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武庫川 本流 美しい自然と環境の古郷 03-3-21Nikon PIx700

日本の野球界驚異の100年
現役記録保持者の健在を寿ぐ
トップバッタ−はこの大先輩
やはりこのペ−ジから

 在りし日の山野井 満氏(右)と信川先生 平成15年8月30日甲陽同窓総会(撮影:Yukio.ASAI)
山野井 満氏(右)と信川先生 平成15年8月30日甲陽同窓総会 Nikon 山野井 萬
   明治39(1906)年月27日生
   大正14(1925)年
甲陽卒第4回生,同志社大卒
 
 【訃報】
2006(速報 2006210pm
 2月9日午前11時33分お亡くなりに なりました
                         (享年 懣99才)
                    哀悼の想いは感無量ひとしおです
                     ご冥福をお祈り申し上げます 合掌
  浅井 幸夫(33回)
 
  
弔辞語録 −甲陽OB 同窓生一同 (以下同文)
46回 野球部事務局の岡田・・・・・46回 野球部事務局の岡田です。大正12年の全国中学校野球大会に優勝された、甲陽野球部OB会名誉会長 山野井 萬さんが2月9日午前11時33分お亡くなりになりました。
 
46回野球部  近 藤 宏・・・・・甲陽野球部として全国大会の優勝経験者であり、我々が甲陽の現役でいた時も、OBになってからも、本当に野球部を愛し支えて戴きました。いまでも感謝の気持ちでいっぱいです。 
 
井上正哉・・・・・まさに甲陽野球部の歴史の証人であられたのですが、誠に残念です。
 
西村公男@46回 甲陽ML世話人 ・・・・・同窓会の総会や役員会などの折、遠くからその矍鑠たるお姿を拝見するだけの私でしたが、3年前のある日、同窓会会長の平田さんといまは亡き中島久先生とお三方で歓談されている場に同席させていただいたことがあります。明晰なる記憶力、しっかりした口調に圧倒された記憶が鮮明です
  
則 岡・・・・・最近全国大会での始球式に出られるようにとの話も聞いていましたのに本当に残念です
  
明石 雅史・・・・・残念です。もう最初に、息子さんの家庭教師として、お目にかかり、その後象印の時代、水野大先輩の縁でお会いしてからずいぶんの日がたちましたがすばらしい先輩としての記憶は忘れられません
              ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 他 多数 ・・・・・・・・・・・・・
 
● 甲陽中学が創立7年目の大正12(1923)年8月20日、朝日新聞社主催夏の全国中等学校優勝野球大会第9回初出場で、3連覇を狙う和歌山中学を降ろして優勝した時のトップバッタ−名一塁手として活躍された山野井
在学中は巨人元監督藤本定義氏
(松山商業:投手・強打者) とも対決された 甲陽中学時代は通学が遠く(神戸市山本通5丁目)寄宿舎(鳴尾村)生活で振り返れば、甲陽時代に培った良き学朝から夜も野球漬けの毎日で友て、これを幸せに思い深く感謝していると・良き野球仲間との交友が、私の人間形成に大きく影響してい述懐されて居られる。
註:優勝大会の準決勝(甲陽13−5立命館中:4回で逆転勝ち)で超満員の観衆がグラウンドに乱入事件発生し、阪神電車はこれまでの鳴尾球場を断念し、翌年より新設甲子園球場へ移る。また優勝から12日後の大正12年9月1日午前11時58分に関東大地震が発生している。

● 平成5年8月5日第75回記念大会記念事業として朝日新聞社と全国高等学校野球連盟による 「鳴尾球場跡顕彰碑」 が、甲子園球場の南約1.2Km枝川町の鳴尾浜公園の一角に完成された。
(高さ約5.2m、八角形の台座にユニフォ−ム姿のバッテリ−像が据え付けられ、この球場で開催されたト−ナメント表のレリ−フが嵌め込まれ、甲陽の第9回優勝の足跡も顕彰されている)山野井氏はこの除幕式で唯一の生存者として出場選手を代表してテ−プカットに参加された。
 昭和3年から野球部監督を務められ森下重好
(昭和13年17回生)別当薫(昭和14年18回生)小前博文(昭和15年19回生)など多くの傑出した野球選手を育成される。

