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[13860] 【チラ裏から】俺と彼女の天下布武 (真剣で私に恋しなさい!+オリ主)
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:5ac98617
Date: 2011/02/07 03:00
 
 今作品は「真剣で私に恋しなさい!」の二次創作です。(旧題 第六天…魔王…?)

 内容としては非常に試験的な性格・設定のオリ主が学園内外にてドタバタするお話になります。
 コンセプトは「計算された勘違い」。こういう系統の作品が作者の好みなのですが、どうにもあまり見掛けないので自分で書いてみよう、という無謀な試みの産物です。生温かい目で見守って頂ければ。

※細かい設定、時系列等の齟齬が引っ掛かる方は気になって読み進めない可能性があります。
 尚、設定の独自解釈や登場人物の微妙な性格改変、ご都合主義的展開なども予測されます。ご注意下さい。

 描写・展開が果てしなく厨二心に満ちているのは仕様です(特に一話)。上記と併せてご注意下さい。

 ここまでの諸注意に目を通した上で、それでも読んで下さるという心の広大な方は、本文へどうぞ。お楽しみ頂ければ幸いです。




[13860] オープニング
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:5ac98617
Date: 2010/05/12 08:37

「ねートーマー。今日、ウチのクラスに転入生が来るってほんとー?」

「ええ、始業式の後に先生方がそのような内容の立ち話をされていたのを耳に挟みました。男女各一人ずつ、だそうですよ」

「おおー、ふたり。絶賛売出し中の漫才コンビとかだったらいいな。えへへ、楽しみだー」

「おいおい、あんま変な期待するなよ。HRに訪れる現実との落差にガッカリすんのがオチだ。現実はマシュマロみたいに甘くないからな」

「うるさいぞハゲー、上手いこと言ったつもりかー」

 四月七日、新年度における最初の始業式を終えた直後の川神学園2-Sクラスの教室にて、そのような会話が交わされていた。

 担任の教師がまだ姿を見せていないため、教室内は生徒たちによる遠慮のないお喋りで賑わっている。

 葵冬馬、榊原小雪、井上準による三人組もまた、その喧噪を生み出す一端を担っていた。

「けどよ、若。S組の枠はもう埋まってるんじゃなかったか?まさか二人も脱落者が出たって訳じゃねえだろうし」

 疑問の言葉を呈したのは、神々しいまでのスキンヘッドが特徴的な井上準である。
 
 川神学園の一学年は十のクラスに分かれており、S組はその中でも特殊な位置付けにあるクラスだ。

 学内において特に成績が優秀な生徒のみで構成された特別進学クラス。

 いわゆるエリート集団であり、その編入可能人数には定員が設けられているのだ。
 
「そのまさか、ですよ。近頃成績が伸び悩んでいた林田君と前田君……姿が見えないでしょう?」

 眼鏡の似合う整った顔立ちが理知的な雰囲気を醸し出す少年、葵冬馬の言葉に、準は教室を見渡す。

「ん……言われてみればそうだな。席が二つ空いてる。気付かなかったぜ」

「影が薄くて忘れられちゃったんだね、かわいそー。あははっ」

「こらこら、さらっと毒を吐くんじゃありません。で、若。あいつら、“S落ち”なのか?」

