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T・ヘイガー『大気を変える錬金術』
ハーバー、ボッシュと化学の世紀 渡会圭子訳 白川英樹解説
原書のタイトルはThe Alchemy of Air(空気の錬金術)。この本のテーマである人工窒素固定には、想像以上に「錬金術」という言葉がぴたりと当てはまる。それが価値の低い物質を、価値の高い資源に変える科学だというだけではない。開発者であるハーバーとボッシュ、二人のまったく個性の異なる科学者を、物質変換の比類ない力のとりこにしてしまった。
ハーバーとボッシュは次なる錬金術を求めて、それぞれに壮大な、ほとんど狂気じみたプロジェクトに突き進んでいく。本書『大気を変える錬金術』によれば、二人のうち一方は無惨に失敗し、もう一方は成功に近づきすぎて、より大きな悲劇を招くことになった。現代の錬金術を知りすぎたのは、むしろこれまで日本では認知度の低かったボッシュのほうだった。
ボッシュが人工窒素固定の次にのめりこんだプロジェクトは、ガソリンの合成だ。天然の肥料に化学肥料がとってかわったのと同じように、石油由来のガソリンに合成ガソリンがとってかわったら、世界をどれほど変えることになるだろう? 少なくとも技術面では、ボッシュは成功寸前までいった。市場でも成功するためにIGファルベンをつくり、スタンダードオイル、フォードとも提携した。国家権力とも手を結んだ。そしてボッシュの合成ガソリンはナチスドイツのガソリンになり、そして……本書で振り返ってみてほしい。これは、未来の物語でもあるかもしれない。
人工窒素固定の発明は、化学肥料の大量生産、ひいては近代農業を可能にし、今日の世界人口を支えている。同じ技術が近代化学産業の基礎を築き、化学兵器もこの世に送りだした。その重みを本書で初めて知って愕然とする読者も少なくないだろう。最終章は、ハーバー=ボッシュ法が「私たちの地球上の大気を巨大な肥料のサイロに変えた」ことの帰結について語っている。地球の窒素サイクルの変化は生物圏全体を変質させ、とくに大気よりも水系への影響が大きいという。著者はこういった負の側面を描きながら、けっして科学自体を否定したりはせずに、窒素サイクルについての章を次のように締めくくっている。
「私たちはもっと知らなければならない。……おかしな話だが、こうした元素循環の図を見ていると、複雑な機械のフィードバックシステム化、巨大なビジネス組織のプロジェクトのフローチャートのように見えてくる。そしてそれが第二のフリッツ・ハーバー、第二のカール・ボッシュが取り組むべき難題のように思えてくるのだ。」
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