あちらこちらで花火大会が開催されている。花火、観たいなあ。私は花火が好きなのだ。
誰と観たいかと考えた時に思い浮かんだのは親戚の女の子だった。
いつだったか、実家のベランダから一緒に花火を観た時「きれーい……!すっごい、きれいだねえ…はあぁ………」と、最後の方はもう絶句し、感嘆していた。
数年前までは彼女と一緒に写った写真をSNSのアイコンにすることもあったけれど、この年齢だと、どうも負け惜しみのようで気が引けてしまう。
彼女が産まれた日のこと。そして彼女に初めて会った日のことは今でもよく覚えている。
それまで、赤子はギャンギャン泣き喚き、どう接したらいいか分からない、得体の知れない生き物、というイメージだった。
それなのに、まだ首も座らず、視点すら定まらず、白いガーゼの肌着にくるまれた彼女を一目見た瞬間に、ああ、この子を全力で守らなくてはならない、と思った。あれが母性本能というのだろうか?私は10代の頃から“おばさん”だった。
彼女は私のことを“名前にちゃん付け”で呼んでくれるけれど、「バカ」だの「ババア」だのといった言葉も覚え、私は一応叱るが、しばしば彼女がくれる似顔絵や手紙にはいつもこっそり鼻水を垂らして泣いてしまう。彼女と出会ってから、私はちゃんと泣けるようになった。
なんてことを、この年齢でわざわざブログに書くのも悲しくなってしまう。ので、この話はおしまい。
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以前の恋人のことをうだうだと思い出すのは、実のところ、週末をルーチン化したい、という冷めた思いもある。
土曜日の夕方、彼が仕事終わりに電話をくれる。彼が食材を買い、料理中に私が訪れる。日曜日は、近くのカフェでランチをして、自転車であちらこちらへ行く。昼食を食べた直後に「夕飯、何がいい?」と聞くので「お腹いっぱいで考えられないよ。主婦みたいなこと言わないで」と、私はよく腹を立てていたので、罰があたってしまったのだろう。それでも楽しそうに夕飯を作ってくれた。私は「テレビでも観ていて」と言われつつも、手持ち無沙汰で後ろから眺めたり、まとわりついては叱られた。
なんだか、またもや未練がましいけれど、ただただ私はくたびれているから、そういう何でもない日常を飽きもせず過ごせる相手が欲しいだけなのだ。「恋している」とか「好き」だとか「愛している」とか、そういうものも出来れば欲しいけれど。
毎週毎週、誰と過ごすか考えて、連絡をして、断わられたり約束したりして、そして待ち合わせをして、一緒に過ごす時間はとても楽しいけれど、結局は別々の部屋に戻る…そういうことを繰り返すだけでも疲れてしまうのだ。
高速道路をまたいで彼の住むアパートがあったので、もし大地震でこの道が塞がってしまったなら、きっと会えなくなってしまうだろうなんていつも怯えながら、一秒でも早く会いたい気持ちをめいっぱいペダルに込めて自転車を走らせた。その時によく聴いていた曲を一緒にライブで聴いた時はとても興奮したけれど、彼にとっては知ったことではない。(その後で食べたスイカや、蝉の抜け殻を持って脅かす時の方がよっぽど楽しそうだった。)そうして今や、なんだか抜け殻になった私はもう、さほど地震が怖くなくなってしまった。