福島県浪江町の1万5千人が原発事故に対する慰謝料の積み増しを求めていた件で、仲介役の原子力損害賠償紛争解決センター(ADR)が示した和解案を東京電力が拒んだ。

 ADRは当事者間で話がつかない場合、事態を早く解決するために設けられた枠組みだ。このまま物別れとなり訴訟にでもなれば、双方の負担が増す。東電に再考を求める。

 そのうえで、今回の申し立てを、原発事故に伴う損害賠償のあり方そのものを考えるきっかけとしたい。

 原発推進を国策としながら、日本の原子力損害賠償制度は極めて脆弱(ぜいじゃく)だった。過去にない過酷事故で被害がどれだけ膨らむかが見えないなか、国は原子力損害賠償紛争審査会(原賠審)を通じ、現実を後追いしながらつぎはぎのように基準を設定していくしかなかった。

 象徴的なのが、精神的な苦痛に対する慰謝料の基準を、交通事故の自賠責保険に求めたことだ。「故郷を奪われ、着の身着のまま避難した自分たちの扱いが、交通事故の最低補償並みなのか」。被害者がそう受け止めるのも自然なことだ。

 今回の申し立ては、浪江町が住民の7割以上をたばねて代理人となり、町民共通の事情を理由に増額を求めた。ADRが本来、被害者の個別事情に対応する機関であるとすれば、その手法に議論はあろう。

 浪江町の求めに応じると「原陪審で決めた指針+個別対応」という枠組みが崩れ、賠償問題がふり出しに戻りかねない。東電側に、そんな危機感もあったかもしれない。

 だが、制度が整っていないなかで事故が起きた以上、適切な賠償ができているか、常に目を向けていくべきである。

 事故から3年以上が経ち、被害実態の中には当初の見込みと大きく異なる部分もある。ADRにもこれまで約1万2千件の紛争が持ち込まれ、7割の和解実績が積み上がっている。

 これらを分析し、共通性があるものについては東電自身が自主的に賠償基準に取り入れていく。国としても賠償基準全体へと反映させていく。そうした工夫の余地はあるはずだ。

 そもそも、国が生活再建などへの財政支出を渋り、東電による損害賠償の枠内での救済にこだわったことに無理があったのではないか。

 政府内では、ようやく原子力賠償制度の見直し作業も始まった。福島第一原発事故の経験と反省を、こうした分野にも生かすべきだ。