無要の葉

振り上げた正論(つるぎ)は切り裂くためじゃない

創作に必要なのは「カッコ悪さ」

 今をときめく増田を見て、自分の見解を書いておきます。

 


自分が創作すればいいのか否かわからなくて辛い。

 

 最初に育ってきた環境とか文化資本でセンスは決まるって言うけど、それは完全に否定できないと思う。自分も地方の文化資本が乏しい地域で育ったからよくわかる。上京して映画論の勉強をして「自分が地元で見ていた映画は何だったんだろう」と衝撃を受けたものだ。東映アニメ祭りとかハリーポッターとか踊る大捜査線くらいしか上映していなかった地元の映画館は何だったんだろうと今でも思う。でも、それとこれとは今回は別の話。

 

 たまに「創作」という言葉を「承認欲求」という意味で使う人がいる。「何かを作って、それを他人に見せて褒められるまでが創作だ」ということである。その考えは間違ってないと思うし、作ったものを見せて褒められたら嬉しい。

 

 だけど「誰かに何かを見せる」ということは褒められると同時に批判されるリスクもある。また、自分より出来のいい作品を見ることで嫉妬に目がくらんで創作の本質を見失ってしまうときもある。多分増田はそんな状況なのではないだろうか。

 

 自分は文芸以外に違う分野の芸術もずっとやってきた。その経験から言うと、創作も含めて芸術的なことっていうのは他人の目を気にしたらおしまいだけど、他人の目を気にしなくなってもおしまいだっていうことだ。前者は前述したとおり、上や下を見すぎて自分の立ち位置がわからなくなってしまうことだし、後者は逆に立ち位置を知るのを恐れて上達が止まってしまう状態のことだ。

 

 なんでもそうなんだけど、最終目標は「人に見せる」ものなのに他人の評価を度外視したものを作っても意味がない。ある程度他人の鑑賞に堪えられるものを作ることが必要になる。それをしないで下手くそのまま開き直って「これがありのままの自分だアートだ」とか喚いていても説得力がない。批判を受ければ「あいつはこれの良さが分からない」と閉じこもっていては上達がない。

 

 もちろん「自己満足」のための創作も十分にある。自分はどっちかというとそっちのほうが強い。心から自然に湧き上がってくるものをただ書いて書いて書きまくっているだけだ。逆に書かないと心が飽和状態になって健康によくない。そんな稀有な体質の人もいるのだ。

 

 だけどそれを「オナニー」と言って貶めるのはあんまり好きじゃない。オナニー大事じゃん。よく女の子が「彼氏が私に隠れて!」みたいに咎めるシーンがあるけれど、逃げも隠れもせず、むしろ目の前で堂々としてたらそれはそれで結構変態チックだと思う。むしろ性欲管理とかどこかのSMですかって感じですよ。まぁ実際見るに堪えないキッタないオナニーもあるけどね。

 

 話を戻すと、「承認欲求」だろうが「自己満足」だろうがひとつの作品を作るのであれば大事なのはセンスじゃなくて基礎だと思うってことだ。どんな創作にも「基礎」っていうのがある。それを勉強して、レトリックやテクニックを覚えたら使ってみて自分の物にして、模倣や試行錯誤を繰り返してオリジナルを作るのがそういう活動の醍醐味だと思っている。最初からオリジナルを作るのは難しい。そのためには先人に倣って、その中でオリジナルを作るほうが効率的だし技術の上達にもつながる。「人の真似なんて」と思っているうちは結局自分が一番かわいいってことだから何事もできないんじゃないかなぁ。

 

 人の真似をするのも「カッコ悪い」ことだと思うし、自分の魂の分身である作品を人に見せることも「カッコ悪い」行為だと思う。お金とかセンスとかも大事だけど、その前に「カッコ悪さ」をさらけ出せるかっていうのが一番の分かれ道なんだと思う。この手の分野において「カッコ悪い」人は非常にカッコイイ。Youtuberなどはその最先端を走っていると思う。とにかくやってみる、もがいてみる、人に見せる。この泥だらけの道を歩きながら「センス」っていうのを磨いていけばいいんじゃないかって思う。人のせいにしているうちは創作なんてできやしないよ。

 

 そんなわけで、もし増田がこれを読んでいたらこっちに参加してみてほしいな。増田に投稿は禁止しているので、捨てブログを作っていろいろカッコ悪くあがいてほしい。そのとっかかりになれば、個人的にとっても嬉しい。

 


【第2回】短編小説の集いのお知らせと募集要項 - 短編小説の集い「のべらっくす」

 

 自分もとりあえず何か書かなきゃなあと思っているけど、今回はなんかうまいこと浮かんでこなくてちょっと焦ってる。まずいね、自分のペースでいろいろやりたいね。