「ええ。あくまで自発的なもの、ですが。新学年になるのを切っ掛けに他の組へと移るそうですよ。確かに、彼らの成績を考慮すれば、賢明な判断と言えるかもしれませんね」

 学年総合順位が五十位以下にまで落ち込んだ生徒は、S組の在籍資格を失う。それが俗に言うS落ちである。

 今回の場合、林田と前田は学校側から資格を剥奪された訳ではないが、五十位スレスレの成績ではそれも時間の問題であると観念したのだろう。

 他者の命令で落とされるくらいなら自ら落ちる方を選ぶ。総じてプライドの高いS組生徒らしい選択だった。

「よーするにドロップアウト、人生の負け組、いぇーい♪」

「うーむ、今日はやけにキツいねえ。何か嫌なことでもあったのか?おにーさんに話してみなさいよ」

「やー。ボク、べつにイライラなんてしてないもーん。えいえい、ぺしぺし」

「人の頭で遊ぶんじゃありません!」

 日常的にエキセントリック極まりない発言と自由過ぎる行動が目立つ少女は榊原小雪。
 
 見事なまでに肌色な頭部を彼女にはたかれている準に、そんな彼らを微笑ましげな目で見守る冬馬。
 
 葵冬馬、井上準、榊原小雪の三名は、自他ともに認める仲良しグループであった。

「転入生ねぇ……ま、俺としちゃあこれ以上濃い面子が揃わないことを祈るだけだな」

「ふふ、男子であれ女子であれ、好みのタイプだと嬉しいですね。両方だと一番なのですが」

「トーマの悪いクセが出た。ボクとジュンはどうなのさー」

「二人は特別ですよ。家族、ですから」

「そうだよねー、えへへ、誰が転入してきても、トーマの家族はボクとジュンだけだもんね」

 柔らかい笑みを浮かべる冬馬に、小雪は無邪気に笑い返す。

 幼い頃から続いてきた、彼らの揺るがない関係は、ある意味では既に完成していると言ってもいい。閉ざされて、完結している。

 例え他人が、世界がどのように劇的な変化を遂げようとも、自分たちの関係が変わることだけは有り得ないと、彼らは無言の内に確信していた。


「おーい、静かにしろお前ら―。転入生を紹介するからさっさと席に座れ」

 ようやく姿を見せた中年の担任教師、宇佐美巨人のやる気の欠けた号令が教室に響く。
 
 問題児、奇人変人が多いと評判の2-Sだが、やはり基本的にはエリート集団である。規律を無視してまで雑談を優先する人間はクラスでも少数派だ。

 そういう訳で、全員が指定の席に落ち着くまでに必要とした時間は驚くほどに少なかった。この辺りは特進クラスの面目躍如と言ったところだろう。

「えー、耳の早い奴はもう知ってるかもしれんが、今回の転入生は二人だ。無理だとは思う、が……頼むから仲良くしてくれよ、お前ら」

 普段以上に精彩の欠けた担任の言葉に、S組の生徒達は一様に首を傾げた。
 
 よく見てみれば、精彩が無いのは言葉だけではない。今しがた幽霊に遭遇でもしたかのように、巨人の顔色は悪かった。

「一体何があったのじゃ、ヒゲ。新学年早々から辛気臭い面を見せおって。高貴なる此方に丁寧かつ迅速に説明するのじゃ」

 2-S総員を代表して、不死川心が無駄に居丈高な疑問の声を上げる。
 
 自身を見つめる生徒達の視線に対し、巨人はがりがりと頭を掻きながら、いかにも気だるそうな調子で答えた。

「あー。残念ながらオジサンは説明する気力が残ってないんでねぇ。という訳で、ここからは生徒同士で好きなだけ交流を深めればいいと思うぞー。それがいい、それに決まったと。んじゃ、転入生の二人、入れー」

