<パックス・アメリカーナとアラブ世界> 反米主義の叫び声はアラブ世界のいたるところでこれまでもつねに鳴り響いていた。しかし、声を大にしてアメリカ批判を繰り返す人々も、九月十一日に何が起きるかについては知る由もなかった。二〇〇一年九月十一日火曜日。アメリカを襲ったすさまじい恐怖は、アラブの反米主義者を一時的に困惑させ、沈黙させた。顧みれば、アラブ・イスラム世界におけるアメリカの絶対的な力が怪物を誕生させていたのだ。皮肉にも、中東・アラブ世界への関心が低いことで知られていたアメリカの新政権は、アメリカに手招きし、アメリカを血まみれにした世界へといまや引きずり込まれつつある。
歴史が繰り返すことはあり得ない。しかし、コリン・パウエル国務長官が米市民に「テロリズムに対する国際的連帯が形成されるだろう」と請け負ったとき、アメリカ人はみな彼を一躍有名にした「あの戦争」に思いを馳せた。「最初に供給ラインを切断し、そして兵力を粉砕する」。一九九一年にパウエルはイラク軍に対する軍事作戦についてこう述べた。かつて多国籍軍という国際的連帯が存在し、パックス・アメリカーナの勝利のトランペットがアラブ世界にも鳴り響いた。しかし、イスラム世界の人々は、十年前のアメリカの勝利後も自分の道を歩き、自分の意志を貫いてきた。イスラム世界の政治構図は大きく変化した。この十年間は、ペルシャ湾岸での戦争がアメリカへと逆流していくプロセスだったといえよう。アメリカの圧倒的な優位が、(人間の思い上がりを罰する)ネメシスの女神をそこに誕生させていたのだ。
アメリカのアラブ専門家たちのなかには、アメリカが押しつけようとしたパレスチナ問題の妥結案や、二〇〇〇年九月に始まった第二次インティファーダ(民衆蜂起)によって、アラブ世界に立ちこめる不快な反米主義が呼び覚まされていなければ、中東地域の政治的安定は維持されていただろうと主張する者もいる。だが、こうした主張は中東政治の現実をひどく見誤らせるものだ。イスラム世界で反米テロが頻繁に起きるようになったのは、第二次インティファーダが起きるはるか前、ヤセル・アラファトが国際政治のアウトサイダー転じてパックス・アメリカーナの懐へと抱かれつつあったころだが、テロの実行者たちにとって、パレスチナ問題など眼中になかったというのが真実だ。テロリストたちが、アラファトのことをどのように考え、また、彼がビル・クリントンの中東外交の手段となったことをどのように見ていたかなど、推して知るべし、である。
テロは着実に実行されてきた。テロ行為の地理的空間の広がりとそのターゲットを見れば、テロ組織の資金力の大きさと大胆さがわかる。最初の対米直接テロ攻撃となった一九九三年の世界貿易センターへのトラックによる爆弾テロは、エジプトの宗教指導者オマル・アブデルラーマンに啓発された人物による行動だった。アメリカにとって、この煽動的な宗教指導者は特異な来訪者だった。彼は、世俗化したエジプトのホスニ・ムバラク政権との戦争を継続するために、アメリカという「不信心の地」へとやってきた。アブデルラーマンは、ムバラクの前任者であるサダト大統領の暗殺にも関与していた。若い暗殺者たちはアブデルラーマンに宗教的教えを請い、彼が示した「教え」が暴君殺害の命令だった。だが、暴君殺害の命令の内容が曖昧だったために、結局アブデルラーマンはエジプトからの出国を許される。周りには弟子や通訳が数多くいたため、英語の知識がなくても彼は何も心配することはなかった。エジプトは、アメリカの絶対的な力によって、その秩序や軌道に取り込まれていた。であればこそ、アブデルラーマンはアメリカにいても遠く離れたエジプトへのつながりを保てたのだ。
アブデルラーマンは彼の祖国、エジプトの政権を倒せなかった。しかし、アメリカとエジプトはつながっていたし、エジプト政府を苦しめていた武装イスラム勢力の活動が、アメリカにいるアブデルラーマンをつねに刺激していた。一方(祖国にいる)彼の支持者の目には、アブデルラーマンは、いつの日かイスラム国家建設のために西洋から帰郷するエジプトのアヤトラ・ホメイニと映っていた。アブデルラーマンが思い描く世界の見取り図は単純明快だった。彼は、アメリカとエジプトをつなぐ生命線を断ち切れば、祖国の「独裁政権」は崩れ去ると考えていた。アブデルラーマンがアメリカ文化などに関心を持つはずもない。彼にとってアメリカは、そこに身を置くことで、自分の国の支配者を苦しめることのできる場所にすぎなかった。だが時とともに、アブデルラーマンの試みは壁にぶつかるようになる。エジプト政府は、崩壊の瀬戸際まで追い詰められたが、イスラム過激派との長期戦を経てなんとか暴動を鎮圧することに成功し、アブデルラーマンも結局はアメリカの監獄で生活を送ることになる。とはいえ、彼はアラブの怒りに火をつけることには成功した。彼が首謀者だった一九九三年の世界貿易センターへの攻撃は、二〇〇一年九月十一日の大惨劇のリハーサルだったのだ。道を切り開き、未来を示したのはアブデルラーマンだった。