「フクシマを描く善意が差別や偏見を助長したかも」 絵本作家の松本春野さん

2015年04月07日

まつもと・はるの 1984年、東京都生まれ。絵本作家、イラストレーターとして活躍。「モタさんの“言葉”」(講談社)シリーズの絵を担当した=2015年3月12日、石戸諭撮影。
まつもと・はるの 1984年、東京都生まれ。絵本作家、イラストレーターとして活躍。「モタさんの“言葉”」(講談社)シリーズの絵を担当した=2015年3月12日、石戸諭撮影。

 ◇福島で生活する人から学びたい

 絵本作家、松本春野さん(31)の新作絵本「ふくしまからきた子 そつぎょう」(父の松本猛さんとの共著、岩崎書店)が話題を呼んでいる。東京電力福島第1原発事故後、福島から広島に母と避難することを選んだ主人公の少女「まや」が、自分が通っていた福島の小学校の卒業式に戻ってくるという物語だ。反原発運動に参加する松本さんは、福島での取材を通じて「(反原発運動は)もっと福島で生活を送る人の声から学ぶべきだ」と感じたという。絵本作家、いわさきちひろの孫として注目された松本さんが福島での取材で何を感じ、どう考えが変化したのか。思考の軌跡をロングインタビューでお届けする。【聞き手・石戸諭/デジタル報道センター】

 ◇「福島」と「広島」 象徴的に重ねたが……

 −−「ふくしまからきた子 そつぎょう」は前作「ふくしまからきた子」の続編です。前作から「そつぎょう」までの3年間、松本さんの間でどのような意識の変化があったのでしょう。

 松本さん 2011年の夏に、私は福島県飯舘村から避難した小学校に取材に行きました。原発事故後の混乱や避難の話を聞いたのが前作の取材でした。母子避難をした子供たちの話を聞く中で福島から広島に母子避難を選ぶ主人公の姿が決まってきた。

 前作は「ふくしまからきた子」と呼ばれた、まやが友人に受け入れられ、「まや」と呼ばれるまでの物語です。主人公はサッカーが好きな少女だけど、事故で傷つき、ボールを蹴ることに消極的になる。登場人物の男の子が2011年に活躍していたサッカー選手の名前を挙げながらリフティングをするシーンを冒頭に入れました。これは2011年の作品であることを強調するためです。物語全体のトーンも暗く、うつむいている子供の顔を表紙にしています。原発事故で、子供たちの心に与えた影響や不安を表現している作品といえるでしょう。

 当時、私も混乱していました。初めて聞く、ベクレルやシーベルトといった単位に驚き、困惑し、そもそも「安全」なのか「危険」なのか。極端な情報が飛び交い、まったく判断ができない。その中で「子供」に向かって作品を描き続ける絵本作家として「福島の子供たち」を守る作品を作る。それが自分の使命だと思っていました。

 今から思えば「ふくしまからきた子」というタイトル自体、「福島への差別を助長する」と思われても仕方ないですね。福島は広いし、放射性物質の汚染状況も違う。一律に語れないのに、私の意識の中で「『福島』に住んでいるのは危ない」「避難したくてもできない人ばかりなんだろう」「みんなが避難を選択したほうがいいのではないか」という思いがあった。それがタイトルや作品ににじんでいます。

 避難を選択した方からは「よく描いてくれた」「自分たちのことを描いてくれた」と共感の声も寄せられました。一方で県内の人からは「つらくて表紙を開けない」「福島に残ることを否定されているようだ」という声も寄せられました。この声はずっと心に残っていました。

 −−広島に避難するというのも象徴的です。

 松本さん 「見えない放射能」「被ばく」というという事実から「広島」と「福島」を象徴的に重ねて描くという手法を採りました。当時はこれが最善だと思っていましたが、今では重ねられることで見えなくなる問題もたくさんあったと思います。

 福島からの声を聞いて「もっと福島のことを知らないといけない」と思い、前作出版後に父と機会を見つけて、福島取材を続けました。

 ◇福島の人は「真実を知らないだろう」と思っていた

 −−どのように取材を進めたのでしょうか?

