02242015Headline:

ベン・メイブリー:チェルシーが繰り返すべきではない過ち

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ポール・カノヴィルという20歳のウイングが、チェルシーでプレーした初の黒人選手となったのは1982年のことだ。デビュー戦はセルハースト・パークでの2部リーグの試合だったが、最悪の理由で記憶に残る試合となってしまった。カノヴィルがウォームアップを開始するためベンチから立ち上がると、スタンドから「座っとけ、黒人野郎」と叫び声が浴びせられた。観客の一団は声を合わせて「ニガーはいらない、ニガーはいらない、ララララ」と歌い始め、バナナが投げ入れられた。

何より困ったことに、これらはクリスタル・パレスのサポーターの行動ではなかった。下劣な人種差別行為が行われていたのはアウェー側の観客席。カノヴィルとチームメートたちを応援するためにチェルシーのファンがいるはずの場所だった。

ショックに麻痺したカノヴィルが取った行動は、心の傷を抑え付けることだった。問題など何もないかのようなふりをしたがる周囲の空気の中で、おそらくそれが唯一の対処法だった。ある試合のあと、彼は帰宅後に興奮したふりをして、自分が決めた先制点の様子を次々と友人たちに伝えたことがあった。チェルシーファンは黒人選手によるゴールを認めず、彼らにとってはスコアはまだ0-0だと叫び声を上げていたが、カノヴィルは意図的にその部分を話から省いていた。

容赦のない侮辱が2年間にわたって継続されたあと、大ロンドン参事会の民族的少数派ユニットに属するヘルマン・オウスリー氏がチェルシーのケン・ベイツ会長を訪問し、この悪行を根絶するため共同して取り組むことを提案した。オウスリー氏は後に『ガーディアン』で次のように振り返っている。「彼(ベイツ)はクラブには何の問題もないと述べ、警備担当者に私を外まで送らせましょうと言いました。敷地を出るまで2人の巨漢が私に付き添ってましたよ」

1986年にはプレシーズン中に酔っ払ったチームメートがカノヴィルと喧嘩し、彼を「黒人野郎」と罵った。この一件だけではなかったが、これが最後の一押しとなった。チェルシーは3部降格を免れたあと2部で優勝を果たす助けとなった選手が犠牲になるのを救おうとはせず、彼に5万ポンドでのレディング移籍を受け入れるよう勧めた。

視界にも入らず、意識にも入らず。人種差別とその黙認は何の話題にもならなかった。誰もそのことについて話したいとは思わなかったからだ。それが当時のイングランドサッカー界の風潮だった。

2015年になり、カノヴィルは再びチェルシーの一員となった。OBチームでプレーすることもあるが、より重要なのは、クラブの「ビルディング・ブリッジス」活動に参加していることだ。現在52歳となった彼は地域の学校を回って反差別ワークショップを開催し、自身の経験について話をすることで、人種差別が絶対に受け入れられないことであると現代の子供たちに知ってもらおうとしている。

チェルシーも積極的に「Kick It Out」や「Show Racism the Red Card」をサポートしている。前者はサッカー界から人種差別を撲滅するため、後に貴族に叙せられたオウスリー卿が1993年に設立した組織。後者は教育活動を通してメッセージを広めるため1996年に設立されたチャリティ団体だ。「ビルディング・ブリッジス」の活動の一環として、スタンフォード・ブリッジでの試合の前には、スタジアムの電光掲示板に平等を訴えるビデオと反差別のメッセージが流される。以前からの計画により、先週土曜日のホームでのバーンリー戦は、特に「平等のための試合」に指定されていた。

「ビルディング・ブリッジス」のロゴが、チェルシーの選手たちのユニフォームに飾られた形で描かれた。またクラブ公式ウェブサイトには、「チェルシーを応援、平等を応援」のスローガンのもとに、人種差別や同性愛差別、性差別などあらゆる形の差別に反対する特集ページが設置された。その記事の中の一つは、「サッカーに限らず、より広範なコミュニティにおけるあらゆる差別」を根絶することについてのFWジエゴ・コスタへのインタビューだった。ブラジル生まれのスペイン代表ストライカーは、イングランドのトップクラブの一角としてブルーズが果たすべき責任について、「チェルシーはサッカーにおける平等の模範例を示すことができる」と述べている。

チェルシーの行ってきた活動は素晴らしいものだが、チェルシーだけのものでもない。これまでの四半世紀にわたって、あらゆるクラブがそれぞれの貢献を果たし、劇的なパラダイムシフトを実現させてきた。それが英国フットボールの今日の姿だ。

