例の氷水問題、どうにも自分なりの消化ができなかったところだったのですがtopisyuさんの記事とその反応を読んで非常に納得できたところがあるので書いておきます。素敵な解説いつもありがとうございます。
氷水問題がわからない人のために簡単に内容を説明すると、こんなところですかね。
①難病支援の寄付のために
②多額の寄付をするか氷水を頭からかぶることを選択させられ
③次の人を指名するチェンメみたいな取り組みに
④セレブの戯れじゃないかと批判殺到
最初に言っておきますが、本当にどうしようもないくらい身も蓋もないです。多分難病支援とかそれ以前のくっだらない心理の話ってことです。今回結構長いので覚悟してください。「くっだらねぇ上から目線め!」と思ったらそっ閉じ推奨です。
何が腹ただしいのか
まずアイスバケツの是非だけ問うと、間違いなく向こうさんの「寄付金文化」が根本にあるから成立しているモノだと思う。ざっくり言うとキリスト教では「富める者は持たざる者にほどこすべし」「金持ちは問答無用で地獄行きだから金持ちは貧乏人に財産ゆずっとけ」みたいなところがあるから日本に比べて寄付金文化が盛んだ。この辺は無理に理解しようとしてできるものじゃない。日本人と考え方が違うと思わないといけない。実際topisyuさんの記事で紹介されているように確実に収益があるんだからそういうことなんだと思う。
そして、こういう慈善活動は手段が有効とか無駄とかそういうのではないと思う。あくまでも気持ちと行動が大事なのであり、その結果がどうなるかは問われないべきだ。動機はどうであれ、寄付をしたもの勝ちなのは仕方がない。じゃあ何故、こんなにもイライラする人が出るのかってところだけれど、多分「偽善」とか「悪ふざけ」よりも「セレブ」ってところにみんな反応しているんだと思う。
本当に身も蓋もないことを言うと、つまりは「メディア露出度の高い比較的裕福な人」が「氷水をかぶるふざけたこと」をして「なんか褒められているのが気に食わない」ってところが根本にある気がする。要はアレだ、お金持ちが政治的に正しいことしてキャッキャしているからなんか腹立つってところだと思う。「難病の理解が」とか「チェンメ形式で強制っぽい」とかそういうのは後付けで、とにかく「お前ら金持ちのくせに遊んでんじゃねえよ!」っていう類の感情がモヤモヤの主な原因であると思う。
ネットやSNSが普及していない時代なら、まずこのような運動は起こらなかっただろうし庶民の目に飛び込んでくる情報も少なかった。新聞等で報じられても「自分とは違う世界」と割り切っていただろう。ところがSNSを通じて身近にこういう事例を目にしてしまうと「お金持ちの集団の世界」に自分が含まれているように錯覚させられてしまう。そこで「俺はこんなに苦労しているのに!」「私だって大変なのに!」「なんでこいつらだけふざけてるんだ!」という感情が生まれる。
そういうときに使う言葉が「偽善」という言葉だと思う。「こいつらは善人ぶってるアピールしたい連中なんだ!」と見下してしまえば上記の惨めなモヤモヤが少しだけ晴れる。しかも「お金なんて持ってるだけのろくでもない人間の裏を暴いてやったぜ!」という悪人ぶってるアピールも成立するので一石二鳥である。いやぁ本当に、身も蓋もない。
チェンメ方式も批判をされているけれど、チェンメ方式が生んだ「内輪ノリ」の感じが批判を浴びているんじゃないかと思う。「ちぇっこいつら結局つるんでんじゃねーか! いいですねーお金があってお友達の多い人はいいですねー!」という感じだろうか。これをかっこよく言うと「善意の押し売り」「売名行為」になる。メディア露出が高い有名人なら、何をやっても「売名行為」になるだろう。それを下種の心でやっているのか、ただやりたいからやっているのかということは本人もわからないと思う。それを外野が決めつけるのってどうなんだろう。
「モヤモヤ」と「不謹慎」
