信仰と理解の矛盾

日本に来たばかりの頃、私は日本語よりも英語で話すほうが楽でした。そのため、日本にいる英語圏の友人も多かったです。

ジェリーは米国人ですが、教会の派遣でフィリピンに行き、フィリピンから日本に来ました。私も貧乏に強いのですが、彼は私よりも貧乏に強かったです。私が住む古いアパートの狭い部屋に来ると、いきなり両手で水道水を飲む姿は今も忘れません。

社会主義の教育を受けてきた私にとって宗教は未知の領域でした。好奇心もあって彼について教会のミサやイベントによく参加しました。教会のオープンで楽しい雰囲気が好きになりました。

信者ではない私にジェリーはよくイエスの偉大さやバイブルの物語を語ってくれました。私もキリスト教を理解しようと懸命にバイブルを読んでいました。しかし、いくら頑張っても信者になれませんでした。唯物論や儒教の考え方をよく知っている私はどうしても「なぜなぜ」と頭で考えてしまうのでした。

私の「なぜなぜ」にジェリーは教義を使った解釈はできない時が多かったです。次第に彼も私も疲労感を感じるようになりました。そしてある日、激しい議論をした後、ジェリーは言いました。「宋さん、信仰は信じるから理解できる。理解できるから信じるものではない」と。

この瞬間、私のすべての「なぜなぜ」が消えました。信仰の本質を理解した瞬間でもありました。

共産革命で中国人は宗教活動を厳しく制限され、マルクスレーニン主義を教え込まれました。権力側が自分の都合に合う信仰を人々に押し付けるため、他の信仰を消去する必要があったからでしょう。宗教の自由がないと西側がよく中国を批判するのですが、本質は信仰が異なるからです。

信仰は宗教だけではありません。国家主義も共産主義も信仰です。多くの場合、宗教は国家主義や民族主義とセットになっているのです。現在も多くの犠牲者を出しているガザ攻撃とマレーシア航空MH17便の撃墜がその典型です。関係のない民間人を大量に殺す行為はどう考えても理解できないのですが、攻撃している側に信仰があるのでしっかり「正しい」と信じているでしょう。

日中の靖国神社問題も尖閣問題もそっくりです。信仰と国家主義を交互に使い分けたり、一緒にセットして使ったりすることによって双方の当事者はすっかり「自分こそ正しい」と思い込んでいるでしょう。

共産主義の理想も失い、金にしか興味がない中国社会に失望する時もあるのですが、考えてみればこれも一種の信仰です。拝金主義という信仰です。違法性がない限り、金がすべてだと信じて行動するのも信仰の自由なのです。

信仰がないとなかなかうまく生きていけないのが我々人間なのです。信仰は秩序と幸福をもたらしてくれますが、それは同じ信仰をもつ社会の内部に限る話です。世界に異なる信仰が存在する以上(またこれは不可避ですが)、信仰は相互理解を阻害し、衝突を長期化させる要因でもあるのです。

何らかの信仰を必ずもつ人間が、いつもフェアであることは不可能です。しかし、せめて紛争とトラブルに際して相手も自分も信仰をもっていることを覚えておきたいものです。
この記事へのコメント
100%同感です。 宗教が理窟よりも信じることに始まる、というのは宗教の強さと同時に恐ろしさでもあります。絶対に曲げませんから。

