教科書検定訴訟を支援する会『立川地区連ニュース』NO.78199078

 マレーシア住民虐殺と原爆投下                          

                                 林 博史  


 これは1990年に書いたものです。かなり古いものですが、自分の研究のひとつの原点をふりかえる意味で、またミニコミに書いたものなのでほとんど読まれていなかったこともあって、ここに掲載してみました。もう19年もたったのか………。最近、ようやく核密約が問題になりつつありますが、核兵器をめぐる問題とそれへの認識は、日本人の歴史認識から現状認識を含めて、大きな問題であり続けています。  2009.10.22記


 昨年の夏、「アジア太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ心に刻む会」の招待でマレー シアから鄭来さんという日本軍の虐殺からかろうじて生きのびた人が来日し、各地で証言をおこないました。鄭さんは一家7人のうち彼と一人の弟を除いてみんな日本軍によって殺され、彼自身も背中や脇に3度にわたって銃剣で刺されましたが奇跡的に助かった、虐殺の生き証人です。  

 来日した鄭さんを初めに広島に案内しました。家族を虐殺した部隊は広島で編成された歩兵第11連隊で、その部隊の記念碑が広島城のお掘のそばに建っています(有名な池田勇人の銅像の側なのですぐにわかります)。もちろんその碑には虐殺のような「不名誉」なことはいっさい記されておらず、1875年の連隊創設以来、萩の乱をかわきりに西南の役−日清戦争−北清事変−日露戦争−シベリア出兵−「支那事変」−「大東亜戦争」と勇戦奮闘し、「郷土部隊の名声を高揚した」と誇らしげに記されています。鄭さんはこの碑のそばに近寄ろうとしませんでした。「この人たちが家族を殺したのか、と思いすごく苦しんで泣いていた。あの碑は早く取り除くべきだ」とあとで話してくれました。そのあとで原爆資料館も訪ねました。日本に滞在中、原爆投下のことについて特にはきかなかったので、今年2月マレーシアに行って鄭さんに会ったときに原爆のことをあらためてたずねてみました。

 鄭さんは「広島で原爆が落とされて何万人も死に、その死んだ人たちのことを考えると非常に悲しい。しかし日本が戦争を起こさなかったならば、原爆は落とされなかったのに」と話していました。マレーシアで日本軍の虐殺から生き残った人たちが原爆投下についてどう考えているのか、ということはこれまで何度か紹介してきましたが(末尾の文献を参照)、みんな同じように、「日本が戦争を起こし、虐殺をしたから原爆を落とされたのであり、原爆が落とされたからアジアは解放されたのだ」と異口同音に語っています。そうした受けとめ方はマレーシアだけでなく、シンガポールやインドネシアなどでも見られるようです。広島に原爆が投下される映像を見て、拍手喝采を送る人たちがいるということは、日本人の感覚からは想像しがたいことです。

 もちろん原爆がアジアを解放したというのは事実ではないし、歴史的にみて侵略の帰結が原爆投下であったとしてもそれは原爆投下を正当化するものではないし、してはならないことはいうまでもありません。しかしアジアの人々がそのように受けとめているという事実とその意味は、真剣に考えなければならない問題でしょう。

 先日、89年度の教科書検定の内容が公表されました。そのなかで、原爆のきのこ雲のイラストが大きく描かれたシンガポールの小学校の歴史の教科書(中国語)の表紙の写真を題材にして、「マレーシアやシンガポールでは原子爆弾をどう位置づけているのだろうか。シンガポールの歴史教科書の絵をみて、日本国内の考えかたと比較して考えてみよう」 と生徒に考えさせる教材がありました。これは高嶋伸欣さんが執筆した部分だそうです(なお現在シンガポールでは学校教育は英語に統一されたので、この教科書は使用されていません)。これに対して文部省が修正意見を付けて、「シンガポールの教科書の表紙から設問のような考察をさせるのは無理があるので配慮が必要である」と修正を迫り、結局、見本本ではこの表紙の写真とそれについて考えさせる記述は削除され、「『許そう、しかし忘れまい』という標語を通して、アジアの人びとは、戦争をどのようなものと受けとめているのか考えてみよう」という内容に変更されました。 

 「許そうしかし忘れまい」という言葉自体、私たちに考えさせるものがあるよい素材だと思いますが、原爆投下の意味を考えさせる教材が削られたのは残念なことです。私も、マレーシアの人々の原爆投下の受けとめ方を授業の題材として使っていますが、学生にとっては少なからぬショックをうけるようです。最近、高校の熱心な先生方が、南京事件や731 部隊など日本が中国に対しておこなったことについては、授業でも取り上げているようなので、中国に対することはそれなりに知っている学生がいます。しかし、マレーシアなど東南アジアで日本軍がおこなったことはほとんど知らないし、そもそも東南アジアで戦争をしたということすら知らない学生が多いのです。太平洋戦争とは太平洋でアメリカと戦争をしたものであって、東南アジアがその認識からはすっぽりと抜け落ちてしまっています。だからこそアジア太平洋戦争という呼称を使うべきだと思います。

 マレーシアで赤ん坊まで徹底して虐殺をしたということを知って彼らは、これまで受けてきた学校教育が実は日本人が知っておくべき大事なことを教えてこなかったことに気づき、そうした日本の教育のあり方への不満と批判をレポートに書いてきます。それに加えて原爆がアジアでそのように受けとめられているということはダブルショックなのです。

