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御嶽山の事件は「亡くなった人、そのご家族」の気持ちになって謝り、報道するのが基本と思う。
御嶽山の噴火事故に対して、テレビなどでいわゆる「専門家」(この専門家と呼ばれる人たちの多くは専門家の意味が分かっていない)が「火山の噴火は予知できない。少ないデータでレベル2に上げることはできない」と盛んに言っている。
私も先日、テレビ解説をしたらテレビ局が「予知はできるのか?」という質問がフリップ(テレビの時に紙芝居のように使う掲示板のようなもの)に書かれていたので、「予知できるかどうかより、予知できないのになぜ予知したのかが問題です。予知できないのに予知したということになると、無責任ということもわかります」と言った。
21世紀に入って、火山の危険性を具体的に表示しなければいけないということになり、それまでの「活火山、休火山、死火山」という名前をやめて、活火山だけにし、その危険度をレベル1(安心して登山できる)からレベル5までの段階を作って公表した。
日本列島には110の活火山があるが、そのうち、「観測網が準備できる」ということで47の火山でレベル表示が行われた。この事自身がいい加減だが、とにかくそうなった。この時点で、「火山の噴火は特別な場合(有珠山のように研究が十分で、経験も豊富)を除いて予知できない」ということがわかっていて「予知できない」という説明文も同時に気象庁がだしている。
昔の気象庁は技官が中心で、気象データをコツコツと集めるところで、その頃、気象庁の役人というと野暮ったい人がでてきたものだ。ところが、華やかで美人の女性気象予報士が出てくるようになってから、その雰囲気は一変し、仮想的な表現が増え、気温の測定もいい加減になった。
このことは東北大学の近藤先生のようにキチンとしたお考えを持っている学者には耐えられない状態で、先生は1000万円近くの私財を投じて、せめて気温観測ぐらいは正確にしなければということで測候所の改良を私費でやっておられた。
NHKなどの責任もあるけれど、それ以後の気象庁の発表は、「人騒がせ、大げさ、いい加減」(HOI、HOI・・ホイホイ行政)になった。メディアを見方に付け、「一生に一度」とか「最高気温記録」ということだけを強調し、この噴火予知のように「わからないものをわかるように言って予算取りをする」という体質に変わった。
もともと、噴火予知ができる活火山は5つぐらいだろうと思う。厳密にいえば、有珠山と現に噴煙を上げている桜島ぐらいではないか。それを47の活火山の噴火予想を公表していたのだ。
私の経験(国の委員会の座長の経験)から言うと、次のような会話があっただろう。
官僚「先生、活火山は噴火予想を出しましょう」
先生「それはだめじゃないですか。予知できないのだから」
官僚「学問的にはそうと思いますが、それでは国民も納得しないし、予算も取れません」
先生「じゃ、仕方ないな」
(「仕方ない」というのは、予算取りなどを優先して、登山した人が突然の噴火で死んでも、そんなことは関係ないという意味)
東大の先生が御用学者として使われる理由は、
1)物分りが良い(官僚が言ったらその意味をすぐ理解し、自分の学問的信念を捨ててくれる)
2)勲章が目の前にぶら下がっているので、決して受勲者を推薦する省庁に逆らわない
3)学閥があり、影響力が強い
4)東京にいて呼んだらすぐ霞ヶ関(官僚のところ)に来る
というようなことがあるからだ。
もともと東大卒には「自分で考える」というタイプの人は少ない。なぜなら日本の試験は「出題者の意図」を正確に把握して、「覚えたとおり」の答えをすると成績が良くなるから当然でもある。
日本の現在の悲劇のある部分は、「二世化」、「御用化」、「思考停止化」、「メディア化」にあり、それは戦後70年の制度疲労にほかならないと思っている。だから、まずは「小さい政府=減税による役人の数を減らす」、「東大の廃止=御用化を防ぐ」、「NHKの廃止=思考停止を防ぐ」ことがまずは必要で、もしそれができていれば今回の御嶽山の事件は、おそらくなかったか、あっても少数の犠牲者で済んだと思う。
犠牲になった人に申し訳なく感じる。
(平成26年9月30日)
武田邦彦
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