舞台監督にインタビュー

クリエイト大阪創立メンバー 山田修にインタビュー 

クリエイト大阪創立メンバーの一人である山田修に、クリエイト大阪が設立以前、舞台監督の認知度がまだ低かった大阪での活動期間から、東京へ進出してクリエイト大阪を設立、その後ステージ制作会社スペースコアを設立して独立、そして現在関わる仕事までを語っていただきました。

 

山田 修さん

 

金一浩司 

岡野克己

     取材・構成  五十嵐洋之(ビレッジプレス)

 

 

 ──1949年、大阪生まれということですが、大阪のどちら出身ですか。

 

山田 守口です。親父は守口市役所に勤めてた。守口は三洋電機の本社があったところで、隣の門真市にパナソニック当時はナショナル=松下電器産業があるから電機の街みたいなところだね。だからアルバイトをするには困らなかった大阪と京都の間にあって、淀川に沿って点在する街の一つ。

大阪湾から上流に向かって左側には高槻、茨木、吹田とかがある摂津と呼ばれる地域で、守口や門真がある右側が河内。

おれらのところは一番北だから北河内と呼ばれてる。泉州の岸和田だんじり祭の方が南河内やね。 日本海側から大坂城を攻める勢力はまず琵琶湖に出てきて、京都を経由してから淀川に入ってきたんだよね。守口って「守る口」でしょう。大坂城の一番端っこの出城なんだよね。

京都方面から来る者に対しての防御というかね。同じように大阪城をぐるっと囲んで玉造とか森ノ宮とかいろんな街があるんだけど、それはすべて出城だったわけだね。大阪に行ったら分かるけど、淀川から繋いだ運河でできてる街だね。 

 

 ──もともと中川五郎さんのマネージャーをやっていたんですよね。  

 

山田  高校のときに同じクラスになって、あるとき隣の席になったのね。一番嫌いなタイプだったんだけど、どういうわけかウマがあって、中川五郎の家は学校から近かったから、そこに泊まるようになった。

すごいお屋敷でね。とにかく意気投合して、ちょうど彼が歌い始めた頃だったから、一緒についていったことからおれの人脈が始まるわけです。 

 

 ──金一さんとはそのころ出会ったんですか。

 

山田  1966年ごろには中川五郎も高石さんともやさんとかと一緒に歌うようになって、おれも一緒に動いていた。大阪労音の中にもフォークソング愛好会があって、そこでもよく歌っていて労音に出入りするようになった。

 

金一  僕は1968年に労音を辞めたけど、大阪労音で最初にやった舞台は何だったの?

 

山田  1969年の「ダークダックスリサイタル」。まだ労音にいた黒須保雄さんの仕事。「東京行ってこい」って言われて、訳も分からず新幹線で東京へ行った。竹橋の毎日新聞で資料を借りて、そして神田の古本屋をまわって『LIFE』を探して、カメラマンの沢田教一さんの資料を作った。普通に歌うんだけど、沢田教一(*)さんについての新曲をやることになって、スライドを作ってフェスのオケピから映しましたよ。 それが訳も分からずやった最初の舞台の仕事。黒須さん、望月さん、林さんにお世話になりました。

     (*)沢田教一  報道写真家1966年ベトナム戦争を撮影した「安全への逃避」が世界報道写真コンテストで大賞、ピュリッツァー賞など受賞、1970年カンボジアにて狙撃され殉職 

 

岡野  たぶん修さんはその時期はまだ「舞台監督とは何ぞや?」というものがなかったような気がする。

 

山田  ないない、何もない。おれはフォークから派生する動きの中にいて、新宿西口フォークゲリラとか、べ平連(*)のデモとか。まだ舞台監督でもなかった。     (*)ベ平連  ベトナムに平和を!市民連合の略

 

 ──音楽は好きだったんですか。

 

山田  まったく興味なかった。そんな感じで、たまたま関西フォークに首を突っ込んでいただけ。秦政明さんと高石ともやさんが高石事務所後の音楽舎を作って、1968年ごろには中川五郎もそこを中心に歌いに行くようになったからおれも彼と一緒に動いていた。

     その後、1969年に秦さんが続けて作ったURCレコードに大阪労音から樋口浩さんらが入ってきた。フォークコンサートやフォーク連合などの高石事務所の仕事をしながら、黒須さんの仕事もやるという時期だった。 

竹中労さんが「インターナショナルフォークフェスティバル(IFC)」というものをやろうと言いはじめて、1970年になっある日、その会合が北新地の飲み屋「クルセイド」であって、なぜかおれも連れていかれた。

そこに秦政明がいて竹中労がいて、なぜか金一さんもいて、この時初めて金一さんと会ったんだ。その会合が終わって、そのまま金一さんについていったわけ。そのときは何をやる人かわからなかったけど、おれは金一さんの所で生活をはじめるようになって、家には帰らなくなった。もう一つのねぐらが大阪駅前第一ビルB2Fのジャズ喫茶「ジュニア」。 そしてそのまま秋の演劇センター6870黒テント公演に突入することになる。黒テントを名古屋の南山大学まで迎えに行けというのが最初の仕事だった。

 

 ──黒テント公演への関わりはどのようにできたのですか。

 

金一  僕の本にも書いたけど、大阪労音を辞めてボウリング場をやっているときに竹中労さんからIFCをやるから手伝ってくって連絡があって、呼ばれていったんだ。竹中さんは大阪労音の歌謡曲例会の企画なんかをやっていて、その時につきったのを覚えていたんだ。結局、IFCはピート・シーガーが来なくなって中止になったんだけど。その前後に佐藤信さんから移動テント劇場を作って各地を公演するから、テント制作の協力と大阪公演をプロデュースしてくれないかと依頼がきた。

当時ボウリング場に勤めていてお金には困らない生活だったけれど、経理を勉強する以外することもなく満たされない日々をすごしていた。

それで、大阪労音を辞めてURCレコードにいた村元武さんに相談して、ただチケットを売るだけではつまらない、逆に黒テントを使って大阪の表現をやろうということになった。田川律さんも加わって、大阪労演の大久保勝子や、もちろん修もいたし、谷口博昭や大橋誠仁もそこに加わった。

黒テントも完成し、演劇センター6870の「翼を燃やす天使たちの舞踏」マルキ・ド・サド作、佐藤信・山元清多・加藤直・斉藤憐構成、佐藤信演出、佐藤允彦・岡林信康音楽、出演は吉田日出子、草野大悟、串田和美、清水紘冶、斉藤晴彦、服部良次、樋浦勉、村松克己、安田南、新井純、山口美也子、中村方隆、桐谷夏子、ほかのこけら落とし公演が大阪からはじまった。

演劇公演の前、第1部をフォークソングのメンバーが歌ったり、芝居や映画の上映もやったし、糸川燿史さんの写真展もテントのまわりでやった。修は音楽舎高石事務所改めのシンガーを引き連れて来たな。

 

岡野  その原資はどこから来たんですか? 収支は?

