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シーナ&ロケッツのシーナ永眠、ロック狂の家出少女が貫いた人生

最期までロックンロールを貫いた女性、シーナ ─享年61歳

2015年2月14日、日本ロック界のレジェンド、シーナ&ロケッツのボーカル、シーナが亡くなった。
突然の訃報だった。 子宮頸がん?知らなかった。61歳という若さだった。

驚いたのは61歳という年齢だ。もっと若いというイメージだったから。
私が観たのは2013年のフジロックフェスティバルでのステージが最後になってしまった。

深夜のレッドマーキーで魅せてくれたパワフルな歌声、パンツが見えそうなほどの超ミニスカートにスパンコールのド派手な衣装。シーナの登場と共に歓声が湧き起こる。艶めかしくコケティッシュなボーカルと、夫であり同バンドのギタリストである鮎川誠さんの、マーシャル直結1969年製ブラック・レスポール・サウンドが絡みあう、ダイナミックなステージ。

年齢などみじんも感じさせない魅力に満ちた人だった。
だいたいその年齢で本気でロックンロールやってる女性が他にいるか?
彼女は本物だった。

あんなにロックンロールで躍らせてくれたのに…。

ここで少しシナロケを知らない人のために補足を

1970年代後半、日本ロック界の黎明期に多大な足跡を残し、今もなお活躍を続けるバンド「シーナ&ロケッツ」。 1978年に「涙のハイウェイ」でデビュー。エルヴィス・コステロの前座が初ステージ。

それから37年、バンド活動には一切のブランクがなく、日々積極的に全国各地でライブ・ツアーを行い、数々のイベントやロックフェスに出演。国内・海外の様々なアーティストとの交流も深く、元Dr.フィールグッドのウィルコ・ジョンソンとはプライベートでの親交も深いことがよく知られている。

「彼女は本物だ」と表現したけれど、何をもって本物なのか?
正直言って別に歌がうまいわけでも、取り立てて美人なわけでもない。
そういうことじゃないんだ、ロックンロールって。

彼女は、シーナと夫である鮎川誠さんは、筋金入りのロックフリークだった。

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家出少女だったシーナ、そのロック人生の始まり

夫の鮎川誠さんはブルースロックバンド「サンハウス」のギタリストだった。
1970年代、福岡市を中心に勃興した、いわゆるめんたいロックの草分けの一人である。

家庭が貧しかったため奨学金を貰って大学に通いつつ、福岡市内のダンスホールでハコバン(専属バンド)生活を送っていた。父親がアメリカ人で母親が日本人のハーフ。父はアメリカ軍の軍人だが、会ったことはない。音楽活動の傍ら、生活のためモデルの仕事をしていた時期もある。

小学校高学年の頃から、久留米の「小川レコード店」の試聴コーナーに入りびたり、レイ・チャールズ、エルヴィス・プレスリー、リトル・リチャードに夢中になる。
高校時代はビートルズ、ローリング・ストーンズ、そしてマディ・ウォーターズなどのブルースを聴きまくる。ロックンロールの源であるブルースを深く掘り下げたい、ブルースをもっと知りたい、聴きたい、演奏してみたい、という仲間で結成されたのがサンハウスというバンドだった。

シーナもまだ小学生のうちから、違う街の商店街にあるレコード屋に入り浸っていた。離れた街で暮らしていたけれど、音楽が大好きで、音楽にはものすごい深い思い入れがあったふたり。そんなふたりが出逢って一瞬で惹かれあったのは当然のことのように思う。

中学の頃から家出を繰り返していたシーナだったが、1971年、高校三年生の夏、家出して京都に行った帰りに寄った福岡市のダンスホールで「サンハウス」の演奏を聴く。

ロック大好き少女だったシーナ。輸入盤でしかないレコードの曲をもう演奏していたサンハウス鮎川に「あれ演っとったね」と話しかけた。 鮎川によると、そんなに詳しい音楽の話ができる人はダンスホールでもなかなか出会わなかったそうだ。

「若い子から“いいじゃない”とか言われてね、“友達になりましょう”まで言われて、“おう、なろうなろう”ゆうてね。で、一緒に暮らしだしたんよ。(鮎川)」

博多の中洲の近く、バンドマンばかり住んでいるアパートの3畳間を借り、すぐ一緒に暮らし始めた。家賃は2,800円。

4年目に双子を妊娠、ふたりは結婚した。

60年代イギリスやアメリカのカウンターカルチャーの影響、そして日本語ロックの誕生

それまでロックやブルースのカバー曲を狭いダンスホールで演奏していた彼らだったが、時代は、世界や東京から違う風が吹いて来ていた。 『ウッドストック』という野外ロックフェスを記録した映画は、当時の音楽ファンに大きな衝撃をもたらした。