 巨人が張り上げた声に呼応し、2-S教室の扉が廊下側から静かに開かれる。
 
 不可解な担任の態度も相まって、生徒達が抱く謎の転入生への関心はいつになく大きく膨れ上がっていた。

 好奇心に満ちた視線が集まる中、“彼ら”は教室へと足を踏み入れる。

 
 その瞬間、誰に命令された訳でもなく、教室内のざわめきは消え失せていた。

 
 無言。無音。誰一人として、言葉を発する者はいない。それどころか、呼吸すら止めている生徒が大部分だった。

 彼らを襲ったのは、自身を覆う空気が凍結したかのような、痛いほどに冷たい感覚。

 平和極まりない学校の教室に存在する事自体が不自然な、あまりにも場違いな空気。

 音を立てるな。声を上げるな。呼吸を止めろ。鼓動を止めろ。全力を以て身を隠せ。気取られた時が、最期。

 本能が身体に囁き掛けて、その動きを無理やりに縛り付ける。生き残ろうと、必死に足掻く。

 
 それが俗に“殺気”と呼ばれるものに因る現象だと気付いた者は、クラスで数人のみであった。否、数人“も”居た、と表現する方が適切か。

「ほう」

 九鬼英雄はかつて遭遇した幾多の刺客からは未だ受けた事のない程に鋭利な殺気に、しかし臆する事無く感心と関心を覚え。

「ちッ!」

 忍足あずみは忠誠を以て仕えるべき主の心身を外敵より確実に守護すべく、衣装に仕込んだ必殺の得物の数々へと密かに手を伸ばし。

「ひっ……!?」

 不死川心はその人生において初めて浴びる“本物”の殺気に中てられ、なまじその意味を理解しているが為に身も心も慄きを隠せず。

「……やれやれ」
 
 井上準は平穏無事な日常においては不要なものとして押し隠している、純粋な強者としての一面を表情に覗かせ。

「あははっ」

 榊原小雪はその異質な空気を鮮明に知覚していながらも、その精神の歪さ故にただ笑みを浮かべる。

 
 そして、葵冬馬。

 
 葵冬馬は――――ほんの少しだけ口元を歪めて、笑った。
 

 
 反応は様々ながら、その視線と関心の向かう先は一つ。沈黙の充ちた教室を悠々と闊歩し、教壇に立った転入生の姿だ。
 
 男が一人に女が一人。

 いや、少年が一人に少女が一人、そこに立っている。
 
 その外見的特徴に、さほど特筆すべき所はない。少なくとも和服を着ている訳でも帯刀している訳でもなく、見た限りにおいては至極一般的な制服を着用していた。

 双方とも日本人には一般的な黒髪を、校則に触れる事は有り得ないであろう一般的な髪型に整えている。三百六十度、どの視点から見ても目立つような要素はまるで含んでいない。
 