金一  実行委員会の形で取り組んだけど、基本的には全部自分が持ち出したというか、引き受けるという形にした。要するに大阪公演のプロデューサーということ。

 

山田  興行元ですよ。

 

金一  でもはじめから採算のとれる興行でもなかったし、自分の実家や自宅を宿泊所にして、1週間くらいそこに寝泊まりしてもらって宿代を浮かせた。次はテントを張る会場の問題で、大阪は5公演だったんだけど大阪城公園の一角、旧NHKの前を適当なことを言って押さえた。ポスター貼りでは僕とか修とかが夜中街の電柱に貼りに行って、警察に追いかけられたな(笑)。僕は逃げたんだけど、修たちは捕まった。ポスターを貼るのりを作るのもご飯の残りや薄力粉を水にとかして炊いて作ったりしましたね。

 

山田  おれの後ろに大橋が走ってたの。よく知ってた曽根崎小学校の横だったからどこへでも逃げられるんだけど、大橋が捕まったから仕方なくおれも捕まったんだよ。金一さんは表通りに出て、パッとタクシーに乗るんだけど、おれらは金がないからタクシーに乗れない(笑)その差だよね。

 

岡野  ある劇団の興行を打って、地元のミュージシャンがおもしろいからやらせる。いまの時代か ら考えると、発想はいいけど結構ムチャク

           チャですよね。

 

金一  そうだよな。その5公演だけではペイできないから、大学にも主催を持ちかけ。大橋が大阪学芸大学の委員長やっていたから無理矢理そこでやって、それから谷口の大阪芸術大学。どこの大学でも若干揉めたんだけど、芸大の入口まで行ったら学校側が入れさせない。すったもんだ揉めて、谷口が困ってたなあ。帝塚山大学、関西学院大学、神戸外大でもやった。ベ平連らのグループが堺や枚方でもやってくれて、結局12ステージになった。

 

山田  黒テントはトラック2台で引っ張って、そこにテントを建てるわけ。そのトラックが左にしかハンドル切れなくなって(笑)。

その芸大に行くときにずっと左折で行ってね、あのときは必死だったよ。

 

金一  当時は一方通行なんてそんなになかったから行けたんだよね。ジェネレーターがダメになり、斎藤憐さんが公園の街灯が付いている電柱から盗み電気をするなどいろいろ大変だったよ。

 

山田  大阪公演では、1日だけテントを張る柱が潰れて建てられないから野面でやることになって、それは話が違うってNHKのニュースで流れたりね。 バックに教育塔がある公園の一角で、その前で「これは夢である」とか言って芝居がはじまるわ。公園側もカンカンだし、大阪市の教育委員会あたりも大変だった。

 

 ──黒テント公演はなかなか盛り上がったようですし、集まったメンバーも多く、金一さんや修さんはそれから雑誌作りに向かうんですよね。

 

金一  黒テント公演を潮に僕もボウリング場を辞めることになったし、村元さんもURCの『フォークリポート』を辞めた。

     その頃、ちょうど黒テント公演の特集を組んでくれた『月刊プレイガイド』が1年持たずに潰れてしまっていて、そのままにしてはもったいないと、同種の雑誌を僕と村元さんとでやってみようということになって、大阪労音を辞めてオリコンをやっていた中野実さんを加えて動きはじめた。もちろん黒テントで活動したメンバーにも声をかけて、1971年の『プレイガイドジャーナル創刊時のメンバーの中には修も大橋も谷口もいた。堺公演をやった桧本多加三も。女性陣では大久保勝子や山口由美子、田中久美子、豊山愛子らが残っていた。

 

山田  オレはフォークコンサートには携わっていたと思うし、大阪労音制作のアルバイトもやっていたし、黒テントの全国ツアーにも参加していたと思う。 そのときにはみんな集まっていたんだよね。狭い事務所がいつも満員だった。

 

金一  その後もこのグループで1971年に早稲田小劇場の公演鈴木忠志「劇的なるものをめぐって吉行和子さん、白石加代子さん)や、黒テントもその後の公演も雑誌の創刊準備と並行して取り組んだ。

中之島にある中央公会堂で当時気鋭の美術グループAKT=朝倉摂さん、金森馨さん、高田一郎さんの3人がそれぞれ演出、照明、衣装を担当その実行部隊をぷがじゃチームプレイガイドジャーナルをPGJとかぷがじゃと呼んだ)がボランティア(当時ボランティアという言葉もなかった)手伝った。まだホモセクシャルが認知されない当時カルーセル麻紀さんが美しかったのをおぼえている。

 

 ──プレイガイドジャーナルは立ち上がりましたが、金一さんや山田んはどのように加わってやったんですか? 並行して舞台監督の仕事も拡げられていったわけですね。

 

金一  当時のイベント情報誌は、とにかく大勢で取材して原稿を書いて、それを写植屋に印字してもらって、それを貼り込みするんだよね。その貼り込みをした版下を印刷製本した。

     もちろん広告も取らないといけない。最初から売れるわけはなくて赤字が積み重なって、ボーリング場で儲けたお金なんて1年も持たなかったな。   「これは稼がないと」ということで、僕は昔取った杵柄で舞台監督の仕事を始めることにして、その舞台監督のチームにいたのが修、谷口、大橋、照明専門に近い形で安藤利通さんがいて。雑誌作りをしながら舞台監督で稼いできて、それぞれ稼いだお金の10%を『プレイガイドジャーナルに入れてたんだよね。

 

山田  1971年以降は金一さんの支配下に配属され、東京へと進軍し。後で出てくると思うが、オールスタッフプロダクションに連れて行かれ、これが舞台監督としての仕事の始まりやと思う。東京では家がないから玉虫の実家に世話になったり、黒テントで知り合った石井久仁子さんの阿佐ヶ谷の家に居候したり、服部良次さんの実家(服部良一さん)に泊まったりして稽古や打ち合わせをこなしましたね。そうそう、六本木の待ち合わせ場所は六本木ハイツにあった吉永事務所、島田智子さんにこの時初めて会いました。それで仕事が終わり、大阪に帰ってきたらギャラがなかったことがあった(笑)。

     村元ちゃんに「今回、金ないから」って言われたなあ(笑)。

 

金一  10%だったよ。それ以外はみんな個人で稼いでくるという形でやっていた。

    そうしているうちに、ボウリング場で一緒だった松田一二さんという高校時代の同輩が入ってきて、彼は元々広告代理店(万年社)でわりと人当たりもよく、テレビ局関係にも強くて「ヤングオーオー」の台本書いたりもしていたね。 

     当然ぼくらは現場に行っていたから、雑誌の方は村元さんがチーフで、創刊してから松田さんが加わると新しい事務所に移転、新しい事業も増やそうと会社を作ったわけだ。その会社の名前がクリエイト大阪なんだよね。

     ちょうど『プレイガイドジャーナル』が創刊した1971年の夏に「少年少女漂流記」というものもやったね。黒テントが中津川の「全日本フォークジャンボリー」に2台のトラックと主要なスタッフが加わって参加していた。それで、「全日本フォークジャンボリー」が終わってから「中津川から移動しつつ漂流して、移動しながらいろんな場所に黒テントを張ってお祭り兼コンサートをやろう」と佐藤信さんが言い出た。僕らの友だちで角田整駿さんが伊勢の海岸でオートキャンプ場をやっていたんだよね。「そこの場所貸せ!」って、そこで1日目をやった。

 

山田  悪ノリするアホな友だちで(笑)。

 

金一  2日目はヤマハの合歓の郷。3日目は和歌山県の橋本の紀ノ川の上流の河川敷に場所があって、そこの村長を誰が知っていたのか憶えていないけど、僕と松田さんが行って交渉した。その僕は直前に扁桃腺を腫らしてしまって行けなかったんだけど、田川さんや修はずっと行ったんだよね。

 

山田  中津川からずっと、金の工面しながら。宣伝も何もしてないから、当日に町中に出て行って「今日、こんなコンサートやりますよ」ってチンドン屋みたいなことをやって、夜は岡林とかがコンサートをやった。

 

金一  人は集まらなかったんだよな。

 

山田  500円くらいで50人くらいしか集まらなかった。

 

金一  発想はおもしろかったんだけどな。

 

山田  ゲリラ的にやろうということだったんだよね。

合歓の郷ではヤマハがギャラをくれて、浅川マキさんとか岡林信康さんに合流した「はっぴいえんど」とかに、たいした金じゃないけど払えた。

 

岡野  聞いていると「おもろいからやろうや」って、発想の方が先に行っちゃってる感じですよね。

 

金一  そうそう!

