2011年3月21日


 韓国挺身隊問題対策協議会より訃報のお知らせがありました。
 覚悟はしていましたが、韓国では今年になって5名の被害女性が亡くなられています。これで韓国で生存されている被害女性は73名……本当にもう、私たちには時間がありません。

 皆さま

 韓国挺身隊問題対策協議会
 梁路子です。

 3月21日に全羅南道に暮らしていたシン・サンシムハルモニが亡くなられました。

 ハルモニは1927年に全南に生まれました。
 1944年、18歳で木浦市場で連行された後、長崎県佐世保海軍慰安所で日本軍「慰安婦」生活を強要されました。
 解放(終戦)と同時に輸送船に乗って麗水港に帰国し故郷に定着しました。
 1992年に日本軍「慰安婦」被害者として申告しました。

 ハルモニの最期の道に
 日本からも冥福をお祈りください。
 私たちのそばにいるハルモニは73人となりました。

 「ハルモニ、安らかにお眠りください」


 2011年3月6日


 韓国挺身隊問題対策協議会より訃報のお知らせがありました。
 これで韓国で生存されている被害女性は74名……本当にもう、私たちには時間がありません。

 皆さま
 韓国挺身隊問題対策協議会 梁路子です。
 3月6日夕方にチャン・ジョムドルハルモニが亡くなられました。

 ハルモニは1923年忠清北道ヨンドン生まれ。16歳のときに連行され、満州・シンガポールなどで日本軍「慰安婦」という苦痛を強いられました。
 解放(終戦)後は慶尚道やソウルなどで過ごし、晩年は仁川に落ち着きました。
 2001年に被害者登録をした後、日本政府に対し名誉と人権回復を求め多くの人々に真実を知らせるため積極的に活動されました。
 2006年にはオーストラリアとドイツで証言集会を、2007年にはカナダ議会決議採択の現場で証言活動をされました。
 つらい状況でも正々堂々ときりりとした態度で臨むハルモニでしたが、最近健康が悪化し入院した後に気力が落ちてしまい、亡くなられてしまいました。
 先日病院で会ったハルモニはいつもと違い涙を見せつつも、温かい春になればどこかに出かけたり水曜デモにも来ると話していましたが、……結局長い別れとなってしまいました。
 ハルモニの冥福をお祈りください。
 韓国の生存者は74人となりました。

  「ハルモニ、安らかにお眠りください」


 2011年2月3日


 韓国挺身隊問題対策協議会より訃報のお知らせがありました。
 挺対協の尹美香さんは「今年はこれまでになく被害者が亡くなられる……そんな予感がする」と仰っていました。被害者はみな90~80代、当然の予感です。
 韓国だけでも今年になってからすでに4人、昨年は10人のハルモニが亡くなられています。
 なんとしてでも、一刻も早い解決を実現させましょう。

 皆さま
 韓国挺身隊問題対策協議会の梁路子です。

 旧正月を迎えた韓国で、一人の日本軍「慰安婦」被害者がその生涯を終えられました。
 2月3日午後5時ごろ慶尚北道霊泉(ヨンチョン)に暮らしていたパク・プニハルモニ(91)が老衰で亡くなられました。

 ハルモニは
 1920年に慶北で生まれ、17歳ごろに日本に連れていかれました。
 下関で過ごしていたところシンガポールに行くことになりました。
 解放(終戦)前に韓国にもどり各地を転々としながら霊泉に定着し、甥姪を育てました。
 ハルモニの事情を知っている里長のすすめで日本軍「慰安婦」として登録しました。

 韓国の日本軍「慰安婦」被害者は75人のみとなりました。

 ハルモニの逝く道がさみしくないよう、皆さんも冥福をお祈りください。


 2011年1月13日


 みなさん、またしても韓国挺身隊問題対策協議会より訃報のお知らせがありました。
 キム・ソニハルモニとイム・ジョンジャハルモニです。

 イム・ジョンジャハルモニは昨年11月25日の国会行動に参加された後、大阪を訪問、集会でお話されたハルモニです。
 集会での証言は支援団体が予定稿を代読する形で行われたのですが、ハルモニは代読する発言に記憶を蘇らせ、代読する人の言葉を遮ってご自身で証言されました。その姿に、会場にいる人はみな心を打たれ、涙していました。
 一緒に箕面温泉に泊まり、翌日、お別れの時は茶目っ気たっぷりに「また、会いましょうね」と、日本語で何度もおっしゃってくださいました。
 「今度は韓国にお尋ねしますね」とお約束してお別れしました。
 あれからまだひと月半しかたってないのに、……信じられません。
 あの時の姿を思い出すと、涙を禁じることができません。

 韓国の生存者は76名になってしまいました。もう猶予はなりません。

 皆さま

 韓国挺身隊問題対策協議会 梁路子です。

 訃報が続いています。
 1月13日に二人のハルモニが亡くなられました。
 蔚山(ウルサン)在住のキム・ソニハルモニと馬山(マサン)在住のイム・ジョンジャハルモニです。

 キム・ソニハルモニについては家族の意向で、詳しいことはお知らせできません。

 イム・ジョンジャハルモニは、1か月前から体調が悪化し重患者室で亡くなられました。
 ハルモニは1922年に生まれ、1938年に17歳で釜山近隣地域から満州へ連行され、8年間台湾・香港・大連・上海・ハルピンなどで日本軍「慰安婦」生活を強いられました。
 解放(日本敗戦)後は1946年にピョンヤンの避難所を経て釜山に帰ってきました。
 1958年からは馬山で暮らし、1996年に日本軍「慰安婦」被害者として申告しました。

 昨年11月の東京での院内集会や大阪での集会に参加されたのでご存じの方も多いかと思います。

 ハルモニたちの冥福をお祈りください。


 2011年1月3日


 みなさん、
 大晦日の日にチョン・ユノンハルモニが亡くなられたという悲しいお知らせを送ったばかりなのに……。
 今日、11月に来日された慶尚南道、統営市民の会の宋道子さんより訃報の連絡をいただきました。
 亡くなられたのは統営地域に住むイ・キソンハルモニです。
 去年末、20日ごろから膓間膜梗塞症で病院で生死をさまよった末、本日午前 11時30分頃、恨多い生を閉じられました。

 心からご冥福をお祈りします。

 イ・キソンハルモニの経歴は
 1923年 慶南統営市山陽面韓山面で生まれ。
 1939年 17歳の時、韓山面日本支署で日本の工場へ行けばお金を儲けることができるという話にだまされて、村の娘2人と一緒に統営から船に乗って釜山に行った後、汽車に乗せられて中国ソシュウに連れて行かれた。「タマコ」という名前で6年もの間残酷な日本軍「慰安婦」生活を強要された。1945年秋、日本の敗戦で原住民に追い回されて強制出国あって日本の船に乗って釜山に帰国し、釜山虜収容所で約2ヶ月収容された後、再び船に乗って故郷である統営に帰って来た。
 1993年 日本軍「慰安婦」被害者として申告、登録。
 2004年 日本政府のお詫びと賠償を求めて、日本軍「慰安婦」問題解決のために地域で活動する。
 2008年 歩行不可と持病で療養病院に入院。
 2009年 5月~10月ハルモニの生のはなし、証言映像を撮影。
 2010年12月20日 腸麻痺で晋州慶尚大学病院応急室移送、腸間隔梗塞証で手術ができないという診断が下り、統営の病院に移送後入院。
 2011年1月3日 14日間の死闘の後、午前11時30分頃、恨多い生を後にして逝去。



 2010年12月31日


 韓国挺対協から、また訃報が届きました。ソウルの気温は零下20度と聞きました。こうしている間にも、被害者の生命が刻一刻と削られていってることを実感させられます。
 これで韓国で被害登録されている生存者は79人です。ご冥福を祈り、この悔しさを明日の力に代えてがんばりましょう。

