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(続)朝鮮日報の記事について
20日にプノンペンから投稿させて頂いた内容に関する続報です。

残念ながら、私が話していない内容が記事になっていたことに困惑し、ネット上からの記事削除を記者及び朝鮮日報側に打診致しました。その結果、数時間後には記事が削除された次第です。

対面ではないネット上で細かな議論は避けたいと思いますが、記事ではブリッジ・フォー・ピースが慰安婦問題にのみ特化した活動を行っているかのような書き方をされていましたが、BFPを始めたきっかけは慰安婦問題がきっかけではありませんし、現在もその問題を特化して活動する組織ではないことを説明し、ここで訂正させて頂きます。

BFPとしては、貴重な歴史の証言者である元日本兵の方々及び被害を受けた方々から直接話を聴ける最後の世代として、しっかりと証言を記録していくことが現在急務だと思っております。
そのこと自体に異論のある方はいらっしゃらないと思います。

詳しくは、BFPのホームページをご覧ください。

今後も活動をあたたかく見守って頂けたら幸いです。
宜しくお願い申し上げます。

ありがとうございました。
| BFP日々の出来事 | 18:32 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |
朝鮮日報の記事について
朝鮮日報の記事を読んで、このブログを訪ねてくださった皆さまへ

まずは記事を読んでくださり、ありがとうございました。日本語版を私も読み、実は内容に困惑している箇所があります。

残念ながら発言していない内容が公になっており、現在記事を書いた記者と会社に連絡をとっているところです。

またご報告させて頂きます。

プノンペンの空港より
| - | 16:54 | comments(12) | trackbacks(0) | pookmark |
10月2日取材報告【海軍特別少年兵・井上理二さん】

こんにちは。取材チーム畑江奈つ希です。
 10月2日に斉藤由美子さんと取材に行って参りましたので、そのご報告をします。

 ***************************************** 

井上理二さん(清瀬在住・85歳) 
1927年2月28日 島根県生まれ 
6人家族 (父・母・姉2人・兄1人(鉄道員)) 

●15歳で(海軍)特年兵に志願 
(特年兵・・特別年少兵。)
 当時、日本は既に戦争一色だった。男性の出世は兵士になること、という風潮で、軍人になることは憧れでもあった。志願したころはまだ子どもであったため、「国家の御為」とか「天皇の御為」という気持ではなかった。実家は貧乏で、どうせいつか戦争に行くのなら2年でも3年でも早く行こうと思っていた。母は「男の子はそのくらいのことをしないと。田舎にいても仕方がない」と言っていたが、内心行ってほしくないと思っていたと思う。徴兵されることが決まった時は嬉しいような怖いような、複雑な気持ちだった。 特年兵に選ばれるのは村で1人ずつくらいの割合だった。

 ●訓練 
当時訓練は2年間と決められていたが、(大竹海兵団で)実際に訓練を受けたのは一年ほど。 「罰直」といって、私的制裁がひどく厳しく行われた。14~16歳でせみの鳴き声をさせられたり、袋に入れられて蜂の巣の前に置かれたり、角材で倒れるまで殴られたりした。 その後、専門的なことを勉強するために横須賀へ行き、海軍航海学校に4ヵ月〜半年いた。一クラスには7人くらい、学校全体で30人くらいいた。 (自分の担当は操舵員だった)

 ●駆逐艦「磯風」
‣マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦 学校をでてすぐに駆逐艦「磯風」に乗艦した。船は約120mと大きいもので、1943年12月(17歳)から約2年間乗っていた。 
‣初めて乗った時の心境・・自分の心がわからないようになっていた。恐ろしさ、務まるだろうかという不安はあったが、嬉しいとかではなかった。ミッドウェー海戦でまさかあれほど大敗するとは思っていなかった。アメリカを敵視し、巻き返そうと意気込んでいた。勝つことだけを考えていた。 
‣食事や水は粗末なものだった、栄養などほとんどなく、カンパンやくさい水を摂っていた。だけど、忙しかったからおなかはあまりすかなかった。 ‣いい勲章をもらいたかったし、いい出世をしたかった。だから辞めたいとは思わなかった。終わったらいい嫁さんがくるんじゃないか、とか考えていた。 
‣レイテ沖海戦で「大和」を護衛していた。しかし、集中攻撃をうけ、護衛していた磯風も攻撃された。そのうち船は航行不能になった。4時間くらい漂流して、別の駆逐艦「雪風」に救助された。 その後、大竹に戻り、終戦まで教員をした。特攻に行く生徒を訓練した。 

●終戦
 広島に原爆が落ちた時、遠くが光ったので分かった。訓練に行こうとしていた時だった。しかし当時は日本の新爆弾の実験というデマが流れた。その後、終戦。玉音放送が流れたとき、訓練中だった。放送に聞き入ったがガーガーという雑音でよく聞こえなかった、しかし、ポツダム宣言受託だということはなんとなくわかった。絶対に負けたくないという気持ちはあったけれど、日本が不利な状況に置かれていることはなんとなく感じていたからだと思う。米軍が来る、と思うと不安だった。