 文部省は、原稿本にあったこの教材の「危険性」を敏感に嗅ぎとって削除させたのでしょうか。ところで、この原爆の意味に関係することですが、いま広島で市民グループが原爆資料館の展示のなかに日本の加害を考えるコーナーを設けるよう広島市に働きかけていますが、広島市は拒否しています。広島の原爆資料館の展示は、8月6日の原爆投下から始まって、原爆による惨状とその後の放射能による被害などが展示されています。つまり、現在の展示からは、どのような歴史的な経過のなかで、なぜ広島に原爆が落とされたのか、ということは抜けています。市民グループの発想は日本の侵略戦争の歴史的な帰結として原爆があったのだ、と主張し、そのことを展示のなかで明確にしめすべきだというのです(もちろんそれは原爆投下を正当化しようとしているのではありません)。そうした運動に対して、右翼がそうした要求をのむな、と広島市に圧力を加えているようです。

 市民グループの歴史認識自体は理解できるとしても、ただ原爆資料館が日本の加害責任を全部(あるいはかなりの部分)を引き受けなければならないのかどうか、は意見が別れるところだと思います。こうした問題はたとえば、沖縄のひめゆり平和祈念資料館でもあります。ひめゆり資料館のプロデュースを担当した中山良彦氏は、その展示のなかで「『 加害』に言及することを怠った訳ではありません。この留意は建設構想の策定中終始私の胸中にありましたが、非常に困難でした」と振り返り、「加害」の展示が「未だ不充分であることを私は率直に認めたいと思います」と語っている。そして「今日、『被害』の面だけを語って、他の国々や他民族に与えた『加害』は切り捨てられた、バランスを欠いた資料館だけしかない日本であってよいのだろうか、というのが私の焦りです」と述べている(平和教育実践選書4『沖縄戦と核基地』)。

 近代日本の侵略戦争と植民地支配の事実と責任を明確にし、平和への誓いとするような、平和のための戦争資料館こそを作らなければならないのであって、しかもそれはそうした事実と責任を国民の共通の歴史的認識に高めていく取組みのなかで実現していかなければならないだろうと思います。その中で各資料館の展示の内容についての議論がおこなわれていくことが望ましいと思います。長い苦しみを経て、ようやく被爆体験を語り始めた広島の「語り部」たちに「加害」のことも語れ、と求めることがはたしてよいのかどうか、疑問です。

 原爆資料館についていえば、私の提案としては、まず各国の政府やマスコミ(特に新聞)が、原爆投下をどのように報道し、評価しているのか、という展示コーナーを展示の最後のところに設けてはどうかと思います。原爆の惨状の展示を見てきたあとで、特にアジア諸国の原爆の受けとめ方を知れば、そこで原爆の意味を考える契機になるでしょう。そうした展示があるだけで、原爆資料館の展示はぐっと引き締まり、見学者に原爆投下の意味を考えさせ、宿題を課すことにつながっていくと思います。

 最初のマレーシアでの住民虐殺の話にもどりますが、日本軍の陣中日誌が見つかったネグリセンビラン州での粛清をおこなったのが、広島の第11連隊でした。この連隊は広島市を含む広島県の西部の出身者から構成されている部隊でした。だからその多くの家族が原爆の犠牲になっています。これは人づてに聞いた話ですが、戦後復員してきて焼け野原になった広島を見て、「天罰だ」と思った元兵士がいたそうです。

  マレーシアでの虐殺は1942 3月に集中的に行われています。これはシンガポールの大虐殺を含めて、アジア太平洋戦争が始まってから最初の大規模な組織的な住民虐殺事件だと見てよいと思います。アジア太平洋戦争は真珠湾攻撃によって始まったのではなく、マレー半島上陸によって始まったという歴史的事実を考えるとマレー進攻作戦とその直後の粛清がアジア太平洋戦争の始まりを告げるものであったといっても言い過ぎではないでしょう(いまだに真珠湾攻撃によって太平洋戦争が始まったと書いてある教科書がありますが)。それに対して原爆投下はアジア太平洋戦争の最後を象徴するものです。このマレーと原爆をつなぐものが、広島です。さらに歴史をふりかえれば、広島は日清戦争で大本営が置かれた地であり、軍都として発展していった都市です。中国に出征した兵士の多くは宇品港から送られていきました。近代日本の軍国主義を象徴する都市であったとも言えるでしょう。このことは広島あるいは広島の人たちにその責任があると言っているのではなく、広島が日本の侵略戦争とその帰結を象徴する名前である、ということです。ですからその責任は日本全体が引き受けなければならないことはいうまでもありません。そうした意味をこめて、広島は日本にとって平和の原点であると思います(核戦争の脅威を前に、二度とあってはならないことの象徴として人類史的意味を持つ名前でもあります。その意味ではヒロシマは世界の平和の原点ともいえるでしょう)。

 原爆の意味を考えさせる教材そのものを抹殺してしまう文部省の教科書検定のやり方を見ていると、時々の政府の「おわび」のせりふなど言葉だけのことで、侵略戦争への反省などまったくないということがあらためてはっきりしました。だからこそ、この原爆の意味を広く人々のなかで議論し、私たちの歴史認識を鍛え直していくことが大切なのだと考えています。    

〔この問題についてくわしくは、拙稿「虐殺の証人たちのヒロシマへの旅」『朝日ジャーナル』1988 923日号、「八・一五はアジアの人々にとっていかなる日か」( 歴史教育者協議会編『日本歴史と天皇』大月書店、1989年)を参照していただければ幸いです。〕         (1990.7.13 稿)

   

                                     

 

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