よもちかブログ

「私の世界」の話をしよう。

自分のために生活を整えるということ

料理を作ったり、掃除をしたりしていると「自分を大切にするってこういうことなのかなぁ」なんてことを考える。自分が食べるための食事を丹念に作る、自分が過ごすための空間を快適に整える。そういう行動は、自分を労わり、愛する気持ちにつながる。

 

自分を大切にすることに対して鈍感だったころは、料理をするにしても安い食材以外買えず、そうすると料理もおいしくない上に楽しくなく、自炊を続けることができなかった。自分が食べるためだけに、高めの(と当時は思っていたのだけど今考えると普通の値段のもの。豚肉とか、肉というだけで高いもの、自分にはふさわしくないものと思っていた)食材を買うのが嫌で、それなのにコンビニ弁当は平気で買えていた。部屋のなかも「どうせ自分しか見ないし」と荒れていたのに、「おしゃれな部屋に住みたい」と可愛い雑貨なんかを買って、ゴミだらけの部屋に飾ってみたりした。思っていることと行動していることがズレて歪んでいた。

 

その歪みは多分、自分を大切にすることが分からないがゆえの歪みだったのだと思う。自分のために食事を作ることはできないけど、おいしいものを食べたい。自分のために掃除をすることはできないけど、快適な場所で過ごしたい。欲求ばかりが膨らんで、でもどうすれば本当に解消できるのかも分からないまま、私はジャンクフードを食べ、荒れた部屋で暮らしていた。

 

私は本当においしいものを知らなかったし、快適な場所というものも知らなかった。この世でいちばん美味しい食事は、自分が自分のために自分好みに作った食事で、この世でいちばん快適な場所は、自分が自分のために自分好みに片付け&掃除した部屋、だと今では思っている。料理や掃除は技術なので、最初から満足のいく結果を出せるとは限らないけれど、練習を積み重ねれば上達する。上達すれば満足のいく結果も出せる。そうすると自分で自分を満足させることができるという良循環に突入することができる。満足の自給自足だ。

 

人に作ってもらった食事も、その人の腕がよければ美味しいし、好きな人に作ってもらえたら、それはそれで嬉しい。でも、自分で作って自分で食べる、という充足感には敵わないと思う。人に作ってもらえば「食べる」という部分でしか参加できないけれど、自分で作れば「作る」と「食べる」で参加できる。あと「片付け」も。

 

つまりは主体性なのだと思う。食事を用意する、部屋を整える、というイベントにどれだけ当事者意識を持って取り組めるか。きっと誰かにやってもらえるさと他人事のままでいるということは、自分の生活(あるいは人生の一部)を他者に預けて、自分は知らんぷりをするということなので、自分の生活を蔑ろにしていると言えるだろう。自分の生活を蔑ろにしていれば、満足感からは程遠いし、自分自身を軽く扱うことにつながる。それは自分を大切にしていない、ということになる。

 

自分の生活に対して主体的に取り組むこと。それは自分を大切にするためには必須の行いだと思う。料理して、片付けて、掃除をして、整えて、買い物して、…自分の裁量で自分ためにそういうことができるのはすごく幸せなことだし、ありがたいことだ。

 

生活をするということは生きることで、生きることは日々の細々したことを積み重ねること。生活のなかの細々とした積み重ねを大切にすることが、自分自身を、そして自分の人生を大切にすることにつながるのだと思う。

 

私はそんなふうに考えている。

 

よもちかでした。