『桶狭間の戦い』の真相をお城視点で完全分析! 後詰を捨てたからこその勝利だった!? 【織田信長の城 vol.1】

シリーズ信長の城640

【編集部より】

戦国大名の戦略・領地展開は【城】から分析するとわかりやすい――。

そんなテーマでお送りしてきた当コーナー。前回までは【武田信玄の城】にスポットを当て、戦国最大の激戦区【川中島の戦い】にスポットを当ててきました(詳細はコチラへ)。

今回からは、舞台を東海地区に移して、織田信長に注目!

分析を担当するのは、第一回城郭検定で2級を取得した城マニアこと【お城野郎!】氏です。

では、早速本文へと参りましょう!

類まれなる妄想力を駆使して、全国の城を駆けまわるお城野郎!今回は信長さんの城を裸にいたします

類まれなる妄想力を駆使して、全国の城を駆けまわるお城野郎! 今回は信長さんの城を裸にいたします

【本文ここから】

織田信長といえば、壮麗な安土城天主の一角で南蛮渡来のテーブルセットでぶどう酒を飲み、無理難題を吹っかけて譜代の家臣一同を震え上がらせ、明智光秀をアゴで使い、秀吉は調子よく走り出す・・・。

そんなブラックなイメージもありますが、桶狭間の戦いの頃、「俺はまだ本気を出していない!」時代の若き頃は、どんなお城だったのでしょうか?

まずは織田信長初期の城と、同時に『桶狭間の戦い』を考察してみたいと思います。

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信長といえば安土城!その大手口。当時最新鋭の石の城でした

 

清洲も那古野も勝幡も、城というより武士の館

実は、初期の信長の城に見るべきものはありません。

戦国後期の増改築で遺構が残っていないというのもありますが、たとえ残っていたとしても、「お金払ってないけど金返せ!」レベル。むしろ遺構が残っていなくて当然と思えるくらい、この頃築城した城はまぁ見るべきものがありません。なので尾張の信長の城は宅地化されたり、子供の遊び場になったりとそれなりの扱いを受けてしまっています。

ざっくり言うと清須城も那古野城も勝幡城も四角形のいいわゆる「武士の館」タイプです。「とにかく四角くて備えは一重の堀くらいしかありません。虎口も折れがなく、いわゆる平入りの出入り口でした。

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勝幡城の推定位置。今や城のど真ん中に川が流れていますが・・・

信長が生まれた城とされる勝幡城(しょばたじょう)には絵図が残っていますが、四角形の四隅がやや出張った形跡が見られ、ここを櫓のように使用していた可能性があります。

ただし勝幡城の出入り口も平入りでした。

まあ勝幡城は信長の城というより親父の信秀の城ですけどね。

 

清須城は五条川の西側に面した「館」で、館の北と南に「矢蔵」と呼ばれる建物がありました。これも館の一部で、信長は北矢蔵に居住していたと言われていますから、櫓というよりも館だったのでしょう。

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初期の清須城 推定位置。ここも城のど真ん中を東海道新幹線が貫いています。現代でも変わらぬ交通の要衝に築かれた城だということがよく分かります

信長死後の有名な「清洲会議」後に織田信雄が清須城を大改修して天守を備えた近世城郭に造り変えていますので、戦国後期にはすでに遺構は失われています。

現代では、清須城のど真ん中を東海道新幹線が貫通して東側にはフェイクな清須城が建てられていて当時の面影はさっぱりありません。

 

ということで、初期の信長の城は「館」だったという衝撃の事実に唖然としてしまいますね。

尾張の城はこのようにたいした仕掛けもない、でも格式は高い「おもてなし」な造りが一般的だったのです。

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越前一乗谷の朝倉館です

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これらがいわゆる「武士の館」です

個人的には「躑躅ヶ崎館」や「今川館」と呼ぶなら、この頃の清須城や那古野城も「清須館」や「那古野館」でいいと思います。

その方がイメージしやすいですしね。

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復元された一乗谷の町。清須城周辺もこんな感じだったのでしょう

 

もうやめて!信長様のライフはゼロよ!

