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電子書籍を日本一売ってみたけれど、やっぱり紙の本が好き。 新刊

densishoseki160.jpg 電子書籍を日本一売ってみたけれど、やっぱり紙の本が好き。
講談社
定価:1,365円(税込)

自らのサイト上で電子書籍を販売してきた著者だからこそ語れる、紙の書籍の良さ。

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帯 【表】
 
全国20万の
読書人のみなさん、
必読です!


デジタル化は避けられない。
それどころか、便利さに満ち溢れている。
しかし同時に、
習慣や伝統にも優れたものが無数にある。
我々は、その両方の継承者でありたい。
そう思いませんか――。  日垣隆



自著を電子書籍化し、自ら手売りしてきた実績をもつ、
ほぼ唯一の日本のプロの書き手が、
「総デジタル化社会」における〈本〉の未来について書き尽くす。


目 次

まえがき 

前篇 「電子書籍」を思考整理する

1 電子書籍の〈書き方〉〈編み方〉〈売り方〉

そうです、私が第一人者です(笑)/私にとっての電子書籍元年/有料メルマガ開設
電子書籍時代のビジネスモデル/すべては「魔羅」から始まった
ありがとうアップル(笑)/絶版後13年目にベストセラー!/絶版はイヤだ!
『裁きの果てに』の場合/著作権のヘンな保護よりも観る権利を
総デジタル化時代の著作権について
2年以内に500のオリジナルコンテンツを/案ずるよりもやってしまえ!
手売りは強い/デジタル時代のアナログ/製作はPDFで充分
CDブックの可能性/コンテンツは死なない
結局は可処分時間の奪い合い/優れたコンテンツはすべてニッチ

2 電子書籍の〈読み方〉と〈デバイス活用法〉

日本の読書人口/電子で『カラ兄』を読破する人は、まずいない
辞書類は電子書籍の圧勝/電子書籍ならではの良さ
『デイリー年表式情報事典』が絶版で手に入らない理不尽
私のキンドル体験/キンドルは英語教材?
PC、ケータイ、iPhone、iPad、iPod、手放すとしたら?
二つだけ選ぶなら/ガラパゴスとリーダー/今後の「紙と電子の使い分け」の予定

3 電子書籍の〈今後〉と〈諸問題〉

当分は並存する「紙と電子」/アメリカで起きたことは数年後に日本で起きる
アップルの一人勝ち?/アプリ製作会社の頑張り/電子版『Twitter社会論』の採算
今後起きる中抜き現象について/プロの仕事/デジタル化時代の蔵書問題
カネと場所/国立国会図書館/電子化の難しさ/「高等遊民」しか作家になれない?
漫画が支えたノンフィクション/自分の作品で自分の作品を支える
再びライブの時代がやってきた/ライブで感じた「寂聴おそるべし」
突然データが消える恐怖

中篇 「滅びゆくモノたち」を思考整理する

1 紙の新聞に未来はない

座して死を待つか、カニバリズムか、パクリの道か──日経電子版
紙の新聞に、未来はない。では、生き残る道は?
郵便不正事件? 朝日のスクープ連発? 冗談ではない
記者クラブなど昔のまま、ずっと存続させればよいのだ
これぞダダ漏れ民主主義。海猿の正義感は当然
15年前の朝日新聞における「踏み絵」の発明
地方紙の微妙さ。その未来は、行き止まり

2 新旧ツールの盛衰を見極める

iPad狂騒曲、果たして来るのか。密かなる楽しみ
読み聞かせの、原点。これからどうなる? どうしたい?
音楽CDの凋落と、CDブックの静かなブーム。ライブとの相乗効果も
かつて世界を悠然とリードした、その再利用の愉しみ
米国からの黒船、なにするものぞ! との誤判断が露呈
メールに忙殺の日々。が、大半は無駄(でしょ)
『世界大百科事典』これぞ、「紙の本」の底力!
TBSは二度、死にました。今度はラジオで
TBSの白旗で収束へ。だが、それで済むのか?
がんばれTBSラジオ(笑)。あと3年は/ついに出た!

