ボンタイ

社会、文化、若者論といった論評のブログ

「無知」が日本人のモラルを保っていたのではないか仮説

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/00/%E8%97%A9%E6%A0%A1%E6%98%8E%E5%BE%B3%E5%A0%82%E8%A1%A8%E9%96%80.JPG/800px-%E8%97%A9%E6%A0%A1%E6%98%8E%E5%BE%B3%E5%A0%82%E8%A1%A8%E9%96%80.JPG

 江戸時代、明確な教育機関といえば武士が教養を学ぶ「藩校」しかなかった。

 広い日本の中にはコモンズから画像を引用した三春小学校のように藩校の跡地がそのまま公立学校になっている場所もあるという。しかし、武士は日本人全体のごく一部だったため、教養教育が隅々まで行きわたることはなかった。

 国民の大半に開かれた教育の場としては「寺子屋」が存在したが、寺子屋は民間が自発的に作ったものだった。いまの文科省の認証する学校法人のような明確な教育機関ではなく、義務教育ではない。そのためこの時代には、教育を何も受けることなく、文字が読めなかったり教養がないまま大人になった日本人はたくさんいただろう。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/ff/Plato_and_Aristotle_in_The_School_of_Athens%2C_by_italian_Rafael.jpg?uselang=ja

 西洋では、古代の時代から知識を交わしあう歴史があった。

 プラトンの対話篇は代表例だろう。新たな主張と反駁を繰り返すことで社会はどんどんと洗練されていき、やがてそれはあらゆる階層に広がって、大学や民主主義の確立につながっていったのだ。

 しかし日本では、根本的にそういった歴史を持っていないように見える。少なくとも義務教育や大半の高校教育の場では「知ること」が教養を高める手段として尊重されることは一切ない。大人になっても通用する知識と言えば小学生レベルの国語・算数くらいしかない。あとはひたすら単なる「試験のための暗記」の繰り返しである。試験を通過すれば忘れてしまう一回ぽっきりのつめこみだ。

 そのため、大学生(卒者)であっても、西洋の中産階級であれば当たり前についている教養がない人はいくらでもいる。日本人の大半はネイティブのような英語は喋れないし、古文の読み方も結局分からないし、ちょっとした数式を見ると頭が混乱してしまう。私もそうだ。しかし、それでも社会が成り立っているのだから、中高生の6年間はひたすら膨大な時間を無駄にしていることがわかる。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/53/%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%9EP6014882a.jpg/450px-%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%9EP6014882a.jpg?uselang=ja

 長年日本人のモラルは「無知」のおかげで保たれていたのではないか。西洋と正反対だったのではないだろうか。

 上はコモンズの「ヤンママ」の画像らしい。東京の街角ではこういうご婦人はあまり見ることがないが、北関東的な地方都市では20歳前後の若い女性はみな「ヤンママ」しかいない。だがそういう場所ほど、女子高校生は、ヤンママとは一切無縁そうな昭和30年代のような風貌の黒髪おかっぱ・すっぴんの女子しかいない。男子もそんな調子である。丸坊主の野球部員の学ラン姿なんか戦時中にすら見えるが、彼らはその後、茶髪のもじゃもじゃ頭のヤンキー崩れになるのだ。つまり、卒業すると馬脚が出るのである。

 

 ハッキリ言って、地方の学校教育は「無知」が日本人のモラルを保っていた残滓丸出しではないか。

 学校教育側はその現実を認めたがらないが、ヤンキー化する地方都市は地域社会の性質を良くあらわしているものだ。「若者はかくあるべき」の基本を教育の場で叩き込もうとする。都市部の平均的な中学高校に比べ、校則が厳格で、運動系の部活動の所属率がほぼ100%近く、学生は10代の人生の大半を学校内に隔離されて過ごすことになるが、この無駄なことをなぜ誰も疑わないのか。

 

 感覚値だが、地方都市のすべての若者が「根っからのヤンキーになっている」ようには思えない。「国道沿いにジャスコやカワチが建っている文化圏」に伝統的にありそうなにわかヤンキー的な人々は、農耕民族の本質というものではないかと思う。確かに見た目は東京の平均的若者と比べると典型的なそれにみえる。しかし、ヤンキーと言うには荒々しさあや反動的な感じがない。自己主張をしない。だんじり精神の亀田選手でおなじみの大阪の岸和田のようなセンスとは正反対に彼らはある。口論でもすれば簡単に言い負かされそうな雰囲気がある。