 松本さん 父が関わる「ちひろ美術館」のスタッフにたまたま福島出身の人がいて、そのお子さんの担任だった先生を訪ねることから取材を始めました。その先生は当時、伊達市立富成小学校の校長先生だったのです。その先生が伊達市や川俣町、飯舘村などいろんな学校の先生を紹介してくれた。そこから一人一人を訪ねて、子供たちの状況や学校の対策を聞いて回りました。

 その他にも福島市渡利地区の「さくら保育園」、ツイッターでつながった福島市や二本松市のお母さん、美術館の職員や図書館の司書さん、反核・反原発運動に関わる人……。関係を作って、お話を伺いました。

 これも今から思えば、前作を出版してからも私は取材でずいぶんと失礼なことを重ねたと思っています。「普通の生活を取り戻した」という話はメモを取らず、生活を取り戻すための努力に関心を示さなかった。「まだ、大変なことがあるのでは」としつこく聞いていました。「放射線に対する不安」が出てくると熱心にうなずき、「不安」に対処するために放射性物質を徹底的に測るという対策については共感を示さない。福島の人が悲しい顔をすることを期待していたんですね。そういう心の動きが顔に出ていたと思う。ひどい話です。

 自分で認めるのはつらいのですが、心のどっかで福島の人を見くびっていたのでしょう。「たぶん、真実を知らないのではないか」「放射線に慣れてしまっただけでないか」と。

 ◇「福島に住む人は無知じゃない」 足りなかった想像力

 −−「見たい福島の姿」だけを見ていた?

 松本さん そうそう。でも、福島に関するデータがだんだん明らかになってきましたよね。

 安斎育郎先生(立命館大名誉教授、放射線防護学。国の原発政策に批判的姿勢をとる)が除染や放射性物質の計測をアドバイスしてきたさくら保育園でも、国が出すデータを最初から信用せずに徹底的に再計測していた。そういう姿をみると、だんだん疑問も湧いてくるわけです。「あれ、なんか違うぞ」って。すごく詳しく計測の仕方を教えてくれるし、データについての解説も細かい。「国にだまされて、安全だと思い込まされているから福島に住んでいる」わけじゃないんですよね。

 ある図書館の司書さんは涙を流しながら話してくれました。彼女の家庭にも小さなお子さんがいる。夫と一度は福島市内から避難を検討していた。でも、自分は図書館の鍵を最後に閉めるのが仕事だと。子供たちがいる中、自分から先に避難するわけにはいかない。放射線について勉強し「いまの線量なら避難はしない」と決断したそうです。

 この決断を不勉強だと誰が責められるのか、と深く考えてしまいました。

 福島に住むと決めた人は無知だから決めたわけじゃない。私たちが考えていたことよりたくさん勉強して、考えていた。当たり前ですよね。そんな当たり前のことすら私の想像力は及んでいなかったのです。

 私が唯一、良かったのは「福島に何かを与えよう」というスタンスを取らなかったことです。特定の目的を持って福島に入らず、「福島の現実をみて学ぼう、福島から持って帰ろう」と。そこはぶれなかったですね。

 ◇「現場は複雑」 安易に考えていた

 −−松本さんの考えが「ここで変わったな」という場所やエピソードはありますか?

 松本さん 福島県中通りのある小学校でプールを再開した話ですね。当時の校長先生から伺った話です。除染が終わって線量が下がった時点で、プールに入れるかの判断を迫られた。この小学校は山あいの学校で、当時線量が高かった。そこの学校は授業として近くの林にワラビ採りに行くんですよ。自然環境を生かした中で教育活動をするのが特徴なんですね。これは原発事故後、できなくなった。山の木々が放射性物質で汚染され、線量が高いからです。学校が大事にしてきたものが奪われ、その上プールにまで子供を入れないのか。

 線量が低い近くの小学校は(児童の)人数がとても多く、保護者がまとまらなかったからプール再開を見送っていた。でも、その小学校は幸いにして少人数の学校でした。保護者と教職員が話し合いを重ね、専門家による勉強会も開いた。徹底した除染を行った上に、数値の計測を重ねて、みんなで納得した上でプールを再開する決断をしたのです。つらい事故だったのは間違いない。でも、除染を重ね、プールが再開できるところまでこぎつけた。とても喜ばしいことだったでしょう。

 しかし、これがニュースになり、報道されたとき、状況を知らない外の人たちから批判的な電話があったといいます。「福島の水を使うなんてとんでもない」「子供を守っていない」という趣旨だと思います。当時は私も「大丈夫かな」と思っていたので、こうした意見を批判できませんが。

 でも、さくら保育園の先生方も強調していましたが、「鉛の箱で子供は育たない」のです。閉じ込めているだけでは子供たちの精神は参ってしまう。これも現実です。きっと福島のいろんな保育園や学校であった一歩一歩の前進が理解されない。

 子供が遊べる環境があることが最善です。それを取り戻すため学校と保護者が協力してきた学校がある。一方で、みんなの納得や合意を積み上げるには時間がかかります。学校ごとに違う課題があり、考えながら決断している。どの学校の判断が正しいかという話ではなく、現場はとても複雑であり、慎重な判断をしているということを強調したいです。批判にありがちな「福島を安全だとアピールしたいから」といった単純な話ではない。過度に単純化してきたことについては私も同じです。想像力を使って、先生方や保護者の気持ちを考えると当時、安易に考えていた自分を責めたくなります。