岡林信康や高田渡、細野晴臣の「はっぴいえんど」など、これまでとは全く異なる音楽が登場した。自作の曲を自分で歌う。ブルースの旋律に自分の思いを乗せる。日本語ロック誕生の時代だった。みんな自分の音楽をやっている…サンハウスも自分たちの曲を作り博多で頑張った。

そのとき、一番応援してくれよったのがシーナだった、と鮎川はいう。
シーナのお陰で僕は自分の音楽を信じて、気持ちよく突き進むことができた、と。

のちにシーナ&ロケッツの代表曲にもなる「レモンティー」と、めんたいロックの盟友「ルースターズ」。

“お前らなんしとっか!”シーナの親父が怒鳴り込んでくる─シナロケ誕生

サンハウスは75年に『有頂天』というアルバムでデビューした。
福岡で音楽を発信できればみんな仲間と一緒で最高だった。

のちにブームがあって、ファンの理解も大きくなって、東京発信ばかりがロックじゃねえみたいな機運も高まってきて、ツアーもやれてたけれど、熱が冷めると77年くらいからは動員も減ってきた。

「僕はシーナと一緒に暮らしてたけれど親父が怒鳴り込んできてね。“お前らなんしとっか! ちゃんと結婚するならしろ”とかゆうて。子供も出来て、結婚式挙げて。(鮎川)」

その後メンバーは家庭の事情でひとり抜けふたり抜けしていった。

鮎川はシーナの父親に「東京で勝負して来い。続けるか続けんか、はっきりせんと。田舎におればみんな友達やし、ちっとくらい名前も知られとろうけど、それで娘を幸せにはできんばい。腹いっぱい音楽をやって来い。」と、ケツを叩かれ、単身で上京するとこになる。

「サンハウス」は5年間活動した後、78年をもって解散することになった。

その後、福岡に残り、上の空だったシーナを見かねた父親が「双子はみよっちゃるから行ってこい」と後押し(なんていい親父なんだ…!)し、シーナも上京。

「その時レコーディングしてた曲に、シーナがアイデア出したりして。話をしよったらその歌手が“シーナの方がこの歌似合うんじゃない”って。そのときシーナは歌手でもなんでもないのにね。その曲をシーナの歌で『涙のハイウェイ』ちゅう曲に仕上げた。 なんちゅうかレコーディングのハイジャックみたいな(笑)。(鮎川)」

「バンド・メンバーは、どんな音楽でもこだわりなく演ってくれる人じゃ物足らんのよ。博多では“これしかねえ”とかゆうてやりよる奴らとやりよったけえ、いろんなもんがやれる人が急にパンクなドラム演られても不信感があってさ。(鮎川)」

ウィルコ・ジョンソンやプリティ・シングス、キンクス、ストーンズ、ビートルズなど、イギリスのブリティッシュビート、それに加えて、アメリカのブルースちゅうものを、ツーカーで話せる仲間としか一緒に音楽はできないと思っていた。 だから、元サンハウスの仲間に声をかけて、同じビジョン、ルーツ持ったメンバー4人で演りたい、と「シーナ&ロケッツ」を始めた。

「そうした仲間でないと、自分たちの音楽は表現できない。上手さを発表するのは決してロックじゃなくて、4人が「一つの人間」に聴こえるような、つまり、ボーカルとボーカルを支えるものが1つの音楽を作り出す、それがロックバンドなんです。(鮎川)」

これがバンド結成の物語だ。

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ただの音楽好きの家出少女が、なぜここまで愛されるロックシンガーになったのか?

「歌いたい。」

ただそれだけ。
ただ、好きな音楽と向き合って、夢中でやって来た。

「僕は痺れまくりだった、シーナの歌に。どうしてここで、こんな声を出したんだろうとか。ちょっと巻き舌を入れたりとか。僕のソロの一番いいところに「ギャーオッ!」って入れたり。そんなの誰かが教えたり、「もう一度」という世界じゃないんです。(鮎川)」

ロックンロールやロックバンドは、生き物だ。
生きた音で遊ぶこと、ぶつかり合うことが何より楽しい、それがロックだ。毎日、姿を変えていいし、上手にできなくてもいい。決して上手さを発表することがロックなんかじゃない。ロックを楽しむ心が伝えられれば、それでいい。
シーナは、それを本能で伝えていた。

ファンもそれを感じていた。
ステージの上、年齢なんて関係ない、ロックが本当に好きで、ロックやってる。それは、世代を超える。
パワフルに歌い叫び踊り笑うシーナをみていて、ロックンロールって本当に自由に楽しむものだと心から感じた。

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病魔に侵されても、最後の最後までロックンロール少女「シーナ」だった

そんなシーナが体調を崩したのは、昨年7月初めのことだったそうだ。
詳しく検査すると、がんが進行し末期だと宣告を受けた。
主治医は抗がん剤や放射線治療を強く勧めたけど、本人は決してそれを受け入れようとはしなかった。

