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セピア色の写真が語るもの

3月4日 15時45分

大越健介記者

東日本大震災は、数知れない悲劇を生み、多くの人々の生活を変えました。そうしたなか、震災によって、ベールに覆われていた過去と思いがけない形で向き合うことになった家族がいます。震災が浮き彫りにした小さなファミリー・ヒストリーを、ニュースキャスターとして被災地にたびたび足を運んできた報道局の大越健介記者主幹が報告します。

一通のメールから

2月上旬、ある知人の男性からメールが届きました。「いま私は一枚の写真の女性に心を奪われています」と、どこか意味深な文面で始まるメールには、セピア色をした古い写真が添付されていました。昭和のはじめ、当時の朝鮮・プサン(釜山)で撮影されたというその写真は、震災の津波で流されながら、のちに奇跡的に見つかったものだと書かれていました。

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結い上げられた豊かな黒髪、ほのかに漂う気品。魅力的なこの写真の送り主は、福島県相馬市の市長を務める立谷秀清さん(64)でした。女性は名前をミツさんといい、秀清さんの「実の祖母」だそうです。
秀清さんの父親は純一さん(88)、母親はミサコさん(87)といいます。祖母はいちさん(故人)です。しかし、血のつながりはありません。父の純一さんの実母は若くして亡くなり、いちさんは立谷家に後妻として迎えられた人だったのです。

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秀清さんが「実の祖母」ミツさんの写真と出会ったのはことしの1月。初めて見る写真でした。それまで、ミツさんのことが家族の中で語られることはほとんどなかったそうです。その写真が津波をかいくぐる形で初めて姿を現した偶然のいたずら。興味をそそられた私は、詳しく話を聞きたくなり、相馬を訪ねることにしました。

 

見つかったアルバムに

相馬市内で、秀清さんにも同席してもらい、純一さん、ミサコさん夫妻に話を聞きました。

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巨大津波は残酷でした。代々、みそとしょうゆの醸造業を営んできた立谷家も、実家と蔵のすべてを流されました。その後、相馬では、所有者不明の膨大な遺失写真が旧相馬女子高校の校舎で公開され、思い出を探す被災者たちがひっきりなしに訪れたと言います。
ミサコさんもそのひとりでした。何度か通いつめ、震災から半年がすぎた9月のある日、偶然、棚にひっそりと置かれたアルバムを見つけました。それは立谷家の蔵の奥にしまってあった本革のアルバム。夫の純一さんの実母・ミツさんの写真もその中にありました。遺失写真の公開が終了する寸前のことでした。
ミツさんは今の福島市飯野町の出身。絵心があり、東京の女子美術学校に学んだ才媛でした。同県人で相馬市出身の清治さん(故人)と結婚。銀行員だった夫の仕事の関係でプサン(釜山)に渡り、新婚生活を送っていました。しかし、家族はその後、苦難に直面します。夫が相馬の実家に戻ることになり、海の向こうの都会の生活から古い商家へと環境が激変する中、ミツさんは体調を崩し、22歳の若さで帰らぬ人となりました。幼児だった純一さんが遺されました。

 

ふたりの母に支えられ

ミツさん死去の後、後妻に迎えられたいちさんは、純一さんに惜しみなく愛情を注いだそうです。何不自由なく育った純一さんは、成長して家業を継ぎ、後に相馬市議会議長まで務めました。継母であるいちさんの後ろ盾なしには、今の自分はなかったと純一さんは振り返ります。
しかし純一さんはもうひとつの思いを抱いて生きてきました。若き日のあるとき、自分を産んでくれた女性が別にいたことを知り、以来純一さんは、育ての母と産みの母への思いのはざまで揺れ続けてきたのです。
純一さん夫妻の住まいにお邪魔すると、壁には小さな絵が掲げてありました。

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赤ん坊だった純一さんを、実母のミツさんがスケッチしたものです。元画学生らしい、達者な筆づかいです。わが子へのいとおしさがあふれたこの絵に、純一さんは癒されてきました。

 

黙して語らぬ妻

そんな夫に寄り添ってきたのがミサコさんです。
ここで少し、時間を巻き戻しましょう。ミサコさんがミツさんの写真を見つけたのは震災から半年後でした。しかし、ミサコさんが写真の存在を家族に知らせたのはことしになってからでした。その4年余りの間、ひとり胸にしまっておいたのです。その理由をミサコさんは静かに語り始めました。
ミサコさんにとって、しゅうとめのいちさんは強さと優しさを兼ね備えた理想の女性でした。嫁いでまもないある日のこと、実家の蔵の中で、いちさんはミサコさんと向き合います。
「これから、純一のことは全部あなたにお任せします」。
いちさんは万感の思いでそう告げると、純一さんにまつわるすべてのものをミサコさんに託しました。純一さんにもないしょでした。実母のミツさんの写真を収めたアルバムも、その中に含まれていたと言います。以来ミサコさんは、尊敬するしゅうとめの言葉をかみしめながら夫との長い道のりを生きてきたのです。
そこへ、津波にさらわれたミツさんの写真が姿を現しました。純一さんを実の子のように育ててきたいちさんの気持ちを思い、ミサコさんは、写真は蔵の奥に封印されたままのほうが良かったのではと、複雑な感情に揺れました。悩んだあげく、写真が見つかったことは胸に秘めることにしました。
しかし、その後病気で入院したことが契機となり、ミサコさんは考えを改めます。老齢のわが身を考え、みずからが知りうる歴史を家族に語り継ぎたいと思うようになったのです。息子である秀清さんが、ことしになって初めて実の祖母の写真と対面するまでには、こうした経緯がありました。

 

ふたりの母に支えられ

純一さんは「いちばん大事にしているものがある」と言い、寝室から一枚の絵を取り出してきてくれました。ミツさんが描いた自画像でした。

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冒頭の写真とはずいぶん違った風貌に見えます。どのような思いでみずからを描写したのか、唇はゆがみ、表情には陰があります。それでも純一さんは、後年、親戚からこの自画像を譲り受けて以来、ずっとお守りにしてきたそうです。育ての母であるいちさんの写真を仏壇に、実母のミツさんの自画像を枕元に置き、ふたりの母を思いながらきょうまで生きてきました。しっかり者のミサコさんという妻に見守られながら。

 

それぞれの家族、それぞれの歴史

実母の写真を見ながら、純一さんは「人というものは、死んでもあの世から見ているのかもしれないね」と感慨深げに語りました。孫である秀清さんは「自分たちに何かを伝えるために、こうして出てきてくれたのではないか」と言います。
大正から昭和へと駆け抜けたひとりの女性の軌跡。短い人生の中にも、さまざまな起伏があったことをうかがわせます。人には誰しも歴史があり、それが交錯する形で家族の歴史が刻まれる。そのことを改めて思い知らされた気がします。
このファミリー・ストーリーに出会ったのが、震災の被災地だったことも象徴的に感じられます。東日本大震災はおよそ2万人の命を奪いました。その一人一人に人生があり、家族があり、数字でひと括りにできない膨大な歴史がありました。
震災から5年。被災地を襲った深い喪失感を、私たちの社会はもう記憶の隅へと追いやろうとしていないか。未曾有の震災を、数字にまとめるだけで理解した気になってはいないか。津波で流されながらも再び姿を現したミツさんは、そのことを私たちに問いかけているように思えてならないのです。


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