2016年10月04日

ハドソン川の奇跡/体勢を低くし、衝撃に備えよ

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オフィシャルサイト

オープニングの悪夢シーンでこれが単なる英雄譚の再現ではないことを宣言するあたりの手さばきと、IMAXカメラが捉える冬のNYの清潔な殺意とでもいうはりつめたエッヂによって、『アメリカン・スナイパー』に引き続きイーストウッドはヒーロー神話の解体を試みている。アメリカという幻想国家のケツ持ちを拒絶し、あくまで個人の尊厳と自由意志を謳うためのその噛んで含めるような語り口は、例えば『ボーン・イン・ザ・USA』さえも愛国唱歌と取り込んでしまう怪物相手の冷静なファイティングポーズなのだろう。結果的にサレンバーガー機長(トム・ハンクス)が体現することとなる、システムがワタシたちに奉仕するのであって、ワタシたちがシステムに奉仕するのではないという信念がリバタリアニズムのそれなのは言うまでもなく、そうしたイーストウッドの透徹した愛国心は、ヤンキードゥードゥルなアメリカ人のアイデンティティへの憧憬にも似た無垢で駆動するスピルバーグに比べるといっそう寄る辺なく伏し目がちで、やはりトム・ハンクスが主演した実話ベースの『ブリッジ・オブ・スパイ』がてらいなくウィ・キャン・ビー・ヒーローズであったこととは見事なまでに対照的であり、トム・ハンクスの起用は意図的だったのではなかろうかと思ってしまうほどである。事故後に乗り込んだタクシーの運転手との無邪気なやりとりから、後に軟禁状態のホテルを抜け出して入ったバーのバーテンダーとの下世話なやりとりに至るまでの間に、ヒーローはいつしかシステムに捧げられる生け贄となっていくわけで、そうした目眩ましを切らさないことでアメリカン・ドリームというシステムは成立しているのだろうし、イーストウッドがアメリカを描いた時の映画の抜けが往々にして悪いのはそうしたシステムへの嫌悪をスパイスとしているからなのだろう。仮にイーストウッドが『ブリッジ・オブ・スパイ』を撮ったならパワーズに当てるスポットが増えていたようにも思うし、そうした意味で今作ではサレンバーガーの全能感を希釈する存在としてスカイルズ(アーロン・エッカート)に細やかなゆらぎを与えていて抜かりがない。それにしても、こんな風にマーケティングやファンドをすりぬけて自分の立っている場所をメインストリーム映画で示すことのできる監督がこれから先どんどんその数を減らしていくように思ってしまうことには、それこそが「アメリカ映画」という作家性だと当たり前のように考えて映画を観てきた世代からすると若干のあきらめにも似た感慨があるわけで、そうしてみるとやはり、作品の善し悪しとは別の話として、息抜きや気晴らしに映ってしまうような映画を撮っている時間があるのだろうかという観客としての焦燥をスピルバーグに抱いてしまうのが正直なところなのである。一切の迷いがないイーストウッドの語り口の、しかしそれが頑迷で意固地であるかというと、そこには清冽な水を飲み干すような心地よさと居合いの一閃による緊張がもたらす痺れるような快感が備わっているわけで、いったいこの道に誰が続くことができるのか気が気ではなくなってきている。
posted by orr_dg at 23:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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