従軍慰安婦

従軍慰安婦 じゅうぐんいあんふ 一般

従軍慰安婦」とは、1932年の第一次上海事変から1945年の敗戦までの期間に、日本、植民地占領地から、日本陸海軍がつくった慰安所(買売春施設)に集められ、軍人・軍属の性の相手をさせられた(未成年者を含む)女性たちのことです。

日本陸海軍の「慰安婦」とされた女性たちには、日本人、朝鮮人台湾人、中国人華僑フィリピン人、インドネシア人、オランダ人、ベトナム人、マレー人、タイ人、ビルマ人、インド人、ユーラシアン(白人とアジア系の混血)、太平洋諸島の人々などがいました[注1][注2][注3]。

1991年に韓国の元慰安婦が戦後50年にわたる沈黙を破って名乗り出て、補償と謝罪の要求が提起されたことで慰安婦問題は広く知れ渡るようになりました。

従軍慰安婦という呼称千田夏光のルポ『従軍慰安婦“声なき”女八万人の告発』(1973年)からきていると言われていますが、それより以前の1971年8月23日号『週刊実話』のなかにも「従軍慰安婦」の記述がみられます。

近年は、日本国内では「慰安婦」と括弧を付けて表現されることが多く、海外ではcomfort womanまたはsex slave(性奴隷)[注4]という表記が一般的で、韓国では「挺身隊」といわれることが多い。

1991年まで日本政府は軍と慰安婦の関係を「民間業者が連れ歩いた」「関与していない」と国会で答弁し、軍との関係や責任を否認してきました。しかし、1992年1月に軍の関与を立証する6点の史料が発見されると、政府は当時の史料の調査や元慰安婦の方々への聞き取り調査などを行い、それを踏まえ1993年には軍の関与と強制性を認め[注5]元慰安婦の方々へ謝罪しました。また、民間の基金から公的な賠償ではない「償い金」というかたちで一定の補償を行いました。ただしこれには、韓国台湾フィリピンで受け取りを拒否する人が相次ぎ、中国は対象になっていないなど問題も残しました。

現在、従軍慰安婦の問題は、国際社会では、女性への性暴力と人権侵害という普遍的な問題であると認識されており、他にも、被害を名乗り出た女性たちの尊厳の回復や補償の問題、慰安所において性的行為を強制された体験からくるPTSDの治療の問題、軍隊という国家組織が管理売春制度を創設し運用していた問題、さらに前借金で人身を拘束し廃業の自由の保障も無く、事実上の人身売買制度であったという問題、醜業やピーと蔑視したまなざしの問題、“慰安”婦という実態と乖離した呼称の問題など、さまざまな問題が含まれています。

性暴力や人身売買の問題は今でも世界各地で解決できずにいる問題として、2000年の国連安保理決議でも「性暴力を含む戦争犯罪の責任者への不処罰を断ち切り、訴追する責任がある」ことが強調されています[注6]。




1. 強制連行はあったの、どうやって集めたの?

1993年に発表された日本政府の調査結果では、参謀本部陸軍省といった軍中央や政府が「組織的な強制連行」を命令するような公文書は発見されなかったとしています。しかしその後、現地軍や各部隊単位で暴力や脅迫を用いて女性を無理やり連れて行くような「強制連行」をいくつも行っていたことが報告されています。

1994年にオランダ政府が公表した『日本占領下蘭領東インドにおけるオランダ人女性に対する強制売春に関するオランダ政府所蔵文書調査報告書』と題する公文書には、インドネシアオランダ抑留所から強制連行された女性たちが慰安所で性行為を強制されたことが報告されています(詳しくは後述『4. 強制連行などの証拠はあるの?』)。

2007年に林博史教授(日本近現代史専攻)などの研究者たちが、東京裁判で各国が提出した証拠資料のなかに、当時の日本軍占領下で将校が強制連行を行なっていた尋問調書があることを公表しています[注1]。

日本の裁判所では、中国人女性が日本軍構成員によって強制的に連行され慰安婦にさせられていたことが「事実認定」されています[注2]。

また、フィリピンのロサ・ヘンソンさんのように「1943年4月、アンヘレス市の郊外の検問所で日本軍にとらえられ、司令部に連れて行かれ、そこで『慰安婦』にされ」「性行為を強要」された女性(当時16歳)たちがいます[注3]。