「館と言うけど、武田信玄だって今川義元だってこの時代はみんなそうだろが!」

と思うかもしれません。しかし、少なくともお隣・美濃の斎藤道三には稲葉山城があり、近江には六角承禎の観音寺城、上杉謙信には越後の春日山城、さらには毛利元就の吉田郡山城など、山一つを完全要塞化した城はすでに存在しております。地元の土豪や守護から「戦国大名」化した武将たちの居城は続々と山や平山へ移っておりました。

「そ、そりゃ、親父の織田信秀の時代から織田家の戦は領地の外でやってきたから最前線の城はそんなことないさ!(汗)」

という希望も打ち砕くように、信長の最前線の城、すなわち「境目の城」も恐るべき後進性を示しています。

その一例が桶狭間の戦いの前哨戦で築いた、今川方の大高城、鳴海城を包囲する砦群です。なぜか「砦」と呼ぶようですが、これはどうみても戦略的な付け城戦術ですので、「城」と呼んでもよいはずです。

しかし、城と呼ぶには明らかに簡素な造り。例えば川中島で上杉謙信が旭山城の付け城で築いた「葛山城」や「大峰城」は【第2回川中島の戦い】ぐらいでしか本格的に使われませんでしたが、本丸を中心に何重もの曲輪を配置し、麓へ向けて無数の竪堀や横堀を築いた立派なものでした。

一般的に遅れていると言われている東日本の城(私はそんなことないと思いますが)と比べても、信長の築城技術はかなり見劣りします。

 

大した工夫もない城を僅かの城兵で阻止するのは難しい 

なんせ信長が築いた各砦の“縄張り”も単純な記号で簡単に表現できてしまいます。

◯←丸根砦(まるねとりで)

△←中島砦(なかじまとりで)

□←鷲津砦(わしづとりで)、善照寺砦(ぜんしょうじとりで)

□□←丹下砦(たんげとりで)

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信長の砦群。付け城としては申し分のない配置です。当時の海岸線は鳴海城、大高城付近まで迫っていました

丸根砦は文字通り丸い古墳のような小さい丘に築かれた砦です。

鷲津砦は小さな丘に築かれた四角い陣地。土塁と帯曲輪のような形跡は見られますが、横堀や竪堀はなく虎口は平入りの出入り口です。

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平入り虎口のイメージ。写真は一向一揆の拠点「鳥越城」

この二つは大高城(おおたかじょう)の付け城として築かれました。大高城は桶狭間の戦いの前日に、若き頃の家康(松平元康)が兵糧を入れて後詰めに成功したことで有名ですね。

となると、簡単に後詰めを許した時点で鷲津砦、丸根砦の負けです。というか信長の付け城は「お前はもう死んでいる」状態なのですが、実際、今川方の朝比奈泰朝と井伊直盛、そして松平元康による未明の総攻撃で城兵共々、散々に打ち破られています。

信長は鷲津砦、丸根砦から上がる黒煙を見て、落城を確認し、桶狭間方面に向かったと言われています。

両砦には櫓なども施されていたとは思いますが、大した工夫もない城を僅かの城兵で阻止するのはやはり難しいですね。

 

「善照寺砦」に多少の工夫はみられるが

一方、鳴海城の付け城として築かれたのが「丹下砦」、「善照寺砦」、「中島砦」です。

地図で見ると配置は付け城として完璧です。この頃の海岸線は鳴海城のすぐ手前まで来ていたそうなので西側はもう海。

「丹下砦」はすっかり宅地化されてしまい殆ど遺構が残っていませんので縄張りがよく分かっていません。何となく本丸から鳴海城に向けて真っ直ぐの一本道が残っていて、後の小牧山城や安土城を彷彿とさせますが、出撃は楽な分、防御性能は全くありません。

「善照寺砦」は鳴海城の東の高台に築かれた館タイプの四角い砦です。信長が兵を集結させた最終地点にあたります。ここは尾根伝いに鳴海城とつながっていますので、付け城戦術の最も重要な拠点なので他よりも僅かですが城に工夫が見られます。

四方に土塁と堀を巡らせ、櫓のような設備を施した櫓台の跡があったようです。砦の手前には堀切のようなものが確認できますが、本当にこの時代のものであったかは分かりません。

しかしこの砦も基本的に虎口に折れはなく一直線の平入りの出入り口です。

そして川の合流点で△な形をしているのが中島砦です。文字通り川の中の「中島」で、ここでは河川から城への物資の流入を監視していたのでしょう。ここも他の砦同様、館タイプの砦です。ここからは桶狭間方面に一直線に進出でき、信長は善照寺砦で集結させた兵を中島砦に一度移してから桶狭間方面に出陣しています。

 

たとえ規格外の男でも尾張の城は遅れていた

境い目の城とは国境の最前線を守る拠点です。そこに城が築かれるということは明らかに係争地となっている、すなわち軍事的緊張状態が続いている場所です。係争地であり、軍事的緊張状態が続いているということは、その拠点には最精鋭の軍事力と軍事技術が投入されます。