(訳注:アブデルラーマンは、世界貿易センターの爆破テロなどの首謀者として、一九九六年にアメリカで終身刑判決を受け、服役している) アメリカとヨーロッパに新たなイスラム・コミュニティーが誕生し、そこには、意のままにできる自由と資金もあった。こうして、政治的イスラム勢力の世界的分布図が描き直されることになる。アヤトラ・ホメイニがアメリカを相手に戦いを挑んだとき、汎イスラム主義軍事作戦の世界規模の展開(つまりは世界的イスラム革命)もささやかれた。しかし、イランは自国の国境外の革命には関心を示さなかった。そこにいたのは聖なる兵士ではなく、子羊たちだったのだ。実際、イスラムの兵士たちは、伝統的なイスラム世界から切り離されている。アフガニスタンにいるアラブ人軍事指導者たちも、ソビエトとのアフガニスタン戦争以来、すっかり落ち着きをなくしていた。 彼らは祖国を追われ、だれのものでもないこの地で身動きできなくなり、かといって、西洋世界で安らぎを得られるわけでもなかった。チュニジア、エジプト、アルジェリアでの執拗なイスラム主義運動も結局は政府によって抑え込まれ、サウジアラビアでは穏健なイスラム主義者の活動さえもが封じ込められた。祖国政府の対イスラム過激派作戦が見事な成果を上げ、その結果、彼らは西洋の地に姿を現すことになる。西洋の自由な社会がイスラム過激派に避難所を提供し、彼らはいつの日か武器を手に蜂起することを考えていた。
イスラムの過激派もいまや近代技術を身につけている。飛行機で移動し、旅客機の操縦術やコンピューター・スキルを身につけ、西洋の近代的生活にとけ込んでいる。彼らはアメリカ、ドイツ、フランスを憎んでいるが、それでもこれらの国に流れ込んでいる。彼らは伝統や信条を厳格に実践したが、祖国でイスラム社会を実現するのはもはや不可能だった。こうしたなか、イスラム世界の膨大な人口増大が人々を西洋世界に殺到させた。祖国の冷酷な安全保障部隊が宗教上の英雄的な活動を容赦なく弾圧していることも、この流れを大きくした。そして、アブデルラーマンやオサマ・ビンラディンのような人物たちが、祖国から追われ、西洋で満たされぬ思いを抱きつつ生活するイスラム過激派に、聖なるテロの神学と、陰謀をめぐらす工作員として生活する資金を与えたのだ。
ビンラディンは大財閥の後継者としての高貴な生まれで、大きな富を所有していた。これが彼にオーラを与えた。ビンラディンはイスラム世界のチェ・ゲバラなのだ。彼は、恵まれた環境をかなぐり捨てつつも、それをうまく利用している。アメリカとイスラム世界の間には縫い目がある。ビンラディンはこの縫い目に沿って、自分たちのための狭い空間、攻撃目標、そして支援基盤を見いだした。彼らは、イスラムの地が悲惨な状況にあるのはアメリカのせいだと確信し、祖国とアメリカの同盟関係を揺るがすことにさえ成功すれば、サウジアラビアやエジプトの政権を倒せると思い込んでいる。
<サウジアラビアの十字軍> 一九九〇年代、中東でのアメリカのプレゼンスにはつねにテロの影がつきまとった。サウジアラビアでは爆弾テロがすでに二度起きている。九五年十一月にはリヤドで、九六年六月にはダーランの米軍基地宿舎近くのコーバー・タワーで爆弾テロが起きた。九八年には、タンザニアとケニアのアメリカ大使館が爆弾テロに遭い、二〇〇〇年十月には、イエメンに停泊中の米海軍のイージス艦コールに対する大胆不敵なテロ事件も起きた。湾岸の米軍もテロの対象にされている。
こうしたテロリズムの流れのなか、シンボル(象徴)と機会がともに回転していった。テロによる物理的ダメージには政治的・文化的メッセージが込められていた。テロは、メディア時代の群衆の目を意識している。ダーランは、アメリカの石油企業がこの地に姿を現し、アメリカのイメージに沿ってこの町を建設して以来、アラブ世界でのアメリカの(ビジネス)プレゼンスを「象徴」する都市だった。しかしその後、状況は変化する。一九九〇年代、ダーランは、イラク領土内に設けられた飛行禁止空域の監視拠点とされ、軍事的なプレゼンスのシンボルになっていく。ダーランで起きた米軍へのテロ攻撃が、アメリカとサウジアラビアの同盟関係への反発に端を発するものだったのは明らかだろう。たしかに、サウジ王国は崩壊しなかったし、いつものベイルートのような騒ぎも起きなかった。しかし、サウジアラビアのシーア派の協力を得たイラン人とみられるテロリストたちは、この事件を通じて破壊、そしてメッセージを与えた。彼らは、アラビア半島での外国人のプレゼンスに挑戦状を突きつけたのだ。その後、サウジアラビアでも、この国の保守的な宗教観とは相いれない過激派イスラム勢力が登場し、報復主義的で過激な行動をとるようになる。