 ただ、幾ら容姿が普通であれ、身に纏う雰囲気が普通でなければ意味はないのだ。
 
 その観点で言えば、少女はともあれ、少年は果てしなく異常だった。
 
 “その道”を知らぬ者は彼を化物と恐れ、知る者もまた化物と畏れるだろう。
 
 ただ眼前に立たれただけ。ただその瞳に見据えられただけで、身体が石と化すなど、もはや魔物の所業でしかない。


「……初めまして、皆様。この度、ここ川神学園に転入する事となりました、森谷 蘭(もりや らん)と申します。どうかよろしくお願い致します」

 
 凍り付いた沈黙に斬り込むかの如く、まず口火を切ったのは少女だった。

 転入生らしく緊張した様子で早口に言い終えると、礼儀正しく深々と頭を下げる。

 教室に足を踏み入れた時から、常にもう一人の転入生である少年の三歩ほど後ろに陣取っているのが妙と言えば妙だが、その点を除けば至って普通の挨拶と言ってもいいだろう。

「…………………」

 だがしかし、返ってきたのは、シーン、と擬音を付けたくなるほどに完全な沈黙。

 本来ならば歓迎の意を示すために形だけでも打ち鳴らされる筈の拍手も、今回は不発だ。

「あー……えー……」

 いかにも気まずそうな表情を貼り付けながら、少女はお辞儀から顔を上げた。

 勿論、言うまでもなく2-Sの生徒達が礼儀知らずだという訳ではない。この場合、全ての原因は転入生の片割れたる少年が放つ、逃れ様の無いプレッシャーであった。

「あーもう、仕方ねぇな……。おーいお前ら、拍手拍手!そんな風に無視されたら転入生が困っちまうだろうが」

 流石に見かねたのか、いかにも面倒そうな調子で巨人が口を開くと、気付いたようにクラス中からやや事務的な拍手が鳴り響いた。

 今さらと言えば今さらなのだが、それでも何事もなかったかのようにスルーされるよりは何倍も良い。

 蘭と名乗った転入生は、あからさまに安堵したように息を吐いて、小さく笑顔を浮かべた。

「んで、お前さん。これから同じクラスになる連中なんだ、もう少しくらい友好的に接してもいいとオジサンは思うんだけどねぇ」

 溜息交じりの忠告が向かう先は、問題の少年。

 彼は黙したまま、冷め切った目で一連の遣り取りを観察していたが、巨人の言葉に初めて口を開いた。

「友好的に?俺は見ず知らずの連中の前では笑えない。そういうお目出度い性格はしていない。それだけの事だが」

 一言一言が重苦しく空気を震わす低い声音は、絶えず相手を恫喝しているような響きを伴っている。子供が聞けば一言目で泣き出すだろう。

 いい年をした中年教師たる巨人はさすがに泣き出す事はなく、額に汗を掻きながらも果敢に言葉を返す。

「オイオイ、何も笑えなんて言ってねぇって。ただ、そう刺々しい攻撃的なオーラを出さなくてもいいだろって話だ。心臓に悪いんだからやめてくれよ、ホントに……」

「刺々しい?攻撃的?……成程。そうか」

 何事か得心がいったのか、少年は軽く頷いた。

 途端、彼の全身から発せられていた殺気と威圧感が見る間に薄れていく。

 彼の登場以降、身が凍るような謎の寒気に襲われ続けていた2-Sの大半の生徒は、ここにきてようやく安堵の溜息を吐くことができた。

 そして彼らは、その立役者たる冴えない担任教師に心中にて感謝の念を贈る。

 生徒達の中ではもはや底辺に近かった宇佐美巨人の評価が一気に上昇した瞬間である。

「ふん。挨拶一つに、こうも加減が必要とはな。自然態で過ごす事も許されんか。何とも面倒な話だ」

「恐れながら主、あなた様の威に抗するなど、並みの者には絶対に為し得ぬ事。特に川神学園のレベルが低いという訳ではないと愚考する次第であります」

「そんな事は分かっている。あの川神鉄心が代表を務めている学園。自明の理だ」

「ははっ!出過ぎた事を申しました、申し訳ございません」

「良い。許す」

「はっ、寛大なる御心に感謝いたします、主」

「うむ。感謝するといい」

 ははー、と平伏しそうな勢いで頭を下げる蘭に、少年は鷹揚に頷く。

―――――また濃い連中が入ってきやがった。
 
 壇上で繰り広げられている、聴いているだけで頭の痛くなりそうな遣り取りを前に、準は呻くように呟いた。
 
 この世に変人認定試験なるものが存在するなら、あの二人は間違いなく余裕でパスするだろう。

 2-Sの総意かどうかはともかく、常識人を自任する彼の感想としてはそれが全てである。もっとも彼自身、周囲からは「濃い変人連中」の立派な構成メンバーとして認識されているという現実があるのだが、それはこの際置いておこう。

「ふむ。あの二人、我とあずみのごとく主従か。面白い!」

「……そうですね、英雄さま」

 余裕の態度で転入生に興味を向ける九鬼英雄と、先程の殺気に中てられたのか、狂犬にも似た眼のギラつきを隠し切れていない忍足あずみ。

 金ぴかスーツとメイド服を制服とし、時代錯誤にも人力車で毎朝登校するこの主従は、2-Sどころか川神学園そのものにおける「濃い連中」の筆頭である。

「あはは、またヘンな人たちが増えるよー。やったねトーマ!」

 天真爛漫、自由奔放に笑い掛ける小雪。

「声が大きいですよ、ユキ。しかし、なるほど、あの二人が……。ふふ、竜兵が言っていたこと、嘘ではなさそうですね」

 壇上の二人を見遣りつつ、涼しげな瞳の奥底に暗い炎をちらつかせる冬馬。
 
 
 場を支配していた殺気が抑えられた事で、生徒達のざわめきが再び活性化していく。


「おい転入生、つまらん茶番をしておる暇があったらさっさと自己紹介を済ませるのじゃ!HRが終わってしまうではないか。此方が典雅に過ごすための自由時間を無為に使うなどと、そんなことは許せぬわ!」

