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ゲムタスさんの遺体を煙でいぶしてミイラにする遺族。ミイラ作りが終わるまで、この場を離れることも、体を洗うことも許されない。(PHOTOGRAPH BY ULLA LOHMANN)

長老をいぶしてミイラに、アンガ族の伝統に密着

2016.10.17
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 ドイツ人の写真家ウラ・ローマン氏がパプアニューギニアのアンガ族に初めて出会ったのは、2003年のことだった。自動車で丸1日、その後徒歩で3時間かけて山道を登り、やっとの思いで目指す高地にたどり着いた彼女に、村の長老たちは、もと来た道を引き返すよう命じた。ここでは、よそ者は歓迎されない。村人たちは訪問者と接触する機会がなく、自分たちの風習を外の世界にさらすことを嫌う。

2009年、ミイラになる前のゲムタスさん。(PHOTOGRAPH BY ULLA LOHMANN)
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2015年、ミイラになったゲムタスさん。(PHOTOGRAPH BY ULLA LOHMANN)
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 しかし、その風習こそが、ローマン氏がここへやってきた理由だ。アンガ族は、死者をミイラにすることで知られていた。家族や親戚が死ぬと、古くから伝わる儀式に従って遺体はミイラにされ、村のすぐ近くの岩棚に安置される。村を見下ろすことのできる高い場所に置くことで、残された家族は先祖たちに見守られていると信じていた。

 ローマン氏はいったん引き返したものの、しばらくして再び村を訪れた。それ以来10年間何度も足を運び、長老たちを説得した。彼らがどのように生きて、どのように死と向き合っているのかを学びたいだけだと訴えた。

 訪れるたびに、村は少しずつローマン氏を受け入れていった。そしてある時、村の長老のひとりであるゲムタスさんに打ち明けられた。自分が死んだら、ミイラになりたいと。

ゲムタスさんの父モヤマンゴさんのミイラは、村で修復された後、高台にある岩棚に戻された。(PHOTOGRAPH BY ULLA LOHMANN)
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ミイラの修復と手入れは年に一度行われる。(PHOTOGRAPH BY ULLA LOHMANN)
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2008年、ゲムタスさんは息子と家族に対し、死後はミイラにして父親の横に置いてほしいと伝えた。(PHOTOGRAPH BY ULLA LOHMANN)
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 4万5000人ほどが暮らすアンガ族のミイラ作りは、古代エジプトのそれとは大きく異なる。エジプト人は、遺体を内側から処理し、内臓を取り除き、布で体を包む。アンガ族は、遺体を椅子に座らせた体勢で3カ月間絶え間なく燃える火の上でいぶし続ける(熱帯地方の遺体はすぐに腐食するが、いぶすことによって長期間保存が可能になる)。

 ミイラ作りの手順は厳しく定められている。火の上でいぶされた遺体が膨張すると、木の棒でつついて体液を抜く。その後、棒を使って慎重に尻の穴を広げると、中から内臓が滑り落ちる。ミイラ作りに携わる人々は、最初から最後まで常に遺体のそばについていなければならない。体液や腸を含めて遺体のいかなる部分も決して地面に触れてはならない。万が一触れてしまえば、不幸を招くと言われている。

ミイラ用の椅子を試すゲムタスさん。(PHOTOGRAPH BY ULLA LOHMANN)
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 最も気を遣うのが、顔の部分だ。アンガ族には写真がないので、死者の面影を覚えておく唯一の方法が、顔そのものを永久に残すことなのである。「私たちには写真がありますが、彼らにはミイラがあります」と、ローマン氏。「死者の魂は、昼は自由に飛び回り、夜になるとミイラとなった体に戻ってくると、アンガ族の人々は信じています。顔がなければ、魂は戻るべき体がどれなのかわからず、永遠にさまようことになります」

上空から見たアンガ村。(PHOTOGRAPH BY ULLA LOHMANN)
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ゲムタスさんが亡くなる直前、子どもに清めの儀式を行うゲムタスさんの息子。(PHOTOGRAPH BY ULLA LOHMANN)
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 かつて、ミイラ作りはパプアニューギニアや他の南太平洋の島々で広く行われていた。特に、19世紀から20世紀初頭にかけて盛んにミイラが作られた。土に埋められればすぐに忘れられてしまう死者も、肉体そのものをミイラとして保存すればいつまでも覚えておくことができる。しかし、20世紀半ばにキリスト教の宣教師や英国、オーストラリアの政府役人がやってくると、倫理や衛生に関わる問題としてミイラ作りは次第にすたれていった。

