最近、個人的に面白いと感じているのが(以下、例)
ネットだと怖いと思ってたのに「実際に会うとそんなことないですね」と言われる
この「実際に会うと~」というくだり。
結構いろいろなブログで書いてるのを見かけるテンプレート。
「この前のオフ会で~」「ボクを知っている友だちは~」「変なひと」「怖いひと」
表現はいろいろ。
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ちなみに以前もどっかで同じように、かなりこじらせてる人物が「リアルで僕に会った人に「ぜんぜん思っていたのと違う」と言われた」だとか聞かれもしないのに書いていて、なぜかは知らないけれど「現実のオレって好青年なんです」よアピールを行うのって面白い。
「本当の(現実の、実際の)自分」とよく言うけど、それってなんだろ?
ネットで誤解されやすい
photo by A Hobo Dancing Barefoot
ネットは、言葉に偏重してる。
言葉で判断されることが多い。
外観や声質、社会的地位、経歴、出身、年齢、ファッション。
現実で影響を与えるそれらの情報が欠落し、言葉によるイメージで作り上げられるのがネット上の匿名の「自分」*1
だから
「たかがそんなことで何が裁判じゃ!やりたかったらやってみろや!くそが!!」
と書くひとと、
「すっかり春めいてまいりました。せっかくお花見だと言うのに週末雨なんて残念ですね」
と書くひとと。
ネット上の印象は異なる。
前者だと言葉だけで「あの人こわい!」と思われる。
後者だと言葉だけで「マジメなひと」と思われる。
判断をするには、言葉しかない。
容姿もなにも探るための情報がない。
でも当たり前なんですよ。
現実だって
「なにが空気読めじゃ!訴えるぞ!!!」
と叫んだらこわがられるに決まってる。
KYなことをすればKYなヤツと思われる。
見た目がどうあれ。
「ネットだと誤解されやすいんですよーww」
と言うのはそういう言葉が残るから。
現実は言ったらその相手にしか届かないもの。
「実際に会ったら怖くなかった」のは、会ったひとに対して何の害意もないからじゃね?
KYなことをせず、怒鳴らず、訴えなかったし、嫌がらせしなかったからじゃね???
印象は行為に影響される。
至極当たり前。
断片が全て
年がら年中365日周囲にいる人間全員に怒ってる人なんていない。
ネットで強い言葉を使うからって現実で周囲に怒りまくっているわけでもない。
怖いって思われるのはそういうことじゃあない。
怖いか怖くないかは自分じゃなく他人が客観的に判断する。
「ボクはこわくないんですよー」
「ボクは変じゃないですよー」
それをアピールするのは筋が悪い。
幾ら否定しようが客観的な評価は素直。
怖いって思われるようなことをやってそう思われてんだから。
実際の自分は違うとかどーとかそうじゃないわな。
なんか「以前に俳優の〇〇に似てるって言われたんだよねー」感。
現実で誰かに怒鳴ったとする。
怒鳴った相手には怖いと思われる。
それが「本当の自分とは違う」ってのはおかしい。
それも含めて、すべて自分。
現実なら自分に繋がってるから自覚しやすいけれども。
自分ってのは一つじゃなくさまざまな要素を積み上げて出来上がってる。
多面的な側面(ペルソナ)を複合で持つのが「自分」
ずーっとフラットにあらゆる面が同じ「自分」じゃない。
自分にとって「自分」は地続きでも、他人からすれば断片が全て。
だからネット上で怖いと思われるようなアピールをしてしまう傾向があっても。
それもまたほんとうの「自分」。
誰かの思う誰かの中の「自分」とは、その誰かの数だけ存在する。
そしてそれらは自分の中の「自分」とは異なる。
もし大多数の誰かの中の「自分」と自分の中の「自分」が大きく異なっているとすれば、果たしてどちらが「本当の自分」なんですかね??
自分
自分とは何か?なんてしょーもないですが。
自分が思う「自分」と人が思う「自分」が違うなんて当たり前。
ネットであれ現実であれ、言葉や容姿、さまざまなツールで「自分」を周囲にアピールしている。
アピールした自分が周囲にとっての「自分」ですから。
「ボクはこわいとは言われません」と書いてるその行動が怖いんだってw
そりゃ、粘着質に嫌がらせしたりしてるひとがいれば、その行為をひっくるめて判断されて「あのひと、ちょっと頭……」って思われるのは自然。
だって本当のことだもの。
否定すればするほどその否定の仕方が狂っ(割愛
あ、念のために言っておきますがこんな感じでブログを書いてますが、実際に会ったらあまりの好青年で惚rtNjg5SFOISDVLJNVNIAjspdAd
*1:実名を名乗り写真を出し経歴を出してるひとはその影響(バイアス、ハロー効果)をネットの自分にもステータスとして加えてる