【映画】・「GODZILLA ゴジラ」
監督:ギャレス・エドワーズ
おれは大好きな映画です。細かく見ていくとおかしなところはけっこうあるんだけど、そういう疑問をねじ伏せてしまう力がこの映画にはあると思う。
……と言っても、そのようなものいいが通用しないのが「怪獣映画」、「ゴジラ映画」なのである。
「いい大人が怪獣なんか見て!」とさんざんサベツされ、また本編そのものにおいても、さんざんスカをつかまされてきたファンの怨念がこもっているのが「怪獣映画」であり「ゴジラ」なのである。
よって、以下にはあらすじとか感想とかは書きません。
マニアではない人(=私)にとっては、感想なんか書いてもほとんど楽しくもないし旨みもないので、マニアには当たり前なのかもしれないが今回、私が考えに考えて思いついたことを書きます。
「GODZILLA」そのものには、ほとんど関係ありません。
・怪獣映画に人間ドラマは必要か?
怪獣映画の感想は、たくさん読めば読むほどわからなくなってくる。ほとんどのゴジラファンがあげる「最高傑作」は、一作目のゴジラ(1954年)である。
一作目では、さまざまな人間ドラマが描かれる。芹沢博士とヒロインの、恋愛がらみの心の葛藤や、最終兵器を生み出してしまった芹沢博士の苦悩などはもっとも目立つ部分で、「ゴジラ」の一作目をほめる人は、特撮もほめるが人間ドラマもほめるのだ。
だがその一方で、「怪獣映画には人間ドラマはいらない」という言説も根強く存在する。普通に考えれば怪獣が主役なのだから、たとえば1時間半の映画で、人間ドラマが1時間25分あって、怪獣の登場シーンがラスト5分、ということがあればマズいのは理解できる。
また、テーマ性の有無の問題もある。一作目の「ゴジラ」は、「反戦、厭戦」、「核の恐ろしさ」というテーマがあった。平成ゴジラを断片的に観るかぎり、「反戦、厭戦」の「雰囲気」は必ず仕込まれているが、これはそのときそのときのテーマというよりは、一作目が反戦的な雰囲気があったから、それをひきずっているのではないかと思う。
そして、そんな雰囲気を振り切ったのは私が知るかぎり、好戦的すぎる軍人役でドン・フライが出てきた「ファイナル・ウォーズ」だけである。
まあとにかく、人間が出ないからといってテーマがない、語れないとは言えないが、人間がしゃべってくれた方がテーマを浮き彫りに出来ることも確かである。
よって、「人間ドラマ」と「テーマ性」は密接に関連している。だが、その「テーマ性」も、ぜったいに必要、というわけはないという意見も存在する。
何が言いたいかというと、ひとつの論評に対してあらゆる反証があるのが怪獣映画、とりわけゴジラ映画であって、できれば面倒なので近づきたくないと思っていたものだ。
・怪獣映画はパニック映画なのか? または「怪獣プロレス」とは何か
さて、次に怪獣映画は、パニック映画なのだろうか?