「いやー不死川。お前、意外と勇気あるね。オジサンびっくりだぜ。あとHRは自由時間じゃないからな、一応言っとくが」

 
 そんな中、普段通りの調子で壇上に野次を飛ばす心に、2-S一同は尊敬と呆れの入り混じった視線を向けた。

 つい先程までは撒き散らされる殺気に怯えて半泣きになっていた事を思えば、その立ち直りの速さと向こう見ずさは特筆すべき事項と言えるだろう。

「……」

「ひっ」

 少年がそんな心を感情の読めない目で一瞥すると、目が合った途端にびくりと肩を震わせて素早く目を逸らすのはご愛敬。

 すぐに興味を失ったのか、少年は心から無造作に視線を外し、S組の顔触れを威圧するように見渡してから、静かに口を開いた。


「俺の名は、織田信長」


 名乗りを上げてから、彼は口元に笑みを浮かべる。三日月の如く歪んだ、凄惨な笑顔。

「故あって、本日よりこの学園に籍を置く事になった」

 一度は収めていた筈の殺気と威圧感が再び解放されていた。いや、最初よりもその質量を増している。

 もはやそれらは物理的な圧力を伴って教室を押し潰そうとしていた。窓ガラスがミシミシと軋んでいるように見えるのは決して気のせいではあるまい。

「どうした、ここは笑い処だと思うが?織田信長……、笑えるだろうが、くくく。我慢などせず、存分に笑い転げるといい」


 教室は完膚無きまでに静まり返った。

 笑ってはいけない。もしここで笑ったらケツバット、どころか間違いなく殺される。人生がアウトだ。

 エリートクラスの2-S、その程度の未来予測が出来ない程に愚かな人間はいなかった。

 結果、彼らの誰一人として少年の名前には触れることなく、沈黙を選んだのであった。

 その光景をどこか不可解そうな表情で見渡して、少年―――信長は首を傾げた。

「何時もの事ではあるが……ここで笑いの一つも起きないとは、何ともはや摩訶不思議」

 若干拗ねているように見えなくもない彼の反応から鑑みるに、もしかしてもしかすると、笑って欲しかったのかもしれない。

 が、流石に死亡のリスクを冒してまで場を和ませようとする猛者はこの場にはいなかった。

「主。私めが愚考するに、皆様は主の威に打たれているものかと存じます。故に彼らには信長様の名を指して笑うなどと畏れ多い行いは到底出来ぬのでございましょう。どうかお察し下さいませ」
 
 蘭は恭しく片膝を床につけて馬鹿丁寧に告げる。2-S一同が揃って微妙な顔を作った。
 
 言っている内容自体は殆ど間違っていないのだが、何かが違う。致命的に違う。決定的にズレている。だがしかし、残念ながらそれを指摘する人間は不在であった。

「ふん、まあ良い。笑わぬなら、殺してしまえホトトギス、だ」

「いや短気過ぎるだろ!2-S皆殺しかよ!」

「間を外した。仕切り直す。……俺の名は、織田信長」

 湧き上がるツッコミ魂を抑えきれずに立ち上がった準を完膚なきまでに無視して、信長が淡々と繰り返した。

「私の名は森谷蘭。本日より2-Sの名に恥じぬよう、励ませて頂きます」

 そんな彼の三歩後ろに静かに佇んで、蘭は先程とは違う、凛とした口調で名乗りを上げる。

「自己紹介、との事だが」
 
 そして信長は、相も変わらず何を考えているのか分からない無表情で、無感動に告げた。


「俺は、眼前の障害物を排するに欠片の躊躇も無い。言っておくべき事があるとすれば、それだけだ」


 
 