◎ 夢の甲子園へ一直線の足跡

大正10年(第 7回)兵庫大会決勝 神戸一中   3−1 甲陽中  甲子園進出ならず
大正12年(第 9回)兵庫大会決勝 甲陽中     4−3 姫路中  甲子園出場、空からの始球式第一号。
      
  全国大会 決勝 甲陽中  5−2 和歌山中 全国優勝、台北一中参加。
大正13年(第10回)兵庫大会決勝 第一神港商 12−0 甲陽中  甲子園進出ならず、甲子園球場誕生。
昭和02年(第13回)兵庫大会決勝 第一神港商 8−3 甲陽中  甲子園進出ならず。
昭和03年(第14回)兵庫大会決勝 甲陽中    4−3 神戸二中 全国大会準々決勝で平安中に敗れる。
昭和05年(第16回)兵庫大会決勝 甲陽中    3−0 明石中  全国大会準々決勝で諏訪蚕絲に敗る。
昭和07年(第18回)兵庫大会決勝 明石中    3−0 甲陽中   決勝戦で敗れ、甲子園進出ならず。
昭和12年(第23回)兵庫大会決勝 滝川中    2−1 甲陽中   決勝戦で敗れ、甲子園進出ならず。
昭和13年(第24回)兵庫大会決勝 甲陽中    4−1 滝川中   甲陽中:別当薫出る
           全国大会 準決勝 岐阜商     3−1 甲陽中   全国ベスト4 に進出、平安中優勝。
昭和15年(第26回)兵庫大会決勝 北神商     3−0 甲陽中   甲子園進出ならず。

 翌年戦争により大会は昭和21年まで中止される。以降甲陽は兵庫大会で決勝戦迄は残念ながら勝ち残っていない。

ついでの話:巨人軍剛球投手で303勝達成したビクトル・スタルヒン投手(1916〜1957・

● 戦争、革命、国籍に苦しめられた男・スタルヒンの話=北海道旭川中学、後巨人軍剛球投手で303勝達成したビクトル・スタルヒン投手(1916〜1957・帝政ロシアからの亡命者9歳児)一家を今津に呼びパン屋をやらせ、彼を一時甲陽生としたと言う逸話が残っている。残念なことに当時の兵庫県校長会の人種的偏見等により退学させる結果となった。
(「甲陽だより」平成14年7月31日より) 自殺説まで出た事故死で生涯大波乱人生の彼には誠に遺憾・慚愧に耐えない思いがする。1960年野球殿堂入り。沢村氏の後を継ぎ巨人のエースに。昭和14年に42勝を挙げMVP。戦後は、藤本定義監督のあとを追って、大映などで活躍。史上初の300勝投手。

● 2002年9月、読売ジャイアンツのニューヒーロー阿部慎之助選手は、まだ入団2年目の捕手だったが、サヨナラヒットを4試合記録した。それはシーズンを通して7の数字として球団タイ記録であるが、それまでの記録保持者は、何とスタルヒンであった。


在学中、
甲子園の甲陽学院グラウンドで

別当選手は阪神に入団した直後の中学3年生頃
森下・小前選手は高校を卒業する頃まで
野球部員をコ−チする姿をよく見掛けたものだ

プロ野球の名選手の金字塔

 森下 重好
昭和13年甲陽卒・第 17 回生、 法政大卒2000/7/16逝去 享年80歳
 ▲
パシフィック→大陽(松竹)ロビンス→近鉄(26〜33)での強打者・外野手現役10年選手