結論から言えば、怪獣映画には「パニック映画の要素もある」くらいな感じだろう。そして、パニック映画の面白さのひとつは、「だれが生き残るか」とか「最初いがみあっていた者同士が極限状況で協力しあい……」みたいなドラマ部分である。だから、怪獣映画、とりわけ「単体の怪獣映画」ではパニック的要素が強いのではないかと思う。
では「怪獣対決映画」はどうだろう。怪獣が二頭(またはもっとたくさん)出てきて、ガッツンガッツン戦う、いわゆる「怪獣プロレス映画」である。
で、ここを考えると、実は人間は必須ではないのである。最低限、怪獣の大きさを強調するために小さい人間が必要、くらいのことではないか。
怪獣には怪獣の理屈があり、戦うわけで、それが棲みかを人間に荒らされたからだろうが、足をふまれたからだろうが、「怪獣同士のとっくみあい」については、直接の関係はないのである。
そして私はやっと気がついたのだ。
「怪獣映画とは、このうえもなく特殊な、特殊すぎるエンタメ映画なのである」
ということに。
・「人間が出なくていい映画」
「怪獣プロレス映画」は、「怪獣同士の都合」で怪獣が戦う映画である。
ちなみに、ウルトラマンなどの巨大ヒーローものは違う。巨大ヒーローは、人間を守るために戦うという「理由」があるし、このために人間とのコミュニケーションも必要だ。
だから「怪獣プロレス」は、「巨大ヒーロー対怪獣」とは、根本的に、まったく違うものなのだ。
それでやっとわかったのだ。
通常、恋愛映画、カンフー映画、アクション映画、どれもセオリーがある。セオリーさえ理解していれば、面白いつまらないは別にしても、あさっての方向にズレた脚本は書かれないだろう。
だが、怪獣プロレス映画は、起承転結で言えば「起承」までは人間ドラマ、そこに「転」で、それまで積み上げていった人間ドラマとは違う「怪獣同士のドラマ」が放り込まれる。「起承」と「転結」が、直接結びつきにくい、という特殊な映画なのである。
こうなるとなかなかうまい「鉄板の脚本」というのは、書きにくいだろう。
しかしだ。
「怪獣プロレス映画」は、その被サベツ性ゆえに、常に「普通の映画と違うところのない映画なんだ」という出発点から評されてきたのではなかったか(よく知らないけど)。
怪獣映画を、ゲテモノとあなどるな。映画は映画ではないか。等しく映画館にかけられるべき作品なのだ。
今までの(私の知るかぎりの)「怪獣プロレス映画評」jは、「怪獣映画は普通の映画と同じ観点から評することができる」ということを、その出自や周囲の色眼鏡ゆえに、強調してこざるを得なかった。
そこから間違いが生じたのだ。
真実は違うだろう。「怪獣プロレス映画」とは、「人間が出ることを必ずしも絶対条件としない」という、これ以上特殊な映画はない、というくらい特殊なジャンルなのである。
それを前提にしないと、すべての論評が間違えてしまう。
いわば「映画の説明をするときの常套句」で、聞かされた方の映画の観点そのものが違ってしまう、振り回されてきたジャンルなのではないだろうか?
もちろん、クライマックスの怪獣バトルまでが、人間ドラマもからめて面白いに越したことはない。
だが、人間と怪獣をからませ、なおかつドラマをつくっても、それはクライマックスでほとんどすべて消し去られることになる。主要キャラは怪獣のみになるからだ。
このために、過去にはずいぶんさまざまな苦労がなされてきた。
・子どもの味方、という設定の怪獣(あるいは何かの守り神)
・怪獣の利害と人間の利害が、偶然一致していた
・テレパシーで人間と交感できる怪獣
・人間が怪獣と戦うことで、人間とのつながりをなんとか保つ
……たとえばカンフー映画の場合、ごく単純なプロットとして、「主人公の父が殺される」、「主人公がカンフーの修行をする」、「敵と対決」、「倒して終わり」という流れができている。これはほぼ絶対的な流れと言ってもいい。
ところが、「怪獣プロレス映画」は、前段階で怪獣が人間とどう関わっていようが、最終的には怪獣同士で決着を付けてしまうのである。
だから、序盤から中盤でどんなに映画の中で人間がからもうとしても、クライマックスにははじき飛ばされてしまう(ことが多い)のだ。
・「他のモンスター映画との比較」
ここまでくれば、「怪獣プロレス映画」は、他のモンスター映画とも明確に違うことがわかるだろう。
ゾンビなどの等身大モンスターは、すべてが人間とからむことができる余地を内包しているし、そこにはテーマやドラマも含んでいる。
もともと人間だったモンスターも、数多い。
だが、怪獣プロレス映画は違う。
別に、人間なんて出ても出なくてもいいのである(もちろん、クライマックスまでのつながりが美しいに越したことはない)。
怪獣同士だけで、物語を完結させることができるのだ。
「人間の出なくていいエンタメ映画」。
これ以上特殊なジャンルがあるだろうか?
「怪獣プロレス映画」は、「特殊なジャンルである」と認めることから出発しないと、今後、正確な論考はできないのではないか?
とまあ、そんなことを考えて「GODZILLA」を観た、怪獣門外漢の私である。
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