 皆さま
 韓国挺身隊問題対策協議会の梁路子です。

 2010年最後の日である12月31日夕方9時にチョン・ユノンハルモニが亡くなられました。
 年越し直前に連絡が入り今日の朝から弔問に行ってきました。
 ちょうど1年前の1月2日に亡くなられたキム・スナクハルモニを思い出します。
 年末年始も関係なくハルモニたちには突然死がやってきます。

 2010年に亡くなった被害者は9人に増え、日本軍「慰安婦」生存者は79人に減りました。
 日韓政府と社会が一日も早く日本軍「慰安婦」問題を解決するよう努力しなければという切迫感を感じます。

 ハルモニがこれからいくところには
 植民地もなく、女性への暴力もなく、娘だと無視され差別されない場所ではないことを願っています。
 故人の冥福を祈ります。


 2010年12月11日

 日韓強制併合100年を機に、日本弁護士連合会と韓国の大韓弁護士協会が東京で日本の植民地支配による被害者救済を訴えるシンポジウムを開き、日本軍「慰安婦」問題を立法で解決するよう求める提言を発表しました。
 提言では、「慰安所」制度が国際法に違反する人権侵害であったことを日本政府が認め、被害者への謝罪と金銭的補償を実施。問題の徹底した全容解明のため、国会や政府内に調査機関を設けるなど、立法措置を行うことを求めています。
 日弁連も大韓弁協も、それぞれの国のすべての弁護士が加入する団体です。 したがってこの提言は、日本と韓国の弁護士会の総意とも言えるものです。しかしこのような社会的影響力のある重大な提言であるにもかかわらず、残念ながらそれほど知られていないのではないでしょうか?
 重みのある事実ほどなかなか知られることのない世の中です。市民の力で、私たちの周囲に広めていきましょう。


日本軍「慰安婦」問題の最終的解決に関する提言

2010年12月

日本弁護士連合会
大韓弁護士協会

はじめに
 日本軍「慰安婦」問題は、女性に対する暴力であり、女性に対する差別の問題である。
 この問題について日本政府は、1993年8月、河野洋平内閣官房長官談話を発表し、この問題が、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であることを認め、被害を受けたすべての人々に対し心からのお詫びと反省の気持ちを表明した。そして、日本政府としての責任の取り方について検討するとともに、歴史研究と歴史教育を通じてこの問題を後世に伝え、歴史の教訓とすることを言明した。
 ところがその後、政権政党や閣僚の中からもこの談話を否定するような発言がなされるなど、この河野談話が日本政府の基本的な立場であることを曖昧にする事態が起こってきた。
 また、その後発足した「女性のためのアジア平和国民基金」は、被害者に対し国庫からではなく日本国民の募金から「償い金」を支払ったために、日本政府の責任を曖昧にするものとの批判を受け、事業を実施した国々においても多数の被害者がその「償い金」の受取りを拒否した。さらに、当初から事業の対象としなかった国も多く、基金自身が認めているように、多くの未解決の問題を残したまま、同基金は2007年に解散した。
 他方、国際社会は、1992年から国連人権委員会や差別防止少数者保護小委員会(人権小委員会)で議論がなされ、1996年にはラディカ・クマラスワミ特別報告者が、1998年にはゲイ・マクドゥーガル特別報告者が日本軍「慰安婦」制度を特に取り上げ、それぞれの報告書の中で日本政府に対する強い勧告を記載した。
 さらに女性差別撤廃委員会では、1994年、2003年、2009年の各日本政府報告審査の最終コメントでいずれも強くこの問題の最終解決を勧告した。同様に国際人権(社会権)規約委員会でも2001年に、拷問等禁止委員会では2007年に、国際人権(自由権)規約委員会では2008年に、それぞれ日本政府に対し勧告を行ったが、国際人権(自由権)規約委員会の勧告はそれまでの各委員会の勧告を集大成するかのように、謝罪と補償、加害者の処罰、市民の教育、事実を否定する企てに反論すること等を含む強力な勧告となっている。ILO(国際労働機関)も条約勧告適用専門家委員会の見解として、毎年のようにこの問題は強制労働禁止条約に違反するとの前提で早急な被害者の救済を求める意見を公表している。
 さらに2007年には、アメリカ下院、オランダ下院、カナダ下院、EU議会の決議として、日本政府に真摯な謝罪と補償等を求める決議が可決され、日本政府に伝達されている。
 このように10年以上にわたって、これほど多くの国際機関から勧告を受け続けた問題は、日本の歴史上かつてなかったといってよい。日本は、改組された国連人権理事会の理事国に自ら立候補し、世界の人権保障の模範となること、及び人権に関する国際条約等の率先遵守を国際的に公約した。この日本政府の立場からみて、女性への差別や暴力を根絶しようとしている国際社会において、日本政府がこの問題の最終的解決を図ることは絶対に避けて通れない課題である。
 日本の国内でもこのような国際社会の動きを受けて、全国で36の市町村議会(2010年11月5日現在)が、政府に対してこの問題を早急に解決するよう求める意見書等を採択している。
 この問題が日本の社会に明らかになってから既に19年が経過し、名乗り出た被害者の多くが亡くなったり、健康を悪化させている。生きているうちに名誉の回復を、と望んでいる被害者にとって、残された時間はますます少なくなっている。今こそ日本政府は、最終解決に向けて本格的な取組を行わなければならない時である。
 今年は韓国併合条約100年の記念すべき年に当たり、本年8月10日には、菅直人内閣総理大臣が談話を発表し、「歴史に対して誠実に向き合いたいと思います。歴史の事実を直視する勇気とそれを受け止める謙虚さを持ち、自らの過ちを省みることに率直でありたいと思います。この植民地支配がもたらした多大の損害と苦痛に対し、ここに改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明いたします。」と述べた。
 上記のように国際社会が日本政府のこの問題に対する対応を注視する中で、この内閣総理大臣談話の趣旨を具体的な本件課題においてどのように実現するのか、日本政府の取組が問われている。
 日本弁護士連合会は、既に1995年に「『従軍慰安婦問題』に関する提言」を発表し、日本政府に対し、①真相の究明、②公式謝罪と補償、③常設仲裁裁判所の利用、④歴史教育における事実の継承等を求めてきた。そしてその後も、繰り返し会長声明等により、この問題の早期解決を求めてきた。
 今年、韓国併合100年のときに当たり、日本弁護士連合会と大韓弁護士協会は、女性の人権の発展を祈念し、日本政府のこの問題に対する根本的最終的解決を求めて、両弁護士会の総意として以下の提言を発表する。

提 言
第1 日本軍「慰安婦」制度被害者の被害救済のための立法を行うこと。その法律には下記の内容を含めること。
 1 日本軍が今次大戦及びそれに至る時期において、直接的あるいは間接的な関与のもとに設置運営した「慰安所」等における女性に対する組織的かつ継続的な性的行為の強制が、当時の国際法・国内法に違反する重大な人権侵害であり、女性に対する名誉と尊厳を深く傷つけるものであったことを認め、日本国として被害者に対し謝罪すること。
 2 日本国として上記の責任を明らかにし、被害者の名誉と尊厳の回復のための措置として、金銭の補償を含む措置を取ること。
 3 事業実施にあたっては、内閣総理大臣及び関係閣僚を含む実施委員会を設置し、被害者及び被害者を代理する者の意見を聴取して行うこと。
第2 日本軍「慰安婦」問題のより徹底した全容解明のために、国会あるいは行政府内に調査機関を設けるなど適当な措置を取ること。
第3 教育、広報等を通じて、この問題の真相が社会に広く定着し、さらに広く広がるように配慮する。特にこれまでくり返し明らかにされた日本政府の見解を貶める言説については、政府として反論をし、政府の立場を明確にすること。