後篇 「生き残るコツ」を思考整理する

1 海外の空気を正しく読め

スポーツの感動、予期せぬ事態、寄り道は豊かさの要諦
控えめな上海万博を舐めてはいけない。激変するサービス力
恩知らずのドコモ。一流意識に拘泥し、国内志向で必敗へ
バックパッカーだけが旅人でなし。多様性を楽しみたい

2 儲かる仕組みを見抜き、ライブの空気を感じよう

日本のいびつなギャンブルを、会社員は笑えない
もしかして私は、セミナーおたく? とにかく、省エネである
摩訶不思議なマカ。本当に効くのか
孤食は、人間の天敵。単なる栄養補給じゃない!
婚活メディアが短期の「夢」を煽っても幸せにはなれない──
ネットを捨てて、街に出よう。たくさんの出会いが
ヘアヌードから、およそ20年。いまは素人ヌード?
ホテルや宿は、何のために顧客管理を?
常夏のハワイ島の、零下1度の山頂で考えたこと
箱根駅伝が変わった、その理由とは

あとがき
 立ち読み

まえがき

 この「紙の本」ができたのは、ほとんど奇跡的ではないか、と思えてならな い。

 本書が完成する直前、東北地方だけでなく関東や長野や静岡など前代未聞の 超広域にわたった巨大地震――万単位の人々をのみこんだ津波――そして「想 定」を超えた原発事故が起きた。

 エネルギー問題とフェイスブック革命にも関心があった私は、日本の大震災 の直前まで(革命後の)チュニジアと(内戦から戦争へと移行しつつあった) リビアに出かけており、帰国後そのまま北陸に呼ばれており、この大惨事の報 に接することになる。
 東京にいたら、自家用ヘリでも持っていない限り即日の行動はできなかった はずだが、帰宅を延期し新潟でレンタカーを借り山形経由で宮城県に入り、こ れまで見たこともない光景と遭遇することになったのである。

   その後も、本書や他の仕事をこなしながら、何度も東北地方を周り、チェル ノブイリ、22万人が津波の犠牲者になったスマトラの「今」を見に行く直前に、 「まえがき」を書いている。

   被災地や戦災地では、伝聞を真に受けた報道によれば、いずれもネットが大 活躍したことになっているのだけれども、95年の阪神・淡路大震災――結局は ラジオと口コミが頼りになり、ケータイやネットは被災地にあって脆弱な面を むしろ露わにした――と、ほとんど事情は変わらなかった。さまざまな「ネッ ト絶賛特集」は、現場に行っていないから書けたとしか思えないほどだ。

 日本製紙の岩沼工場と石巻工場、三菱製紙の八戸工場にも立ち寄った。その ときはすでに3月11日から3週間ほど経過していたのだが、岩沼工場を除い て、敷地内には巨大なロールや機械の破片が散乱しており、本書の版元である 講談社は、これらの3工場だけで出版に要する紙の3分の1は調達してきたは ずである。
 この本も、いまこうして皆様の元にお届けするのに、実に多くの犠牲と不屈 の努力と非日常的な創意工夫に満ち溢れている。

 断水が長く続いた地域では、井戸が大活躍していた。すべてをパソコンにし て、メモ用紙を地球上から消してしまう愚をしてはならないのと同様、多彩な 選択肢を残しておくのは実に肝要なことだ。

 天災には、犯人はいない。行政を攻めてばかりいても、詮方(せんかた)な いことである。戦争地帯や被災地を巡り続けて、「自分の頭で考える」には、改 めて紙の本が最も適切だと思い知らされた。

 もちろん電子書籍は、新しい、そして広大なフロンティアであるのは疑いな い。  だが、紙の本をただデジタルにしたところで検索ができるようになり、その 代償として目が悪くなるくらいで、「紙の本ではできなかったこと」を電子書籍 はメインにしていくべきだと改めて思う。

 紙から電子書籍は、交代してゆくのではない。「考える読書」と「検索」は違 うのだ。
 大いなる可能性を秘めていることは確かであり、私自身も電子書籍を長いあ いだ手がけてきたことは本文に書いたとおりである。原稿料や印税は出ても、 北アフリカや東北取材だけで01年3月の取材費は500万円を超えてしまった。 けれど、電子書籍が自動的に我がサイトから売れていってくれているおかげで、 不況のただなかにある編集部から取材費を1円ももらわずに、巨大になりすぎ て談合や隠蔽(いんぺい)や偏りが多すぎる巨大メディアに頼らず、自分の行 きたいところに行き、自分の目で確かめ、自分自身で考える絶好の機会を得続 けてもいられる。
 電子書籍も、紙の本も、それぞれのメリットを活用する「世代」となりえた ことに、私は心から感謝するものである。