そういった場所に「口」←こういうカタチの城が築かれたわけです。

我々は前回までにこれと同時代の川中島の戦いを見てきました。

少なくとも川中島の最前線の山城、旭山城には横堀と竪堀が幾重にも施され、海津城には千曲川を利用した天然の水堀と馬出が配されていました。

ということでお分かり頂けたでしょうか。この尾張の築城に対する後進性を。仮に信長が規格外の奇抜な男であったとしても、戦のセオリーは外せません。現に信長は、付け城戦術で対抗しています。戦のセオリーを外さない武将が、境い目の城の縄張りを意図的に疎かにしたとは到底思えません。

つまり、尾張最新鋭の軍事技術を結集した城が、虎口が平入りの「口」や「◯」や「△」だったのです・・・。

城だけで考えると正直、失格です。戦国武将の風上にも置けません。

気分が萎えてきたので、桶狭間の戦いでも見てお口直しをしましょうか。ああ、もう「口」の字をみると信長の残念な城にしか見えてきません…。

 

桶狭間の戦いの前哨戦は城郭戦

「上洛を目指す今川義元を寡兵の織田信長が桶狭間で奇襲して勝利した」というのが一般的に言われてきた桶狭間の戦いのあらすじです。

しかし今川義元の西進の理由はどうも上洛ではなさそうだというのが最近の定説です。

理由はなんであれ、味方の城が付け城戦術で包囲されたら後詰めを出すのはこれまた戦のセオリーで、「桶狭間の戦い」という境目争いである局地戦の理由はこれ以上でも以下でもありません。

桶狭間の戦いは、付け城を築いた信長が仕掛けた戦とも言われていますが、大高城と鳴海城が今川方に寝返ってしまったので信長が付け城を構築して対抗したまでです。これが丸根砦、善照寺砦などの砦群です。

付け城を築けば後詰めが出てくることくらい信長も分かっていたでしょうし、今川方も織田方の城を寝返らせた時点で付け城戦術で来ることは予想していたでしょう。ただ織田方と今川方の戦力差、また織田信長と今川義元の経験の差を考えると今川方には「まあ、激しい抵抗はないだろう」くらいの油断はあったかもしれません。

この辺りは肝の座った信長を褒めるべきで、前哨戦は格上相手に堂々とセオリーの戦を仕掛けているわけです。

 

今川軍にとっては単なるパフォーマンスだった!? 

今川氏真、義元にしてみれば「あれ、織田のバカ息子は俺っちの実力分かってねえら(静岡弁)。バカには大軍をみせつけてやるしかないか」という優しさゆえに2~4万を超える大軍の動員でしょうか。

最近では義元に上洛の意志はなかったいうのが定説になっています。

そうであるならばこの今川の大軍は、尾張全土を蹴散らすための大軍というより、大動員兵力を見せつけて信長を威嚇し、「戦わずして勝つ」ためのパフォーマンスの要素が大きかったのではないでしょうか。

信長にも万単位の動員力があったとも言われていますが、未だ存在する尾張国内の敵対勢力や北方の美濃への備えに兵力を割かなければいけません。

付け城戦術で各砦に兵を分散配置するより一箇所にまとめたほうがよいでしょうが、この辺りに籠城できそうなまともな城はありません。

大高城、鳴海城の後詰めに向かう今川方の伸びきった万単位の進軍を分断撃破、特に今川義元本陣を探して、そこに全兵力を集中するというのは合理的で少ない兵で引き分け以上に持ち込むには最も効率の良い戦の方法です。

 

できるだけ今川軍の戦線を伸びきった陣形にさせたい

ちなみに総大将目掛けて本陣に一点集中する戦術は特に目新しいものではありません。

桶狭間の戦いのわずか5年前に毛利元就が「厳島の戦い」で陶晴賢4~5万の大軍を厳島に誘い込んで少ない兵で撃破しているので、戦う前のお膳立て(調略)と地の利を活かせば、決して不可能ではありません。

また敵に手痛い一撃を与えて戦線をさっさと離脱するという方法は上杉謙信の得意の戦法です。この場合、敵の首級を獲らないというのが全軍の約束事になります。少ない兵力で勝つにはスピードが重要で、もたもたしている暇はないのです。

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松平元康の大高城後詰めルート。ほぼ無傷で大高城への兵糧入れを成功させます

信長にとっては起伏の激しい桶狭間の地形に大軍を誘い込んだところまではある程度戦略通りだったのでしょう。東の沓掛城から西の大高城と鳴海城へ向かうには起伏のある丘を越えていくか、谷底を通過していくしかありません。当然、大部隊が鶴翼の陣を敷けるような平原はなく、必然的に縦に長い陣になります。