提言の説明
1 「日本軍『慰安婦』問題」の名称について
 従来、日本弁護士連合会では「従軍慰安婦問題」と呼称してきたが、この呼称に被害者から異論が出ていることも踏まえ、両弁護士会協議のうえ、「日本軍『慰安婦』問題」とした。
2 被害者救済のための「立法」提案であること
 法律を制定するまでもなく、内閣のもとに、この問題解決のための特別委員会あるいは関係閣僚委員会のようなものを作って、内閣の主導のもとで直接行政手続として事業を実施すればよい、という意見もある。
 しかし、事業の目的を明確にし、安定的に事業を実施すること、受給の条件等を客観的に明確にしておくことなどのために、法律の制定は必要である。
3 被害把握の対象期間
 1931年から1945年までとするが、表現としては「今次大戦及びそれに至る時期」とする。
4 対象事実
 旧陸海軍が直接的あるいは間接的な関与のもとに、女性に対し組織的かつ継続的な性的行為の強制を行ったこと、とし、旧陸海軍の行為であることを明確にする。
5 対象事実の評価
 当時の国際法・国内法に違反する行為であったこと、そしてそれが女性の名誉と尊厳を深く傷つけた行為であったことを明確にする。このことは、河野内閣官房長官談話をあらためて再確認することでもある。
6 法の目的
 この法律は、日本政府として事実を認め、すべての被害者に対し謝罪し、その名誉と尊厳を回復する措置を定め、実施するための手続を定めることを目的とする。そしてこの「慰安婦」問題の最終的な解決を図ることによって、日韓両国のみならず被害国と日本との間の真の友好関係を強め、人権の伸長と国際平和に貢献することを目的とする。
7 名誉と尊厳の回復のための措置
 名誉と尊厳回復のための措置としては、金銭による補償を含み、その他の方法(例えば医療給付やリハビリなど)もあり得るという含みを持った表現とした。
8 実施の具体的方法
 具体的な事業実施については委員会の設置が必要であると考える。そしてこの委員会の構成には、政府や関係省庁の協力を確保するため、内閣総理大臣をはじめ関係閣僚を含むこととする必要がある。また、被害者の意見を代理するものを含めるとするか、あるいは実施に当たってはこの委員会が被害者を代理する者の意見を聞いて行うとするか、いずれにしても被害者の意見を尊重する仕組みが必要である。
9 全容解明のための措置
 日本軍「慰安婦」問題は、いまだ十分に解明されていない。各政府機関に存在する記録等の開示を含め、日本政府としてさらに徹底した全容解明のための機関を作り、予算措置を講ずるなどのための立法措置、行政措置等可能な措置を講ずる必要がある。それらを含んだ表現として「適当な措置」としたが、内容は前記の実効的な方法を取ることである。
10 教育及び広報について
 1993年に河野内閣官房長官談話が政府の基本的な立場として明確にされ、その後の内閣総理大臣は例外なくこの河野談話の立場を承継すると言明してきた。しかしその内閣の中で閣僚からこの談話を否定するような発言が出され、しかもそのことについて日本政府の立場として非難したり、訂正したりすることなく放置されてきた。そのために、日本政府は極めて不誠実な態度をとっているとの国際的な非難を免れなかった。
 このようなことが再々起こる背景には、日本の社会のなかでこの問題の実情や問題の本質が十分に知られていないことがある。そこで、教育を通じて次代の世代に、また広報を通じて現代の日本社会のなかに、この問題の実相がきちんと定着するようにする必要がある。
 そして、もし今後河野談話を貶めたり、否定する言説が行われた時には、日本政府の立場としてこれを否定し、反論し、政府関係者であればその責任を問う必要がある。そのようにして初めて日本政府の立場が一貫するといえるからである。


 2010年12月10日


 韓国挺対協から、シム・ダリョンハルモニに引き続き訃報が届きました。
 これでついに韓国で被害登録されている生存者は80人となってしまいました。

 皆さま
 韓国挺身隊問題対策協議会の梁路子です。

 数日前にシム・ダリョンハルモニの訃報をお知らせしたばかりですが、引き続き悲しいお知らせを伝えることになりました。

 全羅北道益山(イクサン)に暮らしていたイ・ヤングンハルモニが亡くなられました。

 1923年に益山で生まれたイ・ヤングンハルモニは、1942年に紡績工場に就職させてやるとの言葉にだまされ、シンガポールで解放(終戦)を迎えるまで日本軍「慰安婦」生活を強いられました。
 解放後帰国しましたが生活は困難でした。老人性疾患で苦しまれ、突然の脳梗塞で倒れてから一日もたたず、今日(12月10日)午後4時42分にこの世を去られました。

 シム・ダリョンハルモニ、イ・ヤングンハルモニの逝去で、韓国の日本軍「慰安婦」被害生存者は80人のみとなってしまいました。

 日本からもハルモニの冥福をお祈りください。


 2010年12月5日


 韓国挺対協から、今年に入って8人目の訃報が届きました。
 このところ訃報を聞くこともなかったのですが、日本で証言集会を開く度に、ハルモニたちの辛そうな身体に心を痛めていました。またお一人お亡くなりになられ、本当に堪りません。
 シム・ダリョンハルモニといえばビョン・ヨンジュ監督のドキュメンタリー映画『息づかい』に出ておられました。あの映画を撮られたのは10年以上前。……本当に時間が経ちすぎています。83歳というお歳は、「慰安婦」被害者の中では最も若いのですが、なくなるのに決して早いわけではありません。本当に、本当に、私たちには時間が残されていないのです。
 なんとしてでも今すぐ解決を実現しましょう。

 皆さま
 韓国挺身隊問題対策協議会の梁路子です。

 テグの市民の会から訃報が伝えられました。
 今年下半期は悲しいお知らせをしないまま年を越せると思っていましたが、、、
 12月5日午後7時50分にテグに住むシム・ダリョンハルモニが享年83歳でこの世を去られました。

 シム・ダリョンハルモニは
 1927年7月5日に慶尚北道漆谷郡の貧しい村で生まれました。
 12歳ごろに姉と野草取りに出かけたところ日本軍につかまりトラックに載せられ台湾の慰安所に連行されました。
 そこでの暴行と精神的ショックで長い間精神病を患いました。
 解放(終戦)後に韓国に戻りましたが、何も記憶できず病気に苦しみました。
 口もきけなかった姉を妹が見つけて家に連れて帰り看護しました。
 日本軍「慰安婦」被害の後遺症で子宮頚部がん手術を受けるなど、様々な病気を抱えながらも、奪われた名誉と人権を取り戻すため活発に活動されました。

 ハルモニは、2010年6月末から肝臓がんで入院し、痛みに苦しみました。
 生前には日ごろから戦争が起こって自分のような苦しみを受ける人がないよう努力することをお願いされ、病床では「人のように生きられなくて悔しい。生きて日本政府が謝罪するのを必ず見なければならないのに、、、」と話していました。

 ハルモニの最後の逝く道が寂しくないよう日本からもお祈りください。

 伊藤孝司さんのHPでシム・ダリョンハルモニのルポを読むことができます。<記事の外部リンクはこちら>
 ハンギョレ・サランバンのシム・ダリョンハルモニの訃報記事。<記事の外部リンクはこちら>


 2010年9月11日


 韓国挺対協から、今年に入って7人目の訃報が届きました。

 