 私が中学生から高校生になりつつあった1974年3月、両親から腕時計を進学 祝いにプレゼントされた。日頃、ろくに衣類も買えなかった反省もあったかも 知れず、いったん小遣いを増やそうものなら、いくらでも使いかねない子ども だったゆえの大人の知恵なのかはさておき、小学校から中学にあがるに際して のプレゼントは万年筆だった。

 大学に進学したときは、何もなかった。兄が大病をして入院し、それどころ ではなかったということもあるけれど、18歳は大人だから何か欲しかったら自 分で稼いで買え、という意味だったのだろう。

〔中略〕

 さて、万年筆と腕時計――。
 親の子に対する進学祝いとしては、なかなか洒落(しゃれ)ていたように思 う。ありがたいことだと感謝もしている。時計に至っては、太陽電池(それま では手巻きか自動巻きが普通だった)で、しかもデジタルという新製品が消費 者の心をぐいぐいと引っ張っていた。
 予算は10万円である。
 当時15歳の私にとって、そんな額のプレゼントはありえたものではなかった。 親の月給に相当するような額だ。

 私は、迷った末に、最新鋭のデジタル時計を選ばなかった。当時は、デジタル の腕時計をもつことは、大きなステータスだったけれども、アナログのエクシー ドという時計を選んだ。値段だけは10万円を超えた。2011年にエクシードの針時 計の広告を見たら、まったく同じ値段だったので驚いた。
 しかし、当時買いかけて買わなかったデジタル時計は、いま1,000円もしな い。
 そして、これだけデジタルデジタルと騒がれる時代に突入して久しいという のに、デジタル表示の腕時計をしている人を、めったに見かけないのである。

 15歳の私の見込みは、幼稚ながらもその判断を間違えていなかった。  時計は、右脳(感覚的な判断)に適合しているのだ。デジタル数字よりも、 短針と長針のアナログのほうが、多くの人にとって時間を把握しやすいのであ る。
 もちろん、だから何でもアナログがいい、などという暴論を吐きたいのでは ない。
 時代のトレンドとしては、明らかにアナログからデジタルに着実に変化して いる。今後もこの傾向は変わらない。

 実際、本書で主たるテーマにしたように、デジタル化を無視してメディアを 語ることはすでに時代遅れであり、これに乗り遅れる書き手もよほどの売れっ 子でもキツくなるはずだ。編み手も売り手も流通の担い手も同様だろう。  だが同時に、アナログ表示の腕時計が大奮戦し続けているように、習慣や脳 の適合問題は想像以上に大きい。
 小さな声で言っておくけれども、いま黒いバンドつきデジタル表示のウォッ チをしてお見合いや入社面接に臨んだら、かなり高い確率で"不合格"になる のではないか。半分冗談であるが、要するに、安っぽいのである。
 伝統や習慣や、さらに脳の働きというものを軽視してはいけない。

 さて、紙の本――もともとは紙に印刷された書物のことを「本」と呼ぶので あるから、「紙の本」という言い方は「馬から落馬」の如しであるが、電子書 籍との区分け上、紙の本という言い方もやむをえないだろう――にもいろいろ ある。楽しむ本、調べるための本、暇つぶしの本、流行らしいから読む本、謎 を解きたい本......。
 調べるためや、電子書籍でしか楽しめないものなら、検索や動きが必須だろ う。けれども、たっぷりと時間があるとき、大の小説好きがデジタル本を飛ば し読みして、話の筋を追い切れず、さらに目を悪くすることに熱心であるはず がない。