開幕戦 3 打席 連続本塁打 記録 1951(昭和26)4月8日 近鉄 vs 南海

開幕戦3ホ−マ−は、大洋の田代 富雄選手( 1979=S54.4.7 大洋 vs ヤクルト)、ヤクルトの小早川 毅彦選手( 1997=H9.4.4  ヤクルト vs 巨人 史上3人目)が記録している。
 尚、小早川選手は昨年8打数1安打(シングル)で広島を自由契約となり、ヤクルトに拾われた選手であった。この開幕戦の劇的勝利で波に乗ったヤクルトは、この年一度も首位から落ちること無くリーグ優勝を果たした。
三重県尾鷲市民野球場横の「別当薫選手等身大銅像」の記念碑 長嶋茂雄氏の「書」

  故 別当 薫    
昭和14年甲陽卒・第 18 回生、 慶応大卒、
1920年8/23兵庫生〜1999年4/16東京で逝去・享年78歳
 ▲ 全大阪→阪神→大毎(現ロッテ)現役、天性の好打者・外野手
毎日、近鉄、大洋
(現横浜)、広島の四球団 監督歴任

●  慶応大で神宮球場の花形、社会人野球時代のスター・オール大阪の強豪で4番打者で活躍、プロでは華麗な球歴を誇る日本の野球史上の重要選手。昭和23(1948)年阪神タイガ−スに入団したときは別当フィーバーで大騒ぎとなった。
「華麗なる男」 あるいは、スマートなプレーぶりや容姿から 「球界の紳士」 と称され、それまでの職業野球「臭」をさせていたプロ球界に新風を吹き込んだ。

甲陽中学在学中の(多くの阪神選手が練習していた)グラウンドで練習している阪神 景浦 将選手
(註参照:彼の存在あればこそ”猛虎”と言う)をみて 「将来はタイガースに入団しよう」 と決意したという。
別当薫氏は僅か2年のタイガース在籍にも関わらず、当時の阪神強力打線を語る時は必ず藤村富美男選手と並べられるが、慶応卒超エリートの別当選手の阪神への情熱が阪神ファンを魅了し、藤村選手よりも人気があったと言っても過言ではない。結局は1950年、2リーグ分裂後、毎日オリオンズに移籍した。オリオンズでは最高殊勲選手(MVP)、120試合43本塁打( 2位は近鉄・森下重好氏の30本)、打点105 2冠王になっている。
別当薫氏が見せてくれた鮮やかなホームランは、田淵幸一選手が入団するまで語り継がれた。

註:景浦 将選手、昭和4(1915)年7/20生、出身地・愛媛県 松山商業
 昭和36年2月28日阪神の熱意により立教大を中退し、大阪タイガース創立時に入団
阪神の監督だった藤本定義氏が彼のことを 史上最強の男 ”ミスタ−タイガ−ス”と呼んでいる。猛打タイガースの初代サード4番 ライバル沢村栄治選手の打倒・人呼んで「闘将」「猛将」で打ち崩した。
投手・外野手・内野手。右投右打。首位打者1回 打点王2回 最高勝率1回 最優秀防御率1回 1937年秋は打率.333、3本塁打、31打点(49試合制)で首位打者になっている。投げても4勝1敗、防御率1.41だった。景浦氏の活躍により、阪神は初優勝し巨人との優勝決定戦を制した。
1940年第二次世界大戦へ出征、一旦復員するも 45年再度召集 フィリピン・カラングラン島で戦死 
1965年12月 
野球殿堂入り別当 薫氏の等身大の銅像 三重県尾鷲市に在り 

全大阪、48年阪神に入団・在籍2年、大毎(50〜57年)。
通算891試合出場 965安打 155本塁打 549打点 打率.302。 タイトル・受賞: ベストナイン6回 最多安打1回・本塁打王1回・打点王1回 
尚、リーグ創設以来 2シーズン全試合出場を記録
(但し1951年リーグ選抜ハワイ遠征で2試合欠場は出場とみなす)

● 54年から毎日の監督・現役兼任。57年に引退後、近鉄・大洋(現横浜)で監督を歴任。73年に広島の監督を務めた後、77年から再び大洋でチームの指揮を執る。広島監督時の成績は60勝67敗3分け。
監督通算19年 2497試合 1237勝 1156敗 104分 勝率.517