信長公記などの記録から信長が今川方の「中軍」を狙ったのは明らかです。この東西に伸びきった今川の陣の中軍に当たる横腹を突けばいいわけです。

そのためには今川方にはこの地で、できるだけ長い時間伸びきっていてほしいのです。

 

後詰をせず一門や譜代の家臣を見殺しにしてまでしたかったこと

ここで信長の凄まじいドS戦略が発揮されます。

大高城の付け城、鷲津砦と丸根砦にあえて後詰めを送らず、信長は明らかに城兵を見殺しにしているのです。毛利元就は、厳島の戦いでは厳島の「宮尾城」の城兵を囮に使っていますが、救援に成功しています。

一方の信長は、織田秀敏や飯尾定宗、佐久間盛重という一門や譜代の家臣を後詰めすることなく死なせています。この時代の戦では後詰めはセオリーであり常識。これを怠ると当主と家臣団の間には修復できない軋轢が生まれますが、信長は自身の大戦略のためにためらいもなくやってしまったのです。

この見殺しにした一件は、今後も信長の特徴的な戦略となります。

大戦略のために譜代家臣をも犠牲にするという方針は、信長が死ぬまで家臣団に暗い影を落としてしまいますが、これはまた別の機会に。

信長は丸根砦と鷲津砦を犠牲にしてまで今川の先陣を西に引きつけた状態にしておきたかったと、私は考えます。さっさと兵を引かれてしまったり、城郭戦に持って行かれると寡兵では対抗できません。そもそも丸根砦と鷲津砦は、長期籠城できるほどの防御力はないのです。

善照寺砦まで進出した信長は、家臣が止めるのも聞かずに中島砦へ移動。ここは川の合流地点の中州のようなところにある砦ですので標高が低く、鳴海城だけでなく、大高城方面、今や敵の手に落ちた丸根砦や鷲津砦からも見下ろせる位置にあります。

すなわち信長は完全に今川方から丸見えの位置にわざわざ全軍を移動させたのです。

これには何の意味があったのでしょう。

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今や宅地化されて昔の面影は全くありませんが、信長は谷底を桶狭間に向けて直進しました

中島砦への移動を決めたとき、すでに義元本陣を捕捉していたハズ

実は、中島砦から川沿いに谷底を一直線に上っていくと今川義元の本陣、桶狭間山を目指すことができるのです。

この時点で義元の本陣と認識できたかどうかは分かりません。しかし中島砦出陣後に中島砦も今川方に落とされているところをみると、これで大きな戦果なく帰ることは不可能です。私は中島砦への移動を決めた時点で、義元の本陣を捕捉していたと考えます。

あとは今川方の陣目掛けて一直線に当たるだけ! ちなみにこの中島砦から桶狭間山までの谷底のルートは大高城方面から全く見えません。

大高城も鳴海城同様に、当時は海に面した城でしたので平山とはいえ標高が低く、西側には丘陵が広がっていました。松平元康や朝比奈泰朝が東方の義元本陣で何が起こっているのか全く把握できなかったのも仕方ありません。

結局、今川義元は織田信長の強襲に敗れて首まで取られてしまいます。義元にしてみればそこまでの戦は望んでいなかったのが今回の局地戦でしょう。

 

城の防御力が不安だったからこそ桶狭間へ討ってでたのでは? 

桶狭間の戦いは劣勢の信長が、城郭戦を避けるどころかセオリーの後詰めさえせず、ひたすら本陣の捕捉に徹して縦に伸びきった敵勢力の心臓部に戦力を集中させるという戦略、戦術で勝利しました。

実は少ない兵で城に篭って大軍を退けるという戦の方が日本全国に先例が山ほどあるのですが、それをしなかったのはやはり城の防御力が心もとなかったからではないでしょうか。

城マニアとしては、ろくな城を持っていなかったからこその「桶狭間の戦い」と考えたいところですね。

信長だってうすうす気づいていたはずです。

「そろそろちゃんとした城を持ちたい」と。

次回は脱・築城後進国を目指し、尾張に完成した正真正銘の城郭「小牧山城」について紹介したいと思います。

 

 

筆者:R.Fujise(お城野郎)

武将ジャパンお城野郎FUJISEさんイラスト300-4

日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。
現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。
特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。

 

※編集部より

R.Fujise(お城野郎)の日本城郭検定・二級合格証書を掲載させていただきます。

FUJISEさん城郭検定2級

 

 

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コメント

    • 出張の時だけ城マニア
    • 2015年 4月 07日

    小牧山城!司馬遼太郎の小説でもたびたび出てきていたので気になってました~(^^)
    次回が楽しみです!

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