 日本軍「慰安婦」被害者チン・ファスンハルモニの訃報をお知らせします。
 故チン・ファスンハルモニは、1930年に全羅南道チャンソンで生まれ、15歳の時に光州にある製糸工場で働いていたところソウルの会社に就職させてやるとの紹介を受け、結局満州に連行され、「ハルコ」という名前で日本軍の性奴隷となり苦しい生活を送らなければなりませんでした。
 解放後、上海を経て釜山港に帰還し結婚もしましたが、日本軍「慰安婦」という過去がばれて離婚され、最近になって入院するまで全羅北道チョンウプで一人で暮らしていました。
 挺対協スタッフが訪問するといつもチキンを出前しゆで卵でもてなしてくれ、若いスタッフの苦労をねぎらい感謝を伝えていたハルモニは、健康な時には事務所によく電話をかける方でした。
 電話をかけてくる度に「私だよ~チョンウプ(に住んでいる)ハルモニ。誰だい?」と、甲高い声で会いたい、いつ来るんだと尋ねました。
 そして近くの山の紅葉が散る頃は本当にきれいだと、必ず遊びにおいでと何度も言われました。
 ところが1年前から手術と入院を繰り返していたハルモニが、突然秋を目前にして、美しい紅葉をスタッフに見せられないまま恨多いこの世をさられました。
 いくつかの峠を越え死闘を繰り返していたハルモニが、再び奇跡を起こし遊びにおいでという電話をくれることを願っていましたが、今日(9月11日)午後5時40分ごろに目を閉じられました。

 日本帝国主義が朝鮮半島を強制併合して100年
 植民地から解放されて65年
 何の変化もなく過ぎていくのがどれほど恨めしかったでしょう。
 ハルモニは私たちに再び日本軍「慰安婦」問題解決に時間がないことを悟らせてくれ、ハルモニが生前になすことのできなかった日本政府からの公式謝罪と法的賠償実現の責任を私たちに託したまま亡くなられました。
 今年に入って7人のハルモニが亡くなられ、234人の申告者中82人のみが生存されています。

 故チン・ファスンハルモニの出棺は9月13日午前に行われる予定です。
 その後、天安の望郷の丘にすでにいらっしゃる「慰安婦」被害者たちの横に眠られます。
 ハルモニが逝った場所には、戦争もなく植民地の屈辱的な人生もない平和な場所であることを願い、ハルモニの冥福を祈ります。

 「ハルモニ、安らかにお眠りください!」


 2010年8月11日

 2010年8月11日は世界中で同時に水曜デモが取り組まれます。もちろん日本でも、日本軍「慰安婦」問題の解決に取り組む市民団体が各地で取り組みを行います。
 日本軍「慰安婦」被害者のハルモニたちはこの10年間、雨の日も風の日も、毎週水曜日ソウルの日本大使館前でデモを行ってきました。11日で930回にも及びます。
 被害者が老体を押してこれほどがんばっておられるのに、未だ解決できていないというのは、本当に悔しく、私たちの責任を痛感します。なんとしてでも被害者に解決を、謝罪の声を届けなければと思います。

 韓国での水曜デモの声明を是非お読みください。



韓国強制併合100年、解放65年
日本軍「慰安婦」問題解決のための世界連帯行動の日
および
第930回定期水曜デモ 声明書
 今日、私たちは過去一世紀の節目で綿々と刻んできた痛みと抑圧の歴史が、いまだ癒されず傷ついたまま、目の前に立ちふさがっていることを全身全霊で感じている。日本帝国主義の刃が民族と民衆の命を漆黒の闇に突き落とし、100年という歳月が流れたが、解放を迎えたと言えど私たちの時計の針は今も解放を指し続けている。それは、女性の体、民衆の命を狙った軍国主義の刃を引き抜き、被害者が真の解放へ向かって羽ばたくその日まで、この叫びを止めることはできないからである。
 世界史に恥ずかしい野望行為として残る組織的な性奴隷制度を縮小・歪曲しようとする日本政府は、この叫びをはっきりと聞かなければならない。口にすることも苦痛である過去の記憶をそっくりそのまま現在に伝え、個人の不幸を超え人権と平和実現のための人類共同の課題として昇華させるまで沈黙を破り名乗りでた被害者を支持する世界市民の声は、今まさに地球のいたるところを熱くしている。
 日本政府は、暴力で染まった過去の世紀を終わらせ、平和の種を蒔き新しい歴史を記そうとする世界市民の声をはっきりと聞かなければならない。国連をはじめとする国際機構の勧告採択、そして国会決議を通じ問題解決を求めてきた国際社会の要求を謙虚に受け入れ、速やかに履行しなければならない。不当な人権蹂躙に立ち向かい、真実を叫び、死ぬ直前まで叫び続ける被害者の訴えに耳を傾けなければならない。日本全域で草の根運動を広げ、国家的責任履行を求めてきた日本民衆が心から望むものが何なのか、その民意をはっきりと読みとらなければならない。暴力と抑圧に屈せず、連帯の手を携えてきた女性たちの闘いは、決して中断しないことをはっきりと知らなければならない。
 日本軍「慰安婦」問題をはじめとし、数多くの植民犯罪や戦争犯罪を歴史歪曲と回避で覆い、今日に至るまで持続的な人権蹂躙を恣にしてきた日本政府を強く糾弾し、日韓の新しい100年を平和と相生の関係に変える責任が日本政府にあることを再度強調する。新しい政権樹立に続き、歴史の転換期を迎えた現在、日本政府は葛藤と反目を生んだ過去の政府の影をきれいさっぱり洗い流し、東アジアを超え人類共同体の新しい歴史を記す意志を証明しなければならず、そのためには日本軍「慰安婦」問題解決と正しい過去清算を迅速に履行しなければならない。韓国強制併合100年を迎え発表された菅直人日本総理の談話でも、日本軍「慰安婦」問題など重大で急がれる人権侵害問題についての解決策は何ら示されなかった。その限界を明白に認め迅速な問題解決を求める。
 韓国政府にも要求する。果たして韓国政府が日本軍「慰安婦」被害者の人権に関心を持っているのか、私たちは問いたださずにはいられない。80、90歳の高齢の体で、冬には寒く夏には暑いここ日本大使館のセメントの上で、19年間毎週水曜日ごとに日本軍「慰安婦」被害者たちが、日本政府に問題解決を!韓国政府に積極的な外交的行動を!求めてきたにもかかわらず、日本政府も、韓国政府も、何の反応をも見せずにいる。これが韓国強制併合100年、解放65年に私たちが直面している現実である。韓国政府は、人権を度外視した経済的実利主義では決して国民の意思を代弁できないことをはっきりと知り、日本軍「慰安婦」問題と過去清算がこれ以上被害者と市民社会の役割にすりかえられ放置されないよう、より積極的で明確な外交的・政策的努力を傾けなければならない。
 国際社会も、国際機構の勧告と各国議会で採択された決議さえ回避している日本政府に戦犯国家の責任を明白に履行するよう促し、日本軍「慰安婦」問題のような反人類的犯罪が再発しないよう、平和と人権の世界史を創造することに賛同しなければならない。
 日本軍「慰安婦」問題解決が成されるその日まで、ともに叫ぶ私たち女性と世界市民は、最後まで闘うことを今日再び明らかにする。ここに、暴力と人権蹂躙、女性抑圧を生んだ全ての戦争と軍国主義に反対し、次のように要求する。
 ―― 日本政府は、国際社会および日韓地方決議の勧告と要求を即刻受け入れ、立法を通じ日本軍「慰安婦」問題を迅速かつ明白に解決せよ!
 ―― 日本政府は、韓国強制併合100年を迎えた今年、植民犯罪と戦争犯罪を必ず清算し、平和な日韓関係と東アジア共同体確立のため努力せよ!
 ―― 韓国政府は、「恥辱の100年」の歴史を堂々と正しい日韓関係を確立する歴史に変え、自国民の人権回復と正しい過去清算のため外交的・政策的努力を履行せよ!
 ―― 国際社会は、日本軍「慰安婦」被害者に名誉と人権が回復されるよう積極的に支援連帯し、地球上の終わりのない戦争で人権蹂躙を受けている被害者には新しい希望を、戦争犯罪者には厳重な警告を、伝えなければならないだろう。これを通じ、戦争中断と女性への暴力中断、人権と平和実現のためともに努力せよ!