他にも、海軍特別警察隊(海軍憲兵隊)の将校だった禾(のぎ)晴道の回想『海軍特別警察隊 - アンボン島BC級戦犯の手記』(太平出版社、1975年)や主計将校だった板部康正の回想『滄溟』のなかに、1944年にインドネシアのアンボン島やサパロワ島で海軍の司令部参謀が計画した「慰安婦狩り」が行われたと証言されている事例があります[注4]。

吉見義明教授(日本近現代史専攻)は1997年の討論番組「朝まで生テレビ」において、朝鮮台湾植民地)においては軍による強制連行を裏付ける物的な証拠が発見されてないと発言しているようですが、1995年の著書『従軍慰安婦』なかでそのことは既に言及されており、同時に『従軍慰安婦』のなかで「東南アジア太平洋地域にわたって、住民を慰安婦として強制連行し、強制使役するケースは少なくなかった。」と述べています。

さらに、吉見教授は残されている史料や信頼性が高いと判断される証言を調査し、朝鮮でいちばん多いケースは就業詐欺や誘拐といったケースであり、職種を明かさずに甘言で釣り、騙して中国や南方に連れて行き、慰安所で性行為を強制されたケースだとしています[注5]。また、慰安所から出る時には(逃亡防止と防諜の必要性から)監視をつけたり、前借金に縛られ廃業の自由も無い状態での使役の仕方は、強制使役にあたるとしています。

1993年に河野談話を出した河野洋平は、1997年03月31日の朝日新聞のインタビューのなかで「『政府法律的な手続きを踏み、暴力的に女性を駆り出した』と書かれた文書があったかといえば、そういうことを示す文書はなかった。けれども、本人の意思に反して集められたことを強制性と定義すれば、強制性のケースが数多くあったことは明らかだった。」と答えています[注6]。

当時、官房副長官であった石原信雄は、当時の日本政府の調査では、軍や日本側当局が慰安婦を強制連行したという資料は確認されなかったが[注7]、「彼女(韓国人慰安婦)たちの証言内容から、決してためにする発言ではない、自分の体験として、強制によってその意に反して『慰安婦』にされたことが疑いのないような人が何人か出てきた」「それを分析・検討した結果、心証を得たわけです。」「わたしは強制性の認定に間違いがあったとは思わない。」(『慰安婦問題という問い - 東大ゼミで「人間と歴史と社会」を考える』勁草書房、2007年)と答えています。

朝鮮人慰安婦」をテーマにした博士論文には、尹 明淑(一橋大学社会学)の『日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦』があります。それによれば十分な証言の得られた43人の朝鮮人慰安婦の中で、暴力的な強制連行と答えているのは8人、身売りは1人、圧倒的多数34人はだまされて連れていかれた就業詐欺です[注8]。

日本国内では、『大東亜戦争戦争の総括』[注9](歴史・検討委員会委員長山中貞則))で「『従軍慰安婦』は事実ではない」と主張していたり、「私が見た『従軍慰安婦』の正体」[注10](小野田寛郎)では「『従軍慰安婦』なるものは存在せず、ただ戦場で「春を売る女性とそれを仕切る業者」が軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていたと言うだけのことである。」との主張も根強く存在しています。




2. 軍や国は関わったの?刑法に抵触するの?

軍専用の「慰安所」が大量に設置されるようになるのは、大規模な兵力が動員される日中戦争1937年〜)の時期からになります。この時期にはすでに業者が勝手に押しかけて行って慰安所をつくれるようなものではありませんでした。

史料から明らかにされていることを具体的にみてみましょう。

  • 1937年南京攻略戦に参加した上海派遣軍参謀長・飯沼守の同年12月11日の日記には、「慰安施設の件、(中支那)方面軍より書類来り、実施を取討う」とあり、中支方面軍の指示、命令で、上海派遣軍が慰安所の設置に動きだしたことがわかります[注1] 。

以上のように、日中戦争1937年〜)以降の時期には、慰安所の設置は方面軍や派遣軍の指示、命令の下に出されているのです。

このような命令が出ると、派遣軍が内務省朝鮮総督府台湾総督府朝鮮軍・台湾軍に依頼し、そこの警察や憲兵が業者を選定して集めさせます。

この他にも、戦地占領地の部隊が、現地で直接、女性を集めるケース、占領地の有力者に女性の供出を命じて集めるケース、業者を選定し、内地朝鮮台湾派遣して女性たちを集めさせるケースもありました。