一方ウラマー(イスラム教の宗教指導者)たちは、サウジアラビア王室による統治とうまく折り合いをつけていた。彼らは、支配者への服従を旨とする宗教的教えの下で、この国の秩序を支える王室のパートナーだった。ナセル時代のエジプト、パーレビ国王時代のイランとは違い、サウジアラビアでは、近代主義者の野心的思想が社会的影響力を持つことはなかった。だが、サウジアラビア政府は、湾岸戦争後に登場し、国内統治や、政府のアメリカとのつながりをめぐって支配者に挑戦し始めた勢力との折り合いをつけられなかった。支配者の周りにいる保守派の取り巻きとは違って、この新たな救済者たちは、サウド家の解体を公然と求めるようなことまではしなかったが、外国勢力とのかかわりを否定した急進的秩序づくりを提案した。一九九〇年代には暴動がいたるところで起きるようになり、そこでは新たなユートピア思想が明らかに徘徊しだしていた。「サウジアラビア東部のシーア派マイノリティーを排除し、カリフォルニアやテキサスのキャンパスで教育を受けたサウジのリベラル派たちも、熱を帯びたキャンペーンによって傍流へ追い落とす必要がある。異教徒とのつながりを断ち切り、西洋の文化汚染を引き起こす衛星放送受信盤も取り除く必要がある」。だがこれらを実現するには、まず、アラビア半島からアメリカのプレゼンスをなくし、すべてのアメリカ人をこの土地から締め出す必要があった。
湾岸戦争後にサウジアラビア人が耐乏生活を強いられるなか、強い宗教色に彩られた社会不安が高まっていた。支配者が、これまでのように(石油からの収益を基盤とする)手厚い社会保障を提供できなくなるとすれば、批判の矛先を向けるべきは、外国人、そして彼らが持ち込んだ枠組みとその不当な要求だった。忘れてならないのは、こうした反政府勢力が宗教的カルト集団ではなく、現地社会を構成する人々だったということだ。彼らは西洋の情報とトレンドを半ば学びつつ、アメリカがアラビア半島を従属下に置いていることを示そうと、外国の情報を恣意的に利用した。対米批判のためのイスラムの煽動家がアラビア半島に集まり始め、反乱は広がりをみせていく。反体制派が表舞台に登場し、その後、著名な批評家その他が続々と反米論を展開した。外国人嫌いの排外主義者は、アラビア半島にやってくる「十字軍」を厳しく批判するようになった。 宗教学者で、「パラノイア政治」の実践者であるサファール・アル・ハワリは次のように書いている。「これは私が予想していた以上の災難であり、全能の神がアラビア半島を創造されて以来、われわれが経験したいかなる脅威よりも大きな災難である」。アメリカ人はアラビア半島を支配するためにこの地にやってきて、西洋のおぞましいモラルを発散させている、と彼は警告した。
アルジェリア、エジプト、シリア、イラクとは違って、サウジアラビアには反植民地感情はみられなかった。だが、(湾岸戦争期の)サウジアラビアとアメリカの出合いの明快さもいまとなっては過去のものだ。かつてサウジアラビアの宗教法学者アブデラジズ・イビンバズはそのファトワ(宗教命令)において、アラビア半島におけるアメリカのプレゼンスが伴う弊害を明確には認めず、むしろダーランで起きた爆弾テロを「イスラムの教えに背くものだ」と批判した。この事件の被害は数多くの人々の生命と財産を脅かしており、この点で「イスラム教徒と他の人々の間に区別はない」。こうした非イスラム教徒たちにわれわれは安全を約束していた、と。
イビンバズにとって、「犯罪行為」に手を染めた人物たちを戒めるような、聖典の文章、イスラムの伝統を引き合いに出すのは簡単なことだった。預言者ムハンマドの言葉とされる「同盟者を殺す者は天国の入り口にさえ近づけない」を引用して諭した上で、コーランからは次のような神の言葉を引いた。「アラーと神の使者に対する戦争を起こし、アラビアに混乱を蔓延させるものは死刑か磔の刑に処せられるか、手足を互い違いに片方ずつ切断されるか、あるいは国から追放される。そうした者はこの世において辱めを受け、来世においても厳しく罰せられる」。イビンバズは、宗教指導者としての節度を保ち、テロ事件の犠牲者がだれであるかや、アメリカ人がアラビアの地にいることをあえて指摘しなかった。彼は法学者として聖典を引用し、信仰からの自制を促した。
イビンバズにとって信条とはすなわち秩序であり、無秩序は信条に反するものだった。だが、イビンバズの考える信条の背後では、(他の者たちが)イスラム的信条を戦争の道具として利用しつつあった。それから二年後、ビンラディンは、彼独自の煽動的なファトワを発する。殺戮と聖戦を求めたこのファトワについては、すでにバーナード・ルイスが「フォーリン・アフェアーズ」誌でその分析を示している(邦訳=殺しのライセンス、「論座」二〇〇一年十一月号掲載)。
イスラム的信条が求める拘束や規範など微塵も気にかけないビンラディンは、そもそもファトワを発すべき立場の人物ではない。だが彼はイスラム的信条を自らの手に奪い取り、そうすることが可能なすべての国にいるすべてのイスラム教徒に、「アメリカ人とその同盟関係にある人間を殺せ」と呼びかけた。アラビアの地にアメリカ人がはびこっている、と彼は述べた。「すでに七年以上にわたって、米軍はアラビアというイスラムのもっとも聖なる地を占領し続け、富を略奪し、支配者を隷属させ、民衆を辱め、近隣諸国を脅かし、アラビア半島の基地を近隣のイスラムの民衆を攻撃するための最前線として利用している」。こうして、殺人的意図を持つ排外主義感情に宗教的な装いがまとわされた。