 −−「そんな場所なら避難をすればいい」という声も聞きますね。

 松本さん 正直、私もそう思っていた時期はありました。私は東京で生まれ育っていますし、転勤も身近なものでした。「家」や「土地」に縛られない考え方の家庭で育ちました。

 でも、取材で訪れた福島県伊達市の霊山地区に古くからある家の方を訪ねたとき、家にずらっとご先祖の写真を並べてあるのを見て、感じるものがありました。土地や家の持つ意味はそれぞれに違う。避難すればいいってものじゃない。線量や計測を重ねて、その土地に暮らすことを選択した人がいるという事実は、私が単純に考えていたより重いものなのです。

 県内の先生たち、職員、メディア関係者もみんな「当事者」なんですよね。職場を離れたら、親であり、生活者です。子供や親……といった自分以外の誰かを考えるのは当たり前なんですよね。だから東京で暮らす私が疑ってかかることなんて、みんなとっくに疑っている。だから自分で数字と向き合い、決めてきた。決断の積み重ねが今なんです。

 ◇子供のはじける笑顔を描くことは難しい

 −−取材を通じ「事実」を知って考えが変わった。そこで描かれた「そつぎょう」にはさまざまな意味が込められている、すごく象徴的な言葉です。

 松本さん 一つは文字通り、まや、そして同級生が小学校を「そつぎょう」していく。それも笑顔で卒業する。この話を描くときに私の中で、一つだけ決めていたことがありました。前作はうつむいた顔が中心だったけど、取材に行った小学校で子供たちは日常を取り戻そうと努力を重ねる親や先生たちの背中を見て、とてもいい笑顔を浮かべていたのです。その笑顔を描こう、と。

 言い方は悪いけど、子供のうつむいた顔を描くのって実は楽なんです。社会問題を扱った作品に限っていえば「かわいそう」だと思われる絵の方が受け入れられることが多い気がします。

 逆にはじける笑顔はとても難しい。技術的にも難しいし、このテーマなら「原発事故を軽く考えている。何もわかっていない絵本作家」という批判は避けられない。でも前作を描き、いろんな福島の子供を取材した以上、作家として責任があります。そこからは逃げられない。

 母子避難を選んだまや、家族にとって原発事故はやっぱり悲しい思い出です。だから、事故を思い出す場面はモノトーンになります。原発が爆発したニュースを見守るまやの母親はおばあちゃんの背中をさすっています。家族がつながっていたまやの一家にとって、避難は苦渋の選択だったのです。

 ◇「おかえり」に込めた思い

「ふくしまからきた子 そつぎょう」より、主人公まやを福島の小学校の同級生たちが「おかえり」と迎える場面
「ふくしまからきた子 そつぎょう」より、主人公まやを福島の小学校の同級生たちが「おかえり」と迎える場面

 −−主人公まやを福島の小学校の同級生たちは「おかえり」と迎えます。その場面は印象深いページです。

 松本さん まやだって避難した小学校に受け入れられるか不安だったと思います。「あの時期に逃げたと思われないか」と。一方で避難先では「ふくしまからきた子」と呼ばれ、自分の名前で呼ばれないつらさを味わった彼女にとって、この小学校は「まや」と呼んでもらえる大事な場所です。

 子供たちにとっても、久しぶりに見るまやの姿はうれしかったのでしょう。みんな、走って駆け寄り、抱きしめながら「おかえり」といって迎え入れた。避難も一つの選択であり、帰ることも一つの選択です。いろんな価値観があり、人それぞれの選択がある。どんな選択も肯定する。そうした思いを込めました。だから、まやの帰宅は一時的なのか、もう広島から戻って中学校は同じところに通うのか。そこは想像にお任せしています。ぜひ、お読みいただいた上で、思い描いてほしいなと。

 「おかえり」は大事なんですよ。さきほどお話しした司書さんのところにも、避難から一時的に戻ってきた子供を持つ親から相談があるそうです。「子供が『(避難した)自分が図書館に行っていいかわからない』って悩んでいる」と。司書さんは「みんな一度は悩んだことだから気にせずおいで」って答えたと話してくれました。子供たちの気持ちは私たちが考えている以上にずっと繊細なんですよね。子供たちにとって「おかえり」がどんなに大事な言葉か。わかってもらえると思います。

 −−モデルの一つになった富成小学校の卒業式にも実際に出席しましたね。

父の猛さん(中央)と一緒に伊達市立富成小学校の卒業生に絵本を手渡す松本春野さん(右端)=福島県伊達市で2015年3月23日、石戸諭撮影
父の猛さん(中央)と一緒に伊達市立富成小学校の卒業生に絵本を手渡す松本春野さん(右端)=福島県伊達市で2015年3月23日、石戸諭撮影