こういう活動を見るたびに思い出すのが、震災の時のことだ。「がんばっぺ東北」「絆」「ひとりじゃない」などと言った言葉が並び、競うように応援ソングが作られていった。「ミュージシャンとして出来ることをしたいので、このCDの売り上げを寄付します」というのも結構あった気がする。だけど、現地ではそんな場合ではなかった。ライフラインも物流もぱったり途絶えてるし毎日震度4レベルは数回来るし、避難所は混乱しているし、とにかく個人の力ではどうにもならないことが多かったし、まず現実に体がついて行かない人がほとんどだった。最近も広島のニュースをテレビで見ると津波のことを思い出す。やっぱり自然は怖い。
そんなときにありがたいのは、やっぱり気持ちより目に見えるモノなんですよ。生活物資の支援とか、それこそ復興財源になるお金。お金と人手が一番大事。「テレビの向こうの出来事を思うと涙が止まりません……東北の皆さんにこの気持ちが届きますように #黙祷」みたいなツイートより金のほうが元気になる。衣食足りて礼節を知るじゃないけど、「気持ちだけ」押し付けてくる人々の気持ちはわからなかった。
そして何よりも嫌だったのが「自粛&不謹慎」の流れだった。確かに被災地では大変かもしれないけど、被害のない地域の人がいくら画面の向こうの様子を心配しているからって涙を流したとか楽しい気分はダメだとかそういうムードを勝手に作って盛り上がっているのは一体何なんだろうって思っていた。無関心っていうのも嫌だけど、「楽しい気分になんてなれませんよね? ね?」っていうあの時の押しつけがましさは覚えている。
こういった一連のことを思い出すと、「被災地を見て辛い気持ちの私を認めて」というある種の承認欲求だったのかなと思う。実際にあれはむごくて辛い出来事だった。でも、テレビの映像で追体験をしただけの人は、自分で辛い出来事を体験したわけじゃないから何に対して辛いのかという感情を持っていく場所がない。結局「あの出来事を辛いって思う私の気持ちは間違っていませんよね?」って確認して回っていたような気がする。それで自分の持っている感情と違う振る舞いをしている人を見て「不謹慎」だの「自粛」だの騒いでいたのかもしれない。つまり、その動機の中に本気で被災地を心配する気持ちがあったのかどうかはわからない。
今回の「ふざけているようにしかみえない」というのも「難病の人たちを想えば絶対辛気臭いツラか慈愛にみちた顔をしていないと不謹慎だ」という反動だと思う。そんなルールはどこにもないんだけど、「こうでなければならない」みたいな感覚の共有が無意識で広まっているだけかもしれない。
チャリティーの是非と募金の押しつけがましさ
今回の「モヤモヤ」も「偽善臭い」だの「悪ふざけにしかみえない」だの散々言われているけれど、『we are the world』の時代から言われていることにしか思えない。
USA For Africa - We Are The World (字幕) - YouTube
もちろん「『we are the world』は芸術だからいいけど、氷水は悪ふざけだからダメ!」という理屈もおかしい。簡単に言うとチャリティーを否定するのって「俺に正論を押し付けやがって!」という精神なんだと思う。
自分も人間だからそういう惨めな気分になることもある。でも、こういう気分になったとき小さいときに読んだ本の一節を思い出すことにしている。概要を紹介するとこんな感じだ。
小学校のうさぎが金銭的な面で飼えないということになった。うさぎが処分されることになりそうだと騒いでいた飼育係の子供たちの中で「みんなで100円ずつカンパすればエサ代くらいなんとかなる」と勝気な女の子が提案する。100円は高いと乗り気でない男の子たちに「うさぎの命がかかってるのに、アンタたち自分のことばっかりで100円ぽっちも出せないの!」と女の子が反論すると担任の先生がやってきて「あなたはお金を稼いだことがないでしょう? そのお金はあなたのお父さんとお母さんが一生懸命働いたからあるのよ。だからあなたに100円ぽっちと言う資格もないし、たとえ命がかかっていても、他人に金銭的な善意を強要することもできないのよ」と言う。(先生たいへん事件です (フォア文庫))