<中東の「難しさ」> 二〇〇〇年十月十二日に起きたイージス艦コールに対する爆弾テロは、今回のテロ攻撃からは遠く離れた事件だった。この日、(爆弾を満載した)小型モーターボートに乗った二人組が、イエメン南部のアデン港に燃料補給のために入港していたコールに体当たりテロを敢行した。目撃者の話によれば、犠牲者とともに死亡した実行犯たちは、衝突の瞬間、まるで何かの儀式ででもあるかのように直立不動の姿勢をとっていたという。
アメリカは中東世界のシーレーンを管理しているが、海岸線から背後に忍び寄るネメシスは、アメリカの守備範囲を超えた広がりをもっている。事件の調査委員会は「イージス艦コールに対する攻撃は、われわれの戦力、特に移動中の戦力を守る試みに穴があることを図らずも実証してしまった」とリポートで指摘したが、現地で動いていた「怒り」のメカニズムについての描写もなければ、それが何であるかについての言及もなかった。
イージス艦コールへのテロ攻撃は、湾岸でのアメリカの安全保障のジレンマを浮き彫りにしている。米海軍にとって、イエメンは特に安心できる友好的な場所ではない。この国は、湾岸戦争ではサダム・フセイン寄りの姿勢をとったし、一九九四年には、国内の南部地域と北部地域の間で、イデオロギーや民族の断層ラインに沿って残忍な内戦が起きるなど、底なしの大きな問題を抱え込んでいる。政府が、領土や海岸線をうまく管理しているわけではなく、アデンは浮浪者や密輸入者たちであふれ返っている。さらに、反米テロの資金を提供しているとみられるビンラディンの家系はそもそもイエメン南部のハドラマウトの出身で、そこにはオサマ・ビンラディンの支持者がいまも数多くいる。
イエメン、そしてアデンでの安全対策に米軍はもっと気を配るべきだった。だが、一九九九年初めまでには、米海軍の戦艦がイエメンの港に寄港し始めていた。これは、アメリカ海軍が、寄港地という面でスエズ運河の以南にはまともな選択肢を持っていないことと関係がある。スーダン、ソマリア、ジブチ、エリトリアの港への寄港は、おそらくは、イエメンへの寄港以上にその危険度が高い。また、米軍がサウジアラビアで特権的立場を維持しているといっても、現地は問題を抱えているし、米軍も同様に問題に直面している。実際、九五年と九六年のテロ攻撃によって、計二十四人のアメリカ人が犠牲になっている。
もちろん、米軍の司令官や戦略立案者もイエメンが危険地域であることは理解していたし、米海軍はそうしたリスクを承知でこの国の港を使用していた。だが、テロリストたちもイエメンで自由に活動していた。アメリカの戦略立案者はこの地域での米軍のプレゼンスが、不安定な地域をますます危険にしてしまうことへの認識が足りなかった。これは、圧倒的な力を持つ帝国主義勢力が陥りがちな苦境の明白かつ残酷な具体例であろう。
ニューヨーク・タイムズ紙のジョン・バーンズ記者は米イージス艦へのテロに対する現地の反応について、異例なほど明確なトーンで次のような記事をアデンから送信している。イエメンで彼が見て取ったのは、「当惑した、どちらとも言えぬ驚きの感情」、現地の人々が「絶対的な力を持つアメリカが、小型のモーターボートに乗った二人のアラブ人男性に鼻をへし折られたことに、ときに溜飲を下げ、喜んでいる」様子だった。これは、アラブ世界におけるアメリカのプレゼンスが、またアラブ・イスラムの地でのパックス・アメリカーナが、帝国主義的プレゼンスとしてみなされていたことの証拠であろう。
この驚くべきテロを背後で画策していた人物たちがいた。いたるところで見られる反米主義をうまく利用した彼らは、イスラム主義者だけでなく、世俗化した人々もアメリカによい感情を抱いていないことを理解していた。カラチ、カイロ、アンマンの群衆は、自分たちの置かれている窮状を大国が正してくれることなど決してあり得ないと考えていた。社会問題を正していくための手立てや政治空間を持たない世界は、不満を反米主義として昇華させた。
アラブには、「義理の娘に話をすれば、近所の人々の耳に入る」という諺がある。知識階級や政治指導層がアメリカとイスラエルの悪口を言う、怒りに満ちた環境のなかでは、(それによって)煽動された人々もアメリカの悪口を言い、支配者にも疑問を感じだす。ずるがしこい支配者はこのゲームを理解していた。だからこそ、アメリカへの全面的支援が支配者の口から漏れ出ることも、アメリカの行動が公的に擁護されることもあり得ない。
むしろ、支配者は民衆の先回りをして、そこから、民衆が必要とする安全弁を彼らに提供する。支配者たちは、政府がアメリカに近づいていけばいくほど、政治階級はますます反米的となり、政治的混乱が起きることを知っている。アメリカがエジプトにいくら寛大な支援を与えても、エジプトの政治階級がアメリカに抱く怒りが消えることはない。事実、エジプトの政府系新聞は、エジプトに対する米・イスラエルの極端な陰謀論を打ち上げている。