最後の望みをかなえてもらうために、ゲムタスさんは死の1年前にミイラ作りを行ういぶし小屋を建てた。(PHOTOGRAPH BY ULLA LOHMANN)
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ミイラ作りの間、遺体を見守るゲムタスさんの家族。(PHOTOGRAPH BY ULLA LOHMANN)
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 それでもゲムタスさんは、村の伝統を維持することの重要性を感じていた。自分でも年齢ははっきりとはわからないが、そろそろこの世との別れを告げる頃だろうと察していた。ミイラとして肉体が残れば、死後も自分の家族を見守ることができる。そこで、ミイラ作りの研究をしていた人類学者のロナルド・ベケット氏とアンドリュー・ネルソン氏の助けを借り、ブタの死体を使って成人した息子たちにミイラ作りの方法を教えた。また、自分が死んだらミイラ作りの過程を写真に撮って、世に伝えてほしいと、ローマン氏に依頼した。

ゲムタスさんの夢は、魂としてミイラの体に留まり、残された家族を守ることだった。(PHOTOGRAPH BY ULLA LOHMANN)
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儀式の間、ゲムタスさんの手を握る親戚。(PHOTOGRAPH BY ULLA LOHMANN)
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 村の多くの若者同様、息子たちは最初は抵抗した。長い時間をかけていぶされる人間の死体から発する強烈な臭いもさることながら、大変な時間と労力を要するミイラ作りは、アンガ族では現在行われていない。村の人口も減り続けている。国際化の影響を受けた港町を目指して村を出て行く若者たちが後を絶たないのだ。しかし、ゲムタスさんは息子たちを説得し続けた。ミイラになることは、少なくとも自分にとっては重要なことなのだと訴えた。息子のひとりアワテングさんは「あまりにしつこく迫られたので、願いをかなえてあげると約束するしかありませんでした」と語った。

 そして2015年、ゲムタスさんは息を引き取った。

家族は毎晩のように火の周りに集まって、思い出話やゲムタスさんの好きだった笑い話を語り合った。時に、ゲムタスさんの笑い声が聞こえたような気がして黙り込むこともあった。(PHOTOGRAPH BY ULLA LOHMANN)
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 彼の遺言に従って、ローマン氏はミイラ作りに立ち会い、写真を撮るためにパプアニューギニアへ戻った。ゲムタスさんの孫息子を含む7人の男たちは、悲しみを示す白い粘土を顔に塗ってミイラ作りを開始した。儀式の間中、彼らは水を飲むことを一切許されず、サトウキビの汁だけで水分を補給する。食べものは、ゲムタスさんの遺体をいぶす焚火の火で焼いたものだけを口にすることができる。遺体の肌が焼けると、棒を使って表皮をこそげ取った。

 ローマン氏が見守る中、数週間かけて遺体は膨張し、黒化し、硬くなっていった。儀式に携わる7人の男たちは、ゲムタスさんの体液を自分の体に塗りつけた。こうすると、ゲムタスさんの魂が生き続けるという。厳しいしきたりに従い、3カ月間のミイラ作りが終了するまで、男たちは体を洗うことも、その場を離れることも許されない。

いぶし小屋でミイラにされるゲムタスさんの体。(PHOTOGRAPH BY ULLA LOHMANN)
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 多くの場合、ミイラを作る目的は永遠のいのちを手に入れることだ。あるいは、死者の肉体をいつまでもそばに置いておくための手段だった。アンガ族のミイラ作りは、ミイラ化した体を椅子に縛り付け、村を見下ろす岩棚まで運ぶことで終了する。そこでミイラは、長い時間をかけて朽ちて行く先祖たちの列に加えられる。それらは、かつてこの地上に生きていた人々の記憶を永久にとどめておくためのものだ。

ウラ・ローマン氏と写真に写るゲムタスさん。(PHOTOGRAPH BY ULLA LOHMANN)
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参考記事:
インドネシア 亡き家族と暮らす人々
世界各地のミイラ、ちょっと意外な作成法も
もはや芸術、ツタンカーメンの曾祖父母のミイラ

文=Daniel Stone/写真=Ulla Lohmann /訳=ルーバー荒井ハンナ

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