だが、そうであるからこそ、例の事件には本当に身の毛のよだつような思いだった。チャンピオンズリーグでのパリ・サンジェルマンとのアウェーゲームの前に、チェルシーの「サポーター」だとされる数人のグループが地下鉄構内で行った醜く卑しい行為のことだ。ジエゴ・コスタのインタビューが掲載されたまさにその日のことだった。1980年代に何気なく人種差別行為を行った者たちの多くがしていた定番の言い訳は、自分たちはただ群衆の中でみんなと同じことをしていただけだ、というものだったが、差別がタブーであると厳密に教えられた現代社会の中ではもはや通用するものではない(仮に当時通用していたとしても)。

被害者に対しては強い同情の声、加害者らに対しては非難の声が巻き起こり、一部のマイノリティの行動はチェルシーサポーターの総意でも英国サッカー界全体の総意でもないことが強調された。「話を聞いて恥ずべきことだと感じたが、あのサポーターたちはクラブの代表ではない」とジョゼ・モウリーニョもバーンリー戦の前に話していた。だが同時に、いかに小さなマイノリティであろうとも、2015年の現代にこういった差別主義者たちが存在しているということに深い悲しみも感じざるを得ない。

フーリガニズムと同じく、サッカーにおける人種差別はサッカーによって引き起こされた社会問題ではなく、より根深い社会問題がサッカーを手軽な舞台として表面化したものだ。1980年代の英国ではマーガレット・サッチャーの保守政権下で壮絶なまでに貧富の差が広がっており、労働組合と争う政府はサッカー観戦に訪れるような層を嘲笑していた。そういった緊張関係が形になって現れたというのが、このサッカー史上最も不快な時代の多くのスタジアムで見られた卑劣な差別や暴力の根本的原因の一つだった。極右政党の国民戦線は「チェルシー・ヘッドハンターズ」なども含めた多くのフーリガングループに入り込み、ビラを配布したり、カノヴィルのような黒人選手たちが受けることになる扱いを主導したりしていた。

サッカーにはこういった社会問題を表面化させる力があるということを理解し、それを別の方向へ向けることが可能だと認識できたのはイングランドサッカー界の大きな功績だった。1990年代以来、サッカーはその影響力を活用して、社会全体に根ざす人種差別を抑え込む上での主導的役割を果たしてきた。だが、スタン・コリーモアが『ガーディアン』で2012年に警告したように、我々はすでにその戦いに勝利したと油断してしまっていたのかもしれない。現在の人種差別主義者たちは、過去に囚われた中年のスキンヘッドたちの小さな一団だけではない、と彼は述べている。「彼らの年齢やバックグラウンドは様々で、東欧の人々がやって来たことで職を奪われたと考えている者が多い。父親世代が黒人やアジア人に関して言っていたのと同じことだ。不景気の中では極右的な思想や主義が前面に出てくる傾向があるものだ」

確かに、経済の状況は1980年代と共通する部分もある。政治的には、3つの主要政党がいずれも国民から十分な信頼を得られていないことで、イギリス独立党(UKIP)が急速に支持を伸ばしてきた。隠れた極右である彼らは笑顔を浮かべ、いや、私たちは人種差別主義者ではないですよ、ただ隣の家にルーマニア人が住んでほしくはないだけです、と主張している。ソーシャルメディアも新たな要素だ。匿名性のおかげで、非難を恐れることなく極端な意見を述べる者も出てきている(過去にはコリーモアのような著名人に対するオンラインでの攻撃に対し、法的措置を通して加害者が特定された例もあることは明らかに見落としているが)。危険な例として、オープンな極右政党「ブリテン・ファースト」は人々がよく考える前にリツイートする傾向を利用し、一見したところ無害な一般向け内容に見える主張を拡散してきた。

当時『Goal』のコラムで書いたように、チェルシーは2年前に大きなチャンスを逃してしまったと言えそうだ。改めて明確な反人種差別のメッセージを発することよりも、クラブのキャプテンを務めるジョン・テリーの評判を重視する方を選んでしまったことだ。パトリス・エブラの件でのリヴァプールとルイス・スアレスにも同じことが言える。だが、今回は絶対に同じ過ちを繰り返してはならない。

サッカーとソーシャルメディアの力は、パリ地下鉄の加害者たちを特定して警察に伝えるという形ですでに発揮されている。イングランドのサッカー界はこの問題を通して、人種差別根絶に向けた努力を忘れるのではなく、さらに強化することに努めなければならない。

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