二〇〇一年九月十一日の事件を前にしても、エジプトの上流階級は状況を悲しむのではなく、むしろ喜び、アメリカが当然の報いを受けたという満足感を感じていた。アメリカがエジプトの立場に配慮するようになってほぼ三十年、両国間の交流は盛んになったが、この奇妙なまでに敵対的で、不満の多い国で、アメリカが本当の友人を見つけだすのはほぼ絶望的である。
エジプト人はすでに長期間にわたって、自国の経済・軍事パフォーマンスに失望し続けている。この痛みは、エジプトの自己認識の高まりと、この国の近代史の特徴ともいえる貧困と対外依存という現実とのギャップから生じている。イスラエルとアメリカに対する怒りは、悲しみといらだちに彩られるこの国の歴史に根ざしている。エジプトでの現実の生活の多くは、この国の新聞や研究者が解明できるようなものではなく、支配者の統治手法、権威主義国家の実態、ムバラクの後継者問題、米軍とエジプト軍の共同軍事演習などの本質を民衆は知らない。政治プロセスの厳格かつ失望を禁じ得ない限界など、政体そのものへの不満と、アメリカやイスラエルへの敵意が、表裏一体の関係をなしているのだ。
ヨルダンも似たような状況にある。啓蒙的ながらも足場の弱いこの国の君主制は、老獪な故フセイン国王が数十年をかけて構築した戦略的絆によってアメリカと密接に結びついていた。だが、民衆の怒りと渦巻く過激主義の波はヨルダンをものみ込んでいった。この国の貧困状況はますます深刻化し、パレスチナ人とイスラエル人の断層ラインが着実に深まり、これが相互不信の種となっている。支配者がイスラエルとの完全な和平を試みても、ヨルダンの「市民社会」と新聞のコラムニストたちは、それを鼻でせせら笑うだけだろう。故フセイン国王は確かに遠くの大国との密接な関係を築き上げたかもしれない。だがヨルダン民衆が親米路線になじんでいたわけではない。「イラクへの経済制裁が解除されていたら、そしてこの国がイラクの経済圏の一部であり続けていたら、ヨルダンはより豊かになっていたはずだ」という声をいたるところで耳にする。たしかに、ヨルダンのアブドラ・フセイン新国王は、最近パウエル国務長官がヨルダンを訪問した際に、彼を赤いじゅうたんを広げて迎え、かつての湾岸戦争の将軍の再訪問には明らかに凱旋的なトーンが漂っていた。だが、群衆が掲げるプラカードや、うち振る横断幕に書かれていたのは「戦争犯罪人」という文字だった。このたぐいの民衆の怒りを前にして、遠くの大国にできることはほとんどない。政策で彼らの憤りを癒すことはできない。クリントンのように、イスラエル・パレスチナ問題という藪のなかに足を踏み込めば、「厚かましい」と糾弾され、一方、初期のブッシュ政権のように距離をおいても、「パックス・アメリカーナは中東を見捨てた。この問題に無関心だ」と批判されることになる。
<湾岸戦争とその後> 「砂漠の嵐」作戦後にアメリカが中東で手にした絶大なパワーが永続化することはそもそもあり得なかった。アメリカが今後ずっとイラクを隔離し続けるのも不可能である。一九九〇〜九一年のひどく危険に満ちた瞬間になんとかとりまとめられた広範な連帯を、永遠のアレンジメントとみなすのは知的怠慢としか言いようがなかった。イラン、イラクは地政学的にも、経済的にも今後間違いなく力を盛り返す運命にある。アメリカが湾岸でうまくやれたのは、イラクの厚顔な現状変革主義と、イラン革命を契機にこの国がイラクと戦ったという背景が存在したからだ。産油諸国への軍事力の展開、クウェートでの防衛線の確立、アラビア半島でのアメリカの軍事プレゼンスなどを実現できたのは、イランとイラクが当時、手のつけられない状態にあったからだ。九〇年代の湾岸での米軍プレゼンスに対する民衆の懸念を無視することができたのは、こうした背景があったからだ。
だが、そのような状況が終わりを告げるのは当初から目に見えていた。イラクが着実に制裁破りに成功する一方、中東の民衆は、この措置はイラク市民をひどい状況に陥れるアングロ・サクソンの包囲網だと考えだしていた。
つまり、サダム・フセインに対する軍事キャンペーンの時期が、アラブ政治がきわめて特異な経験をしていた時期と重なっていたのだ。サウジアラビアやエジプトのイスラム法学者たちのなかには、サダムはイスラム法の道義的拘束を踏みにじっており、彼の侵略と暴政を牽制するために外国勢力と連帯するのはイスラム法に照らしても許容できる、と言う者もいた。かつては、アメリカに近づいてほしくないと考えていたアラビア半島の一部諸国も、アメリカに、汎アラブの連帯を切り刻んだ同胞からの保護を求めていた。しかし、イラクの独裁者がアメリカの攻撃から身をかがめて持ちこたえたために、外国勢力によるおぞましい軍事キャンペーンが半ば永続化されることになった。サダムは、アラブ世界のルールを知っていた。彼は、(いずれ時がやってくることを理解した上で)変動する秩序のなかで耐え忍んでいた。
イラクの支配者は、パックス・アメリカーナによる短期決戦型戦争の後に、この地域が苦悶することになることを理解していた。イラクを取り囲むこの地域一帯は貧困にさいなまれていた。原油価格は低迷し、戦費負担を行った産油国にとって湾岸戦争はかなりの出費を強いるものだった。産油国は「必要以上の戦費負担を強いられたのではないか。とても買えないような兵器をアメリカに押しつけられたのではないか」と疑問も感じだしていた。
