- 作者: 遠藤周作
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2013/03/01
- メディア: Kindle版
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「海と毒薬」は戦中に大学病院で行われた捕虜解剖事件をもとに、日本人とは何かを投げかけた一冊である。
生きている人間を、生きたまま解剖手術して死に至らしめる。
そんな非人道的な行為を、命を救うはずの医者たちがなぜできたのか。
非常にスキャンダラスな題材だが、この話で本当に問われているのは「人間の良心の不在さ」についてだ。
自分の行為を正当化する者、保身にしか興味の無い者、ただひたすら罰を恐れる者、幼いころから罪の意識を感じることができず、良心の呵責を欲した者、解剖に関わった彼らは、共犯関係を感じることはできても、最後の最後まで罪の意識に苛まれることはなかった。
では、彼らだけが特別な異常者なのだろうか。そうではない。
「何が苦しいんや」
「あの捕虜を殺したことか。
だが、あの捕虜のおかげで何千人の結核患者の治療法が分かるとすれば、
あれは殺したんやないぜ。生かしたんや。
人間の良心なんて、考えよう一つで、どうにも変るもんやわ」「でも俺たち、いつか罰をうけるやろ」「え、そやないか。罰をうけても当たり前やけんど」
「罰って世間の罰か。世間の罰だけじゃ、なにも変わらんぜ」
「俺もお前もこんな時代のこんな医学部にいたから捕虜を解剖しただけや。
俺たちを罰する連中かて同じ立場におかれたら、どうなったかわからんぜ。
世間の罰など、まずまず、そんなもんや」
我々は皆、社会の罰や制裁を恐れる。だが、社会的な罰や制裁がなくても、人は自分の犯した行為そのものについて本当に罪の意識を感じることができるのだろうか。
「世間の罰」というのは結局のところ人間が作った不完全なものだ。何が正しくて、何が罪とされるかなんて時代や社会背景で簡単に変わってしまう。いくらでも正当化することができる。
たとえ社会から裁かれなくても、人間は自分のしたことに良心の呵責を感じることができるのだろうか。
この人たちも結局、俺と同じやな。やがて罰せられる日が来ても、彼等の恐怖は世間や社会の罰にたいしてだけだ。自分の良心にたいしてではないのだ。
「罪」とはいったいどこにあるのだろうか。裁判所だろうか。刑務所の中だろうか。「罪」とは刑期を終えれば消えてなくなるものなのだろうか。
突き詰めれば「罪」というのは、その人の中にしかないものなのかもしれない。