2010年8月11日

韓国強制併合100年、解放65年
日本軍「慰安婦」問題解決のための世界連帯行動の日
および
第930回水曜デモ 参加者一同

(翻訳:挺対協)
 2010年8月10日


 みなさん、8月10日に出された菅談話、どう思われましたか?
 このHPではあえて評価は差し控えたいと思いますが、みなさまの考える一助に、韓国挺対協の声明と、その日の朝日新聞の報道を掲載します。

<韓国挺身隊問題対策協議会 声明>
韓国強制併合100年を迎え発表された
菅直人日本総理の談話に対する私たちの立場

--日本軍「慰安婦」問題など重大で緊急な植民地被害に対する具体的反省および解決への努力を盛り込むことのなかった菅総理の談話に失望を禁じることができず、迅速な問題解決を求める--
 日本帝国主義による韓国の強制併合が100年を迎えた今年、この歴史的な時期を迎え、私たちは今こそ正しい過去清算を成し、真の友好的な日韓関係を創造していくことを望んでいる。そのような中で今日8月10日、日韓強制併合100年に対する菅直人日本総理の談話が、思ったよりも早く発表された。
 
 今回の談話で、過去の過ちを振り払い未来志向的関係を築くとの日本政府の中身のない言葉遊びを改めて確認することができた。
 今回の談話は、1995年8月に戦後50年を迎えて発表された村山談話から一寸の発展もなかった。戦後50周年を迎え発表された村山談話や、これに先立ち日本軍「慰安婦」問題について意見を表した河野談話も、今回の菅総理の談話のように植民地被害に対する具体的な解決策を提示できず、また談話の意味を完成させるだけのこれといった行動もなかった。そのため、被害国政府および国民から反対と糾弾がやまなかったことを日本政府は看過してはならない。
 
 1995年の談話後、約15年間国連やILOなど国際機構は、数回にわたり日本政府に日本軍「慰安婦」被害者に法的責任を取ることを求めてきており、今も国連とILOでの要求は続いている。アメリカとヨーロッパ連合をはじめとした世界各国議会でも、日本政府に「慰安婦」被害者に対する謝罪と法的賠償などを求める決議を採択した。
 韓国と日本地方市議会では、日本政府に「慰安婦」問題解決を求める意見書や決議採択が湧き水が吹き上がるように継続している。それにもかかわらず、菅総理の談話にはこのような国際社会の要求に対する答弁を全く反映させることができなかった。
 また十数年の間、日本大使館前で毎週水曜日に日本政府に謝罪と賠償を求めている高齢の日本軍「慰安婦」被害者たちの要求についても、解決策を提示できなかった。
 日本国内右翼勢力と反対派の声に汲々としたせいで、韓国強制併合100年を迎える談話は、植民地被害者および日韓両国関係で何の進展も見出せない困難な条件を日本自らが作ってしまった。
 
 私たちは、日本政府が何よりも先に実行しなければならない緊急であり、重要な事柄に責任ある措置と明確な履行決議を示すことができなかったことについて遺憾を表し、植民地被害者の問題解決のための迅速な行政的・立法的措置を再度要求する。植民地支配と日本の戦争遂行時期、その血生臭い歴史の渦の中でも、非常に残忍な苦痛を体験した被害者と生存者に対する真の謝罪の意味を表するためには、具体的な解決法案を提示もしくはそれを担保とする明確な意思表現が成されなければならない。
 性奴隷という凄惨な苦痛のくびきを抱いて19年間叫び続け、明日で930回の水曜デモを迎えることになる日本軍「慰安婦」被害者たち、兵力や労役として連れて行かれ戦争の砲火を全身で受け止めなければならなかった被害者たち、未だ基本的な権利さえ保障されないまま日本社会の差別と暴圧の中で暮らしている在日同胞とその子孫にいたるまで、間違いなく日本政府が謝罪し法的責任を負わなければならない問題について、今回の談話は全く触れていない。
 被害者の問題は、今後の同伴者的日韓関係のために植民地加害国の日本政府がきちんと責任を取らなければならない部分である。すでに被害者のほとんどが亡くなり、生存している場合も高齢である方々に、これ以上人権回復と問題解決を待つ時間的余裕がないことを、日本政府が知らないわけではないだろう。この優先しなければならない課題に対して何の答えもないというのは、失望を超え私たちに怒りを感じさせる。
 
 結局韓国強制併合100年を迎え発表した今回の菅直人総理の談話が、ここに来て全く触れることのなかった解決策を補完し、今後歴史的意味を明確にさせるためには、談話の内容に相応し、またこれを超える措置をとることが必要である。
 加えて、「両国間の未来をひらくために不断の努力を惜しまない決意」の中には、日本軍「慰安婦」問題に対する立法的解決はもちろん、人権蹂躙と植民犯罪被害者問題を具体的に解決していくという意志が含まれなければならない。今後、独島(竹島)に対する領有権の主張や、被害者に対する妄言などが継続的に繰り返されるならば、これもまた談話の価値を下げることになるだろう。
 
 韓国政府もまた、今回の菅直人総理の談話に対し、日本軍「慰安婦」被害者問題解決などに相応する措置を外交的に求め、談話の中に実現されなかった自国民の人権回復と正しい過去清算に対し、確固とした努力を傾けなければならない。韓国強制併合100年という時期を経る両国の現政権が持つ歴史的責任は、決して回避しても看過してもいけないことを何度強調しても足りはしないだろう。
 平和的で友好的な紐帯関係のため、日韓両国政府が画期的で明確な努力を傾けることを再度求める。

2010年8月10日

韓国挺身隊問題対策協議会
共同代表 尹美香(常任)

(翻訳:挺対協)
 2010年6月28日


 韓国挺対協から、今年に入って6人目の訃報が届きました。
 本当に毎月のように接しなければならない訃報に、心が掻きむしられます。なぜ私たちは日本政府の真の謝罪と補償が実現できないのでしょうか。折しも日本では参議院選挙真っ只中ですが、被害者の心情を理解していても日本軍「慰安婦」問題の解決を街頭で訴える候補者はほとんどいないというのが、わたしたち日本社会の現状です。そんな現状でも被害者の訃報を受け容れなければならないという現実は、本当に苦痛でしかありません。
 何としてでも一日も早い問題解決を実現させるために、日々努力していきたいと思います。決意を新たにしましょう。

 6月議会では各地で続々と意見書が可決され、韓国でもそのニュースに喜んでいます。
 しかしそのニュースを聞くことがないまま、ハルモニたちは一人二人と亡くなっていきます。

 6月28日、慶尚南道居昌(コチャン)に暮らしていたパク・スニムハルモニが亡くなられました。

 1920年にコチャンで生まれたパク・スニムハルモニは、テグに住んでいた1939年12月に路上で日本警察に連行され、釜山・上海などを経て中国で解放を迎えるまで日本軍「慰安婦」としてつらい日々を送りました。
 終戦後、1年以上中国で暮らし、上海から帰国しました。
 最近まで様々な病気と老衰でコチャン病院に入院していましたが、28日午前8時30分ごろに目を閉じられました。

 ハルモニが寂しくないよう、多くの方々が冥福を祈ってくださるようお願いいたします。


 2010年6月16日
 
 菅新政権誕生を受け、韓国挺対協とハルモニたちが新総理に向け要望書をソウル日本大使館に手渡しました。
 本来であれば水曜デモの時に手渡したかったものの、その時間には大使館職員は一人もいないとのことで、少し早い11時半に、イ・スンドク、キム・ボクトン、キル・ウォノクハルモニの3人が大使館の中に入り、職員に要望書を手渡しました。ハルモニは「私たちの残り時間は短いので、早く解決してくれるようお願いします。いつも要望書を出しても返事をもらうことができませんでした。お返事をいただければうれしいです」と仰っていたそうです。
 