湾岸戦争の曖昧な決着が、中東の民衆の疑いをますます深めた。「アメリカが信号を青にしてイラクをクウェート侵攻へと誘い、サダムをあえて政権の座にとどめることで、パックス・アメリカーナはこの地域に軍事プレゼンスを維持する前提を作り上げたのではないか」。こうした環境のなか、イラクの支配者はその後、公正無私を装うアメリカの絶対的な力による覇権の空洞を暴きだすことに乗り出した。
一九九六年のイラク危機は、アメリカという絶対的な力にそうした空洞の存在をまざまざと見せつけた。サダム・フセインは、湾岸戦争後にアメリカがクルド人のためイラク北部に設けた安全地帯に殺人部隊を送り込んだ。サダムはこの地を踏みにじり、アメリカのパワーに身を委ねた人々数百人を処刑した。 これに対してアメリカはイラクの対空防衛施設を攻撃するために、湾岸に停泊する米戦艦からトマホーク・ミサイルを発射し、B52爆撃機をグアム島から発進させた。だが、アメリカのこうした反応に、もはや惑わされる者はだれもいなかった。もはや外国勢力が中東地域にとどまるべきだと考える者はだれもいなかった。アメリカの官僚たちは、この事件をクルド人の内紛、「身内の殺し合い」として片付けた。その後実施された空爆作戦を一部の人は、「攻撃して、忘れる」作戦と揶揄したが、この作戦がアメリカの決意と封じ込めについての幻想を一時的に作りだしたのは事実かもしれない。しかし、結局クリントン政権は攻撃に本腰を入れなかった。彼は、指を風の中にかざし、中東世界のムードを推し量り、サダムに対する大がかりな軍事作戦を許容するような雰囲気が存在しないことを感じ取ったのである。
ブッシュ政権が発足するころまでには、新政権の高官たちは中東情勢が変化しつつあることを感じ取っていた。バグダッドには、傷ついてはいるが、まだ生きているネメシスがいた。クリントンのアメリカはイスラエル・パレスチナ問題の妥結に向けて大いに努力したが、ペルシャ湾岸にはほとんど関心を払わなかった。そして、小うるさいテロの攻撃に対する煮え切らぬ対応がすでにパターン化しつつあった。
<見張り番の孤独> 二〇〇〇年になると、今度はヤセル・アラファトが第二次インティファーダという不安定化要因を混乱という鍋のなかに投げ込んだ。そこには、アメリカがアラファトの肩を持ち、旧軍人のイスラエル首相が、国内政治からみて許容できるすべてをパレスチナの指導者に認めようとするたぐいまれな構図が誕生していた。だが、アラファトは提案に背を向け、パレスチナ人になじみの深い歴史的手法をとった。諸国家が形成する世界にあって何を手にでき、何を手にできないかを理解できずに、妥協を拒絶して最大限の要求をするというおなじみのやり方である。アラファトは、「アラブの通り」に身を置き、いずれ反乱を起こして、パックス・アメリカーナに自分の要求を受け入れさせようと考えている。彼は再び、「ヨルダン川から海にいたるすべてを手に入れる」という古くからの夢のために、民衆に蜂起を促すだろう。アラファトはより現実を理解しているはずだし、アメリカの圧倒的な力も認識しているはずだと考える人もいるかもしれない。
しかし、パレスチナ人、アラブ人の頭のなかでは、モロッコの歴史家アブドラ・ラルーイが指摘した有名なフレーズがつねに駆けめぐっている。「すべてのことが消え去ると同時に再建され、新たな来訪者たちが、まるで魔法のように、略奪を繰り返したこのアラブの地から出ていく日がいつかやってくる」。アラファトはこうした贖罪の思想が持つ力を理解している。彼は、この思想の流れに身を任せておくのが無難であり、いつの日かまた新たな提案があると間違いなく判断している。
第二次インティファーダの大きな怒りにもかかわらず、パレスチナの歴史にはいつも大きな皮肉がつきまとう。一九九〇年代初期の段階では、パレスチナ人には失うものは何もなかった。アラブの権力集団のはぐれ者であるアラファトは、すべてを手に入れようとする政治的伝統を忘れ、ときには、オスロ合意(パレスチナ暫定自治合意)という歴史的決定を最大限活用しようと試みた。
その後、パレスチナの指導者はアラブ政治の枠を超えて、イスラエルの政治にもかかわっていく。そのプロセスのなか、イスラエルの招きによってアメリカの軌道のなかにさえ入っていった。パレスチナが再びアラブ政治の枠内に舞い戻ってきたのは、まだ実現していない古くからの贖罪の思想を思い出したからである。