 地域性というものはどこかににじみ出ているものだ。城下町なりの武士の歴史のあるような街はどちらかというとシュッとした雰囲気の子が多く、寡黙である。漁師町は気性が荒い。平野部の農耕地帯ほど濃厚な人が主流となる。彼らがルーズに見えるのは、江戸時代ゆずりの精神風土があるのだ。

 首都圏外の埼玉北部を舞台にした映画「サイタマノラッパー(SR)」の中で、いかにもふらふらと生きるラッパーの若者たちが、ふとしたことで公共施設で音楽を披露する場面がある。地域の田舎っぽい老人や公務員たちからヒンシュクを買うわけだが、この構造はまさに北関東の風刺そのものではないか。

 彼らは不良ではない。けっして強盗をしようとか暴走族をやろうとか企てる訳ではなく、むしろけなげに生きている。元AV女優のみひろ演じる都落ちしたヒロインに「犯すぞ」とか言いながら、実際には口だけでレイプもしないのだ(そんなようなシーンが合った記憶がある)

 

 北関東式の地方都市に行けばわかるが、ここには湘南や横浜や東京では当たり前に存在する「若作りした中年」がいない。

 中高生がえらく幼く見える一方で、大人はむしろ老けるのが早いのだ。20歳にもなればデキ婚するのがデフォルトなことも手伝ってか、人によってはアラサーですでに東京の50代後半よりもよっぽど中年らしい雰囲気を醸していることもある。誰もかれも皆一様に「世代に見合った見た目」をしている。これもムラ社会の無知の影響ではないかと思う。そんな環境下、ヤンキーナイズされた若者は、同じ世代ではそれがほとんどすべてであるにもかかわらず、大人から冷遇されている。

 東京郊外の松戸市ではカリスマラッパーのDELI氏が市議選に当選したが、同じことは北関東では絶対ありえないだろう。なぜならほとんど40歳くらいの年齢でヒップホップと言う若者の音楽・ファッションをしている人がそもそもいないから、立候補する人材もいないのだ。

 

 では改めて考えたい。

 地方都市では、ヤンキー崩れた若者と、彼らと対照的な存在の「田舎っぽい大人たち」はどちらがひどいだろうか。

 私は断然、後者の方がひどいと思う。

 彼らは人によっては平気で男尊女卑を振りかざしたり、体罰は素晴らしいものだと言ったり、論理的思考もできずに日教組的な左翼思想や日本会議的な極右思想などのトンデモ論に染まりやすい傾向がある。

 外国人出稼ぎ労働者や在日に対するあからさまなヘイトスピーチをニヤつきながら話す人間もいる。ライブハウスを社会不適合者の巣窟だと侮蔑したり、ベンツはヤクザの乗り物だと今時思い込んでいるバカも多い。そのくせハマコーのようなどうみてもヤクザな政治家をオラが村に利権をもたらす神様のような先生だと崇めてしまっている。

 このようなツッコミどころ満載な連中ができあがる原因は、やはり無知である。

 何か異なることを見聞する経験がないことはもちろん、新しいことを知ろうという向学心に欠け、知ったうえでそれを認めようという寛容の精神が根本的に無いことが、無意識的に民度の低さを露呈している大人を増やしているのだ。

 

 サイタマノラッパーの公共施設での演奏のシーンは、そのありようをうまく皮肉っぽく描いている。あの大人たちが若者文化に関心を示してやれるくらいの技量があれば、こんなシュールな風景は発生しないし、そもそもそれくらいの民度のある大人が街の大半なら、投票行動にもそれが反映され、市議会なりの質も向上し、たとえば若者支援政策や都市計画の立て直しに着手するなどして、ふらふらしているニート非正規雇用者がラッパーかぶれになることもなく、物語自体が成立しないことだろう。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3c/Shinjuku_2006-02-22_a.jpg

 都市の風景を見てほしい。

 東京の街角はとにかく看板だらけで、まるで情報の洪水のような風景である。

 高級ブランド店もある、盛り場もある、クラブもある、学習塾もある、ギリシャ料理屋もある。日の丸を林立させた極右団体の演説もあればオールド左翼のデモもある。自然以外ならなんだってありふれている。