しかも最後の最後まで、家族とバンドメンバー以外はシーナの病気のことを誰も知らなかった。「せっかく来てくれるファンが、楽しめんようになるから。それに、心配されながら歌いたいとも思わんし」というシーナの意向だった。

シーナは迷わず治療よりもロックを選んだのだ。

昨年7月には、18枚目のアルバム『ROKKET RIDE』をリリースした。8年間かけ満を持して作った、自分の子どものような、魂の12曲が入っている。その出来栄えをシーナはとても気に入っていたそう。
9月13日には病を押して、日比谷野外大音楽堂で35周年ライブを行い、シーナはいつも以上のパワフルさで歌った。

イギリスのパブロックシーンをけん引し、のちのパンクロックに多大な影響を与えた偉大なギタリストで、何度もセッションをした盟友に、元Dr.フィールグッドのウィルコ・ジョンソンがいる。ウィルコは、がんで余命1年と言われていたが、音楽活動を続けながら1年以上生き、そしてなんとガンを克服、復活することができた。このことも支えの一つとなったんだろう。

ちなみに、日本にはがんになったら障害年金が受け取れる制度というものがある。
障害年金は社会保険労務士に依頼することで申請しやすくなるそうだ。

2013年、南青山レッドシューズでセッションしたウィルコとシーナ&ロケッツの映像がこちら。

ロック界きってのおしどり夫婦

鮎川は、シーナなら必ず治ると信じていた。
しかし、病魔はシーナのパワーを上回る勢いで襲ってきた。
最後のステージは11月23日、痛さでもう立てなくて、でも座りながらでも歌っていた。

そして、2月14日、明け方4時47分、静かに息を引き取った。

最後は家族が手を握り、35年分の音楽を聴かせていた。
そして彼は抱きしめ顔をすり寄せながら、「『ROKKET RIDE』はシーナと俺の歌だ。最高の歌を歌ってくれてありがとう。2人の愛は永遠だぜ」と叫んでいた。

亡くなった後、あるファンの人が雑誌の記事の一部分を写真に撮ってツイートしていた。
1982年の雑誌のインタビュー記事で「死ぬ場所を選べるとしたらどこにしますか」という問いだった。
シーナは自分の希望をこう答えていた。

「彼のうでの中」

シーナの希望通りの最期になったのだ。夢が叶ったってことか。

ロックは自由、人はみんなそれぞれ違うからこそ、みんないい

以下、鮎川誠さんがシーナの葬儀直後に語ったインタビューを引用した。

「ロックちゅう音楽は、世界に1人しかいない人間の集合体で盛り上がるもの。寝転んだり酒飲んだり、あるいはタバコを吸いながら、1人で、みんなで、自由な方法で楽しむ。みんな人はそれぞれ違う。シーナも僕もそういうロックンロールに夢中になっていたから、病気との闘い方もこれでいいと思いました。人はみんなそれぞれ違うからこそ、みんないいんだ。それがロックのメッセージ。歌いたい限りは歌う。ロックを何より愛していたシーナの選択を、僕は尊重した。」

「シーナと出会ってから44年、『シーナ&ロケッツ』を結成してからは37年。常に一緒にいたし、そのほとんどはロックに関わることばかりだった。シーナと僕の音楽性は一致していたし、だからロック一筋の幸せな時間を、これまで堪能することができた。」

「朝から晩まで、シーナと出会ってからこれまで、ずっと一緒にいつもロックに向き合って来た。それができたのは、素晴らしいシンガーであるシーナがいてくれたから。ある意味、凄く幸せなことだった。」

はっきり言ってシンガーとして素晴らしい人なんて他にもたくさんいるだろう。
でも、本当に素晴らしいたましいをもったロックシンガーは、そういない。

筋金入りのロックフリークだったシーナ。朝から晩まで好きなロックをやり続け、ロックの魂を体現したシーナ。好きなことを思いっきりやって思いっきり生き、大好きな彼の腕の中で死んでいったシーナ。
ほんとうのところなんてシーナ本人にしかわからないけど、幸せに生きて幸せに死ねるって、こんな素晴らしい人生が他にあるだろうか。

私は、シーナにロックの真髄を教えてもらった気がする。

あぁ やりたくないことやってる暇はねぇな。
好きなことやるのだって大変なんだから。
シーナのように生きて、シーナのように死にたい。

ありがとう、シーナ。

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出典
シーナ&ザ・ロケッツ – Wikipedia
鮎川誠 – Wikipedia
シーナ&ロケッツ スペシャルインタビュー[チケットぴあ|チケット情報・販売]
シーナ&ロケッツ・鮎川誠が葬儀直後に語った「シーナと俺」の物語 音楽――そして愛

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