このような業者は軍の手足として使われたのであり、軍の命令によって動く「請負業者」だったのです。

この「請負業者」と慰安婦として集められた女性たちの移動には、軍用船の乗船許可や、車やトラックの通行許可など軍がさまざまな便宜を図りました。慰安所とする建物は軍が接収したものを業者に利用させ、建物がないような前線では簡単な小屋を各部隊で建てるなどしています。軍事物資から食料や寝具などを提供する場合もあります。性病検査は軍医が行なっていました。慰安所の利用規則・利用料金なども軍が決めていました。

産経新聞の社長である鹿内信隆は、1938年頃に主計将校となる教育を陸軍理学校で受け、そこで慰安所の開設の仕方を教わっていたと以下のように証言しています。

「そのとき(慰安所の開設時)に調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出てくるまでの“持ち時間”が、将校は何分、下士官は何分、兵は何分……といったことまで決めなければいけない(笑)。料金にも等級をつける。こんなことを規定しているのが「ピー屋設置要綱」というんで、これも経理学校で教わった。この間も、経理学校の仲間が集まって、こんな思い出話をやったことがあるんです。」

桜田武、鹿内信隆『いま明かす戦後秘史 (上)』サンケイ出版 1983年 p40〜p41

ピー屋とは慰安所のことで、ピー屋設置要綱とは慰安所利用規定のことです。

軍の付属施設としての慰安所とその法的根拠

永井和教授(日本近現代史専攻)は、1937年9月29日の「野戦酒保規程改正」で「野戦酒保ニ於テ前項ノ外必要ナル慰安施設ヲナスコトヲ得」という文が付け加えられていることを見つけました。この「必要ナル慰安施設」の主なものとして軍「慰安所」がつくられたということなら、これが慰安所を軍の兵站付属施設とする法的根拠になっているのではないかと述べています[注4]。


以上のように、現在、歴史学研究者によって明らかにされていることは、軍が「慰安婦」制度を組織的に創設したこと。そして慰安所の設置・運用・管理をしていた主体は軍であったということです。業者が使われる場合があっても、それは副次的な軍の「請負業者」としてでした。

当時の刑法第33章「略取及ヒ誘拐ノ罪」226条との抵触

この軍の「請負業者」が慰安婦の徴集をする際に、占領地の食堂でいい仕事がある、新天地で兵隊さんの炊事や洗濯をする仕事、看護婦のような仕事、など様々な甘言を用いて騙して連れて行きました。吉見義明教授(日本近現代史専攻)の調査では「朝鮮からの徴集でもっとも多いのは、だまされて連れて行かれたケースだった」(著書『従軍慰安婦』)としています。このことは被害を訴えている元慰安婦の方々の証言だけでなく、元日本軍将兵の証言にも多く見られます。こようなケースは当時の刑法226条で国外移送目的略取罪・同誘拐罪、人身売買罪、国外移送罪などの犯罪にあたりました。この刑法内地と同じものが朝鮮台湾植民地でも施行されていました。

当時の刑法第33章「略取及ヒ誘拐ノ罪」の226条にはこう書かれています。

http://roppou.aichi-u.ac.jp/text/keihoOLD.txt

刑法 第33章「略取及ヒ誘拐ノ罪」

第226条  

(1) 日本国外ニ移送スル目的ヲ以テ人ヲ略取又ハ誘拐シタル者ハ二年以上ノ有期懲役ニ処ス

   (日本国外に移送する目的で、人を略取し、又は誘拐した者は、二年以上の有期懲役に処する。)


(2) 日本国外ニ移送スル目的ヲ以テ人ヲ売買シ又ハ被拐取者若クハ被売者ヲ日本国外ニ移送シタル者亦同シ

   (日本国外に移送する目的で、人を売買し、又は誘拐され、若しくは売買された者を日本国外に移送した者も、前項と同様とする。)

すなわち、国外移送のための人身売買や誘拐は犯罪であったのです。こうした犯罪を請負業者が起こした場合、軍は最高の責任者になります。「だまされて連れて来られたケース」が発覚した場合、軍はただちに契約書を破棄し、女性を送り返さなければいけなかったのですが、結局、軍はこれを黙認し、業者を不処罰としました。また、「慰安婦」制度や軍法(軍刑法)などを改定し再発防止に努めることも敗戦までありませんでした。1932年に日本から女性をだまして連れて行った業者が裁かれ1936年に有罪となった唯一の事例[注6]がありますが、これは軍が選定したのではない民間の業者が慰安所をつくろうとしたケースであり、これ以降、刑法226条が適用されたケースはなかったようです。 吉見教授は「その後、軍慰安所が大量につくられていく場合には、軍がそのことを決定し、軍の指示に基づいてつくられるために、特に植民地では黙認されるようになった」のではないかと述べています[注6]。




3. 国際法に違反することはしてない?