 このような都市環境にいれば、たとえ偏差値の低い高校の生徒でも、よほど生粋の阿呆でもなければ「無知」になりようがないのだ。世の中のあらゆる職業・社会階層・娯楽の存在を知り、無意識のうちに自分にとってもっとも都合の良い選択肢に染まっていくのだ。

 そういう意味で、「知識を獲得することへのリテラシー」は都会ほど高いんじゃないかと思う。首都圏の常識は札幌・仙台・名古屋・大阪・福岡くらいの大都市圏では通用するだろう。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a5/Miyawaki_books_Hirota_store.JPG/800px-Miyawaki_books_Hirota_store.JPG?uselang=ja

 東京の紀伊国屋ジュンク堂で全ての本を立ち読みで読破することは不可能だろうが、しかし地方都市の国道沿いの書店ではどうか。

 専門書はほとんどない。置いてあるのは、概して①受験・資格取得試験対策の参考書②パチンコや車改造雑誌やギャル雑誌やケータイ小説などのマイルドヤンキーコンテンツ③オタク向けのラノベ・漫画④愛国ポルノ⑤アダルトビデオや写真集の5種類くらいで、新書本や売れっ子作家の小説すらほとんどない。

 古本が欲しくても、昔ながらの古書店は見当たらず、ましてや神保町のような街はない。駅のコンコースで露天商が古本販売フェアをやっている光景や古本まつりのようなイベントもなく、ちゃちなブックオフしか選択肢がない。

 書店とはまだ知らないことを知るための知識の出会いの場であるが、このような地方では最大公約数的な選択肢として例のにわかヤンキーになるか、オタク崩れになるか、●●書店と言う名のエロビデオ屋にたむろす変態になるかの3種類しかない。

 したがって本来の書店の価値が欲しいのなら最寄りの都会に出るしか手段がなくなっている。1990年代くらいまでは過疎地でも商店街に古き良き書店があって気難しそうなオヤジが良い本を並べていたんだろうが、そんな時代は終わって久しい。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/be/C50_54Kameoka_soldier.jpg/798px-C50_54Kameoka_soldier.jpg?uselang=ja

 「無知」が日本人のモラルを保っていた背景には戦争があるだろう。

 尋常小学校は「無知の知」を培う場であった。江戸時代、教育も教養も欠落してた農民たちを、兵力にするために近代学校は作られたのである。「時間割」を作り、遅刻すると廊下に立たせたりしたのも、そもそも江戸時代までなら時間と言う概念もなかった人間を威圧することで叩き込んだ意味合いがある。学校は完全に単なる徴兵訓練の場だったのだ。出征兵士が学ランを着て、セーラー服を着た女子高校生が日の丸を振って送り出す光景なんてまさに「そのもの」である。

 敗戦後に日本は軍隊を放棄したが、この教育制度は解体しなかった。

 とりわけ地方地域では戦前式の精神性は色濃く残った。出征列車の風景はそのまま集団就職列車の風景に引き継がれた、学ランやセーラー服の若者が、つい10年前まで軍国主義に加担していたような都会の大工場へと吸い寄せられていったのだ。

 

 もし日本の若者が「真性の無知」であれば、若者をリクルートした軍隊も工場もとても統率がとれず、盗みやサボりが相次いだりして収拾がつかなかっただろう。明治維新以降の近代化や戦後の高度成長は困難であった。

 しかし、若い人間を歯車として使う分にはちょうどいいくらいの「無知の知」を培うことに、教育の場が体罰のような威圧をちらつかせながら取り組んだおかげで、いまに至る日本の繁栄があるのが事実だ。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8f/Zaitokukai_rally_at_Shinjuku_on_24_January_2010.JPG/800px-Zaitokukai_rally_at_Shinjuku_on_24_January_2010.JPG?uselang=ja

 一方、2014年の日本では「無知」が大いに国力を損ねている。

 無知な人間が「真実」に目覚めると、右に傾けばネット右翼になり、左に向けばリベサヨになる。「日本は陰謀を持った存在によって牛耳られている」というようなオカルトを鵜呑みにし、全力で巻き込まれる人間には、立派な公党の国会議員や大学教授すらもいる。

 たとえばネット右翼は「在日コリアンに特権がある」と振りかざすが、そんなものは存在しないことは既に証明されている。「在日コリアンは危険な民族だから叩き出さなければいけない」という排外主義は、異民族に触れた経験のない無知によるものだ。