 ●戦後世代に伝えたいこと 
‣侵略戦争はしてはいけない、だけど自国の軍隊を持たなくてはと思う。 
‣最近テレビをつけていると、お笑い番組をよく見かける。そういう番組を見ていると、死んだやつがかわいそう、一体(あの戦争は)何だったんだろうと思ってしまう。そして、3.11であんなに大変なことになって、今も辛い思いをしている人がたくさんいるのに、おかしいなと思う。自分の国の政治のことなど、もっと考えなければいけないと思う。


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井上さんは本を何冊かお書きになられていて、ご自身の貴重な体験をたくさん残されています。NHKの取材も受けれらたことがあるようで、その時の証言が「NHK 戦争証言アーカイブス(http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001100771_00000)」で見られます(一部はテレビ放送されたようです)。
BFPとはまた少し違った視点からの取材ですので、お時間のある方は見ていただくと井上さんのご経験がよりよく分かると思います。

 井上さんは、私たちをご自宅から最寄りの駅まで車で送り迎えしてくださるという、何とも親切でお元気な方でした。この日のために、著書や新聞記事、写真やノートにまとめたたくさんのメモを用意してくださっていました。取材時間は3時間以上にもなりました。井上さんの「残したい」という想いをとても強く感じ、若い世代の人間としての義務感というか、そのお気持ちをしっかり受け取って、貴重な体験をできるだけ広く知らせなくては、という気持ちになりました。
同時に、戦争は巻き込んだ人々の中から一生消えないものだということもまた強く感じました。井上さんは15歳になって間もなく戦争の世界に入られています。多感な時期を戦争のさ中ですごしたことは、語り方や表情に表れていました。「今の社会を見ているとあの戦争はなんだったんだろうと思ってしまう」、というような発言がとても印象に残っています。井上さんの中にはきっと「なんだったんだ」という想いがずっとずっとあるんだろうな、と思いました。今の日本社会をみていると、なおさらそう思えてくるのでしょうか・・今日本の政界は揺れに揺れて?いますが、こんなときこそ、批判だけでなく市民がしっかり社会のことを考え、守っていきたいですね。
 以上です。

| 元日本兵インタビュー&交流 | 21:56 | comments(0) | trackbacks(1) | pookmark |
元日本兵取材報告  

 今回お話を聞かせていただいたSさんは、愛知県三河の山奥に、義理の娘さんとふたり住まいです。

 元日本兵を対象にした詐欺集団がいたためか、地域の社会福祉関係の方の紹介でお伺いしたにも拘らず、こちらの素性が分からない内は、おふたり共に警戒を解かれませんでした。
 

 しかしながら、ある事をきっかけに不信感を解いていただき、その後は快く取材に応じていただきました。

 Sさんは、大正8年生まれの93歳。

 小学校を卒業された後、岡崎市に数多くあった石屋向けに工具を作る鍛冶屋に「丁稚奉公」に入りました。

 4年後、兵隊検査を受けそのまま現役で陸軍18連隊(豊橋市に本部)に入隊、3ヶ月の訓練を受けた後、「南支(中国南部)」に送られました。

 広東周辺に展開、主に討伐作戦に関わったと言います。しかし、討伐作戦の内容について伺おうとしても、詳しい話になると口ごもり、落ち着かない表情になり、寡黙になってしまいました。

 心の奥に何かお持ちのようでしたが、問い質すのがBFPのミッションではないので、「その後」に話を移しました。

 帰国予定だったSさんに言い渡されたのは、「仏印(仏領インドシナ)進駐」の一員に加わること。今で言うヴェトナムのサイゴンに物資を運ぶのが役割でした。

 1941年12月の開戦時はサイゴンにいたそうです。真珠湾攻撃など、破竹の勢いの日本軍を見てSさんは「戦争に負けることは無い」と確信しました。

 任務を終えると帰国しますが、直ぐに召集されて第17連隊(秋田に本部)に配属されて19年8月末にフィリピンに向けて出発しました。6隻で構成される船団でしたが、出発後約2時間で米潜水艦の攻撃を受け、1隻が撃沈されました。

 沈没船から多くの兵士が逃げ出し、海上に漂って助けを待ちましたが、そこへ友軍の飛行機や軍艦から機雷や魚雷が落とされたり、発射されて、多くの海に浮かぶ兵士の命が奪われました。

 普段なら10日で到着するところを、潜水艦を避けて航行したため、40日かけてフィリピンに到着。戦局が悪いため、休憩する間もなく10日間行軍(一部列車による移動)してルソン島南部のバタンガスの本隊に合流しました。