「民衆にまだ心の準備をさせていない和解というリスクを冒すよりも、武力蜂起のほうがまだましだろう」。これこそアラファトのやり方だった。だからこそ、彼は二〇〇〇年夏のキャンプデービッドでの提案をはねつけた。アラファトの補佐官の一人であるナビル・シャースは、「ヤセル・アラファトは白馬にまたがって帰郷した」と当時の状況を描写してみせた。アラファトは提案を拒絶することで、自分がエルサレムと難民のことをまだ気にかけていることを示した。「アメリカとイスラエルによる圧力を前に彼は席を立った」とシャースは指摘した。戦後の中東世界の落とし子的存在であるアラファトは、一九四八年の第一次中東戦争敗北後の「報復」という潮流のなかで生活してきた。パレスチナ問題はアラブの屈辱の象徴とされ、その後、悪魔と生け贄の羊探しがアラブ政治を形づくっていく。
「政治的に満足を得られないという点では、一九四八年にレバノン、シリア、ヨルダンに避難したパレスチナ難民も、イスラエルの建国によって、アレクサンドリア、フェズ、バグダッド、ベイルートというアラブの土地から姿を消したユダヤ人も同じである」などと、日和見主義者のアラファトが口にするはずもなかった。
彼は、いずれだれかがやってきて火を消してくれることを願いつつ、第二次インティファーダに火をつけた。彼はイスラエル政治の外部プレーヤーになり、自分の立場次第でイスラエルの首相たちを権力の座から追い落とすこともできるし、じっとしていれば、好ましい方向へと流れを作ってくれる外部勢力の介入を強要できることも理解していた。アラファトは、若いパレスチナ人たちに社会秩序も雇用も訓練も与えられなかったが、イスラエルの経済的流れを遮断し、オスロ合意によって実現した平穏を破壊する路上での戦争を開始する程度の力は持っていた。
アラファトが待っていたのは雨だったが、二〇〇一年九月十一日に起きたのは洪水だった。「これは新たな戦争、新たな戦場の出現を意味し、アメリカはアラブ・イスラム諸国の助けを必要とすることになろう」。パレスチナの首席交渉者サエブ・エレカットはこう表明し、今回のアメリカに対するテロ攻撃につながった原因の一つがパレスチナ問題であるのは間違いないと付け加えた。アメリカ主導型の対テロ攻撃用の戦力が整えられ、アメリカがアラブ・イスラム世界への探索に再び乗り出すなか、アラファトは、パレスチナ人のためにアメリカと取引できる新環境が生まれたと考えている。
要するに、アラファトは、対テロ戦争へのアラブ側の参加を求めるにはわれわれへの持参金、つまり、「アメリカによるパレスチナ問題の解決」という持参金が必要になると踏んでいる。一方、アメリカの戦略に歩調を合わせることに神経質なアラブの政権が、アメリカに協力するにはそれなりの取り繕いが必要となり、パレスチナ問題の当事者であるアラファトは、そうしたカバーアップ(大義)を提供できる立場にあると主張するだろう。
だが、アメリカを攻撃したテロリズムの根はパレスチナ問題の歴史とは全く関係ない。テロ実行犯たちは、アラファトが第二次インティファーダを「カミカゼ殉教者」や「投石する子供たち」に呼びかけるはるか前から、アメリカの航空訓練所でテロに備えた準備を行っていた。だがパレスチナの指導者と側近たちは、反米テロに火をつけたのはパレスチナの怒りであると強くアピールした。
十年前、サダム・フセインが湾岸での覇権を確立しようと試みたとき、パレスチナ人はその行為を大いにたたえた。だが、それでもパレスチナ勢力には一九九一年十月のマドリード会議での役割が認められ、アメリカの政策面での慎重な配慮という形で、平和に対する事実上の発言権も得た。当時、第一次インティファーダはすでに下火となり、運動は悪魔と「共謀者」探しへと堕落していたわけで、これは、アメリカの中東外交がなんとも間の悪いタイミングで開始されたことを意味する。第二次インティファーダにも似たような運命が待ち受けているのかもしれない。アメリカがアラブ・イスラムの地に新たな関心を持ち始めるなか、アラファトが再び手を差し伸べられることを期待していると考えてもおかしくはない。
だが今後は、アラファトが他国の政策を左右する力を持つことはなく、各国は自ら合意をとりまとめようと試みるだろう。そして、パックス・アメリカーナは、中東における孤立を思い知ることになる。今回アメリカが置かれている状況は特に困難である。アラブの各国政府は、足場を脅かす国内の政治的イスラム勢力の脅威を切実に感じており、アメリカが対テロ攻撃を行っている最中にワシントンと公然たる同盟関係を結ぶことからは何の利益も得られないことを理解している。来ては去っていく外国勢力には、怒りに満ちた群衆の敵愾心に対する保護を提供する力はない。アラブ・イスラム文化圏では、支配者が西洋諸国との共闘路線をとるよりは、彼らによる権威主義体制のほうがまだましだとみなされている。(西洋との同一路線がいかにリスクを伴うかは)エジプトのサダト大統領、イランのパーレビ国王の末路を見れば明らかだろう。
中東の歴史は、外国勢力と手を組むのなら、そのリスクを自ら引き受けなければならないことを教えている。逆に言えば、天寿を全うしてこの世を去ったシリアの独裁者ハフェズ・アサドの一生はある種の成功だったとみなすこともできる。彼は一度もアメリカを訪問せず、自分の世界だけで一生を終えた。対照的に、直情行動型のサダトは諸外国にエールを送り、結局は孤立し、暗殺され、しかも中東という彼の故郷でその死を悼む者さえいなかった。