(国内法については、上記「2. 軍や国は関わったの?刑法に抵触するの?」を参照。)

日本は1925年、次の3つの婦女・児童の売買を禁止する国際条約に加入していました。

(1)「醜業を行わしむる為の婦女売買取締に関する国際協定」(1904年)

(2)「醜業を行わしむる為の婦女売買禁止に関する国際条約」(1910年

(3)「婦人及児童の売買禁止に関する国際条約」      (1921年

どのようなことが規定されていたのか(2)を例にみてみよう。

(2)醜業ヲ行ハシムル為ノ婦女売買禁止ニ関スル国際条約(大正14年条約第18号)

 第1条  何人たるを問わず他人の情欲を満足せしむる為、醜業を目的として、未成年の婦女を勧誘し、誘引し、又は拐去(誘拐)したる者は、本人の承諾を得たるときと雖(いえども)・・・罰せられるべし。

 第2条  何人たるを問わず他人の欲情を満足せしむる為、醜業を目的として、詐欺に依り、又は暴行、脅迫、権力乱用その他一切の強制手段を以て、成年の婦女を勧誘し、誘引し、又は拐去したる者は・・・罰せられるべし。

(吉見義明『従軍慰安婦』p164.165)

すなわち、未成年の女性の場合は、本人の承諾があるなしに関わらず、売春に従事させることを全面的に禁止し、成年であっても、詐欺や強制的手段が介在していれば刑事罰に問われることを国際的なルールとして定めていたのです。

そして第三条では「締結国」はそうした処罰をおこなうために「必要なる措置」をとることが求められています。

この条約における未成年の規定は21歳未満となっていました。日本政府は当初、未成年を18歳未満と保留を付けていましたが、1927年にはこの保留を撤廃しています。

しかしこの国際条約には抜け道がありました。植民地には適用しなくてもよいとの規定(第十一条)があり、日本政府はこの規程を利用して、植民地朝鮮台湾)には適用しない方針をとりました。そのため、朝鮮台湾からは、多数の女性が誘拐や人身売買などにより慰安婦として連れ出されたのでした。

しかし本来この「植民地除外規定」は、当時の植民地において結婚する時に家族に贈られる「花嫁料」など長年の習慣が残っていた為に挿入されたものであり、条約の意図は売春のために女性を連れて行くことを容認することではありませんでした。国際法律家委員会(ICJ)は見解で「朝鮮女性に加えられた処遇について、その責任を逃れるためにこの条文(規定)を適用することはできない」と述べています。(吉見義明『従軍慰安婦』p169)

さらに、植民地から連れて行くことは、国際法上まったく自由だったのかというと、そうではないと国際法学者の阿部浩己教授は次のように指摘しています。

朝鮮人慰安婦の多くは、朝鮮半島から鉄道で移送される以外は、日本の船を使用して南方や中国南部などへ移送されました。誘拐などの起点が植民地であったとしても、日本の船舶は「国際法的には日本の本土とみなすことができる」ので、条約は適用される、と述べています。また、台湾の場合、移送は船舶以外は考えられず、かりに日本の飛行機で移送されたとしても飛行機も日本本土とみなされる、と述べています。

強制労働条約 第29号(1930年

1996年に国際労働機関ILO)の条約勧告適用専門家委員会は、慰安所での状態が1930年強制労働条約 第29号(日本は1932年に批准)に違反していると指摘し、日本政府はすみやかに被害者へ適切な対応をするよう求めています。同委員会からは以降、数回にわたって同様の勧告が出されています。

強制労働条約 第29号の概要と条文はこちら→ 強制労働に関する条約(第29号) - 従軍慰安婦問題を論じる



4. 強制連行などの証拠はあるの?