 

山田  誰もお金のこと考えてないもん(笑)。

 

金一  要するにつじつまをあとで合わせる。だからあっちこっちにご迷惑もかけたね。

 

山田  本当に金がないから、フォーク関係の知り合い、うちの嫁さんの友だちの金持ちから金を引っ張るとか、そうやって埋めていった。だってないんだもん、お金が(笑)。

 

 ──金一さんも修さんも舞台監督の仕事はどのように拡げていったんですか?

 

山田  最初は大阪にいて、プレイガイドジャーナルの事務所に出たり、舞台の仕事が入ると東京に出かけて打ち合わせや稽古に立ち会ったりしていた。そしてその企画の公演が各地に出るとそれについて全国を廻るやりかたかな。

1971年から数年間でやったステージでは「ミュージカル死神」や「由紀さおりリサイタル」などがあるが、いずれも全国の労音をまわった。いずれにしても東京の仕込みになるので、東京に宿泊所を借りたかったが先立つものがなく最初は今井照明の友井さんの広尾アパートを借りたりしていた。黒テント公演からプレイガイドジャーナルのスタッフになって、取材や編集をやるうちに、それから舞台監督の仕事をしたいというメンバーも出てきて、編集グループと分かれていく。

 

金一  僕や修と、谷口、大橋、それからおぎのえんぞう、安藤照明から関口哲雄、他にも世界歌謡祭など大きなステージは臨時に田川、村元らも加わった。東京のメンバーも大塚照信や井出悟、玉虫豊らが増えて、宿泊所は防衛庁前に移った。

    宿泊所では、修はどこかを泊まりあるいていたが、大橋や谷口は常駐だったので、整理整頓派の谷口とほっぽり出してそのまま派の大橋の対立。夫婦喧嘩まがいの衝突が日常行われていたな。部屋のかたずけ、掃除、ごみ、布団洗濯ものなど。

 

 ──クリエイト大阪の歴史以前の歴史ですね。現在のクリエイト大阪のホームページでは1974年からですからね。区切りとしては「世界歌謡祭」「ジーザスクライストスーパースター」あたりでしょうか? それ以前の話をもう少し聞かせてください。

 

岡野  東京で「ジーザス」をやる前の混沌としていた時期にどうしていたんですか。

 

山田  おれたちが東京に出てきてオールスタッフの仕事を徐々にやりだした頃、一緒に加わってやりたいという人もいたんだけどみんな断っていた。 だけど、1973年に「ジーザス」の仕事を受けたときに人が足りなくなって、これまで断った人に「助けて」って声をかけて、いまの形になった。そのときに入ったのが井出で、もうおれらもある程度仕事もできるし、

    特に新しい連中をライバルと考えたこともなかった。金森馨さんが「死神」を一緒にやったときにこちらを信用していただいて、劇団四季にはミュージカルとかの舞台監督がいなかったから「ジーザス」のときに声をかけてもらったんだ。

    舞台監督の仕事がとても忙しくなるきっかけになったし、東京での仕事の認知みたいなものにもなった。

 

金一  劇団四季の公演が軌道にのるようになったのは、「ジーザス」でアンドリュー・ロイドウェーバーとつき合いが出来たということが一番大きいんじゃないかな。それで「キャッツ」で大当たりした。

 

山田  「死神」に出ていたメンバーをおれたちがそのまま「ジーザス」のキャスティングに入れたんですよね。それが市村正親さんと、もんたよしのりさん。これはすごいことだと思う。

 

金一  当時は劇団四季も人がいなかったからね。たしかに「ジーザス」で金森さんの信頼を得たことや、照明をやっていた吉井澄雄さんとか沢田祐二さんのところから仕事をいただいたことが大きかったな。

 

山田  その当時、おれは現場で仕事しているよりも金森さんのところで何かやっているとか、朝倉摂さんの家で何かやってるとか、そういうことの方が多かった。模型を作らされたり金森さんと麻雀やったり(笑)。

     おれは舞台監督でメシが食えると思っていなかった。みんなそう思っていたと思う。ただ、金一さんはプレイガイドジャーナルで金がいるから違う経営者の側面が出てくるけど、おれらは関係なかったな。

     おもろいことやって食って行ければいいって、年齢的にもそう考えてた。

 

金一  井出悟が亡くなる前にちょっとご飯食べる機会があって聞いたら、彼は舞台監督で飯を食いたいと思っていたんだって。

 

山田  それは聞いたことあるなあ。

 

金一  よく憶えていないんだけど、いずみたくリサイタルで名古屋に来ていた僕とか修に自由劇場のスタッフだった杉山さんと井出がわざわざ会いに来たんだって。それが一番最初らしい。

 

山田  憶えてるよ。黒テントの演出部に杉山と井出はいたんだけど、外で仕事がしたいということだったんだよね。井出、杉山さん、斎藤憐さんたちは杉田成道さん(*)とかフジテレビのプロデューサー連中のラインが強いんだよね。

     それで、おれらが金のないときにホンダのモーターショーとかをやって、それでメシ食ってた時期があった。

     ぼくらが職業として舞台監督を意識しはじめたのはオールスタッフに行ってからだね。

    (*)演出家。「北の国から」、「若者たち」(2014年8月現在フジTV系にて放送中)など。また名鏡さんも劇中ステージで杉田さんと仕事をしたことがあ

 

金一  オールスタッフということはつまり、いずみたくさんだよね。いずみたくさんは音楽学校へ行かずに独力でメロディメーカーになったという意味では中村八大さんと双璧で、彼の場合は自分のミュージカルを作りたいという夢があって、それをわれわれもひっくるめて何本かやったんだよね。

 

岡野  ぼくはそこによく差し入れに行きましたよ(笑)。

 

金一  「死神」からはじまって「おれたちは天使じゃない」「洪水の前」「歌麿」などなど、いろいろやりましたね。  そういう経験が役に立っていることはあるよね。

 

山田  ヤマハと結びつけた仕事の一つがエレクトーンだね。1970年頃から日本中にエレクトーンが普及していって、4人くらい偉い先生がいたんだけど、同じ日に3カ所、4カ所でエレクトーン教室をやるわけ。

     日曜日に東北と九州が重なるとか。それで人が足りなくなって、おれや玉虫、谷口が手分けしてやったことが、わりとレギュラーで仕事が入るようになったきっかけだよね。

 

金一  ヤマハといえばやはり最初は1970年から始まった世界歌謡祭だな。

ヤマハ社長の川上源一さんという実力と夢をもった傑物がその時代に存在したことが大きいと思う。サントリーの佐治さんもそうだね。この武道館の舞台監督を僕がやれたのは、1971年からだが、僕もメンバーにとっても大きな励みになった。

 

金一  綜合企画(現SOGO)というのは大阪労音にいた広畑茂という稀代の傑物がつくった会社で、彼は麻雀するとすぐにズルするんだけれど憎めない。 本当に独特の性格だよね。親分肌というかね。

 

山田  当時の神戸芸能とか、ヤクザ系の興行屋とも何の関係もなしにやるしね。

 

金一  その広畑さんと新井玠さんの二人が「日本ステージ」設立のきっかけにもなった。大阪労音は公演数も多くて、専門の道具屋さんを作るということで日本ステージは出来たわけです。 1969年に労音事務局員が大量離職したけど、娯楽が増えていって会員数が減少した。それが一番の原因なんだろうね。「より安く」とお金を儲けないやり方を続けていたから、組織に貯蓄もなかった。

     そのときに広畑さんたちは、このままではいけないと思って、利益の上がる会社を作った方がいいと考えたんだね。

      それで作ったのが綜合企画。大阪労音もだんだん下火になっていくと綜合企画に移る人も出てきて、黒田益弘さん、丸山輝夫さん、水野茂樹さんとかがそうだよね。修がやった五木ひろしさんの仕事は綜合企画の仕事だよね?