要  望  書
 菅直人 内閣総理大臣 殿
 6月4日、94代総理に菅直人民主党代表が選出され、8日には新たな内閣が誕生しました。私たち韓国挺身隊問題対策協議会は、菅新内閣に日本軍「慰安婦」問題の立法解決を実現するため一層の努力を傾けていただくことを求め、要望書を送ります。

 8ヶ月という短命に終わらざるを得なかった鳩山総理の辞任理由は、大きく沖縄普天間基地問題と政治資金問題にありました。特に、普天間基地問題では、鳩山総理は当初の県外移転という公約を覆し、結局は自民党が主張していた辺野古移転という原案に帰結したことにより、市民からの支持を失いました。このような状況は、私たちを期待させたこれまでの発言や公約が、虚言になるかもしれないとの憂慮を感じさせました。

 2009年の民主党インデックスには、戦後諸課題の取り組みとして、「国会図書館に恒久平和調査局を設置する国立国会図書館法の改正、シベリア抑留者への未払い賃金問題、慰安婦問題等に引き続き取り組みます」と明記されていました。しかし、「慰安婦」問題については何らの進展もなく解決の糸口さえ見えていません。また、民主党を中心として2000年から提出されてきた「戦時性的強制被害者問題解決促進法案」は今年で提出10周年を迎えましたが、昨年からは国会に上程されることすらありませんでした。

 韓国の日本軍「慰安婦」被害者が名乗りをあげ、日本政府に対し問題解決を要求するようになって20年近くが経ち、13歳の時に連れて行かれ「慰安婦」にさせられた少女は、83歳になりました。70年もの間、苦痛の中で生きてきた被害者への心のこもった謝罪とそれに基づく賠償は、今この時期を逃してはありません。

 2007年に米下院で日本軍「慰安婦」問題解決に関する決議が採択され、各国・国際機関が日本政府に問題解決を求めてきました。また、日本国内でも21都市が、日本政府に日本軍「慰安婦」問題に誠実に対応することを求める意見書などを可決しています。日本軍「慰安婦」問題解決を求める日本国内外の声は、これ以上なく高まっています。先日日本を訪問した国連人権高等弁務官は、日本軍「慰安婦」被害者とも会い、戦時性奴隷被害者に対して謝罪・補償し、最終的な解決を実現するよう日本政府に訴えました。そして、「これまで中途半端な対応が多すぎたため、被害者の満足が得られてこなかった」「新政府は、この悲惨な過去を清算するだけでなく、これを地域の他の国に対して肯定的な模範を示す機会とすることができる」と述べました。国連理事会第14会期でも、女性暴力特別報告官が「女性暴力に対する賠償」報告書の中で、日本軍「慰安婦」問題に対する日本政府の賠償責任を強調しました。
 日本軍「慰安婦」問題は、今やアジアだけでなく世界の人権問題となっています。世界中で沸き起こっている声に耳にを傾け、真の解決をめざして取り組むことが、日本政府の果たすべき役割でしょう。

 今年は韓国併合100年を迎える年です。まさにこの時期に就任した菅総理が、どのようなメッセージをアジアに向けて発信するのか注目されています。1995年に「村山談話」が発表され植民地支配に対する言及がありました。しかし、「引き続き誠実に対応」するという言葉とは裏腹に、「戦後処理」はきわめて不十分な結果に留まってしまいました。今年8月には「村山談話」を超え、首相談話として戦後補償問題解決に対する積極的な発言があることを期待しています。また、次期国会で具体的な政策を提示していただけるようお願いいたします。

 日本軍「慰安婦」問題に対し、徹底した真相究明と公式謝罪、そして法的賠償を一日も早く明確に成し、一人でも多くの被害者が生きているうちに人権および名誉回復がなされなければなりません。何よりも菅新総理が継承すると誓った「東アジア共同体」を確立するためには、まず過去の歴史を清算し正しく解決しなければならないでしょう。この問題の解決は、アジアの人々との真の和解と平和につながります。

 菅新総理が、まさに草の根のように信念を曲げず強い政治を行い、日本軍「慰安婦」問題の真の解決に心血を注いでいただくようお願いいたします。

2010年6月16日

韓国挺身隊問題対策協議会(共同代表 尹美香 韓国琰)
韓国女性団体連合、全国女性連帯、韓国女性民友会、梨花民主同友会、韓国女性ホットライン連合、平和を作る女性会、韓国女子修道会長上連合会、基督女民会、KNCC(韓国基督教協会協議会)、基督教大韓メソジスト会全国女教役者会、大韓イエス教長老会全国女教役者連合会、女性教会、韓国教会女性連合会、韓国基督教長老会女信徒会全国連合会、韓国基督教長老会全国女教役者会、韓国女神学者協議会、韓国挺身隊研究所、大韓メソジスト会女宣教会全国連合会、新しい世界を開く天主教女性共同体
(翻訳:挺対協)
 2010年5月中旬~6月中旬


 5月中旬、ナヴィ・ピレイ国連人権高等弁務官が来日しました。マスコミ報道では、拉致被害者家族との面会ばかりが取りざたされていますが、ピレイ高等弁務官は日本軍「慰安婦」問題にも言及しました。
(以下国連人権高等弁務官事務所記者発表より抜粋/翻訳:戸塚悦朗さん)

 高等弁務官はまた、「慰安婦」問題について、何千と言う戦時性奴隷被害者に対して謝罪し、かつ補償し、最終的な解決を実現するよう日本政府に訴えた。「これまで中途半端な対応が多すぎたため、被害者の満足が得られてこなかった」「新政府は、この悲惨な過去を清算するだけでなく、これを地域の他の国に対して肯定的な模範を示す機会とすることができる」とピレイ高等弁務官は述べた。

 この「中途半端な対応」というのは、明確に国民基金に対して向けられたものです。ここでは国民基金に対する批判は述べませんが、実際問題として被害者が「解決していない」と主張していることを述べるだけでも十分でしょう。
 この件に関して、国際的な人権法律家であり『促進法案』の産みの親の一人でもある戸塚悦朗さんは、こう述べています。
 「人権理事会での日本政府の発言は、国際社会での公式の日本政府による声明です。国内で言えば、国会答弁と同じです。『慰安婦』問題は、東アジアだけでなく、世界の人権問題となっていることを認識する必要があるでしょう。新政府が構成されるまでの間に、官主導で既成事実が作られ、旧政権の政策をそのまま新政権も継承しているかのような印象を世界に発信しているのです。これでは、民主党中心の鳩山内閣、菅内閣の力量が問われることになるでしょう。」

***

 そして国連では5月13日から6月18日まで国連人権理事会が開催されました。
 国連の女性暴力特別報告官は報告書で日本軍「慰安婦」被害者に対して賠償がなされていないのは、女性に対して伝統的に無視を決め込む代表例と、厳しく指摘しました。特に被害者が国民基金を拒否した事に触れ、公式謝罪と国家的責任を認めない経済的な補償を望んでいないと指摘しました。
 これに対し、日本政府はこのように答弁したといいます。
(以下挺対協のアピールより抜粋/翻訳も挺対協)

 「日本軍『慰安婦』問題に対し、日本政府はすでに最大限厳格に調査を行って結果を発表し、談話を通じて多くの女性の名誉を損なったことを明らかにしてお詫びした」
 「政府と日本国民の論議により、『アジア国民基金』を設立して償い金と医療支援などを提供し、総理の手紙を送り被害者にお詫びと遺憾を表した」
 「この問題に対する道徳的責任感を認め、きちんと向き合っている」