● 1988年(昭63)1月 野球殿堂入り

● 1999年12月 三重県尾鷲市に全身像が落成
 (上及び右の写真:尾鷲市在住の宮岡佳永氏の
ご好意により転載します 03.7.25撮影分 )
    http://www.owase.net  
http://www.ztv.ne.jp/miyaoka

小前 博文
 昭和15年甲陽卒・第 19 回生、 法政大卒
日本少年野球連盟所属・八尾フレンド小学部監督
 ▲ ゴールドスタ−(金星46・47)→阪急ブレ−ブス(48・49)→広島(50・51年引退)外野手
  サヨナラ打:48年5月8日 阪急4−3金星 甲子園ヒット 相手投手 内藤幸三選手
194912 セリーグへの参加が決まり1950年・カープ元年29歳阪急から移籍
広島での生涯記録:打率.215  本塁打4本 安打165

日下  章
 昭和20年甲陽卒・第 25 回生、 関西大経卒、1927.7.22尼崎生、
 ▲ 俊足強打の外野手、関大では4番打者。外野手・左投げ左打ち
>1951年 大阪(阪神)タイガースに入団。ライトの控え、背番号25、1956年退団
元 尼崎市議会議員

● 当時のタイガ−ス 田中義一代表が関大の先輩と言う事もあり入団を決意。6年間代打で活躍、松木謙治郎監督(50〜54年)は二軍で特訓させたかったと言う。しかし入団当時実父の県会議員・日下梅吉氏が 「二軍で使わない」 契約をしていたとか言われている。。
実働 6年 346試合 477打数 116安打 本塁打8 打点36 盗塁39 打率.243
(53年59試合.300記録)
8人兄弟の5番目で育英高校甲子園出場監督の日下篤氏は兄、近鉄の日下隆氏が弟。
ついでの話: 末弟の日下保氏と小生とは小学校同期で共に阪神電車沿線 武庫川育ち


 
長谷川 寿 林 成年
 昭和24年甲陽卒・第 29 回生、 慶応大文卒
 ▲
東宝演劇部 舞台俳優映画スタ−長谷川一夫 = 林 長二郎氏の長男
中村玉緒 さんとは いとこ

 『父・長谷川一夫の大いなる遺産』 林 成年著/講談社/1500円

「赤胴鈴之助」 《初ビデオ化》

 未だテレビが普及しない昭和25(1950)年代の頃、「少年画報」 の連載漫画で少年の間で人気沸騰。すぐにラジオ(ラジオ東京)ドラマ化され、さらに人気爆発となる。そのラジオドラマを大映が1957〜58年に映画化。美貌の少年剣士若梅正二の赤胴鈴之助、林 成年扮する竜巻雷之助による冒険活劇で必殺技・【真空斬り】 を繰りだし、謎の怪人・悪人を倒し、中村玉緒扮する美少女を救い出すなどストーリー展開は、正にヒーロー活劇の原点でもあった。

「俺は籐吉郎  《初ビデオ化》 父 長谷川一夫氏と共演した代表映画
 
 
長谷川一夫が織田信長に、 林成年が風雲児・籐吉郎に扮し共演、恋と出世の痛快時代劇巨篇!川口松太郎原作。監督森一生・カメラ宮川一夫の黄金コンビ。
謀叛人の悪計もなんのその!三日で城を修復した籐吉郎の勇気の陰に美しく咲いた三つの恋・・・・

【出演】 長谷川一夫・林成年・島崎雪子・瑳峨三智子・角梨枝子 ●モノクロ ●1955年

明治座公演記録 平成元年4月 「杉良太郎 特別公演」

 舞台出演20周年記念 吉例第24回:葉山葉子・林成年・田口計・緋多景子・青木義朗・北見治一・吉川雅恵・清水彰・岡田英次・園佳也子 他

1.拝領妻始末 2.杉良太郎'89春オンステーシ 1.殺陣師段平 2.杉良太郎'89春オンステーシ

−3− おわり                 
   
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