域にある
  • 計算不可能な要素を含む自然法則として、唯一可能性があるのが量子力学である
  • よって量子力学に迫る事が意識の解明に繋がる

という論理で、実際に脳の中にあるマイクロチューブルという管状の構造の中で量子力学が働いているとし、マイクロチューブルの中のチューブリンと呼ばれるタンパク質の中で量子的にコヒーレントな状態が起こる事で意識が生まれるとしている。
詳しい数字はもう忘れたが、量子的にコヒーレントな状態が連続的に起きて(0.xxmsでX00回とか何とか…)、連続したスライドする画像を観て動きのある映画だと認識するように意識も生まれている。

さらにペンローズは此処から少し飛躍して、世界を形成する3つの世界を提唱する。
まず1つ目が物質世界。これは我々が日々五感で触れて実際に生きている世界を指す。
次に2つ目が精神世界。心の世界である。当たり前ではあるが意識はここに宿る。
最後に3つ目がプラント的世界。いわゆるイデアといって差し支えないと思う。
また、それらの3つの世界は下図のように関連しあっていると言う。

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汚すぎて申し訳ないが、つまりプラトン的世界の一部が物質世界に投影され、物質世界の一部が意識を持ち、意識を持った精神世界からプラトン的世界の絶対的真実に関わることが出来ると言うのだ。
何をバカバカしい、と思うかもしれない。急に概念的な話になったぞ、と。確かにこの話にはかなりの飛躍があるように思えるが、しかし少なくとも今現在の僕はこの説を支持している。順を追って理由を挙げていく。
主題とは関係ないのだが、ペンローズは意識について、それは付随現象ではなく機能的な能力として生存に大きく影響を与えているとし、数学的に解き明かせる問題だとして取り組んでいる。
ゲーテルの定理は証明不可能な定理がある事を意味するのではなく、僕達は常に新しいルールを見つけ続け、特定の集合に留まり続ける事は出来ないのだ、という事実を伝えており、原理的に人間の知性にとって到達できない真理などない、と言い切っている。僕はこの言葉に強く背中を押される気がして、とても気に入っている。
僕はペンローズの唱える説には夢があるなと感じる。もし本当にプラトン的世界が存在するなら、それはアトランティスやムーを探すより、宇宙人と対話するより、もっとずっと神秘的で美しいではないか!
取っ掛かりは得た。では次にやることは計算不可能な分野である量子学に迫る必要がありそうだ、という道筋も得た。しかし、その前にもう少し、心と脳という側面から意識について考えておきたい事がある。

クオリアとメタファー

さて、意識を考える上でクオリアは避けて通れない(が、全くもってそれでは不十分だと思う)。
恐らく言語における全てのセマンティクスはクオリアに帰結する。僕達は「リンゴの赤さ」という単純なクオリアから「校長先生が話し始める前の体育館に漂う生徒達あの微妙な緊張感」のような社会的で高度なクオリアまで理解し、コミュニケーションを取っている。
僕は言語学をまともに学んだ事がないのでコレは単純な疑問と、知っている知識の繋ぎあわせなのだけれど、常々不思議に思っている事があり、例えば日本では「猿マネ」という言葉はネガティブな蔑んだニュアンスで使われる。英語では「Monkey see, monkey do.」という猿に因んだ似たようなニュアンスのセンテンスがある。恐らくこれだけではなく、文化や言語の成り立ちが違うのにも関わらず同じニュアンスで使われるメタファーは多数存在する(と思う)。
概念メタファーという言葉がある。認知言語学の用語で、本来関係ない概念を、別の概念で説明する事を指す。「テンションが高い | 低い」「意識が高い | 低い」など本来テンションも意識も高低差で表現出来る概念では無いはずが、何故かしっくり来る。他にも寒暖や善悪で表現する概念メタファーもたくさんある。ブーバキキのように発音する時の口の動きに起因するという単純なトリック(という説)や体系的に言語学を学べば解決する問題なのかもしれないが、どうだろうか。説明不要で共通認識を持てるというのは、考えてみると不思議な話ではないか。
ではクオリアやメタファーは脳内でどう処理されているのだろう。これらの理解に一役買っているという説があるのが、ミラーニューロンによる働きだ。
ミラーニューロンとは一言で言ってしまうと「共感」であろう。これは霊長類に観られる働きで、他者の行動をみて、自らが行動している時と同じような活性化を見せる神経細胞である。例えば向かい合った他人の右腕が針で刺されている時、あなたの脳内は同じように針で右腕を刺されているかのように振る舞っているようだ。
しかし実際には他人がどうこうされているのを見ても、僕達には何の影響もない。これは自身の「腕」から「いや触られてないよ」というミラーニューロンを打ち消す信号が発信されているから、実際には何も感じないのだという話がある。実にそれっぽい話だ。事実、例えば片腕をなくし幻肢を訴える人は、当然ではあるが無い腕からは実際に「触られていないよ」という信号は出せないので、幻肢が痛んだりする事が確認されているらしい。
人類以外でミラーニューロンが最も発達しているのはオランウータンのようで、彼らは樹上動物で一生の殆どを木の上で過ごすため、赤子の頃から親や仲間の木登りを見て育つ必要があるため、この機能が発達したと考えられている。
赤ちゃんが母親の笑顔を見て笑い返すのも、ミラーニューロンに寄る働きであって、つまり人類の高度な社会性を形成する上でミラーニューロンが重要な役割を担っているのは間違いない。
前置きが長くなったが、ミラーニューロンがメタファーの理解にも影響しているという説がある。ダウン症の方々の脳を調べるとミラーニューロンの働きが弱いという事実と、一部のダウン症の病状としてメタファーが理解できないというものがある。全てがミラーニューロンによるシンプルな病理ではないだろうが、メタファーや概念メタファーに共感能力が必要なのは少し考えれば想像に難くない。この辺りはV・S・ラマチャンドランの「脳のなかの天使」に詳しく書かれているので興味があったら読むと良い。とてもいい本です!!