 

山田  そうそう。広畑さん経由で黒田さんから。それで見に行ったら「なにやってんねん」みたいな仕事だったの。舞台監督もいなかった。綜合企画はその頃、6大都市、8大都市のリサイタルというものをはじめたんですよ。 その中心が演歌だった。おれの場合はそうやって1974年から綜合企画を中心にしてクリエイト大阪の器ではないところへ出ていった。

     おれ五木をやると玉虫は尾崎紀世彦さんをやるんです、どういうわけか。

オールスタッフの仕事のときも、おれが由紀さおりさんをやっているときにあいつはピンキーとキラーズをやってた。

どこまで行ってもおれとあいつは敵対している感じだった(笑)。

 

金一  修は玉虫とライバル関係で、たとえば今井照明との仕事のとき、当然その照明の仕事の手伝いをするんだけど、この二人はすごい競争を始めるんだよね(笑)。見ていておかしいくらい。

     大阪労音にいた林衛が東京に出てきて、最初はオールスタッフに行ったり、TBSの砂田実ディレクターと一緒に仕事をしたり、永六輔さんの事務所のクリエイトプロモーションに入ったり、けっこう出入りしながら玉虫豊を連れていた。でも玉虫は一カ所に落ち着いていた方がいいだろうということでうちに来たんだよね。この辺の所の詳しい事情は次回玉虫さんの回で聞いてみましょう。

     海外公演の一番最初は修のやった五木ひろしだよね。

 

岡野  社内ではそうですね。

 

山田  1976年の夏、おれはそのときに、自分のギャラはいいから岡野とかもう一人連れていったんですよ。 (ラスベガス公演は1976年から77年、78年、3年連続で行われ岡野は1981年ロスアンジェルス公演から)

岡野  ムチャクチャでしたよね(笑)。

 

 

 

 

 

前列右から山下嘉治さん(日本ステージ会長)、石黒さん(通訳)、草住さん(マネージャー)、玉置宏さん(司会)、寺坂さん(元東京舞台照明)

山田修、山口洋子さん、

後列右から コーラスコールアカシア、コールアカシア、コールアカシア、井上明さん(日本ステージ)、野口修さん(野口プロモーション社長)

五木ひろしさん、広畑茂さん(元総合企画社長)、服部克久さん、山田卓さん(演出・振付)、松原史明さん(構成)、藤原さん(大阪音研)

 

 

山田  そうやって人を増やした。ラスベガスまで何するのか分からないで行ったよな。でも収穫はあった。舞台監督=ステージマネージャーだから、偉いんです。ヒルトンホテルのステージに関しての全権を持てる。例えばホールのマスターキーを渡される、修の言う事は全スタッフが聞く、特別な部屋を与えられる、などなど。反対に難儀したことは各セクションの人を連れていたのに、ほとんどが手を出せない。ラスベガスユニオンのすごさを感じた仕事やったね。それから海外の仕事を多数うけるようになるが、基本はラスベガスヒルトンから始まったと思うし舞台監督とは何ぞや?」の答えも掴んだように思えた仕事やったかな。

 

岡野  ラスベガス公演を実現させたのはどういった経緯だったんですか。

 

山田  あれは野口修さんの力。あの人はキックボクシングをアメリカで流行らせたいと考えていて、五木ひろしで500人くらいをツアーで連れていくとお金が残るから、それでキックボクシングの興行を打つんですよ。

     それがいまのマーシャルアーツのはしりなんだよね。

 

岡野  小屋を押さえられたのは向こうのプロモーターから?

 

山田  そう。当時はラスベガスのショーも変わる頃だったから、興味のあるやつを探した。ヒルトンは東洋のお客を呼べるものがほしかったんだね。確か、この年でエルビス・プレスリーが終わったのかな?

 

岡野  日本の景気も良くなってきた頃ですもんね。

 

山田  そういうヒルトンの思惑と合致して、2日間、初日に五木をやって翌日はキックボクシングをやった。

 

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──ある意味では、自由で楽しい数年間であったわけですね。

それがだんだん舞台監督の仕事が増えて、もちろん食えるようになるわけですが。1974年ごろからは、会社もしっかりして、スタッフも増えて。修さんをはじめ初期メンバーは舞台監督で食っていこうと腹をくくった時期ではないでしょうか。

 

 

ニューミュージックの時代

 

 ──修さんは70年代初頭にはフォークソングから派生する動きの中にいたのですが、その延長線上というのか、ある時期から大衆音楽の分野ではニューミュージックの時代になっていたと言われています。大きな変わり目だったのではないでしょうか。

 

山田  ヤマハの世界歌謡祭などから派生して、1976年頃からニューミュージックがはじまって、ヤマハのポプコン(ポピュラーソングコンテスト)なんかでグランプリを取った人が独自でコンサートをはじめるようになり、この頃からクリエイト大阪の仕事の柱になっていったんやね。例えで言えば、大橋がニューミュージックの仕事で大活躍するんだよね何故かというと、ニューミュージックに関しては演出家がいない。だから、アーティストが好きに作っていけるわけです。クリエイトの仕事は、制作演出代行になっていたんですねこれが大橋のサイクルにあったんだと思う。

 

岡野  ニューミュージックというのは大体シンガーソングライターだから、自分の頭の中で結構組み上がっているんですよね。そこは歌手とはちょっと違う。自分はこういうようにやりたい、ということが表に出てくるんですよね。

 

山田  ニューミュージックの仕事をやりはじめてからクリエイト大阪がちょっと変わるんですよ。ぼくらの世代は演出家、音楽監督、振付、そして美術や照明プランナーがいて、それぞれ分業みたいな感じだったから、みんなが必要だった。

 

岡野  そういう意味では歌手もその一部ですよね。

 

山田  ニューミュージックの時代は美術や照明プランナーは活躍するんだけど、演出がいらなくなる。邪魔になるんです。実はそれがいまの時代の貧困のはじまりなんですけどね。それで良いと思う人ももちろんいるわけだけど、おれはやっぱり絶えず演出家を使いたい。演出家がそこを仕切ってくれないと、制作はできないということでやってきているから。

     いまの舞台監督たちはタレントと一緒になってしまっているんです。

 

金一  要するにイエスマンってことだよな。

 

山田  そう思う。欠点は何かというと、たとえば、おれが「さだまさし」さんと仕事をするとして、ずっと一緒にやっていたら20年、30年できるわけですよ。そうすると、そこでは誰も人が育たない。クリエイト大阪の傾向はそれなんですよ。いま、みんなが難儀していて「若い人がいない」って言うけど、若い人が育つ余地を誰も作らなかった。それがいまに至っているんだけどね。これはおれの意見だけどね。おれ始めた、五木ひろしの例を挙げると、舞台監督は山田修末永博嗣岡野克己菅原秀央大山修二長野信吾松永貴広廣瀬瞬となって今も続いている珍しい仕事だと思う。

 

金一  でもそれは当たっているかもしれない。

 

山田  ニューミュージックの時代に鑑賞団体が衰退していくんですね。そのときに出てきたのがイベンター。彼らはもともと学園祭とかをやっていた学生の同好会なんですよ。鑑賞団体の衰退とイベンターを上昇がその時期に重なったんです。

 

金一  そこに、それまでは外タレの呼び屋だったキョードーが加わったりしたんだよね。

 

岡野  イベンターというのはフォーク時代にはいなかったんですか?

