一連の記事がボンタイはじまって以来の反響を呼んでいる。ありがたいことだ。それもこれも俺的ゲーム速報のお蔭である。
悪意のある心無いコメントもあるようだが、これは例によって2ちゃんねるやはてなの底なし沼のようなジャーゴン世界に陥っている逆張り冷笑系「ネット原住民」の中年たちがたまたま視界に入った「自分と異なる常識を持った人間」の主義主張に脊髄反射的に反発してもんどりうっているようなものだ。
とにかく話題が広まらないことには意味がないので、結果的に冷静さや健全な感受性のあるまともな人たちに伝わり、下記のような建設的な議論が生まれたことができたということに感謝だ。(最初からこれが目的だった)
単なる若い世代と古い世代の対立論というのは感情のぶつかり合いにすぎないもので、今回のテーマはあくまで「日本社会の質に特定の世代が与える影響」である。
わかりやすく自民党で例えてみよう。
「自民党のバラマキ政策」は、日本社会にとって有害である。ふるさと創生事業も地域振興券も単なるバカな税金の無駄遣いでしかなかった。国家百年の体系を考えれば、「平成時代にやるべき政治」は旧態依然構造の改革であり、経済成長力を高めるための自由化や、税と社会保障制度の立て直しなどをするべきだ。それにまともに取り組んだ政権は小泉首相くらいだ。
池田隼人や佐藤栄作や田中角栄らは「昭和時代にやるべき政治」を実施することで、結果的に高度経済成長に成功させた。
今の安倍政権の地方創生のバラマキも結局怠惰な田舎者を甘やかすだけであり、日本が現在抱えてる課題がさらに先送りにされるという悲惨なものである。故人の池田隼人より安倍晋三の方が若いし、未来の人間だが、どっちがより優秀か、といえば明白だろう。
File:雨の日はファミコンで遊べる (15441664223).jpg - Wikimedia Commonsより引用
ただし今の自民党の政治家がいくら無能でも、彼らは政権与党の構成メンバーである。権力を持っているし、黒塗りのハイヤーで運転士が送り迎えをしてくれるし、年俸だってハンパない。地域の支援者や既得権団体からの膨大な評価や献金もある。
我々のような民間人の一般庶民に比べて「持っているもの」はいくらでもある。
世代であっても同じこと。ファミコン世代にあって平成世代にないものも当然ある。
それは、世代内における共通体験の豊富さである。
「ファミコンのマリオやドラクエ」は、ゲームとしての価値はショボくても、世代体験としてはかけがえのないものである。誰もがファミコンを持っていて、誰もが買う人気タイトルがあったというのはいいことだ。
平成初期生まれ世代の場合は、プレイステーションかゲームキューブか、ドリームキャストかというハードの違いがあり、小型ゲーム機もゲームボーイ、ワンダースワン、ネオジオといろいろあって、それぞれで出るタイトルも分散していた。
ちなみに私はPC98でゲームをやった惰性でウィンドウズパソコン用のゲームを中心にやっていたが、エレクトロニック・アーツ(旧マクシス含む)などの名だたるアメリカメーカーのゲームソフトは日本の家庭用ゲームのちゃちさとは違うワクワクする世界があった。今も楽しんでいる。
ファッションにしてもそう。ファミコン世代は、少年時代に「エアマックス狩り」を経験していたり、女性ならコギャルになったりし、この世代はこういう格好があるものだ、というものがきまっている。
しかし、若者の場合はどうか。子どもの頃、大人と同じ「ユニクロのフリース」を身にまとっていたし、いまも全世代共通のファストファッションが基本となっている。コギャルとギャルの違いがあるわけでもなく女子高生も女子大生も私服に着替えれば大した見た目の違いはなく、中年おばさんでも同じ服装をしていたりする。
ファミコン世代は「若者の街・渋谷」の全盛期を生きた人たちだ。
私が幼い頃にハチ公口に行くと、確かにすさまじい「ギラつき」があった。いまや池袋の方が活気があるぐらいだが、団塊世代にとっての銀座とか、バブル世代の六本木とか、そういう風な世代に即する街と言うものが、若者にはない。
渋谷系音楽と言うものが流行り、ファミコン世代のスターのような歌手は大勢いるが、ゆとり世代の場合は世代を象徴付ける音楽というものがない。わかりやすい若者音楽といえば「AKB48」だが、この素人の女の子を大量に集めてプロに仕立てるというコンセプトは同じ秋元康氏が仕掛けた昭和の「おニャン子」の劣化コピー版にすぎない。AKBの劇場やショップに行くと、客は中年が目立つくらいだ。「世代関係なしに特定のファン層が固執している」だけなのだ。日本の商業音楽文化はファミコン世代から平成世代にバトンが渡されるまでに破綻をしてしまい、都会の外資系有力CD店が撤退したり、地上テレビの音楽番組があらかた終わったりしてしまっている。
世代共通音楽というものは言ってみれば「デパート最上階の巨大食堂」のようなものである。和洋中何でもそろっていて、誰であってもそこにいけば大勢で食事を楽しめる。それが若者にはない。セカオワやRADなどの「ロキノン系」やEXILEや西野カナのような「J-POP」、AKB系列、ジャニーズ系列、アニソンと、いずれも客を選ぶものだ。ギリシャ料理専門店やらエチオピア料理専門店やらが林立するレストラン街でさあどこを選ぶと言われても困ってしまう。それが若者の中の喪失感にもつながっている。
スポーツ娯楽なら誰もが地元のプロ野球球団を応援しているかチームがなければ巨人ファンというものが昭和時代の常識だがファミコン世代はその最後である。彼らが若かった頃はいくらでもプロ野球中継があったが、いまはCSをわずかに放送するだけである。
ゆとり世代の場合は、子どもの頃にF1ブームやJリーグブームだからそもそも野球の影響力があまりない。自分たち世代のヒーローと言えば、ゴルフの石川遼、テニスの錦織圭、フィギュアスケートの羽生結弦や女子なら浅田真央、陸上なら柏原竜二と言う風に競技ごとに分散傾向にある。そのため個人のカリスマ性の評価についてくる世代の熱気が軽くなってしまう。
若者は、ゲームも、音楽も、スポーツも分散している。テレビだってJ:COMやスカパーやBSデジタルやWOWOWがいくらでもあって、マクドナルドやユニクロやカートゥーンネットワークのような世代も国境も越えたスタンダードか、マニアックな趣味かの二択構造に揉まれ続けていて、そもそも人口が少ないからネット上でもまとまった発言力を有していない。今を生きる上での共通経験もないし、幼い頃のそれもない。晩年になって働き盛りだった自分や青春時代を回想するにしても意思統一ができない
一方の、ファミコン世代は何だかんだで昭和に生まれ育っている。未成年のうちに平成に移行したが、「3つ子の魂100まで」である。このような長所に基づいた世代的な結束の強さは、負に傾けば厄介なネット原住民の問題となるが、上手く使えば世の中を良くすることはいくらでもできる。
世代と世代のぶつかり合いなんてどうでもよくて、私が一貫して関心があるのはあくまで「日本社会の文化のありよう」だ。世の中の中心核に到達しつつあるファミコン世代はその影響力を自覚し、悪乗りのようなサブカルに逃げず、自分たちの過去の素晴らしい体験に基づいた文化の生産をやってほしいものだ。