[review] Rhetorica Review

こんどうたくや|スケートを辞めてから見えた、フィギュアスケート“トンデモ”採点

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レビュー対象=フィギュアスケートこんどうたくや=全日本スケーター(「ルパン 近藤」でyoutube検索)>>>しがないリーマン、多感な24歳。初出=Rhetorica #03(URLほかのレビューも読む(URL

 フィギュアスケートの試合をテレビで観戦している際に、派手に転んでいたり、一度もジャンプに成功していなかったりした選手が上位になっているのはなぜなのかと、採点に対して煮え切らない思いをしたことはないだろうか。実は視聴者がしばしば抱くそうした思いを、選手はその倍、いや100倍は感じている。自分自身、選手時代からこの疑問に頭を巡らせて続けてきたが、本稿ではそこで辿ってきた道筋を簡単に記してみたい。
 煮え切らないジャッジが発生する状況は、実はある程度限られている。そもそもフィギュアスケートは、スポーツであると同時に芸術でもあり、その競技の点数はジャンプやスピンの成否に対する技術点と、表現力やプログラムのクオリティに対して与えられる演技構成点の合計ではじき出される。そして、技術点がある程度客観的に決まるのに対し、演技構成点の評価はジャッジの主観に依るところが大きい。もちろん、評価のための一定の基準は存在しているが、それ自体が競技を取り巻く状況に応じて変化していくものであり、決して不変というわけではない。つまり、演技構成点は依然としてジャッジの主観的な判断にある程度は委ねられているのである。そしてジャッジの心理としては、自分だけが他のジャッジと大きく異なる点数をつけることは避けたい。そのためジャッジは、無意識のうちに個々の選手の実績等からある程度の予想点数を見積もった上で、毎度の演技の評価に臨んでいる──というのが、少なくとも選手として競技をしていた時の自分の実感である。
 そうしたバイアスによる採点結果の歪みが最も顕著に現れるのが、絶対王者──実力や実績、人気などで他を圧倒しているスター選手──の地位が脅かされそうになる局面だ。正当な評価が下されるならば絶対王者が他の選手にその地位を譲るはずの場面でも、絶対王者が絶対王者であるという理由で、負けるはずの試合に勝ってしまう、あるいは僅差になりそうなところで圧倒的な大差をつけて優勝してしまう──そんなことが往々にしてあるのだ。フィギュアスケートにおいては、そのつどの演技に対する評価という短期的な視点と、それまでの試合成績に基づく信頼という中長期的な視点が暗黙裡に同居している。そして後者が過剰にはたらいた場合に、観客や選手当人にとって一見納得のいきづらい不自然な結果が生じることになるのだ。
 こうした不自然な採点の歪みに対し、異議申し立てがほとんど発生しないのもフィギュアスケートの特徴だ。その理由は大きくわけて三つある。一つは、ジャッジから安定した実力があると評価される選手になれば、今度は自分自身がミスジャッジの恩恵を受ける側になるからである。二つ目は、そもそも採点に主観的な要素が入り込むことが避けられないフィギュアスケートという競技において、一度下された判定が覆ることはほとんどないからである。三つ目の理由は、二つ目にも関連するが、日本国内の大会においては、ジャッジがすなわち日本スケート連盟であるということだ。海外試合の派遣選手や強化選手の選定を行うのも連盟であるため、たった一度の不満な結果について「お上」に楯突くことが、長い目で見たときに果たして本当に得になるのかはわからない。こうした不条理の中で選手にできることといえば、せいぜい「評価される側に回ることができてない、実力の無い自分が悪いのだ」と無理やり自分を納得させることくらいだ。まさに自分自身も、そうやって10年間競技を続けてきた。
 このように、フィギュアスケートの採点におけるミスジャッジは、選手・ジャッジのそれぞれがモヤモヤを抱えながらも、結局は持ちつ持たれつの関係に寄りかかってしまっていることで生じているのだと言えなくもない。銀盤の裏側に隠されたこの微妙な力学は、世界に確かに存在している実力差を完全にひっくり返すほどの力は持っていない。しかし、ただでさえ普段どおりの実力を発揮することが困難なこの競技にあって、不安定な選手の心をさらにざわつかせるには十分すぎるくらいのエネルギーを持っているのである。