共感覚

10代の頃誰しもが「自分が見ている赤色と、他人が見ている赤色は果たして同じなのだろうか」と考えた事があると思う。物体のスペクトルから定量的な結果が得られる訳だから、それを確認して「この波長は誰から見ても同じ赤色になるはずだ」という、実証論的なスタンスで終わらせても良いし、「イヤイヤ赤色のイデアが・・・」と実在論的な立場をとり哲学的世界にまで敷衍させるのも良いだろう。
進化論的に考えるならば、例えば「青色のきのこはヤバイ」というような経験が人類に蓄積されていき、色の識別能力は均一化されて来たはずだ。多数が青と言っている色を、赤と誤認する能力を有するモノは淘汰の対象となるだろう。色に対して知覚・認知レベルでの均一化がなされているのは、僕達の普段の生活からも用意に想像出来る事である。
思考するべきポイントは僕が赤だと主張し、周囲とのコンセンサスも取れている赤が、ある人にとっては僕から見た青色に、或いは緑色に見えているかもしれなく、それは知覚・認知レベルでの均一化がされている以上、問題として表面化しないが本質的にどう見えているのか分からないという点である。
そこで面白い話がある。
共感覚という言葉はご存知だろうか。ある刺激に対して、全く別の種類の感覚も同時に想起してしまう特殊な知覚現象だ。現象は多岐に渡るが、一例を挙げると数字や音を見聞きすると色を感じたりするらしい。
共感覚は想起する色を視覚で見ている感覚と思い浮かべる感覚との曖昧な状態にあるようで、例えば目を閉じたまま数字の「7」を聴覚で認識しても、同時に赤色などが想起されるようだ。
では色覚異常共感覚保持者がいたらどうだろうか。例えば7という文字を見た時に赤色を想起するが、赤色を知覚できない場合だ。この場合、機能不全があるのは網膜の中にある赤色を感じ取る錐体細胞であって、認識する脳自体に機能不全があるわけではない(視覚を認識するプロセスはかなり複雑らしい)。実際に、色覚異常共感覚保持者(数字と色が結びつく最もポピュラーな)は、7という数字を見た時に現れる色に対して「火星の色」と表現しているそうだ。
彼が視認できないはずの色を感じ取れた事は予想の範疇であるが、この事実の興味深い所は、「火星の色」というクオリア(或いはメタファー)についてだと考えている。色覚異常の無い者は一般的に赤について情熱的なイメージを持っており、そこから火や太陽や火星を連想するのは用意だ。赤色を認識できない彼が、そのクオリアを理解し表現し得た事はなんとも不思議な話である。
もっとも、社会生活を普通に営んでいれば、あらゆる文脈で赤と火を結びつける事柄に触れると思うので、知性による機能不全のカバーがあったのかもしれない。