暴力や脅迫を用いて女性を無理やり連れて行くような「強制連行」のケース

1994年にオランダ政府は『日本占領下蘭領東インドにおけるオランダ人女性に対する強制売春に関するオランダ政府所蔵文書調査報告書』と題する公文書を公表しています。

スマラン事件白馬事件

オランダ政府の調査報告書では、1944年2月、インドネシアジャワ島のスマラン郊外の3ヶ所の民間人抑留所から選び出された17、8歳から20代のオランダ人女性たちが、抑留所で「強い抗議」が起きたにもかかわらず、4ヶ所の慰安所に「力ずくで連行」され、そこで「少なくとも24名」の女性が性行為を強制されたと記載されています。報告書ではさらに、2人は脱走したが警官に捕まり連れ戻され、1人は自殺未遂、1人は精神病棟に監禁、1人は妊娠中絶の処置を受けたと報告しています。

この事件の概要は、オランダによるバタビア裁判バタビア臨時軍法会議)の公判記録によれば以下。

 1944年1月、南方軍の能崎清次少将が、池田省一大佐と大久保朝雄大佐からの要望で新しい慰安所開設を話し合い、第十六軍司令部に新しい慰安所設置を提案したことから始まる。この時、野崎少将は第十六軍司令部の認可を条件にしたという。池田大佐は東京への出張命令が来たため、部下の岡田慶治少佐を代理として野崎少将の一書を持たせ、軍司令部との認可交渉に当たらせた。この時、第十六軍司令部からは、(兵站担当の少佐の供述によれば)「自由意志の者だけを雇うこと」を注意されたという。 こうして岡田少佐は女性を集める手配と4軒の慰安所開設の準備を指示する。

(※ここでも軍慰安所は業者が勝手につくれるようなものではなかったことが確認できる。)

 こうした周到な準備の上、1944年2月下旬、スマラン郊外の数カ所の民間人抑留所から女性が集められた。その際、オランダ人女性には読めない日本語で書かれた同意書に署名させたり、「仕事の種類が記されていなかったことがわかった」(公判での池田大佐の供述)。 さらに(起訴状によれば)女性に対し「抵抗すれば家族に最も恐怖すべき手段をもって報復する」と脅迫も行われたという。

 2ヶ月後、この事件は発覚し、慰安所は4月下旬に閉鎖されることになる。しかし、事件の事実が陸軍省まで伝わったにもかかわらず、事件の関係者は誰一人として処罰されなかった。それどころか責任者の能崎少将は、事件後の1944年に旅団長になり、1945年3月に陸軍中将に昇格し、4月には第152師団長と出世しているのである。

 このスマラン事件が裁かれるのは戦後になってオランダによるバタビア裁判によってである。将校7名と軍属4名が有罪となっている。

 計画の中心的役割を果たしたとみられた大久保大佐は、戦犯容疑者となったことを知り、故郷仙台自殺している。遺書には「能崎に責任がある」とあり、これも裁判では証拠資料となった。判決では岡田少佐の行為を「軍の名の下に若い女性を売春目的で強制連行し、理解出来ない日本語の承諾書に署名させ、女性を各慰安所に分け与えて、売春を強制し、強姦した。」と事実認定されている。

(※日本政府はこのバタビア裁判判決を、1951年サンフランシスコ平和条約で受諾している。)

 この裁判事情聴取に応じた民間人抑留所長の日本軍の大佐は「自由意志によろうと強制によろうと、慰安所のごときところに入れられた女性に対しては、一般の者は虐待されたものとみなす。」と被告を批判している。ただし、従来から運営されていた慰安所の朝鮮人や現地の女性については何ら言及はない。

 裁判で弁護を担当した萩原竹治郎弁護人へ、1958年に聞き取り調査が行われている。そこでは、この事件を含め日本軍戦争犯罪を裁いたオランダによるバタビア裁判全般について「起訴状に出ているくらいのことは事実であったと思う。」「実際にやっているのに無罪になったものもいる。戦犯的事実は起訴された5倍も10倍もあったと思う。」と厳しい意見を述べている。


さらに、この事件を「唯一」とか「例外的」な事件とする主張がありますが、そうでないことは、オランダ政府の調査報告書を読むだけでも明らかになる。スマラン事件の現場でもある「スマラン倶楽部」(軍慰安所)で、閉鎖を前にして別の事件が発生しているのである。

フロレス(フローレス)島事件

1944年4月中旬、憲兵と警察がスマランで数百人の女性を検束し、「スマラン倶楽部」で選定を行い、20名の女性が憲兵によってスラバヤに移送された。そのうち17名(20名のうち2人は逃亡、1人は病気で残留)がさらにフロレス島の慰安所に移送され、そこで売春を強制されたと報告している。

裁判記録には、スマラン事件で有罪となった同慰安所の経営者軍属の古谷厳の尋問調書が残されており、そこでは、法廷でこの事件の事実を認めながら「この事件はスマラン事件とはまったく別件で、私は軍に頼まれて場所を提供しただけだ」と供述している。