また宗教と国家主義がセットになっているのも全く同感です。私はそういう国に住んでいた期間が長く違和感を感じていましたが、理由があらためてよく分りました。宗教そのものは良いものでも、強すぎて金科玉条になると必ず息苦しさが出てきます。その正体は強制力であり、国家主義につながるのですね。
Posted by 山本裕二 at 2014年07月25日 08:17
私は宗教は、科学的な哲学の様に考えてます。人の能力は限界があって命や宇宙のほとんど未知で、ずっと未知であり続けるのでしょう。それでも人の好奇心は謎に魅かれ続ける。ただみんながある特定の指導者や預言者の言うとおりの「人」になるのは、ほとんど安倍さんの道徳教育と同じだと思う。確か聖書のどこかに、自分の頭で考えなさい、と言うのがあったと思います。宇宙、命のルールを、デジタル言葉では言えないので、たとえ話で表現したのが聖書などなのでしょう。
Posted by 末永美枝子 at 2014年07月25日 09:01
全く違うなと思うな。宗教は教育で形成されるものではない。自らの中に自覚するもの、人間の弱さの中から生まれるものだと思う。禅宗の座禅の経験があれば多少理解できると思うが、自分を見つめ直していくうちに自分の無力と未熟と無知に気付くという。現実生活の中で様々な試練に逢うとそれが表面化して最後には神様助けてと祈るようになる。それが宗教のはじまりだと思う。だから他者が信じる宗教を貶したり否定したりしない、少なくともまともな日本人はそれを実践している。それが靖国神社参拝の意味ではないかと思う。もう一度言うが宗教とは教育によって作られるものではない。教育は為政者の都合の良いように変えられて人心を都合の良いようにマインドコントロールされてしまうからだ。
Posted by kuorin at 2014年07月25日 10:06
「信仰は信じるから理解できる。理解できるから信じるものではない」とは窮余の屁理屈に聞こえる。
寧ろ、「信じるから理解できるし、理解できるから信じる」。
問題は「理解できる」の意味です。
「理解できる」とは正しい、理にかなうだけの意味とは限りません。理解できる=同感=同じ価値観。
気が遠くなりますが、国境を無くし、自由・民主・民権との同じ価値観でグローバル的に統一できれば、初めて真の平和が訪れる。

Posted by Preston.Lee at 2014年07月25日 10:34
そうではないと知っています。
信仰と理解とは矛盾しない。

キリスト教はとても難しい宗教です。
多分、知られている宗教の中で教義的に一番難しい。

仏教はナーランダー大学で玄奘三蔵が他宗を弁論で打ち負かしたことを中国の方は誇りに思っていることでしょう。割と哲学でいけるのです。
イスラムも割と簡単です。信仰が単純だから。決まりはあるけど、難しい教義はあまりありません。
キリスト教は単純な一神教ではありません。神が人になったとか、神は三一神であるとか、他教にない教義をたくさん持っています。そして、その味噌になっている「聖霊はなぜ出るのか」「子はなぜ生まれるのか」といった教義をわからないままほったらかしにしているのです。

福音書の本質を知っているキリスト者に、私はほとんどあったことがありません。一つ一つの話には、はっきり伝えようとしている事実があり、それは私には仏教徒がのどから手が出るほどほしい宝の山に見えます。
Posted by 3T at 2014年07月25日 10:50
宗教の教義も政治の主義もそれ自体が意味は為さいと言う事でしょうか。
昔、エルサレムやベツレヘムを訪れたときに”何かを感ずる”事はあったのですが、それが信仰に変わる事はありませんでした。それどころか、”最後の晩餐の部屋”からは、人が集まれば徒党を組み殺し合いにもなるのだと思い、生誕教会の磁器製の飼葉桶には冗談が過ぎると思いました。
若い頃には、自作のラジオで、モスクワ放送や北京放送を聞き、放送する主張にはなるほどと思いましたが、東欧への侵攻やチベットへの侵略を見ればとても共産主義に同意できませんでした。
結局、何かを感じて信ずるのでは身の破滅につながる、理解して信ずるのでなければならないと言う結論を得ました。
Posted by 旧旧車 at 2014年07月25日 12:13
面白い内容でした。
しかし、宗教は理解するというより、共感出来るかなのでしょう。
理屈ぽい人には、新しい宗教に共感を持つことは難しいはず。
そういう意味で、習慣の中で理解、洗脳されるものだと思います。

時に宗教の違いで戦争はよく起きますね。
習慣の違いと解釈すれば確かに理解しやすくなります。

ガザと言い、ウクライナと言い、早く平和的な解決がされる事を祈ります。
Posted by 浅野嘉名 at 2014年07月25日 12:53





国家主義と宗教は必ずしもきつく抱き合ってはいない
その堅さなどそうしないといけない危機的環境が生まれているかどうか
たとえば
神道なんて宗教なのかそうでないのか、別にわからない
そんな厳しいものとも現代では想わなくていい

でも、自然崇拝がなくならない限り神道はなくならない

国家観に混ざるとき、自分は宗教をわざとに混ぜる
そんなに恐ろしいものではないと信じるからです

わたしは中国は嫌いじゃないけど共産教は触れられない
ならいっそ日中は距離を保つべきって想う
傷つけられ傷つけ、いつまで続くの






Posted by 原口 智衣 at 2014年07月25日 14:36
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