つまり僕はこれらの、「夏の雨の日のあの不快感」の様なクオリアや、「考えが甘い」など本来関係ない概念を、別の概念領域で説明する概念メタファーや、共感に深く作用し他人の動作を常に模倣した形で活性化しているミラーニューロンや、「火星の色」の話が、ペンローズの言うプラトン的世界、所謂イデアと全くの無関係であるとは思えないのだ。どこか深い所でこれらの事象や、或いは宗教的概念や超能力的な何かなどの、あらゆる物事が一点に収束し、理解出来る日が来るのではないかと予感している。しかもそれは数式として再現性のある形で解き明かされる、と。希望的観測が入り混じっている事と取り分け誇れるようなアカデミックなバックグラウンドを持ってない事も無関係ではないと思うけれど…。

量子力学の計算不可能性

冒頭で、意識は計算可能か、計算不可能かという話題と、意識は量子力学に宿るという話題に少し触れた。もし量子力学の計算不可能な部分が全て解明され、決定論的に全てを語れるようになった時、必然的に意識も計算不可能な領域となり未来が決定するのだろうか。そうなった時、果たして自由意志とは一体なんなのだろうか。
アインシュタインの有名な言葉に「神はサイコロをふらない」というものがある。これは生涯量子論コペンハーゲン解釈に賛同しなかった彼のスタンスから出た言葉である。物理学とは決定論であるべきだ、と。
意識と量子力学が関係している、というのも、量子力学も計算可能であり決定論的であるべきだという話も(或いはその真逆のコペンハーゲン解釈も)現時点では何も答えは出ていない。意識を解明出来たとするとそれは恐らく今世紀最大の発見になるだろうという声もあるくらいだ。
さて、量子力学には波動関数の収束というものがある。これについてはあとで軽く説明する(詳しく説明できる脳がない)。ペンローズはこの波動関数の収束過程の計算不可能性に意識が関連していると言う。ただ、波動関数の収束過程、或いは波動関数そのものが何なのかが未だにはっきりとはしておらず、研究者の間でも意見が分かれている、非常に難しい部分なのだ。
次は量子論について少し考えてみよう。

量子論の成り立ち 〜 コペンハーゲン解釈

量子論の歴史は、プランクにより物質を熱した時の物質の温度と、その物質が放つ光の色の関係を探る中で、量子という単位で説明しないと説明出来ない現象が起こりエネルギー量子仮説が提唱された所から始まる。
後に原子とそれを取り巻く電子の研究の中で、電子の性質が粒子であるか波であるかという議論が長く行われたたが、ボーアが提唱した振動数条件が広く受け入れられ、それが今日の量子力学の基礎となる。

その後シュレーディンガー方程式が発表され、あらゆる物質がどんな形の波を持ち、その波が時間の経過とともにどのように伝わっていくのかが計算可能になったことで、電子の波としての性質も計算可能になった。そのシュレーディンガー方程式の中に波動関数という複素数の波がある。
しかし、先ほども触れた通り、波動関数(電子の波としての性質)が一体何なのかが誰にも分からない。電子を波だと解釈しようにも、実際に電子は点状の粒子として観測されてしまう。

ドイツの物理学者ボルンがある思考実験を行った。四角い箱の中に電子を一個いれて時間の経過を待つ。そうすると波は箱の中にほぼ均一に広がる。そこに箱の中心についたてを入れるとどうなるか?電子は一個しか入れてないので分割するものがない。ではスリットによって分割されるものは一体何か? ボルンによるとそれは「確率」だという。ついたてを中心として左右に電子が存在する確率が分割されるのだ、と。
そして、実際に波動関数の絶対値を二乗したものは、電子がその場で発見される確率に比例する、という「波動関数の確率解釈」が登場する。これは、実際に波動関数が一体なんなのか?という疑問を無視し、実験結果(過程にも)として波動関数は残らないが、その電子がどんなエネルギーを持ち、どんな現象を起こすのかが分かればそれでいいという実証論的な意見だった。