 

山田  もちろんいたよ。たとえば、四国はデューク、九州はビー、北海道はウェス、中国地方は番地とか。大阪とか東京の大都市にはキョードーとかが出てくるんだけど、地方ではそうやって生き残ったんですよ。

     フォークソングがニューミュージックに変わる時代に興行の形態も変わるんです。

     もっと言うと、地方の興行の組織の形態が変わった。そして、労音とかで歌っていた歌手たちの公演場所がだんだんなくなっていくん

     です。  そこにはもちろんメディア、マスコミの発達もあるれから、ジャニーズ事務所がだんだん息を吹き返してきて、

     アイドルの時代に入っていくんです。

そうすると、仕事の質もどんどん変わっていくんです。物づくりというものがまったく違うところに行ってしまって、おれらが持っている大阪労音の反骨精神というか、同じことやらないで違うことをやろうっていうものが徐々になくなっていく。

そうしたら演出家もいらなくなるよね。

 

金一  必要とされなくなって育たなくなった。

 

山田  おれや玉虫、井出、大橋の時代になっていたんだけど、それまで金一さんのしていることを見よう見まねでやってきたことを、今度はそこでどう活かしていくか、どういう変わり方をするか、ということがはじまるわけで、そこが個々の違いになっていくんだと思う。金一一家から山田組、玉虫組、井出組、大橋組とかのストーリーが出来ていって、そのあとに谷口、末永、岡野とかが続いてゆくんだよね。

 

岡野  ぼくはバンドをやっていましたから、黒テントみたいなことはある程度していたんです。自分たちでコンサートを企画して、小屋を押さえに行ったら、それには当時、集会届を出しに警察に行ったり消防署に行かないといけないことを覚えたりしたんです。あとは客集めとかもやっていたから、なんとなく裏方の動きというのは分かっていたんです。それで、猪俣猛さん(クリエイトと親交深くいずみたくリサイタルはじめ多くのコンサートをクリエイトの歴史とともに歩いてこられた名ドラマー)のところに入ってボーヤでついて回るじゃないですか。それで、裏でそうやって覚えたことをやっていたものだから、お前あっち行ってこいってことになった(笑)。

 

YMOとの出会い

 

 ──ニューミュージックの時代になって、注目すべきなのは修さんの1981年からのYMOとの仕事です。彼らとはどのように出会い、どのように仕事が広がり、制作の仕事までやるようになったそれについて話してください。

 

山田  YMOに関しては、所属の「ヨロシタミュージック」社長が大蔵(博)さんで、フォークをやっていたころからの知り合いで、彼が声をかけてくれました。大蔵さんとは矢野顕子さんのデビューコンサートが仕事の始まりでした。中川五郎と音楽舎の時代には「はっぴいえんど」の仕事もやっていたので細野晴臣さんからも声をかけてもらったし、坂本龍一さんは黒テントの公演でピアノを弾いていましたね(新宿高校2年生?)高橋幸宏さんは初めてやったね。

 

金一  大阪城公園での黒テント公演でははっぴいえんどや岡林を修は引っ張ってきたんだよな。事務所を通さずに……。いまから考えると無謀、無茶苦茶、みんな馬力だけで怖いものなしだった。

 

 

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山田  YMOは楽しくて、面白くて、勉強になった仕事でした。それと色々な世界の人達との出会いが沢山あり(ピータバカランさん、糸井重里さん、立花はじめさん、などなど)コンサートは、客席は大音響、舞台中は無音、今はやりの「earモニ」の最初だと思います。メンバー全員がヘッドホーンでモニターしていました。舞台袖でソニーの8チャンのテープレコーダーを何台も回しているといった状態で、ギャップを楽しんでツアーをしていました。今までの仕事で蓄積したものの答えがあったように思う、初めてステージマネージャーという言葉を意識した仕事になったし、ラスベガスでのステージマネージャーが理解できたように思う1982年に私が参加したワールドツアーでは、一人でロスアンジェルスに行き、アルファーレコード・与田さんのデスクを借りて打合せしました(通訳は西田千鶴さん助かりました、後で知ったのですがメリーさんの友人だそうです)。ロスで美術、照明、音響、舞台監督などを発注し、ロンドンのシェーファートンスタジオで受け取り、リハーサルの後、バーミンガム〜マンチェスター〜ワールドツアーの始まりです。

オープニングは振り落とし、セットはコンピュータゲームのようなものだったと記憶しています。 外人スタッフは夜も寝ないで働きますが、毎朝、移動のバスの中は葉っぱのにおいでむんむんでしたね。シェーファートンスタジオは、映画『エイリアン』が撮影されたところです。そして同じときに隣のスタジオではロッド・スチュアートがリハーサルをしていて、同じケイタリング会社だったのでいつもロッドのスタジオで食事をしましたね。

 

 ──それで、修さんは散会コンサートまでつきあったんですね。

 

山田  YMOの仕事では様々な人達に助けていただきました。

1983年からの「YMOの最後の散会コンサート」では演出:佐藤信さん、美術:妹尾河童さん、照明:勝柴次朗さん、音響:橋本良さん一(現ヒビノ社長)映画監督:井出情児で映画にもしました。映画の撮影で最終のシーンでセットを炎上させるということになり、その撮影が九十九里浜で寒い1月に行われました。クリエイト大阪から末永博嗣、何故か金一浩司、美術で堀尾幸男さんが立ち会っていたそうです。おれはシドニーで遊んでました。

     それと大阪城ホール、武道館の公演を綜合企画の黒田(益弘)さんにお願いしました。

     五木ひろし、フォーリーブス、郷ひろみをはじめずいぶんお世話になっていましたからいい恩返しだと思っています。

この頃から綜合企画の公演のカテゴリーが変わり始めたと思っています。

 

金一  労音時代からご縁のあった綜合企画は社長の広畑さんが亡くなって紆余曲折を経て黒田さんが継いだ、結果修さんの言う綜合企画のカテゴリーが変わったととらえてよいのか

 

舞台監督から制作へ

 

岡野  金一さんもそうだとと思うけど、我々の舞台監督とはもともと企画制作みたいなこともあわせもっていたと思いますね。

 

山田  うん、みんなあったね。金一さんは舞台監督といっても、当時言っていたことばで言うと「制作舞台監督」なんですよ。

 

岡野  クリエイト大阪はいまは舞台監督専門の会社になっていますけど、修さんは企画とか制作の方をやろうかという気にはならなかったんですか?

