「打ち上げでハイタッチをしたかった」とある敏腕広告プロデューサーがエンジニアに転向した理由
2015/04/07公開
大手広告代理店のプロデューサーとして、数多くのプロジェクトを手掛け、社内からもクライアントからも信頼を得ていたにも関わらず、突然会社を辞めエンジニアへ転職をした――。
そんな、一風変わったキャリアを歩んできた男がいる。『さわれる検索』に代表されるテクニカルなクリエイティブを得意とする会社AID-DCC Inc.のエンジニア、鍛治屋敷圭昭氏その人だ。
広告代理店在籍時は、当時日本でもほとんど前例のなかったTwitterを使った広告キャンペーンの立案にかかわり、SNS施策のパイオニアでもあったという鍛治屋敷氏。プロデューサーとして、順調に実績を積んでいた彼は、なぜエンジニアへの転向を決意したのだろうか?
鍛治屋敷氏のキャリア遍歴から、クリエイターにとっての「働きがい」や、広告業界におけるエンジニアの役割の変化を紐解きたい。
現場から離れることに物足りなさを感じていた
鍛治屋敷氏は早稲田大学理工学部機械工学科を卒業後、広告代理店の株式会社大広へ入社。入社後はマーケティング部へと配属されたが、そこまでの進路選択はどちらかというと「受け身の姿勢」だったという。
「機械工学科の卒業生の多くは自動車や航空関係の仕事やロボット開発の道に推薦で進む人がほとんどでした。でも、僕はあまり成績がいい方ではなくて、推薦をもらえなかったんです(笑)。それで、就職活動しなきゃということで業界情報誌を読みあさり、広告の仕事がなんだか面白そうだな、と思い応募しました」
一度は理系の道からドロップアウトした鍛治屋敷氏だが、マーケティング部としての仕事に励むかたわら、趣味としてIT関連の情報には常に触れていたという。
32歳で“転身”を決断した鍛治屋敷氏。「勉強する熱意さえあれば年齢は関係ない」と語る
「もともとインターネットがすごく好きで、Twitterも黎明期のころからヘビーユーザーでした。だから、仕事とは関係なく、Webサービスの仕組みとかプログラミングについての情報を収集して、JavaScriptやC言語をかじり始めるようになりました」
そんな中、当時では画期的だったSNSを活用した広告プロジェクトを立ち上げることになる。
「大手酒類メーカーさんの商品キャンペーンでTwitterを使った施策の立案にかかわりました。商品についてのTweetがサイト上でまとめて見ることができるサイトです。2010年3月にスタートしたのですが、国内の大手企業がTwitterを本格的にPR施策に使った初めての事例で、以降のSNS施策のベンチマークとなったような企画でした」
その功績が認められ、マーケティング担当からディレクター職へ転属。さらに実績を重ね、プロデューサーとしてプロジェクトを任されるようになっていく。
しかし、順調なステップを踏めば踏むほど、鍛治屋敷氏はエンジニアへの転職を考えるようになっていったという。その理由について、「あくまで個人的な感覚ですが」という前置きのもと、こう語った。
「マーケティング部のころから、薄々ですがプロジェクトに直接かかわれていないという感覚がありました。打ち上げでエンジニアの人たちが、『やばかったけど、何とかなったね。お疲れ!』ってハイタッチしているのを少し離れたところで見ながら、『あの輪に入りたいなあ』って思ってましたからね(笑)。
それで、もっと制作現場に近いディレクター職への転属を自ら希望したのですが、それでも実際に手を動かすのは僕らが依頼をする制作プロダクションの人ですし、プロデューサーになると、もっと現場から遠くなってしまいます。そんな状態に物足りなさを感じていました」
「広告で現実を作る時代」だからこそ高まるエンジニアの重要性
そして2014年2月、一念発起した鍛治屋敷氏は広告代理店を辞め、エンジニアとしてAID-DCC Inc.へと入社。転職後、エンジニアとしての最初の仕事はWebアプリ開発だった。
驚くことに、入社3日目でプレゼン用のモックアップ制作を任され、最終的な納品まで担当することになったという。
「大塚製薬による特製のポカリスエットの缶を月へ持っていく『LUNAR DREAM CAPSULE PROJECT(ルナドリームカプセルプロジェクト)』の一環でリリースされるWebアプリの開発がエンジニアとしての最初の仕事でした。まだWebサイトすらまともに作ったことがなかったので、本当に自分でできるのか不安でしたね。
月の位置を測定する機能が必要で、手当たり次第にライブラリを調べることから始めました。先輩エンジニアにもアドバイスを頻繁に求めて何とか完成まで辿り着きましたが、ローンチ初日は生きている気がしませんでしたね(笑)。でも、達成感は今まででいちばん高かったし、『自分の求めていたのはこれだ!』と感じることができました」
その後、弊誌でも取り上げたYahoo!の『トレンドコースター』プロジェクトにも参加。立て続けに大きな案件の現場で、先輩エンジニアたちの働きぶりを目にすることはエンジニアとしての成長にも繋がったという。
「『トレンドコースター』では、自分ができそうなことには全て手を挙げていました。じゃないと、周りのレベルが高すぎて、自分のやることがなくなっちゃうので(笑)。与えられたタスクを一つ一つ調べて、検証して……と、やることは泥臭いんですけど、周りの先輩たちも同じように技術的な課題を解決しているのを目にして逆に安心したんです。
というのも、前職時代は『エンジニアはみんなPCに向かったらパパっとコードを書けちゃうもの』と思い込んでいましたからね。泥臭いやり方なら、自分でもできるかもって自信にもつながりました。あとは、先輩たちが実際に書いたコードを見て、いろいろ吸収できるのもエンジニアとして現場に入ったからこそ経験できることですよね」
新たなステップを踏み始めた鍛治屋敷氏。最後に、さまざまな立場で長年広告業界に携わってきた中で、広告とテクノロジーの関係性の変化をどのように感じているか聞いてみた。
テクノロジーを用いたプロダクションとして有名な『Nike+』はランニングのスタイルに新しい価値観を生み出した
「テクノロジーは、マーケティングにおいてとても存在感を増してきています。以前、クラーク・コキッチという広告業界の重鎮がそうした文脈の中で『今まで広告は人の認識を変えてきた。これからは人の現実を変えることが重要になってくる』と話していました。
テクノロジーを用いることで、従来よりも人の現実に影響を与えやすくなってきています。有名な事例だと、ナイキは『Nike+』で最新のテクノロジーを使ったプロダクトとそれが実現する新しいライフスタイルを提示し、人の運動習慣を変えました」
こうした時流もあってか、クライアント側も「新しい現実」を生み出すためにテクノロジーを用いたデジタル施策、ひいてはプロダクト開発を求めるようになってきているという。
「シリコンバレーを中心にエンジニアのCEOが増えてきているように、広告業界のプロデューサーをエンジニアが務める機会が増えてくるかもしれません。それぐらい、エンジニアの重要性が高まっているのは事実です。僕自身も作り手として技術力をもっと高め、いつか『新しい現実』を生み出すことを目標に精進していきたいです」
取材・文・撮影/長瀬光弘(東京ピストル)
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