そしてこの波動関数の確率解釈を取り入れ、ボーア達は「我々が観測すると電子の波は収縮する」と言う突拍子もない意見を提唱する。電子は観測していないとき波として広がっており、電子の場所は定まっておらず、このとき電子は「A,B,C,D...と様々な場所にいる状態」が重なり合った状態だという。
これは、確率的な話でもA地点とB地点の両方に存在するという事でもなく、一個の電子がA地点にもあり、B地点にもあるという状態が、その電子の中で重なり合っている状態で、それを通常の位置の概念を超えたスーパーポジションと呼んだ。この辺りから、ちょっと何言ってるかよく分かんないし、自分でも何書いてるかよく分かってない。
「観測すると収縮してしまう」のから、確率的にしか推測できない、とした。神がサイコロを振るのだ、と。これを「コペンハーゲン解釈」と呼ぶ。
このコペンハーゲン解釈に反対したのが、ご存知アインシュタインシュレーディンガーだ。確率解釈を物理学に持ち込むと、物理学は決定論では無くなるからだ。もっともである。
そんな事あってたまるか!ということで、有名な「シュレーディンガーの猫」や「EPRパラドックス」という思考実験(パラドックス)がアインシュタインシュレーディンガーから生まれる。コペンハーゲン解釈によると「観測者が観測するまで猫は生きている確率50%、死んでいる確率50%の状態」となり、観測した瞬間に確率が収束し生死が決定される、となるが、現実的とは思えない。
EPRパラドックスに関しては後で詳しく触れる。

やがてトムソンにより電子が波である事が証明さる。
波の性質を観測する実験に、二重スリット実験というものがある。ざっと文章で説明するが、どう考えても動画を見たほうが理解は早いのでURLも貼っておく。
https://www.youtube.com/watch?v=vnJre6NzlOQ

二重スリット実験とは、光源と壁の間にスリットのある壁を用意し、壁に写る影と光の縞を観察する。まず、粒子を壁に向けて発射した場合、壁にはスリットと同じような影が出来上がる。では波ならどうか。波はスリットを通り抜ける際に、波同士お互いが干渉し合い小さな波となり、結果的に壁には干渉縞と言われる縞が出来上がる。粒子と波だと、明らかに結果が違うのだ。
さて、電子ビームで二重スリット実験を行うと縞が出来る。電子単体で見ると粒子なのにも関わらずだ。不思議なことに、試しに電子を1個ずつスリットに向けて発射したのにも関わらず干渉縞が出来てしまう。では、一体この単発で打った電子は何と干渉したのだろうか?
この辺りから本格的に頭がおかしくなってくるのだが、結論としては「電子は自分自身と干渉している」となるのだそうだ。
単発で打たれた電子は、スリットを抜ける際に、右側を通った電子と左側を通った電子に分かれ、壁にぶつかる手前でまた一つになり、そして ” 我々が観測した結果 “、干渉縞として電子が観測される。
この干渉縞は観測結果である。ということは電子ビームから壁に向かう間が、波動関数の収束過程となる。そして、波動関数の確率解釈を裏付けるかのように、干渉縞は、波動関数の確率分布になっている。

更に不思議な事が起こる。それなら電子がスリットをすり抜ける過程を観測できればあらゆる疑問が解決できるのではないか?と考えた。
しかし実際にスリットの出口に観測機を仕掛け経過を観察すると、電子はどちらか片方のスリットしか通らないのだ。そして壁には干渉縞も現れず、粒子を発射した時と同様の影が出来るだけであった。
これが量子の観測不可能性である。不思議すぎて良くわからない…。
その後、ノイマンにより波動関数の収束という現象が導けない事が数学的に証明された。ノイマンは「収束は人間の意識の中で起こる」と主張したが、これは現在ほぼ否定されているらしい。

何だかよくわからなくなって来たが、それでは、もういっそのこと、コペンハーゲン解釈が持ち込んだ「波動関数の収束」を存在しない!とするとどうだろうか?
それが多世界解釈だ。
多世界解釈では波の広がりがをA地点に到達した世界、B地点に到達した世界...のように考える。観測者も何れかの世界にいるわけだから、その世界に結果は一つしか存在しない。
多世界解釈で二重スリット実験を考えると、スリットを電子が通る時、右のスリットを通った世界と、左のスリットを通った世界に分かれる。ミクロな世界だと多世界は干渉し、結果的にこの電子は右のスリットを通った過去と、左のスリットを通った過去を持つというのだ。
ではシュレーディンガーの猫も二つの過去を持ち多世界が干渉したのだろうか?
多世界の干渉は「結果が必ず同じになる場合のみ、多世界は干渉する」と考えられているらしく、猫の生死は一定に定まらないので多世界の干渉はないようだ。また、スリット実験を観測しようとすると微小な一定ではない力が加わり結果が一点に収束しないため、多世界の干渉はない。
まるでファンタジーのような話で、本当に物理学の世界の話なのか分からなくなってくるが、これが量子力学の魅力でもある。僕達が知っている、どの自然法則にも当てはまらない常識が、きっとミクロの世界には存在するのだろう。