 

山田  当初はなかったけど。五木ひろしをやってたころからかな、だんだんと全部やらないといけなくなった。そのときまでは「舞台監督は現場だ。制作とは絶えず喧嘩だ」と、それがおれの主義だったのね。

    それがその頃から変わっていくわけです。なんでかというと、自分でお金を預かることになって、自分の中に初めて制作というものが出てきた。おれも井出も玉虫も、それぞれがその時期にシフトチェンジして、道が変わっていく……。

 

金一  われわれの時代は手帳の中にどれだけの人脈を持っているかということが勝負で、いまみたいにパソコンで調べれば分かるというものではなく、みんなが持っている手帳の中の名前と電話番号、それが唯一の財産で、そこから「この仕事には誰が向いているか」みたいなことを考えた。当時は、お金と時間がどのくらいかかって、何をどうすればいいかということを知らない人が本当に多かったね。だから、われわれの役割としては広い意味での舞台監督、ステージマネージャーの仕事の領分として仕事が増えていったということはあると思う。 だけどいまはそういうシステムもみんながわかってきて、スタッフも増え、舞台監督が進行みたいな感じになってるよね。だから、そういうコミットメント出来る人が少なくなると、どうしても仕事が減ってくるという事態になりつつあるということはあるんじゃないかな。

 

山田  過去に2回、五木ひろしさんと坂本龍一さんから事務所をやってくれと頼まれたことがあった。坂本龍一さんとはYMOが終わったときに毎日麻布十番で「どうしようか」と話をしていたんだけど、そのときにおれは絶えず「おれの親分は金一しかいない。ほかの親分は成立しない」と言っていた。それが自分のやり方だからね。あと人脈をどう作るかということがあるんだけど、おれは広畑さんに「2万枚、名刺を集めろ」と言われた記憶がある。

     フォークをやっていた時代に全国を旅するんです、今のイベンターの親分と友達になってゆくんですね。アーティストもそうですね、「はっぴいえんど」とかもいたでしょう。その一人が細野晴臣さんとか松本隆さんとかで。細野さんがYMOを作ったときには呼ばれて行ったんですよ。それでYMOの終わりまでやったんだけど、それも人脈じゃないですか。

     そうやってフォークの人脈が違うところで生きてくるんです。もっと前には「いずみたくリサイタル」でフォークルの端田のりひこさん(後のシューベルツ)に曲を頼んだこともあったように記憶しています。

 

服部克久さんとの出会いとスペースコア設立

 

 ──修さんが服部克久さんとつきあいはじめてからか仕事も制作分野まで広げていますね。最初は五木ひろしのころからですか、服部さんとの出会いは?また修さんにとって、服部さんの存在とはどのようなものでしょうか?

 

山田  黒テントのメンバーに服部良次さんがいて、すごく仲良くなってね。この時は父親が服部良一さんとは知りませんでしたが、それで洗足の家に泊まったりしていました。良次さんによく青山一丁目の角、今のホンダにあるスナック 喫茶 「アドリブ」部良一さんの妹・服部富子さんがオーナーでよく飯を食わしてもらいました、また大阪で黒テントやプレイガイドジャーナルの頃の拠点だったジャズ喫茶・ジュニアにいた西岡先輩(通称ホネ)が東京に来たとき雇ってもらい、とても喜んだのを覚えています。 そんな服部良一家との付き合いがあったので、良次さんの兄の服部克久さんに会ったときは初めてとは思いませんでした。最初に会ったのは1971年頃、合歓の郷での「ヤマハ・アレンジャーフェスティバル」か、大阪労音の「いずみたくリサイタル」でアレンジをお願いしたときか、どちらかだと記憶していますすぐに、家族の話になり、親近感が増し、その後の仕事につながってゆきます。

 

金一  私の克久さんとのお付き合いは、「いずみたくリサイタル」や歌手のアレンジの使い走りから始まります。当時歌手のコンサートの構成が決まると、歌譜面、音源さがしをし、寸法(長さ)を決めキィ(音域に合わせた調)をきめ編曲者に届け、編曲が出来上がると写譜やさんにパート譜を、音合わせの場所に持ち込んでプレイヤーの譜面台にのせる所までケアーしたものです。写譜する時間が足りないと音合わせの現場で写譜をしてもらったりしたものです。

     克久さんと最も長い仕事は世界歌謡祭で、主催のヤマハ音楽振興会(当時出来たばかりで恵比寿の駅前にあった)に対し、克久さんは歌謡祭の中身以外の方向性や組織などにも提言をされていたようです。

     また良一さんがお亡くなりになった時、葬儀をクリエイト全員で務めさせていただいた経験は、葬儀社さんにクリエイトさんと一緒に会社(葬儀屋)をやりませんかと言われたほど。困った時の団結力はありましたね。

 

山田  1974年、綜合企画・黒須さんからの依頼で初めて、五木ひろしさんの現場に行き、舞台監督を引き受けました。当時の五木のスタッフは演出:広田康雄さん、音楽半間厳一さん、美術:?、照明:寺坂俊顕さん(東京舞台照明大阪)、音響:名古屋三光・河合直義さんなどで固定されていました。黒須さんと話をして綜合企画制作なのでスタッフを大幅に変えていただき、その時に服部克久さんに音楽監督・編曲・指揮を頼みました。

     いつの間にか、世田谷代田の服部克久家に出入りし、服部克久さんのスケジュール帳(能率手帳)に好き勝手にこちらのスケジュールを書き込んでいました。それから沢山の仕事を一緒にさせていただきました。

     その後1976年、77年、78年の五木ひろしラスベガス公演につながり、演歌はフルバンドと言う、不文律を破っていきました。演歌界の革命です。

     1979年には私の結婚式(大阪・プラザホテル)の仲人も引き受けてもらいました。この頃からホテルのディナーショーが盛んになり、服部克久さん、宮川泰さん、前田憲雄さんなどがアレンジャーとして様々な音楽分野で活躍してゆきました。1983年だと思いますが大阪城ホールの杮落しを21世紀協会から依頼され、コマ劇場社長の伊藤邦輔プロデューサーと話をして服部克久さんに音楽プロデューサーを依頼しました。構成・演出、植田伸爾さん。音楽、芥川也寸志さん・富田勲さん・服部克久さん・宝塚の石浜さん。照明、今井直次さん。音響、岡本基さん。出演、谷村新司さん・尾上松緑さん(先代)大阪フィルハーモニー、大阪市吹奏楽団、コーラス隊……、皇太子夫妻(現天皇陛下)をお迎えしてオープニングを飾りました。初めてIDカードを胸に下げて、皇太子の周りですべてのキューを出した仕事でした。

     皆の知らない話、大阪城ホールの初代理事長・植平さん誕生秘話、当時フェスティバルホールの副支配人をしていた植平さんを口説いて、履歴書を書いてもらい、伊藤邦輔さんに承認してもらったのも記憶に残っています。

     1984年、服部克久さんがアルバム『音楽畑』をリリースし、コンサートも希望され、ワーナーミュージックの寺林さんがプロデューサーになり、「音楽畑コンサート」が中野サンプラザホールで開催されました。ゲストさだまさしさん

     私にとっては「いずみたくリサイタル」以来の音楽家のコンサートです。力が入りました。金一さんとは違う形で制作したいと思った仕事でした。周りからは一回で終わる、長続きしないなどと言われたことが発奮材料になり、東京では約10年続けました、青山劇場の関係者の皆さん、TBSの皆さん、平尾さん及び多くの関係者のみなさんありがとうございました。足かけ25年「音楽畑コンサート」を制作させていただきました。山田修のステージマネージャーの完成かもしれません。

 

 ──そして、1985年に制作会社スペースコアを設立しました。

 

