原田武男物語 V・ファーレン長崎
○○下
 昇格へ4年目の挑戦

焦り、もがき走り続ける
 「何かを成し遂げないと終われない」

 チーム発足2年目、2006年冬。V・ファーレン長崎は、JFLに手が届くところまで勝ち上がった。大分市であった全国地域リーグ決勝大会決勝ラウンド。4チームの総当たり戦で1位が昇格、2位はJFL下位との入れ替え戦に進める。張り詰めた空気の中、背番号「14」は、かすかな緊張感を漂わせ、自信に満ちた表情でピッチに足を踏み入れた。

まさかの3連敗

 予選ラウンドは2試合を圧勝していた。誰もが実力を疑わなかったが、その自信はすぐに打ち砕かれた。ファジアーノ岡山に1−3で完敗。続くTDKにはPK負け。2位の可能性をわずかに残していたFC岐阜戦も、1−1で迎えたロスタイムに失点。3連敗。肩を落としてピッチを去るイレブンの中で、最年長MFの足どりはひときわ重かった。ぼうぜんとした表情。あふれ出る涙は隠せなかった。

 07年は九州リーグでまさかの3位。JFL昇格レースから早々と脱落した。Jリーグ通算252試合出場を誇るMFは、J1から三つ下のカテゴリーで4年目を迎えることになった。いつのまにか、消滅した横浜フリューゲルスの5年に次ぐ長さになった。

 「正直、こんなにかかるとは思わなかった」。各地でJリーグを目指すチームが急増する中、JFLに昇格できるのは年に2、3チーム。簡単ではないと分かっていたが、予想以上だった。

原田武男
V・ファーレン長崎で4年目のシーズンに突入した原田武男=島原市営陸上競技場
 36歳。選手生命は1年ごとに短くなる。焦りも感じながら、もがき続けてきた。以前に比べれば、運動量は減った。思うようなプレーができないときもある。当然、解雇もされやすい。分かっているからこそ「残ってほしいと言われるように、答えを出し続けるしかない」

仲間の思い抱え

 それぞれが仕事を終えて集まり、午後10時すぎまでボールをけった1年目。あと一歩で夢破れた2、3年目。多くの仲間がチームを去った。01年、三菱化成黒崎(現・ニューウェーブ北九州)に所属していた弟の辰也は、28歳の若さで他界した。望んでも、続けられない人がたくさんいる。そんな思いも背負いながら、10歳以上も離れた選手たちと一緒に走り続けている。

 道は険しくとも、その先には確かにJリーグがある。今年、地域リーグからJFLを経てJ2に昇格したロアッソ熊本や、FC岐阜があらためて示してくれた。自分と同じような境遇から、再びJリーグへはい上がった先駆者がいる。うらやましい半面、心強くも思う。

 昨季終了後、言った。「このチームにかかわった以上、何かを成し遂げないと終われない」

 悔いも、悲しみももういらない。今年こそ、大きな一歩を踏み出す。

▽  ▽  ▽ 

 愛着あるチームを消滅という形で奪われた衝撃は、10年がたとうとする今も消えない。Jリーグが掲げる“地域密着”という理想の根幹を揺るがした、あの事件がなければ、また違ったサッカー人生だっただろう。あの喪失感をぬぐい去るために、ピッチに立ち続けているのかもしれない。大好きなサッカーを続けられる喜びを感じながら、戦いは続く。自分を育ててくれた長崎のために、自分の居場所を見つけるために。

 (この企画は運動部・副島宏城が担当しました)

2008年7月2日長崎新聞掲載


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