「The Economist」

戦後70年、安倍首相の談話はいかなるものになるのか

記憶にも記録にも残されない東京空襲

>>バックナンバー

2015年3月13日(金)

1/2ページ

印刷ページ

 東京で眠りについていた多くの人々に米国の爆撃機B-29の爆音は聞こえていなかった。「東京大空襲」に関する数々の作品を発表してきた作家、早乙女勝元氏が父親に揺り起こされたとき、彼の住む下町はすでに火の海だった。水路に逃げることもできなかった。焼夷弾に注入されたゼリー状の油が水面までも炎に包んでいたからだ。火の粉は、ひとたび人の身体にふりかかると骨まで焼き尽くした、と早乙女氏は語る。

 東京を見舞った大空襲からもうすぐ満70年となる。早乙女氏は現在83歳だ。1945年の3月9〜10日にかけてのたった一晩に約10万人が命を奪われた。戦況が悪化の一途をたどるなか多くの男性が兵隊にとられており、亡くなった人たちの大半は女性や子ども、そして老人だった。

 この晩の大空襲で死亡した人の数は同年8月6日に広島に落とされた原爆による死者数には及ばなかったが、その3日後に長崎を襲った原爆による死者数を上回るものだった。米軍による空襲の標的となったのは首都・東京だけではない。1944年11月から1945年8月の間に70近い都市が瓦礫と化し、約30万人が殺された。ほとんどが民間人だ。日本への空襲は欧州で展開されたどんな軍事作戦よりも破壊的な結果をもたらした。

犠牲者を悼む声が上がらない

 東京大空襲の1カ月前には英国がドイツのドレスデンを空襲し、欧州社会には懸念が広がっていた。だが未曾有の規模で日本の民間人を狙い殺害することについて、連合軍諸国は嫌悪感をほとんど抱かなかった。

 今日でさえ東京大空襲は奇妙なほど話題に上らない。ドレスデン爆撃から70年となった2月には欧州中で追悼が行われたが、東京には大空襲を悼むため公費で建てられた資料館すら存在しない。そして空襲70年に行動を起こすと見られているのは早乙女氏をはじめとする一握りの人たちだけだ。

 犠牲者の名前を文書に記録しようとする政府の試みは2009年にようやく始まったが、今でも完成を見ていない。ただ、横網町公園の片隅には犠牲者を偲ぶ碑が建ち、その隣にある慰霊堂には何千人もの遺骨がまとめて納められている(この公園は1923年に発生した関東大震災、およびそれに伴う火災による死者を悼むものでもある)。


関連記事

コメント

参考度
お薦め度
投票結果

コメントを書く

コメント[0件]

記事を探す

読みましたか〜読者注目の記事