 韓国政府が「国連女性差別撤廃委員会(CEDAW)が、最近まで日本軍『慰安婦』問題が解決されていないことを指摘しており、韓国政府は日本政府が速やかにこの問題を解決することを求める」と2度にわたり求めましたが、日本政府は「遺憾と謝罪を表した」と繰り返すだけでした。

 政権交代が行われた今も、いまだに国民基金を引き合いにして、国連に勧告を出されても応じることなく従来通りの答弁を繰り返しています。
 国連の女性暴力特別報告官が指摘するとおり、被害者が望むのは国民基金のような不十分かつ施しのようなものではなく、国家的責任認定に基づく賠償と公式謝罪です。被害者の望む解決が遂行されない以上、それは「道徳的責任感」認めたことにはならないし「謝罪」したことにもなりません。
 このような日本政府の逃げを認めさせず、なんとしてでも日本政府に真の謝罪と補償を実現させましょう。


 2010年5月16日

 5月16日、キム・ゲファハルモニが釜山市の養老病院でお亡くなりになられました。享年89歳でした。
 これで韓国政府に登録された「慰安婦」被害者は84名になりました。

 1921年に慶北・霊徳(ヨンドク)に生まれたハルモニは、17歳の1938年に日本軍「慰安婦」として中国の青島と日本の北海道の「慰安所」に連行されました。解放後は日本にとどまり、1979年に帰国しましたが、母親のお墓を訪ねただけで、家族や親戚を探そうとはせず、一人で暮らしてきました。
 58歳になるまで日本で暮らしておられたハルモニは、なぜそのお年になって帰国を決意されたのでしょうか? そして帰国された後も身寄りもなく一人で……。そのハルモニの孤独な心の傷を思うと、本当に胸が痛みます。そして私たちの責任を痛感せずにはおれません。
 数年前から膀胱癌を煩い、この3年は養老院と病院を往復する日々でした。亡くなられた後は、多くの在日同胞が眠る忠清南道天安市の「望郷の丘」に埋葬されます。

 そう遠くない日に、心のこもった謝罪の声を「望郷の丘」にお届けしたいとおもいます。必ず。


 2010年3月11日


 今年に入って4人目の訃報をお届けします。
 一体私たちはどれだけ被害者の訃報を耳にすればいいのでしょうか?
 日本政府の謝罪と補償、被害者の尊厳回復に向けた私たちの取り組みが実現しない現状の中で、被害者の訃報を受け容れなければならない現実は、本当に苦痛でしかありません。
 何としてでも一日も早い問題解決を実現させるために、日々努力していきたいと思います。決意を新たにしましょう。

 コジェに暮らしていたイ・ドスンハルモニが、3月11日に亡くなられました。9日に急性心筋梗塞で意識不明の状態のまま病院に運ばれたイ・ドスンハルモニは、死闘の末、この世を去られました。
 お葬式は市民社会団体葬として執り行われます。
 ハルモニの冥福をお祈りします。

【故イ・ドスンハルモニ略歴】

1922年 慶尚南道コジェ市で出生。
1939年 17歳で工場に就職させてやるとの言葉にだまされトンヨンから船に乗ってプサンへ行った後、汽車に乗って中国に連行され、6年間苛酷な日本軍「慰安婦」生活を強いられる。
1945年 解放直前に中国から汽車に乗ってプサンに到着。再び船に乗って故郷のコジェ島へ。
1993年 日本軍「慰安婦」被害者として申告。
2004年 水曜デモに参加し日本政府の謝罪と賠償を要求。日本軍「慰安婦」問題解決のため地域で活動する。
2009年 下半身麻痺と持病で療養病院に入院。
2010年3月11日 死去。


 2010年3月2日

 最後の日本軍「慰安婦」裁判といわれていた海南島裁判の最高裁判決が出されました。
 上告棄却――とても悔しくて残念なことですが、これでわたしたちに残された道は立法解決しかなくなりました。

 2審・東京高裁は09年3月、原告が暴力でPTSD(心的外傷後ストレス障害)などを発症していたと被害事実は認めていましたが、「賠償請求権の時効が成立した」「72年の日中共同声明により裁判で賠償を求めることはできなくなった」として請求を棄却しました。
 ここで重要なのは、裁判で被害事実そのものは認められているということです。
 この問題を認めたがらない人たちはあれこれ理屈をこねて、被害者の存在そのものを認めたがりません。しかし現実はそうではありません。これまでの裁判では、結果は敗訴かもしれませんが、「慰安婦」という制度、その被害の事実は公的に認められているのです。

 もちろん、時効や、日中共同声明や日韓条約などの2国間条約を理由に訴えを退ける司法のやりかたを、認めるわけにはいきません。
 これについて、中国外務省の秦報道官は3月5日、「『中日共同声明』は両国政府の間で結ばれた政治文書である。日本の裁判所による一方的な解釈は無効だ」と述べた上で、「慰安婦の強制連行は第二次世界大戦中に、旧日本軍が中国人民を含む侵略された国々の人々に対して行った大きな犯罪で、人類の歴史上、まれに見る人道主義への犯罪でもあり、被害者の体と心を大きく傷つけた。日本は責任感を持って、できるだけ早くこの問題を適切に処理すべきだ」と強調しました。

 時効や2国間条約が、被害者の苦しみや悲しみを超えるものであるはずがありません。なんとしてでも、謝罪と補償を現実のものとするよう、がんばりましょう!

<2審判決はこちら>


 2010年2月10日


 またしても、韓国挺対協より訃報が届いています。
 このところ報告せねばならないのが訃報ばかりというのは、本当に辛いことです。
 なくなられたハルモニのためにも、そして存命中のハルモニのためにも、なんとしてでも解決を現実のものにしなければなりません。

 イクサンに暮らしておられたイ・ジョムネハルモニが2月10日夜10時ごろに亡くなられました。

 故イ・ジョムネハルモニは、1921年にイクサンで生まれ、貧しい家の事情でインチョンに奉公に出ていたところ、1935年ごろ日本軍人によって連行され日本軍「慰安婦」という苦痛を味わいました。
 中国・シンガポールなどで辛い日々を送っているときにひどい肺病にかかり、1941年ごろやっと帰郷することができました。
 当時の軍人の殴打など慰安所生活による様々な病気で、帰国後も辛い日々を送りながらイクサンで暮らしてきました。

 ハルモニを訪問すると元気に笑う姿を見せてくれていましたが、老いのせいで気力をなくし、今週初め脳出血で倒れました。
 再び起き上がることを切に願っていましたが、昨日の夜に目を閉じられました。

 ハルモニがさみしくないよう、皆さんも冥福をお祈りください。

 ハルモニ安らかにお眠りください。


 2010年2月10日

 2月10日、岡田外相が訪韓し日韓外相会談を行うにあたり、「真実と未来・国辱100年事業共同推進委員会」と韓国挺身隊問題対策協議会が、日韓の正しい過去清算を求めるため、記者会見とソウルの日本大使館への書簡伝達を行いました。
 「日本大使館への書簡伝達」といえば、昨年9月の鳩山首相初訪韓時のことを思い出す方も多いと思います。(詳細はこちら)
 韓国挺対協は鳩山訪韓時にも同じように日本大使館への書簡伝達を行いましたが、この時日本大使館は、職員が誰も出てこず、黒塗りのガラス窓越しで対応するというとても酷い対応に終始しました。
 このことは日本でも広く伝わり、市民・女性・国会議員・地方議員など多くの方々が政府・外務省に抗議しました。今回大使館職員に面会し書簡を伝達できたのは、その抗議の成果です。
 とはいえ、入れるのは二人のみ、写真撮影・録音はお断りとの条件付きです。
 キル・ウォノクハルモニとユン・ミヒャン代表が大使館の中に入り、応接室で職員1人と対面して書簡と声明書を渡しました。
 ハルモニが一言話す時間もあり、受け取った職員はキチンと伝達すると答えたそうです。
 伝達を終えて外にでてきたキル・ウォノクハルモニは、「直接渡すことだけでもすっきりした」と感想を述べていました。