EPRパラドックスと量子のもつれ

コペンハーゲン解釈に関して納得のいかなかったアインシュタインが発表したのが、EPRパラドックスだ。いい加減ちょっと文章書くのに疲れてきたから雑な説明になるかもしれなけれど、Aという粒子があり、これをBとCという半分ずつの粒子に分解する。この時Aの性質をBとCはそれぞれ50%ずつ引き継ぐ。この性質を「スピンの量が保存されている」状態と呼び、これは実際に観測できる性質である。
では、分割されたB粒子をC粒子がある地点から、一光年離れた場所に移動させ、B粒子を観測したとする。コペンハーゲン解釈によると観測した時点で性質が決定するので、観測しB粒子の性質が決定した瞬間に、一光年離れた場所でC粒子の性質も決定するという事になる。
光速を超えて情報が伝達される事はないので、そんな馬鹿げた事はありえない、というパラドックスが、EPRパラドックスだ。

ところが、その後半世紀以上経ち、このEPRパラドックスが実際に起こり得る事が物理学者アスペによって証明される。これはヤバイ。本格的に意味が分からない。B粒子を観測したらその時点で、無限の距離を超えてC粒子の性質も決定するのだ。
さらにそこから発展させ、近年ではこのEPRパラドックスの性質を使って量子のテレポートが実現されている。
先ほどと同様に、A粒子を分割しB粒子とC粒子にする。その後B粒子とC粒子を物理的に離れた観測地点へ運び、B粒子とD粒子を特殊な技術を使い合成する。そしてB粒子を観測する。すると、C粒子が存在する観測地点にD粒子が現れるというのだ(C粒子がD粒子に置き換わる、のだったかもしれない。ちょっと曖昧)。
そしてこの仕組を使えば人体や他の物質のテレポートも可能ではないかと言われている。また、この声質を使って量子コンピュータを作ることで桁外れの並列処理を行えるものが開発できるのではないかとも言われている。

では意識とはなにか

この様に、量子力学が活躍するミクロの世界には僕達が生活している世界の常識はあまり通用しそうもない。
意識に量子力学が強く関係しているかどうかはまだ定かではないが、僕達がこうして生きており考えている以上、脳内でなんらかの力学が働いた結果が意識であることは間違いない。ミクロな世界で、且つ計算不可能な領域なのだから、量子力学の解明が意識の解明と言い切ることも、あながち筋の悪い話でもないだろう。

アインシュタインシュレーディンガーの主張である、物理学は決定論でなければならない、という話も良く分かるが、もし量子力学も決定論的に全て語れる日が来てしまうと、意識も計算可能な領域として扱われてしまう。
それが果たして、悲観的な事かどうかすら分からないが、何となく直感的に意識ははやり計算不可能なものだと思うのだ。
ペンローズは「決定論的であるが、計算不可能なものだ」という解釈をしている。何らかの法則、或いは変数などのパズルのピースが決定的に抜けており、それを埋める事で「決定論的ではあるが、計算不可能なもの」を決定できるとしている。
計算不可能な現象を計算するための肝心のピースが抜けている。なんとも美しい話ではないか。

しかしこれらが解明され、新たな真理に近づいた時、恐らく僕達はかつてない程の大きく価値観が揺さぶられるのではないかと考えている。
計算不可能なモノは新しい概念で教育に組み込まれ、量子力学の既知の物理法則を無視したかのような不思議な動作は日常生活に還元されQOLの向上に役立つだろう。そしてその未来では意識とは何かが解明されていて、もしかするとその仕組はAIとしてロボットに搭載されているかもしれない。万物に組み込みでもした日にはそれこそ汎神論の世界になってしまう。

例えばそういう意識が解明された未来を、クオリアが体系的に説明出来る現象として扱われている未来を、僕は想像する。
実は、クオリアやメタファーは根底でインターネットやP2Pの様な形式で、人と人との間で繋がっていて、そういうネットワークで構築された世界がプラトン的世界だったりするのかもしれない。
荒唐無稽な話をしていることは自覚している。先ほど、価値観が大きく揺さぶられる時が来るという文脈では、物質世界のifを考えた。だが、意識の解明の方がずっと、人類にとってもっともエポックメイキングな出来事として扱われるだろう。
宗教や哲学まで科学的なアプローチで完結してしまう可能性を大いに孕んでいるからだ。
そして、できれば僕は概念的な存在となって生き続け、ウィグナーの友人であるところの究極観測者になって全てを知りたいと思ってしまうわけございます。

ちょっともう最後の方疲れすぎてて何書いてるか良く分からなくなってきたから、まとまりに欠けるかもしれない。。