常々公言していることだが、わたしは結婚式が苦手である。
長時間の着席に、凝り性末期の身体が耐えられないのに加え、仕事以外はスイッチを切ったように、強固なまでにぐうたらという土に根を張る自分は、束の間の休日に式次第通りに動くことが出来ない。
ケーキカットにしても、妙齢の男女の「あ~ん」を見届けろ、さらに写真に納めろと言われるのは大変羞恥心を刺激されるものであり、まともに顔が上げられない。
「人生の伴呂(現時点)と巡り会えた」のなら、その喜びを、ひとりないしふたりで抱きしめることこそ、美しいのではないかという完全に独断と偏見であるが。
結婚する時は「日頃の感謝を云々」「未熟な私どもに今後もご指導ご鞭撻を」と言っておきながら、離婚時には「二人で決めたことなので」と言う。
だったらハナから他人を巻き込まず、二人きりで始めてほしいものである。
もうここまで読んでいただいた時点で、友人知人を少なくとも5人は失っている気がする。
ただこんなやつにお声掛け頂くこと自体は大変にありがたいので、いつもは披露宴・二次会ともにお声掛けを頂いても、ご祝儀分のお祝いをお贈りしてご勘弁いただくことにしている。
だがしかし昨日は、大学時代に愛した後輩のひとりが結婚するというので、迷いに迷って断ることが出来ず(本音)、人生で数回目の披露宴に馳せ参じた次第である。
結果、柄にもなく、目頭が熱くなってしまった。
何故かと言えば、5,6年ぶりに再会した後輩である新婦が、私と出会った頃、彼女が18歳の頃のまま、いやそれ以上に無邪気に愛されていることが伝わったからである。(もちろん大人の女性として、新郎に心を尽くしていることも)
彼女とは大学のサークルの先輩・後輩として出会った。
私の所属するサークルの新入生歓迎コンパに、天然記念物と見まがう天真爛漫さで乗り込んできた九州女子だった。
コンパ会場である居酒屋の畳に、テンションがアガッたばかりに突如としてスライディングをかまし、「一女」というブランドを粉々に砕いた彼女を「逸材だ」と口説いた。
倖田來未が16キロ痩せたという、18時以降食べない「くぅちゃんダイエット」で直近8キロ痩せたという話を延々と聞かされた。
クッキリ二重の彼女に「痩せたら香里奈になるんじゃね」と軽く口を滑らしたら、翌日から本人は周囲に「痩せたら香里奈になるから」と公言しており、わたしは自身の軽薄さを悔んだ。
いつも無邪気で、明るく、正直すぎるほど正直で、ひとに対し心を惜しみなく尽くす子だった。
そしてそれゆえに誤解されたり、傷つくこともあった。
そんな彼女を、自分がかけられるすべての言葉を尽くして、肯定したいと思った。
それは当時、サークルの運営にすっかり自信を無くしていた私が、彼女の明るさや無邪気さに何よりも励まされ、救われていたからである。
彼女と新郎は、入社動機で配属が同じエリアだったがほぼ会話したことがなく、知り合って1年半以上経った頃、新婦が自身の誕生日に近所の居酒屋でひとりで飲んでいたところに、偶然新郎が同期友人と同じ店に訪れたことがきっかけだったそうだ。
彼女を愛しそうに見つめる新郎に嬉しくなり、写真撮影の際に「いい人に出会ったんだね」と声をかけると、彼女は「こんなわたしを好きになってくれた人が居ました~!!」と目をうるうるさせながら言った。そんなの、当たり前じゃんか(号泣)。
一部始終、あんなにニコニコ心から無邪気に笑っている新婦を初めて見た。
あんなに笑ったり、泣いたり、隙あらば目の前の食事に手を伸ばす新婦を見たことが無い。
私の知っている彼女以上に、彼女は彼女らしかった。
そんな様子を見ながら、私はこの記事のことを思った。
「愛とは、誰かのおかげで自分を愛せるようになること」 芥川賞作家・平野啓一郎氏が説く"自己愛"の正体 | ログミー[o_O]
「愛とは誰かのことを好きになることだ」。この定義自体はもちろん間違っていませんが、今僕が付け加えたいのは、愛とはむしろ「他者のおかげで自分を愛することができるようになることだ」と、そういうふうに考えてみたいと思います。
あの人の前でなら自分は思いっきりリラックスして、素直になれて、いろんなことをさらけ出せる。他の人の前では決してできない。
彼女が歳を重ねても、精神的に不自由になることなく、むしろ新郎から愛されることで、より自由に彼女らしくなっていることが、わたしは何よりも嬉しかった。
この先、もし何かが起こったとしても、その感覚を知っていることは、彼女自身のより拠りどころになるはずだ。
そして式の間も、「自分を貫いて」「自分らしく!」と、至る場所でメッセージしていた彼女。
それは彼女自身の葛藤や闘いが出した答えなのだろう。
それは愛し愛される関係を築き、さらに自由になった、彼女の自信と財産だ。
その事実を強固な足場の一つとして、夫婦を超え、家族を超え、世の中の多くの人に、その底抜けの明るい笑顔をたくさんの人に見せてほしいと願わずにはいられなかった。
老若男女、金の有る無し、外見や立場や才能にかかわらず、「どんな人からも受け入れられ、愛される人」なんてどこにも居ない。
誰の前でも、自由に、無邪気に振る舞うことが許されるものじゃない。
だからこそ、愛とは特別で、人を自由にするものだ。
ゆえに、心からその存在に感謝したい、ありがたいものなのだと、そうしみじみと感じた夜だった。