 ご心配めされるな。
 適当に、デジタルやアナログとつきあっていけばいいのである。

 にもかかわらず、アロン・シェパード『私にはもう出版社はいらない』(W AVE出版)などという本が山ほど出ている。そんなタイトルの本をなぜ出版 社から出すのか。
 大原ケイ『ルポ 電子書籍大国アメリカ』(アスキー新書)では、アメリカ 事情に詳しい著者によって日本は大いに後進国ということになっている。あい つらは、失礼、彼らはたった26しか文字を持っていないのだ。我々は、ごく平 均的な高校生でも2000字を超える文字を読むことができる。
 しかも、カタカナ、ひらがな、漢字のほかに、旧字体やくずし字や古文体も ある。そう簡単にデジタル化は不可能なのである。26字しか持たない単細胞、 いやいや失礼、それほど単純ならば数十年、数百年前の本でも、電子的な読み 込み(デジタル化)は簡単にできるけれども、日本語はそう単純ではない。

 小林雅一『コンテンツ消滅』(光文社)というような本もある。綿貫智人『リ ストラなう!』(新潮社)で経営難が暴露された光文社が消滅するほうが先で はないか。いや、これは冗談としておこう。
 真面目な話、これからは、まさにコンテンツの時代なのである。日本がコン テンツで世界に勝負をかけていかなければ、労賃の安さで闘いうるとでも思っ ているのだろうか。
 佐々木俊尚『フラット革命』(講談社)や同『2011年新聞・テレビ消滅』(文 春新書)というのも、恫喝(どうかつ)がすぎる。手塚治虫の名作と幼稚園児 や五流漫画家の描いたものが「フラット」になるわけがない。また、2011年に テレビや新聞が残っていたら、責任をとって筆を折るのだろうな佐々木さん、 という旨のことは本文にも書いた。
 オオカミ少年たちは、いつの世にも、あとを絶たない。

 池澤夏樹編『本は、これから』(岩波新書、37人の共著)も、読んでいると 唖然としてこざるをえない。そのほとんどがノスタルジーであり、ごくまれに 極端な電子書籍万歳派が混じっている。お歳のわりには、と言っては失礼なが ら、紀田順一郎氏の「電子書籍の彼方へ」が最も現実的で、かつバランスがと れているくらいだ。
 かつて、テレビが世の中に登場したとき、テレビを見ないで「テレビ罪悪論」 を99%の「知識人」が喧伝(けんでん)した時代があった。そういう軽薄な過 ちは、もう繰り返さないでおこう。

 逆に、中川淳一郎『ウェブはバカと暇人のもの』(光文社新書)という本も、 当然のことながら登場する段取りとなる。バカはお前だよ。全否定は時代錯誤 である。

 少なくとも、「出版関係者」であるならば、とりわけ著者ならば自ら電子書 籍を作り、かつ売る努力くらいしてからモノを言うべきではないのか。  本を作る、という営為は、実にしんどいものだ。

 いま、私もこうして本書の最終版の作業をしているのだが、正直言って苦し い。
 寝込みそうだ。

 諸先輩がそういう苦闘のなかで、若くして亡くなっていった。
 数え上げてみていただきたい。
 作家の自殺の多さを――。
 逝去したプロが書いたものも、コンテンツ群の大きな一角を占める。作者の 死後も、古典として生き残る作品も少なくない。
 すべてをネットで、しかも無料で読めるようになれば、当面人々は歓喜する としても、すぐに気づくであろう。誰が、現代人を楽しませ、なおかつ後世に も遺る優れたコンテンツを作り続けていくのか、と問うてみよう。その作者の 収入は、どうやって保障するのか――。

   そもそも「本の読み方」も「書き方」も、世界史を振り返っても大きく変化 してきた。5世紀前の活版印刷術によって、教会的権威が聖書や教養や教義を 独占する時代は終わった。1000年あまり前の『源氏物語』は巻紙に書かれたの であり、書かれた当時から900年以上は、原則として朗読され、それを毎晩ワ クワクしながら聞く者たちがいたからこそ、現在まで古典として伝えられてき たのである。
 明治時代の半ばですら、汽車の中でインテリ系の人は新聞を広げ、音読した。  今これをやったら、怪しまれること必定(ひつじょう)である。

 デジタル化は避けられない。それどころか、便利さに満ち溢れている。
 しかし同時に、習慣や伝統にも優れたものが無数にある。

 我々は、その両方の継承者でありたい。
 そう思いませんか――。

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