報告書にはさらに、マゲランの事件も記載されている。

ゲラン事件

この事件は、1944年1月、ムンチラン抑留所から、日本軍と警察が女性たちを選別し、反対する抑留所の民間人の暴動を「抜刀」して抑圧し連行した。その一部は送り帰され身代わりの「志願者」が送られる。そして残りの13名の女性はマゲランに連行され、そこで売春を強制されたと報告されている。


オランダ政府の調査報告書には、これら3つの事件以外にも、未遂1件や強姦事件1件を含め他に6件、計9件の強制連行や性行為を強制した事件が報告されている。


出典の詳細はこちら→公文書からみるスマラン事件(白馬事件)、他の解説。

参考文献一覧:梶村太一郎、糟谷廣一郎、村岡崇光『「慰安婦」強制連行 - 史料 オランダ軍法会議資料』2008年、半藤一利保阪正康秦郁彦、井上亮『「BC級裁判」を読む』2010年、吉見義明『日本軍慰安婦」制度とは何か』2010年、吉見義明『従軍慰安婦』1995年



5. 元慰安婦の証言は信用できるの?

慰安婦の証言の一部(年代など)にいくつか食い違う部分を見つけて、証言全体を否定したり、さらにエスカレートして証言者そのものを「まったく信用出来ない」「補償金がほしいだけのウソつき」と中傷する人まで一部にいますが、それらはあまりにもずさんな否定のやり方で、被害を名乗り出た人を二重に傷つける行為でもあるでしょう。

証言というものは、例えば、政治家の証言や回想録でも、話したくない部分は隠したり、誇張があったり、記憶違いによる不整合な部分があったりすることは一般的もあることです。元慰安婦で被害を名乗りでた人の場合、50年以上前の体験を証言するわけですから、なおさらそうしたことは有りうるでしょう。

これは証言の中にあるあまりに非現実的な部分や誇張された部分まで全てを鵜呑みにしろということではありません。証言の真実性を吟味するためには、他の人も同様の証言をしている部分や、慰安所のシステムや占領地の状況、さらには性器の消毒方法など、本人でないと具体的に語ることのできない部分や、信用性が高いと判断できる部分などを積み上げていき実態を明らかにしていくというのが研究上の手続きです。

慰安婦の体験や慰安所での生活実態というものは通常、公文書に書き残されることが無いもので、それを知るためには、元慰安婦の証言や日本軍将兵の証言、それに手記や回想録といったものはたいへん重要な歴史資料になります。

なお、1991年から2001年まで日本の裁判所に10件の慰安婦裁判が提訴がされましたが、そのうち8件の裁判で元慰安婦の証言を含む被害事実が「事実認定」されています。

他にも、一橋大学慰安婦について博士論文を書いた尹明淑の著書『日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦』[注1]はその中で、証言の得られた43人の朝鮮人慰安婦の証言を募集形態、慰安所の様子、以前の生活などの点で一覧表にしており、査読のある論文の性質上こうして取り上げられた証言については信頼性は高いと言えるでしょう。




6. 強制連行を告白した吉田清治は嘘をついた?

現在は強制の証拠として吉田清治の証言をあげる人はいません。

吉田清治の著書『私の戦争犯罪』(1983年)が韓国語訳されたとき書評記事を書いた韓国の済州新聞の記者・許栄善は、1989年8月14日付「済州新聞」のなかで「この本に記述されている城山浦の貝ボタン工場で15~16人を強制挑発したり、法環里などあちこちの村で行われた慰安婦狩りの話を、裏付け証言する人はほとんどいない」、さらに、郷土史学者金鳳玉の発言「83年原本が出てきた時、数年の間追跡した結果、事実無根の部分もあった」を紹介し、著述の信憑性に強く疑問を投げかける記事を書いています。

1993年、秦郁彦済州島を調査したところ「貝ボタン工場の元組合員など5人の老人と話しあって、男子の徴用はあったが慰安婦狩りはなかったらしい」ことを確認したとしています(秦郁彦慰安婦と戦場の性』)。

吉見義明は1993年5月に吉田を訪ね、誇張された部分があれば訂正すべきではないか、重要なポイントとなる日記を公開したらどうかと申し入れました。これに対し吉田は、日記は公開できない、回想には日時や場所を変えた場合もあると返答しました。吉見義明は、かんじんな点である場所などに変更が加えられているなら証言としては使えないと確認したそうです。なお吉見義明はこれまで吉田証言を採用したことはないといいます(吉見義明・川田文子『「従軍慰安所」をめぐる30のウソと真実』大月書店1997年)。



7. 河野談話は政治決着と聞いたけど?