 ハルモニたちの書簡は、私たちの心も打たずにはおれません。また被害生存者87名というのは、私たちに残された時間がどれほど少ないか、思い知らされます。しかも同日夜、イ・ジョムネハルモニが亡くなられています。これで86名……本当に時間とのたたかいです。

 


日本軍「慰安婦」問題の早急な解決を求める
日本軍「慰安婦」被害生存者の公開書簡
 岡田克也 外務大臣 殿
 私たちは、日本による植民地化で日本軍人の性奴隷として、人間としては耐えられないほどの惨たらしい生活を強いられた日本軍「慰安婦」被害の生存者です。私たちは、すでに80歳から90歳中盤の高齢者で、残り時間はそう永くはありません。
 しかし、私たちは最後の一つの希望をあきらめず生きています。それは、幼い時に日本軍に踏みにじられ奪われた名誉と人権を取り戻すことです。それは、日本政府が真実を正しく明らかにし、公式謝罪と法的賠償を実現し、再び私たちのような被害者が生まれないよう再発防止措置をとることです。
 私たちは、今日の岡田外務大臣の韓国訪問と日韓外相会談の開催を、期待と希望を持って注目しています。昨年9月に新しく日本の総理になった鳩山総理大臣が韓国を訪問し、「歴史を直視する」と日韓の過去問題への解決の意志を明らかにしました。これに続く日韓外相会談では、鳩山総理の意志に対する具体的な論議がなされることだろうと信じているためです。
 また今年は韓国が日本によって強制的に主権を奪われてから100年になる年です。歴史的な意味を持つ今年は、日本軍「慰安婦」問題が解決される元年になることを心より願っています。
 私たちは、ここ日本大使館前で1992年から毎週水曜日に、日本軍「慰安婦」問題の正しい解決を求め900回を越えるデモを行ってきました。ちょうど水曜日となった外務大臣の訪韓は、私たちの胸を疼かせます。
 再度、心よりお願いします。
 鳩山連立内閣は、被害者が生きているうちに、一日も早い日本軍「慰安婦」問題を解決するための法律を制定し解決して下さい!そのためにも、岡田外務大臣が積極的に努力してくださることをお願いします!
 それこそが、再びこの地で私たちのような傷と痛みを持った被害者を生まないという、日本政府の平和と正義に向かった約束となることでしょう。
2010年2月10日
韓国の日本軍「慰安婦」被害生存者87人
キル・ウォノク、イ・スンドク、キム・スノク、カン・イルチュル、コン・ジョミョプ、クァク・イェナム、クォン・マルレ、キム・ギョンスン、キム・ギョンエ、キム・ゲファ、キム・グンジャ、キム・ダルソン、キム・ボクトン、キム・ボクトゥク、キム・ボクソン、キム・ボクソン、キム・ブニ、キム・ソニ、キム・ヤンジュ、キム・ヨニ、キム・オスン、キム・オックィ、キム・ウェハン、キム・ヨジ、キム・ユンシム、キム・ジョンブン、キム・ジュソク、キム・ファソン、パク・プニ、パク・スニム、パク・スニ、パク・オンニョン、パク・オクソン、パク・ユニョン、パク・ピルグン、ペ・ボンナム、ぺ・チュニ、ソン・ナミ、シン・サンシム、シム・ダリョン、アン・ジョムスン、ヤン・ジェスン、ウ・ヨンジェ、ユ・ヒナム、ユン・グムネ、ユン・スンマン、イ・グィニョ、イ・ギソン、イ・ギジョン、イ・ドゥスン、イ・マクタル、イ・ボクスン、イ・サンヒ、イ・ソノク、イ・スサン、イ・ヤングン、イ・オクソン、イ・オクソン、イ・ヨンニョ、イ・ヨンス、イ・ジョムネ、イ・ヒョスン、イム・ジョンスン、イム・ジョンジャ、チャン・ジョムドル、チョン・マリア、チョン・ボクス、チョン・ユノン、チン・ファスン、チェ・ガプスン、チェ・グムソン、チェ・ドンネ、チェ・ソンスン、チェ・オギ、ハ・サンスク、ハ・スイム、ハ・ジョミョン、ハム・グィラン、ファン・グムジャ、ファン・グムジュ、ファン・ソンスン、パク・ソウン、パク・チャスン、イ・スダン、ノ・スボク、ソン・シンド、キム・ドゥクソン、パク・ユソン


  2010年1月15日


 またしても韓国挺対協より訃報が届いています。
 中国在住のキム・ウィギョンハルモニです。
 異国に置き去りにされた被害者たちの苦難は生涯続きます。ナヌムの家のハルモニたちのように、故郷に帰ってこれたとしても、中国に残してきた家族と引き離されてしまうのですから。
 最後まで帰国できなかったキム・ウィギョンハルモニの無念さはどれほどだったでしょう。
 これで、やっと、魂となって故郷に帰られることでしょう。ご冥福をお祈りします。

 年末年始にかけて悲しいお知らせが続いています。
 故キム・ウィギョンハルモニの訃報をお伝えします。

 キム・ウィギョンハルモニは、中国武漢に暮らしていましが、この間連絡をしても家族がハルモニとの接触を拒否するなどで会うことができませんでした。
 亡くなったのではないかと実態調査を要請していたところ、おととい女性部からハルモニが亡くなったことが確認されたと連絡がありました。

 故キム・ウィギョンハルモニは1918年ソウル生まれ。1938年に日本軍に強制連行され約7年間中国南京などの「慰安所」で苦痛を経験させられました。
 1945年に韓国への帰国を試みましたが、思いどおりにはいかず、中国で暮らすことになりました。
 ハルモニの姿は、ピョン・ヨンジュ監督の映画『ナヌムの家』に収められています。

 キム・ウィギョンハルモニが恨はこの世に残して安らかに眠られるよう、冥福を祈ります。


  2010年1月2日 


 新年だというのに、私たちは辛いニュースで新年を迎えなければなりません。
 韓国挺対協よりまたしても悲しい便りが届きました。韓国政府に申告していた被害女性234名は、これで88名になりました。問題解決されていない現状のまま、もうこれ以上ハルモニたちの訃報には接したくはありません。
 今年こそは、なんとしてでも日本政府の謝罪と補償を実現させることを、ハルモニの死に誓いたいとおもいます。

 韓国では年末年始ものすごい寒波に覆われる中、2010年が開けました。しかし、希望あふれる知らせの前に悲報をお知らせしなければなりません。
 1月2日の朝、慶北キョンサンに暮らすキム・スナクハルモニが亡くなられました。

 キム・スナクハルモニは、1928年に慶北キョンサンで生まれ、1943年、16歳で就職させてやるとの言葉を聞き中国に連行されました。ハルピン、内モンゴルを経て中国で日本軍性奴隷としての生活を強要されました。
 1945年、キム・スナクハルモニが18歳の時に中国で解放を迎え帰国を試みましたが、1年後の46年にアムノク江を越えて北朝鮮に帰国されました。
 その後、ソウル、クンサン、ヨス、トンドゥチョンなどを転々として暮らしてきました。

 ハルモニは、2001年になって日本軍「慰安婦」被害者として申告し、その後挺対協が行う人権キャンプなどに参加もしました。
 日本での証言集会も行い日本軍「慰安婦」の実相を証言され、テグの挺身隊ハルモニとともに行動する市民の会が行う園芸治療プログラムにも続けて参加し園芸作品展示会も開催しました。

 最近、大腸がんが発見された後、手術を成功裏に終え安心していましたが、長い病苦と老衰に苦しんでいたハルモニは結局病魔に勝てず、恨多い世界から旅立たれました。

 ハルモニが寂しくないよう冥福をお祈りください。


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