アラブ・イスラム世界の見張り番をする外側の国と同盟関係を結べば、「共謀者」、あるいは信仰上の裏切り者とみなす人々によって報復の対象とされる。連帯関係が現在築かれつつあり、アメリカは、この地域の指導者たちに「われわれの側か、テロリストの側か」どちらにつくのか、立場をはっきりとさせるように求めている。だが、これは中東の指導者たちがもっとも懸念する事態が到来したことを意味する。悪質な反米主義のなかに身を委ねている群衆が見守るなか、中東の指導者たちは自らの命運を決するような重大な選択を強いられることになるかもしれない。
中東地域の現実を考えれば、アメリカが協調を引き出せるのは、中東諸国の外務大臣や外交官からではなく、むしろ内務長官や治安当局の担当者たちからだろう。水面下で協調する国は出てくるだろうが、中東の支配者たちは公的にはアメリカと距離を置こうとするはずだ。パキスタンのムシャラフ首相は(アメリカとの連帯という)勇敢な選択を下したが、アラブ・イスラム世界の指導者はみな、ムシャラフが協調姿勢を維持できるかどうか、国内の秩序を保てるかどうかを大いに心配している。
広範な連帯が形成されれば、アメリカはイスラム世界で独りぼっちではないと感じて安堵するかもしれない。湾岸やエジプトというアラブ世界の中枢から遠く離れたアフガニスタンを攻撃するのは簡単だろう。タリバーンは現代版のクメール・ルージュであり、そう気を使わずに果敢に対処できる。だが、より曖昧で、なかなか足を踏み込みにくいアラブ世界と向き合うときに、アメリカは挫折感を味わうことになる。ニューヨークにそびえ立つ二つのガラスの塔とペンタゴンに飛行機を激突させたのはアフガニスタン人ではない。実行犯は、反米主義があふれかえり、民衆が何かの合図一つで憂鬱なテロリストに変貌するアラブ世界の人物たちである。
<そして未知なる世界へ> 「旅客機をビルに衝突させられたときに、アメリカの命運は尽きた」。レオン・ウィゼルタイアーはニューリパブリック誌にこのように書いた。一九九〇年代は幸運の十年、愚か者のパラダイスだった。しかし、歴史が終焉へとたどり着いたわけではなく、終着点はまだ視界にさえ入ってこない。市場経済が、古くからの人々の歴史的感情を消し去ったわけではないし、ハイテク世界の電子時代が夜明けを迎えたわけでもない。御しにくく、反発が渦巻く世界は、世界に畏怖心を抱かせていたアメリカ経済の強さと勝利が九月十一日に粉砕され、ニューヨークが噴煙と瓦礫だらけにされたことに、満足していた。 石油とイスラエル・パレスチナ問題のある場所に、パックス・アメリカーナは今後もとどまり続けるだろう。たしかに、中東地域でのアメリカの優位が大きく崩れるとは考えられず、アメリカの覇権は間違いなく維持されるだろう。だが、アメリカに対する抵抗もなくなることはない。中東地域では、外国人による秩序提供の必要性、そして外国に対抗することへの突き上げるような感情とが折り合いのつかぬままに行き場を失っており、こうしたなかで、外国を利用しても、それに抵抗しても同じことなのだ。
いまや明らかに戦争の響きがこだましている。二十一世紀の最初の戦争が、前世紀最後の戦争となった、結末のはっきりしない対イラク戦争が起きたこの中東からそう遠くない地域で戦われつつある。今回の戦争は、アラブ・イスラム世界にアメリカがかかわり続ける限り、簡単な戦争とはなり得ない。アラブ・イスラム世界は、これまでにない形でアメリカの意図を試そうとするだろう。国内イスラム勢力との戦争の戦い方を大目にみることを求める政府も出てくるだろうし、実際に物的支援を要請する政府も出てくるかもしれない。中東の安全保障部隊が、アメリカの規範からすれば到底受け入れられないような方法で集めた情報を、餌として提供する中東の支配者も出てくるだろう。
一方、アメリカの友人とテロに対する憤りを共有する人々も、いずれ、立憲主義者、「(多元的な)市民社会」の生活者として冷静さを取り戻していくだろう。また、西洋の多元主義のどこかに自らの身の置き場所を見つけ、テロ勢力を支援し、煽る勢力も出てくるだろう。アメリカの友人のふりをしながらも、必要なときに姿を見せないカメレオンもいるはずだ。アメリカ人に語りかけるという手段がある一方で、言葉などは単なるポーズにすぎないとわからせるやり方もある。危険地帯、そして幅の狭い横道のガイドを申し出る山師まがいの情報提供者や詐欺師も登場するだろう。
かつてヨーロッパという旧世界と距離を置いていたアメリカは、いまや東方世界に進んで首を突っ込まざるを得なくなっている。厄介な外国地域から遠く離れた内陸テキサスで育った、いかにもアメリカ的なジョージ・W・ブッシュに、ひどく異質であまりにわかりにくい世界へアメリカを誘う役回りがめぐってきたことは、はらはらするとともに、皮肉な現実と言わざるを得ない。●
Fouad Ajami ジョンズ・ホプキンス大学ポールニッツスクールの政治学教授で、専門は中東研究。最近の著書に『The
Dream Palace of the Arab』がある。 |