「強制した証拠文書が無いではないか、これは政治決着・判断だ」との批判があります。ですがそもそも政治家が何か物事を決めるとき、そこには必ず政治的な判断・決断が入りますのであまり意味のある批判とは言えないでしょう。当時、内閣官房副長官を務めていた石原信雄は「宮沢首相の政治判断か」との質問に、「それはそうですよ。それは内閣だから。」(産経新聞2007年7月)と答えています。

さらに石原信雄は元慰安婦からの聞き取り調査については「外政審議室や厚生省関係から、バイアスのかかっていない」「評価できると考えられる職員を選んでヒアリングをやらせました。その結果、彼女たちの証言内容から、決してためにする発言ではない、自分の体験として、強制によってその意に反して『慰安婦』にされたことが疑いのないような人が何人か出てきた」「それを分析・検討した結果、心証を得たわけです。」「わたしは強制性の認定に間違いがあったとは思わない。」と述べています(和田春樹、大沼保昭、岸俊光『慰安婦問題という問い - 東大ゼミで「人間と歴史と社会」を考える』勁草書房、2007年)。

また、櫻井よしこのように憶測で「日本が強制連行を認めた背景には日韓間の合意、密約があった」(1997年4月号「文嚢春秋」)と断定した主張がありますが、石原信雄は「それはない」(産経新聞 1997年3月9日)と否定しています。



8. 慰安婦は高給だったと聞いたけど?

毎日新聞は1992年5月22日、元慰安婦の文玉珠(ムン・オクジュ)さんが「戦時中ビルマで預金した貯金を返してくれ」と日本の郵便局に訴えた事を伝えています。

文玉珠さんの軍事郵便貯金原簿の調書

郵政省熊本貯金事務センター保管

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原簿を調べると1943年3月から45年9月まで12回の貯金の記録があり、「貯金の金額は26145円だった!当時の陸軍大将の年俸でさえ6600円、これはかなりの高額です!」という主張があります。

しかしこの主張は、戦時中すでに軍票(南発券)がハイパーインフレによりほとんど無価値となっていたことを無視した暴論と言っていいでしょう。さらに、植民地出身者は戦後、貯金を引き出すことが出来ませんでした。

文玉珠さんのいたビルマ東京の当時の物価変動を日本銀行統計で確認してみましょう。

物価指数(1941年12月を100とする)

年 月  ビルマラングーン東京  年 月  ビルマラングーン東京  
1941/12 1001001944/6 3,635118
1943/3 7051051944/9 5,765125
1943/6 9001071944/12 8,707130
1943/9 1,2531091945/3 12,700140
1943/12 1,7181111945/6 30,629152
1944/3 2,6291141945/8 185,648161

出典:日本銀行統計局編『戦時中金融統計要覧』同局、1947年

この表が示しているように1945年8月頃までに東京では物価が1.6倍程度にしかなっていなのに対し、ビルマでは1000倍を超え、2000倍になろうとしていたのでした。

文玉珠さんの軍事郵便貯金原簿の調書をもう一度よく見てみると、昭和20年1945年4月4日から9月29日にかけて貯金額が大きく跳ね上がっており、この最後の6ヶ月間で貯金総額2万6145円のうちの約80パーセントにあたる2万860円が貯金されていることが確認できます。これを上記の物価指数の表をもとに計算しますと、1945年5月の時点で内地算額は150円程度、一ヶ月後の6月の時点では内地算額は103円程度の価値しかありません。(2ヶ月後の1945年8月の時点ではさらに18円程度まで低下しています。)

この金額を月あたりの収入で計算しますと1ヶ月あたり17円〜25円程度にしかならないことが確認できます。「陸軍大将より高収入だった!」などとは到底いえない金額でしょう。

なお、文玉珠さんは回想録の中で、慰安所経営者からはほとんど給与を渡されず、貯金したお金は将校たちからチップとしてもらった軍票をためていたものだと語っています(文玉珠『ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私』)。

より詳しい検証は以下を参照のこと。

また、給料をちゃんと貰えば当時の公娼が数千円の前借金を数年で返す事ができたという主張もあります。しかし朝鮮人慰安婦の証言では、業者、経営者は始めからお金の話はしていない、貯金しておくと言ったまま終戦時に何も渡さず行方をくらました、といった場合がほとんどだったようです[注2]。他にも、売上金はおおむね慰安婦と業者間で折半されるとされたが、業者に負った前借金が多すぎたり、悪徳業者に出会った場合は、さまざまな理由を付けてはお金を差し引き、お金を稼ぐことができない場合があったとする証言があります[注3]。




9. 慰安婦は本当はいい生活だった?