 しかし「票になるから」と言う理由で、そういう左右のオカルトに媚びる政治家が出てきたり、「売れるから」と言う理由で大学教授が根拠のない本を書くのだ。「あの先生の言っていることなら正しい」という論理を伴わない理由で迎合する読者がいくらでもいる。負のスパイラルである。

 

 田舎に無駄な原発・道路・新幹線が未だに作り続けられるのも、都会よりも有権者の質がとても低いからである。それらを作れば地元が繁栄すると本気で思いこんでいる人間だらけだから、地方選出の政治家はろくでもない族議員しかいないのだ。

 そんな発展などありえないことは、東京育ちなら小学生でも地方を旅させて車窓風景を見せれば察しが付くことで、「こんな無駄なものを日本中に作るのなら山手線のラッシュを解消させる方が先だろ」と考えることだが、無知な大人たちはそういうことは通用せず、「○○センセイなら地域を発展させるだろう」と投票するのだ。酷い人は「夫が労働組合に所属しているから」とか「代々〇〇党に入れているから」と言う理由で投票用紙に金権政治家の名前を書きこんでいる。

 この民主主義をなめたような大人たちが、さも偉そうにマイルドヤンキーや在日外国人を見下しているのだから、笑えた話ではないか。実際には雇用の不安定なマイルドヤンキーや在日外国人のほうが「シビアな現実」にさらされていて、自発的にニュースを見ていて意見を持っていたりするのだ。

 

 「無知」が日本人のモラルを保っていた時代は実際にはとうに終わっていて、本来は日本の成長の原動力になっていた20世紀型の無知の民たちが、低迷を継続させるばかりか、メディアリテラシーがまるでないためにオカルトにまんまと流されるような足枷の存在になっていることは言うまでもないだろう。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fd/PermasJaya_McDonalds_JuscoJaya.png/800px-PermasJaya_McDonalds_JuscoJaya.png

 地方では若者がイオンモール(ジャスコ)に溜っている。農業も商店街も斜陽化して工場も撤退する地方都市では、イオンモールは重要な生活インフラであり、文化資本であり、雇用機会でもある。九州最大級のイオンモールの進出する福岡県粕屋町の統計をみると、小売業が現在の町の雇用経済のとても大きなウェイトを占めている

 イオンは中国にも、東南アジアにも店舗網を沢山もっている。つい最近まで内戦の暗いイメージが持たれていたカンボジアにも進出しているし、スーチー女史が解放されて民主化したばかりのビルマにも店舗を出すのではないかと目されている。アジア諸国でも積極的な採用活動を行っているため、途上国の優秀な人材が幕張にあるグループ本社の幹部になったり、日本のどこかの地方都市のイオンモールの店長になることは大いにあり得る。

 

 10年後、20年後の単位で考えると、地方都市の人材育成は必須である。

 それには軍人や軍需工場の工員になるために作られた明治時代の「無知の知」教育ではまずいと思う。アジアの教育機関には部活動はない。国によってはリベラルアーツ教育やデジタル教育やイノベーション人材を育てるための教育が進んでいるところもある。このままでは日本の地方都市は国内外のグローバル企業の底辺の末端市場として絞れるだけ絞られてポイされるのがオチだろう。

 もっというと、東南アジア諸国が成長し、首都に仙台レベルのそれなりの都市文化が成熟し、可処分所得のある中産階級が増えれば、そこで育った女性は洗練されたファッションや化粧などの女の子文化を追及することができる。彼女らは「6年間黒髪・すっぴん・制服・部活動だけ縛られ続けた日本の田舎娘」にないアドバンテージを得ることになり、イオンモールの中で重要な地位を占めるファッションや雑貨などの若い女性のための文化資本の店舗は彼女らが将来的には担い手になることになるだろう。

 

 最も、イオンモールのようなチェーン店に全ての地方の若者が就くわけではないが、日本は少子高齢化と言う問題に直面している。移民受け入れは不可避となっていて、ただのつまらない無知であれば東京に上がっても移民に仕事を奪われるだろうし、地元にとどまる以上は介護職をするしかない。軍人を育てる学校教育では基礎体力は就くが、高齢化問題や福祉の知識をつけることはできないため、結局貴重な時間を公教育によって無駄遣いすることになるし、やはりここでもみっちり日本高齢福祉事情を学んだ移民労働者との競争になる。

 

 「無知」が日本人のモラルを保っていた時代はもう終わっているのだから、教育を見直すしかないのである。