生命と将棋(仮)(7−1)

そもそもは『なめらかな社会とその敵』(以下『なめ敵』)という本を読んだのが、このエッセイ(?)の最初でした。
そのテーマや「敵と味方の区別」の話が将棋と共通するように思えたからです。

『なめ敵』は社会システムを扱った本で、僕も将棋とは無関係に読みはじめました。ところが、この本の最初に提示された「社会システムを生物学的起源から説き起こす」という部分を読んで、これは将棋にも通じると感じました。
そして読み進めるうちに、将棋を生命論やシステム理論(というほど理解してるわけがないんですが)の視点から考察するという考えに魅了されていきました。

将棋はチャトランガ系のゲームで、チャトランガの起源は戦争のモデル化です。
そして戦争は社会システムのひとつだと言えます。
だとすれば、将棋を生命論やシステム理論から考えることも可能かもしれない。
僕は『なめ敵』といくつかの類似した考察しか知らない素人ですが、このこと自体はそんなに荒唐無稽ではないと思えました。

もちろん将棋は生命ではありません。しかし将棋に関して生命の比喩が多いのも事実です。
対局を命のやりとりのように感じたり、棋譜を物語やダイアローグとみなしたり、歩を「皮膚」に見立てたり、戦術の興亡を病とワクチンの関係に置き換えたり、指し手の評価を「味」で表現したり……無生物の将棋に対して豊富な生命の比喩があることは特徴的なことだと思います。

将棋と生命は似ているのはなぜか。どこで接近して、どこですれ違うのだろう。

それを『なめ敵』の構想(といっても最初の一部分だけですが)にそって考えようとしたのが、今回の考察です。

■将棋を生命システムから見る

将棋との関係を考える前にまず、その『なめ敵』の最初の考察を紹介します。
『なめ敵』は「社会システムを生物学的起源から説き起こす」ためにある理論を下敷きにしています。僕にはそこが、もっとも将棋に関係があると思えました。また将棋そのものが戦争とそのモデル化というふたつの過程を経たシステムなので、「社会システムを生物学的起源から説き起こす」ことが可能なら、この視点は将棋にも十分応用することができるはずです。

まず『なめ敵』では、社会システムを生物学的起源から描く際に、私的所有の概念に焦点を当てています。
(その様子が著者たちの手で「私的所有の生物学的起源」という動画に編集されています。長さは5分程度ですが、僕が説明するよりずっとわかりやすいです。)
そこでは私たちの所有感覚が、起源をたどれば細胞の誕生に由来するものだとされています。細胞膜による物質の囲い込みと、核による個体全体の制御のふたつがその要点となります。

そして細胞の誕生から、単細胞生物を経て多細胞生物になり、神経組織や免疫システム、自己意識や社会を形成していく間に、「細胞膜」や「核」にあたる機能が形を変えて繰り返しあらわれる様を概観していきます。
著者は前者を【膜】の現象と呼びます。資源の【囲い込み】や組織の【メンバーシップ】の決定などがその主な機能です。後者は【核】の現象と呼び、細胞におけるDNAや組織における中央集権のように、小自由度が大自由度を【制御】することがその機能とされています。
例をあげると、「神経系は【身体の制御】の生物学的起源」にあたり、「ミラーニューロンや共感を司る島皮質などは、【他者の所有感覚】の生物学的起源」であるといった具合です。膜と核の反復を考察する対象は駆け足ながら、他者の心を類推する「心の理論」や、国境と王、社会契約との関係にまで及びます。

このようにして生命史を概観すると、内部と外部を分離する【膜】と、小自由度で大自由度を制御する【核】が、繰り返し登場していることがわかる。最初は単細胞レベルで、そして多細胞レベル、他者レベル、社会レベルと、この構造は反復的に起きている。(鈴木健『なめらかな社会とその敵』p18)

ここで大事なことは、【膜】と【核】の現象を生みだしているのは背景にある複雑な反応のネットワークだという事実です。(細胞でいえば化学反応にあたります。)著者はこのネットワークを【網】の現象と呼んでいます。

【膜】【核】【網】、この三つの現象を認識することが『なめ敵』の考察の前提になっています。

僕はこの三つの現象が、ほとんど将棋にもあてはまると思いました。
【膜】は先手と後手が対立している事実に現れているし、【核】は盤上であれば王将の存在が、ゲーム全体としては両対局者の存在がそれです。そして【網】は駒が互いの間を行き来する様にあたると思いました。

『なめ敵』では膜が反復的に現れる現象を考察するために、「オートポイエーシス」というシステム理論を援用しています。

膜が反復的に現れる様は、普遍的なシステム理論の存在を予感させる。サンベルト・マトゥラーナ(生物学)とフランシスコ・ヴァレラ(生物学)が提唱したオートポイエーシスは、膜的なものの生成と自己維持の記述を試みようとしたシステム理論である。(前掲書p20)

そして今回将棋と生命の接点について考えるために使う理論も、この「オートポイエーシス」になります。

(続)

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