今でもチャリティーで募金がどうとか来てモヤモヤするたびに、この先生の言葉を思い出すことにしている。自分は盲導犬や介助犬育成の募金箱を見かけたらなるべく少額でも入れるようにしている。動物保護にも関心があるので募金する。同じ理由で緑化系の募金には必ず入れる人がいた。だけど、学校や職場で「赤い羽根だから入れろ」っていうのはすごく嫌だった。要は『ちびまる子ちゃん』の「なかよしの集い」みたいな「お前は募金しない悪い奴」みたいなオチになるからだ。
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topisyuさんの記事でも最後に触れられていましたが、実は自分は「このクラスで募金していないのはお前らだけだ」を実際にやられたことがあります。災害義援金だったと思うのですが、数人で呼び出されて「お前らがジュース一本我慢するだけでできるいいこともあるんだぞ」って言われたのは当時から非常に疑問でした。今思えば単に「うちのクラスは意識が高いから全員募金した」っていう実績が欲しかったんだろうなと思います。当時は学校へ行くのに財布忘れただけで叱られるなんて思ってなかったよ。
ここで問題なのが、今回「善意の押しつけ」とやらを誰がやっているのかということです。「こいつ氷水かぶってないからケチ! 悪者!」って言ってる奴が実際にいるのかという話。それって結局「同調圧力」とやらが生み出した「見えない敵」じゃあないのかなと思うのです。「見えない敵」って結局実際に存在しているわけじゃなくて、自分の中で勝手に作り出して勝手に他人と共有することで実体があるような気にさせるものだと思っています。つまり、「他人に寄付か氷水を強要して拒否をすると叩く奴」っていうのは想定されるゲスであって、実際に存在しているかわからない。でもそのゲスの存在を恐れてみんな「自分は違う!」と主張する。
そんないるかいないかわからないゲスのために支援活動が広まらないなんて本末転倒のような気がする。個人の考えで寄付したいならすればいいし、悪ふざけでもALSの認知度が一気に広まったのだから結果オーライじゃないのか以上の感想はない。「ALSの患者が実際に見たら嫌な気持ちになる!」*1というのも想像の域を出ない「見えない敵」だし、「事故で死ぬ恐れもあるから危険だ!」というのは大人がすることなんだから自己責任としか言いようがない。「事故が起こる恐れ」と「見えない敵」をごっちゃにしてはいけない。気に食わないからと言って「ほら危ないって言ったじゃん!」って勝ち誇るのは褒められたことではないと思う。
もし自分がこの手のバトンを受け取ったら、それ以上誰かに回さないで動物保護の団体に寄付するような気もするし、横断歩道で大きな荷物を抱えて困っている老人を探しに行くかもしれない。「募金なんて意味がない」と斜めに構えがちな自分だけど、善意はいろんな形で発揮されるところを待っているわけで、ひとつの善意の形に「押しつけだ」と反発するのは誰のせいでもなくて自分の心の弱さなんだと常々思っている。人にやさしくすることは難しいし、非常に勇気のいることだ。だからなるべく他人には親切にしたい。それだけのことなんだと思う。
つまるところ、いつもの通り「外野は騒ぐな」ってことです。
さあ、炎上させたいならいくらでも炎上させてくれ。弁解する気にもなれない。
おまけ
「色つき羽根募金」は赤や緑だけじゃなくていろんな色があってそれぞれいろんな団体に遣われているようです。募金は悪いことじゃないし、募金をしない人も悪い人じゃないと思います。悪いのはそれに対して何だかんだ言うことです。10円ぽっちだって大事な他人の財産なんだから。「みんな一緒がよいこと」の日本で寄付金文化を根付かせるためにはこの考えの徹底が大事かもね。
「青い羽根=海難救助支援」
「水色の羽根=海難遺児支援」
「黄色い羽根=臓器移植支援」
「白い羽根=日本赤十字が主催」(終了)
「黒い羽根=炭鉱失業者にむけて」(終了)
*1:実際に台湾から当事者の声というもので批判が寄せられているけど、そう思う人だって当然いるだろうかこれが全体の意見!というのもどうなんだろうって思っている。