山田  35歳の時、スペースコア=宇宙の核……ありえない(笑)ありえない会社の誕生。クリエイト大阪ではできそうにない経理になりそうだったので、じゃ会社にしますと言って始めました。仕事は0、気が付けばクリエイト大阪に仕事は全部置いての旅立ちでした。スポンサーになってくれたのがアパレルのワールドさん、当時の宣伝部長中野さんにはすごくよくしてもらいました、1984年ワールド記念ホールの杮落し公演、坂本龍一さん、キクチタケオさんのコラボレーション、この仕事は坂本龍一さんからの依頼で、ワールドさんとの付き合いのはじまりでした。1985年に始めた「服部克久音楽畑コンサート」はモチベーションを高めてくれました。

 

 ──「音楽畑」はずいぶん広がってまた長期にわたって続いたそうですね。

 

山田  市制何周年などと各地で展開することで続いたと思います。

例えば信州車山高原「音楽畑ナイトコンサート」が約20年(近畿日本ツーリスト・辻さん、馬場さん、車山観光協会・那須さん、伊東さん)、新潟「夕日キャンペーン・夕日コンサート」が18年(夕日実行委員会・樋口さん、長谷川さん、篠田さん、木戸さん、畔上さん、NT21・野沢さん)、熊本TKU「ミュージックサーカス・音楽畑コンサート」が約10年(TKU角さん)。その後、形を変えて水俣「海恋物語」(RKK・川村さん)、熊本県との付き合いも30年近くになりますかね。広島県・みろくの里「スターライト・音楽畑コンサート」が約5年(花香さん、沼隈町・神原造船のみなさん)。

他にも四国の「多度津」(デューク・宮垣さん)、徳島・吉野川「夕日コンサート」(当時のJAのみなさん)、宮崎県・大淀川「夕日コンサート」(当時のJAのみなさん、MRT満元さん)、「兵庫メッセージコンサート・音楽畑」は足かけ10年で6回公演(井戸知事、西垣さん、MBSのみなさん)。それとクリエイティブ・ユーの植田さんの動きは特筆ものです。東京ポップスコンサート・北京公演・ニューヨーク公演。この音楽畑の形態が制作するうえでのバイブルになりつつあります。

     その土地の人達が参加して、原動力にならないと何もできない。我々、東京の制作者は、いかに現地の代理人になれるか、地方の目線を持てるか、色々なことを学びました、

いや、まだ勉強中かも?

「音楽畑コンサート」を制作することで山田修の形を作れたかなと思うし、まだまだ続ける力にもなっています。

 

 ──その後の活動は大阪城ホールなど大きなホールや会場のオープニング、博覧会やフェアの制作など、まさにバブル時代真っ只中という感じですね。

 

金一  スペースコアは事務所も六本木ハイツ406から別室を単独で借りるようになり、杉山さんはじめ人も入れましたね。

 

山田  何年から始まったか定かではないのですが、コンサート関係では1983年に大阪城ホールができてからコンサート形態が変わってきたと思います。武道館から大阪城ホールへという図式。1988年に東京ドームができてさらにマスで集客する。ジャニーズ事務所の台頭、おニャン子クラブ、などなどアイドルの再来。海外アーティストの公演を日本人アーティストが追随し、システムが確立してゆきます。もちろんマスで集客するから、スポンサーが付く。テレビ、ラジオ、特にFM放送が主催するようになる(今の韓流に似ているかも)。全てのものが取り合いになり、価格が上昇しバブルが始まったと思います。

     お蔭様で業界は潤い、ミュージカルや音楽制作、イベントの開催、地方博覧会(JAPAN EXPO)、ゲーム音楽など 、大きなお金が動いたと思います。 やがてその動きがIT企業に引き継がれ、ITバブルをも引き起こします。

     私の中での特筆すべき仕事は1990年の「大阪・国際花と緑の博覧会」に大きく現れます。この仕事の始まりはコマ劇場社長の伊藤邦輔さんの推薦です。

それと中山正輝事務所から服部克久さんにオープニングのお願いがあり、双方での依頼に電通もタジタジだったのを覚えています。期間6か月の間に10本ほどのイベントを受けました。どれもお金が足りないというと、どこからがお金が飛んできます……不思議でしたね。工事中から会場に出入りしました(杉山祥弘が黄色いベンツで会場内を走り回っていました)。オープニングで「デビット・カッパーフィールド」を招聘したことが自慢です。

     1976年以来カッパーフィールドのファンでしたから。ラスベガスに、演出家と一緒に打ち合わせに行き、8時間コーヒーショップで待たされたのをよく覚えています。 面白いエピソードは北新地に関係者が50人ほど集まり、だれが支払うねん……、大阪の関係者を新地のクラブに呼んで、私はトンズラしたこともありました。

後日何軒かには現金を持って支払いに回りました。

 

金一  私も「大阪・国際花と緑の博覧会」では、プレイガイドジャーナルの仲間であった林信夫さんの依頼で「スペースオペラガイア」をやらせてもらいましたが、なかなか困難な仕事でしたね。それらを以下にまとめると、

 ①いろんな事情から小松左京さん+山城祥二さん、という2人の演出家の意見調整をしなければならなかったこと。

     当時導入され始めたハイビジョン収録でNHK収録が入ったこと、目でみてかなり暗いにもかかわらず、

           明るすぎるため収録できな い 事態への対処

     クリエイト大阪のメンバーが全員出払っていて自分以外大阪外注になってしまったこと、しかしながら政友さんはじめ大阪舞監チームに助けられ以降、大阪の仕事は現地依頼し、東京の仕事は私どもがお手伝いする関係を築けたことは望外の成果だった

     博覧会は毎日行われている中仕込みは夜中、リハーサルは昼間同じ会場で入場者がいる中、かきわけて稽古をしなければならなかった。

      2日前の総稽古でダンサーの核になる人が欲しいと演出より希望、急遽菊池さんに電話、4人のダンサーを来てもらうことができた。(当時出始めの携帯電話機を持って行っていたのが役立った)

     そして予算がなくなった、結果ノーギャラ

      などなど……思い出だけが残りました。

 

山田  この時代に各地に市民会館、文化会館、県立ホール、町民、村民ホールが開館しましたが、世の中は東京中心主義、大会場中心などと逆行してゆきます、メーカー、マスコミのターゲットが20歳代の女性にターゲットが絞られてゆくのです。これが興行の世界の終わりです。イベンターも以降、リスクを負わなくなり、地方に行くアーティストが激変するのです。

     本来ならば地元に素晴らしい会館ができ、さあーという時にソフトが来ない時代に入ったのです。これがバブルの後遺症だと思っています。

 

金一  いま、仕事を広げていくということを考えたら、やっぱり芸能界を動かしていこうとしている人脈とうまくコミットすることしかないのですかね?

 

山田  ぼくはそれしかないと思うし、地方の声をどこまで聞けるかにかかってくると思う。それと、テレビ局の人脈、代理店との付き合いがあまりにもなさすぎることが気になるね。

 

岡野  それと自分で興すこと、企画ですよ。いまはどこの制作会社もやろうとしないんです。

当たり前かもしれないけど損することはやらない。

 

山田  おれは岡野には早くから、企画・制作やれって言っていた。だから、クライアントとかもだいぶ紹介した。このままいくと、すぐに潰れていくアーティストが沢山出て、歌手として歌い続ける人はいなくなると思う、どうにかしなくちゃといつも思う。

 

岡野  興すということはお金を引っ張ってくることもそうだし、それだけの魅力のあるものを興すことが必要だと思いますよ。じゃないと活性化できない。

 

金一  いまはテレビ局もそういう曲がり角に来ているよね。コマーシャルを取れない、これから先細りする。だから、事業部を使って活性化させることをやたら熱心にやっているよね。

 

岡野  メディアが増えてしまっている、自分のところでも複数のコンテンツを作っていて、あれでは共食いですよね。それはCDにしても出版にしても同じだと思うけど、情報が多すぎ、作る側はおもしろいものを作っているとは思うんだけど、それで受ける側が増える結果にはなっていないですよね。

 

金一  いまのコンサートを動かしているのはやっぱりイベンターなの?