 現地では、特攻隊の警護をする守備隊に配属されます。特攻隊と言っても、二人乗りのモーターボートで、それに爆薬を積んで米軍艦に体当たり攻撃するのが任務でした。

 10代後半の威勢の良い若者が特攻隊員だったと言います。張り切って肩で風を切るその姿を見てSさんは「若いのにかわいそうに」と思ったそうです。

 かなりの規模の特攻隊でしたが、一度だけ出撃した際も高波で任務を遂行できず、結局は何の成果もあげられませんでした。

 昭和20年になると、米軍の攻撃は激しくなり、やがて連隊は軍隊の体を成さなくなり、食料と塩を持ってジャングルに逃げ込みます。しかし、食料は直ぐに無くなり、地元農民の食料の略奪が日常化しました。

 「悪いことをしたと思いますが、当時は生きるのに必死でしたからね。畑に入って芋等を獲って生き延びました」

 17連隊は、日本軍に捨てられた軍隊とも言われます。食料や武器の補給も一切無い状態で司令本部から切り離されてしまったのです。そうして“棄てられた”兵隊たちは、規律を失い、略奪、殺人、放火、暴行(強姦を含む)の悪の限りを尽くします。飢餓地獄に追い込まれた兵士たちの中には、屍肉にまで手を出したと証言する者もいます。

 飢餓地獄になると、生命力に差が出ました。それまで粋がっていた特攻隊の若者は、一様に若さと脆さを見せることになりました。

 裕福でない農家に育ったSさんはそこまで追い込まれること無く終戦を迎えることができたと言います。

 ある日、海を見たら船団が見え、その船に大きな白旗が掲げられたこと、飛行機からビラが配られたこと、そして最終的に所属していた「藤兵団」から「投降せよ」との命令が下りてきたこと等から敗戦を確信し、9月のある日、投降しました。それまで着ていた服は脱ぎ捨て、食料も棄てて投降しました。

 それは身に付けていたり、持っていた物全てが地元住民から略奪したもので、米軍に見つかると罪に問われると判断したからだそうです。

 約1年3ヶ月、米軍の収容所で過ごした後、フィリピンを離れ名古屋港に到着しました。

 港では女学生の集団が歌を唄って出迎えてくれましたが、近くにいた男たちが群れになり、復員してきた兵士達に「お前たちがだらしないから負けたんだ」と口々に叫びながら石を投げてきました。悔しさで一杯でしたが、Sさんたちはじっと耐えたといいます。

 そして地元に戻ったSさんは、三河の山奥で平穏な日々を送られてきました。当時を回顧して何度も何度も「戦争は絶対に起こしてはいけません」と繰り返されました。

 

 

| 元日本兵インタビュー&交流 | 22:50 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |
BFP朝鮮半島プロジェクト第四回ワークショプを開催しました
 

こんにちは。BFP朝鮮半島プロジェクトです。先日、9月23日、中根住区センターにてドキュメンタリー映画監督ヤン・ヨンヒさんにお越しいただきワークショップを行いました。雨にも拘らず様々な世代の方が20名近くお越しくださいました。

北朝鮮という国は近いのになかなか知ることが出来ない国です。北朝鮮で暮らすお兄様たちに会いに北朝鮮に行ったことのある監督に、北朝鮮で人々はどんな生活をしているのかを中心にお話を伺いました。驚いたのは想像以上の格差社会の現状でした。お金持ちの家は子供を学校まで高級外車で送り迎えをしている一方で、お給料では生活できない家庭も多く存在しています。この現実に愕然となりましたが、そんな貧しい家庭の人たちは住んでいるマンションで内職をして生活費を捻出しているとのことです。貧しい環境でも知恵を絞り必至で生きてゆこうとする北朝鮮の方々の姿が目に浮かびました。

また、なぜ監督のお母様は北朝鮮に忠誠をささげる生き方を選んだのかということも教えていただきました。日本生まれのお母様は空襲から逃れるために韓国の済州島に疎開していました。ちょうどその時済州島で「4・3事件」が起こったのです。そこでは韓国軍が島民を大量虐殺し、済州島は血で染まりました。その経験から韓国に対する不信感が募り北を支持するようになったといいます。北朝鮮の生活の様子やご家族の話などを監督の人を引き付ける話し方で聞くことが出来て、あっという間に時間が過ぎてしまいました。

この会が朝鮮半島と日本の歴史について考えるきっかけになれば嬉しいです。お越しいただいた皆様本当にありがとうございました。監督が最後に私たちの方を見て、「あなたたちにかかっています。お願いします。」と言われたのが忘れられません。このプロジェクトの必要性を改めて感じました。BFP朝鮮半島プロジェクトではこれからも日本と朝鮮半島の歴史を様々な国や世代の人と語り合える場場所作りを目指して活動してゆきたいと思います。これからもよろしくお願いいたします。

| BFP日々の出来事 | 09:03 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |
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