秦郁彦は1944年ビルマのミートキーナ陥落後の米軍の尋問調書[注1]から「慰安婦は、将軍より高収入で、借金を一年で返し帰国したものもいた、現在の物価に換算して1千万以上を家族に送金したり、休日に町へ買い物に行ったり、接客を断る権利も認められていた」としています[注2]が、この米軍の尋問調書「アメリカ戦時情報局心理作戦班 日本人捕虜尋問報告 第49号」(1944年10月1日)には「彼女たちは生活困難に陥った。」とも書いてあります。

さらに、「慰安婦は、将軍より高収入」という説は、すでに上記で指摘済みですが、これは戦時中すでに南発券(軍票)がハイパーインフレによりほとんど無価値となっていたこと、さらに、植民地出身者は戦後、貯金を引き出すことが出来なかったこと等を無視した暴論と言っていいでしょう。

秦郁彦氏にはさらに初歩的な翻訳ミスもみられます。慰安婦のなかに「帰国したものもいた」と誤訳してる箇所は、正確には「一部の慰安婦朝鮮に帰ることを許された」(吉見義明『従軍慰安婦資料集』)[注4]であり、「帰国した」とは書いてません。

これは後に出された報告書「連合軍翻訳通訳部局(ATIS) 調査報告 第120号」(1945年11月15日)を読むとより明確に書かれており、英語原文では「But owning to war conditions, no one of prisoner of war’s group had so far been allowed to leave」であり、和訳は「しかし、戦況のために、捕虜慰安婦)のグループでは、これまでに、帰国を許可された者はいなかった。」[注5]となっています。

秦郁彦の主張には、他にもいくつも疑問があることは永井和研究室白石秀人の研究発表があります。

1.本来の訊問の目的は日本軍動向にあり、慰安婦の状況は米軍には直接関心のない周辺事にすぎない。あまり確かめずただ相手の言うことを書いている可能性が大きい。

2.実は慰安婦の待遇について報告書内でも矛盾した事を書いている、訊問した人は返事が正確かわかっていない

3.訊問は慰安婦20人と雇用主2人に行われており、実は誰が答えたか曖昧です。待遇のよさを答える部分は経営者に聞いた可能性が大きい

4.日系2世の米軍兵士がが日本語で訊問したはずです、しかし朝鮮人慰安婦は日本語は片言しかできないので話がちゃんと伝わっていない可能性が大きい

5.こういう例はこれ一つ位しか見あたらない。

以上、白石秀人「従軍慰安婦問題に関する自由主義史観からの批判を検証する」http://nagaikazu.la.coocan.jp/2semi/shiraisi.html#2より抜粋。




10. 従軍慰安婦への賠償は行われていないの?

朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)とのあいだでは、そもそも国交がないので戦後処理の問題はまったく手つかずのまま残っています。

台湾との間では1952年日華平和条約において台湾及び澎湖諸島の住民からの請求権問題は「特別取極」(特別な取り決め)の対象とされたが、1972年日中共同声明により日華平和条約が失効し、そのような処理がされずに終わったという経緯があります。

韓国との間では、日本は「日本国大韓民国との間の基本関係に関する条約日韓基本条約 1965年)[注1]」を結び、約11億ドル(当時1ドル=360円)の賠償を行う事で個人請求権の解決・放棄を行っています。ただし韓国政府は個人補償を行うと言う日本の提案を断っており、自国での運営を行うとして一括補償を受けていますが、この補償から傷痍軍人や軍人の遺族、在日・在外コリアン従軍慰安婦を自国決定で除外して賠償が行われておりません[注2]。現在韓国政府は対日補償要求終了を正式に表明し[注3]、今後補償や賠償の請求は韓国政府への要求となると述べています[注4]が、いまだ賠償請求が度々議題に上がっています[注5]。個人の補償に関しては「日韓請求権並びに経済協力協定日韓基本条約の付随協約)」で最終決定されおり、2010年3月には日本政府から「両国間における請求権は、完全かつ最終的に解決されている」との見解も発表されていますが、韓国政府が2005年、日韓条約締結に関する外交文書を公開し、このなかでは、「対日請求権要綱には『慰安婦』が含まれていないことが明らかになっています。」さらに「日本側はいまだに日韓条約での対日請求権に関する外交文書を公開していません。」[注6]。




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2012年07月22日 11時51分 現在