 

山田  ちょっと前まではレコード会社。そこがマスコミと通じて、CMが決まったからコンサートをやろうとか、いま売れているやつをやる。ほとんどのイベンターがパーセンテージ契約で赤字を背負わないんです。

 

岡野  むかしは肩入れしている若いミュージシャンがいたら持ち出しでもやってくれたんだけど、いまは難しいのかな。イベンターも儲けなければならないから。

 

山田  いまのバロメーターは、先行予約とかで売り出して、そこで全部売れないとやらない。だけど、むかし演歌をやっていた頃のバローメーターは浅草の国際劇場で当日券がどれだけ売れるかみたいなことだった。ちょっと古すぎるかな(笑)。前売りのシステムもそうない時代だったんだけど、売上をダンボール箱の中に足で踏んづけて入れていたんですよ。いまは即日完売じゃないとやってられないという感じだし、6割7割売れたらもういいやとなるわけ、パーセンテージ的には儲かるから。

     中島みゆきさんの「夜会」がオーチャードからTBSの赤坂アクトシアターに移ったときにTBSの児玉さん、エピキュラスの竹中さんに頼んで当日券を作ってもらいました、公演中宣伝を続ける、今日見に行けるかもと思うお客さんをキャッチできる、利点は一杯あるとおもうよ。 金一さんが書いている中で「制作をするときに経常支出のバランスと作品の向上のための矛盾を持ち続ける」、これはおれのモットーの中に入っている。相反することをおれたちはやっていかないといけない。

     金一さんがやってきたことはおれの教科書なんだけど、悪いけどおれはいいとこ取り。あと、金一さんのやっていないことをやる。谷口は金一さんの継承に向かったんだよね、道半ばでいなくなっちゃったけど。 結果どちらがいいのかは別の話でね。

 

金一  いまは舞台監督をやりたいという若い人も少ないんだって?

 

岡野  まずどんな職業か知らないんですよ。電話とかもかかってきますけど、それで面接すると、まず「お休みはいつですか?」「基本給いくらですか?」とか、要するに安定職を求めたいんですね。

 

金一  頑張ってお金儲けたいとか有名になりたいとか、夢を叶えたいとかいうことではないんだ。

 

岡野  いまはそうですね。

     また黒テントの話になるんですけど、いまの世の中だったらどうなるんでしょうね。当時は時代背景みたいなものもあっただろうし、「一銭にもならないけどおもしろそうだからやってみよう」ということは若い人しかできないのかもしれないけど、もしいまそれができるとしたらどういったものになるのかなと思うんですね。いまの人はあまり泥臭いことは好きではないと思うんだけど……。

 

山田  いまは考えられないな。

 

金一  そんなこともないような気がするけどね。

 

山田  もし考えられるなら、若いやつらがもっと力をつけないと。

 

金一  有川浩の『県庁もてなし課』という本があるんだけど、高知県の海と川とか自然しかないようなあまり広くない地域でいかに観光PRをするかという話なんだけど、ある小さいエリアだったら可能だと思うんだよね。

 

岡野  いまは成功するしないのハードルがとても高くなってしまっていて、コンサートで一万人収容できないと成功じゃないとか、そんな定義が自然とできてしまっているじゃないですか。なんだかマイノリティは隅に追いやられるような気がするんです。AKBのファンだって当初はオタクのマイノリティの集団だった、企画力があったのでしょうね、いまはあんなに大きくなっているわけで、小さくてもおもしろいものを掘り起しすくい上げ、全国に広めるかと考えているんですね。

 

金一  最初から大きく考えないで、小さいエリアでやることは可能だと思うけどね。むかしも清水がお金にはならないと思うけどやりたいという劇団を持ってきたから、やればってやらしたんだよね。思いついたら、ものの大小にとらわれずに、やるなりやらせるなりした方がいいと思う。

 

岡野  黒テントに岡林さんが出たとか、いまでいうコラボみたいなことを40年以上前にやっていたということは、そういうエネルギーが当時はあったんだなと。

 

山田  当時は学生運動崩れも含めてエネルギーが有り余ってたよね。何やっていいのかわからないようなやつがたくさんいた。いまはもう、大学からすべてをあてがわれて、そこから何を開拓するかというよりは、もう公務員にでもなっていい給料もらえばいいやとかね。あとマイル圏の生活者。1マイルの生活圏の中で車も持たずに、給料入ったら10万貯金して老後に備える。そういう時代とおれらはまったく違う。

     東京や大阪ではできないよ。出来るのは地方、地方の人の方が飢えている。でも、地方でそういうことをやろうとしている人の芽を潰すのがいまのイベンターなんだよね。そういう人たちはやり方が分からないから、地方のイベンターを辞めたやさぐれみたいなやつのところに相談に行くんですよ。そうすると、そいつが彼らを仕切ろうとする。ぼくがいま熊本で必死にやっているのは、そういうやつを全部排除して、テレビ事業局と直になること。そうすると、局が東京と直でつながるから。もう一つは、東京のスケジュールや目線でものを作らず、地方の目線で作らないといけない。

     せっかく地方に小屋がたくさんできたのに、総務省は3300あった市町村を1200にしたいんですよ。いまはもう1800くらいになっている。だから小屋がどんどん潰れていっている。おれらはそれに対するアンチテーゼで、地域と一緒になっていい小屋を残していこうよってやっているんです。

           宮崎、大分、鹿児島、熊本とまわるツアーをやったり、今年の7月後半から大阪の読売テレビ事業局と、関西のイベンターは1強8弱、キョードー大阪の天下なんだけど、近畿圏(兵庫、京都、奈良、和歌山、大阪の郊外)の会館自主公演を応援しようと会を立ち上げる段取りをしました。 なんでおれがそんなことをやることになったのかっていうと、「ツアー切りました、今年のツアーは八本です」とかそんなのばっかりでしょう。それで、地方に行くとみんなライブハウスなんですよ。

          一世を風靡した人ですらライブハウスになるんです。

     いま誰かがやらないとおれらの飯の種なくなるよって気がついて、地方に話をしにいくと、みんなやりたがるんです。

     ぼくがいま熊本中心でやっていることには福岡を入れないんです。入れると福岡が全部持っていってしまって、福岡だけで完結させてしまうから。福岡を外すと話がまとまるんです。熊本・佐賀・長崎・大分・宮崎・鹿児島、探してみると九州にもスポンサーがちゃんといるから、その人たちが満足するようなことをやればいいんです。

           それで、東京ではない地方の目線で作るということをやっているんです。そうやって仕事を作らないともう無理だと思っているから、あと五年くらいだと思うけど、それをおれの最後の仕事にしようと思っている。そういうことを北海道、新潟、大阪でもやっていけたら、おれはロイヤリティをもらえばいいんだけど、そうはうまくいかないだろうけど(笑)。

 

                                 2014年6月10日クリエイト大阪にて

 

 

 

 

 

 

2014/11/07 11:02:04