 松本さん お世話になった先生は別の小学校に異動してしまいましたが、その先生が実際に卒業式で語った言葉を絵本の中に使いました。実際に描くときにモデルになった子供たちが笑って卒業していく。保護者でも先生でも、職員でもないけど印象深いです。11人の卒業生、一人一人に絵本を手渡せて本当に良かった。みんなのおかげで描けた、ありがとうって思いました。

 「そつぎょう」では学年ごとの思い出を見開きのページごとにまとめているのですが、ハイキングの川遊びなんかは実際に子供たちの声を聞いて、様子を想像して描いたものです。子供たちの声は絵本にかなり反映されています。

 ◇「善意」のつもりが差別や偏見を助長と痛感

 −−「そつぎょう」という言葉は、「偏見」を持って接していた松本さんの姿勢にもかかっている。

 松本さん そうです。私の4年間は原発事故に怒り、悲しみ、そこから学ぶ4年間だったといえるでしょう。イメージの「フクシマ」から現実の「福島」の姿を描くための4年でもあった。4年前の事故直後からイメージする「フクシマ」と「福島」は違います。

 私の前作は「フクシマ」を反核の象徴として描くという意味合いを持たせてしまった。それはそれで一定の意味を持っていました。

 しかし、もっと大事な日常の「福島」の姿を描かず、避難という選択を「フクシマ」を描くために利用してしまったかもしれない。あまりに旧来的な描き方をしてしまった。

 こうした描き方は長年、福島県内で反核運動や反原発運動に取り組んできた人たちからも批判されました。善意のつもりが、差別や偏見を助長する役割を果たした側面もあるのでは、と痛感します。

 先にお話しした福島からの反応がすべてでしょう。もう、そういうことはやめにしたい。

 ◇福島に住むことに「罪悪感」を抱かせるような運動でいいの?

 −−「そつぎょう」を描き終えた後、参加した反原発運動の集会で行ったスピーチ(http://www.harunomatsumoto.com/blog/2015/03/38-no-nukes-day.html)もすごく反響がありました。課題は個別にあるにもかかわらず、ひとくくりに「福島」を語ってしまう。そんな語り方への疑問であり、「おかえり」の場面に象徴されるように分断を乗り越えたいという松本さんの意志を感じます

 松本さん 主催団体から頼まれてから、かなり悩んだんですよね。言うべきことを整理するために、原稿を書いて持っていこうと思っても、直前まで書けなかった。覚悟を決めて、これだけは言おうと思ったことを書き連ねました。

 私は当初から反原発デモにも参加していますし、政治的な立場で言えば「脱原発」。事故が1回起きたら取り返しがつかないし、分断も深まるし、面倒な問題をいっぱい起こす。他のエネルギーに替わってほしいと思っています。

 でも、反原発運動の中に「福島は住めない」「福島県産食品は危険だ」といった差別的な表現があったのは事実です。それは今でも残っています。私はそこには絶対、賛同できない。

 「私たちは、もっと、福島に暮らす人々の声から学ぶべきなのではないのでしょうか」と呼びかけました。複雑な問題を理解することは時間がかかります。でも、同じように原発に反対する気持ちを持ちながら、福島の方に「県外の反原発運動の発信を見ていると心が折れる」と言わせてしまう。福島の内と外で分断を深めているのは誰なのか。もっと私たちは問わないといけないと思います。

 反原発のために広大な福島を住めない土地にする必要はありません。浜通り、中通り、会津の地方ごと、自治体ごと、地区ごと、個人ごとに問題は違います。福島に住むことに罪悪感を抱かせるような運動でいいのか。そこをもっと問わないといけない。

 差別や偏見を助長するような運動からも「そつぎょう」が必要なのです。

 ◇「個別の声」に耳を傾けよう

 −−反原発運動に限らず、福島をどう語るかは常に見直しが必要です。

 松本さん 生まれたときには亡くなっていましたが、私がいわさきちひろから学んだことがあります。それは「北風と太陽」があるなら、ちひろがそうであったように私も「太陽」の立場を取りたいということです。批判は大事ですが、強く、激しい言葉だけで人はつながれない。語り方は常に考えないといけません。

 運動に関わる人は少数派(マイノリティー)の存在は尊重されないといけないと考える人が多い。私も基本的にそうした考えに賛同しています。だから「福島に残って生活している人の声も避難した人の声も多様だ。でも、全国にまだ十分に届いていない。『福島の声』は日本全体から見れば『少数派の声』なのだから、まずは耳を傾けよう」と呼びかけていきたいです。

 多様なはずのものを一つにまとめていくようなやり方ではなく、個別に耳を傾ける。そして、福島に実際に行く。私も、継続的に福島に関わっていきたいと思います。

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