 春風に桜の舞い散る四月の初め。
 
 川神学園第二学年特別進学クラス、奇人変人エリート集団2-Sは、飛び切りの奇人変人二名を転入生として迎え入れる事になる。
 
 少年が一人に少女が一人、主従が一組。織田信長と森谷蘭。
 
 彼らの転入が2-S、引いては川神学園に何をもたらすのか、現時点にてそれを知る者はいない。


「織田さんに森谷さん……、双方共にとても魅力的だ。どちらから先に口説くべきか、ふふ、これは嬉しい悲鳴ですね」

「フハハハハ、まずは委員長としてお前たちを歓迎しよう。そして我が名は九鬼英雄!我が新たな領民共よ、その輝かしき栄光の名を胸に刻むがいい!」

「織田信長に、森谷蘭……か。危険だな。英雄さまに危害が及ぶ前に始末しておくべきか……?」

「良いか、高貴な此方と同じクラスにいる以上、無様な振る舞いは許さぬ!お前達が下賤な山猿共とは違う事を期待しておくのじゃ。……ひっ、に、睨むでない」

「わー、信長だ信長だー。でも教科書に載ってる肖像画とあんまり似てない、不思議なんだー」

「待て待て待てユキそれはマズイ!あーどうもスイマセンうちの娘がご迷惑をっ!」

「おいおいお前ら、そういう交流はHRの後でな。ったく、さっきはあんなに大人しかったってのに……ままならないね、ホント」

「ふん。俺が、先刻同様に黙らせてやってもいい」

「お前のやり方はいちいち心臓に悪いからやめてくれ。オジサンはもう歳なんだよ、ちったぁ労わってくれよな」

 
 
 ただでさえ特進組らしからぬ騒がしさで満ちている教室が、益々騒がしくなるだろう。
 
 少なくともそれだけは、担任を含む2-Sクラスの全員が疑いなく予測するところであった。

 
 二〇〇九年、神奈川県川神市にて。私立川神学園の、新たな春が始まる。







 取り敢えず導入部分は終了です。うん、改めてこの部分だけ読むと実にシュールだ。色々と。
 
 この作品の主な方向性が示されてくるのはおそらくきっと次話以降になると思われますので、出来ればそこまでお付き合い頂ければ幸いです。



[13860] 一日目の邂逅
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:5ac98617
Date: 2010/05/12 08:39
 不幸自慢なんて非生産的な真似をするつもりは毛頭ないが、実際のところ俺の生い立ちはかなり悲惨で、十人に話せば十人が同情し、百人に話せば百人が憐憫の情を抱いてくれる……と思う。

 いまいち自信が持てない理由としては、今のところ誰にも語った経験がないからである。墓場まで持っていかなければならない類の物騒な内容が多々含まれている以上、そう易々と打ち明けられたものではない。

 まあ、何にしても面白い話ではないが、しかし必要な話ではある。少しだけ、退屈な自分語りに付き合って頂こう。


――――十八年と数カ月ほど昔、人口全国第九位を誇る政令指定都市、川神市にて俺は産声を上げた。

 より細かく区分すれば、川神駅の裏側に広がる、全国でも有数の歓楽街であるところの堀之外が俺の出身地だ。

 俺の主観で補足を入れるなら、全国でも有数の無法地帯。特にメインストリートの親不孝通りの治安の悪さは平和な日本国内だとは思えないほどのものである。

 そんな訳で、どうにも出身地からして碌でもなかった俺だが、家庭の方も負けてはいない。

 まず、物心が着いた頃には既に父親が見当たらなかった。俺が生まれてすぐに蒸発したらしい。母親がアルコール臭い息を吹き掛けながら、毎晩の如く愚痴っていた姿を何となく覚えている。

 俺達が寝起きしていた安アパートには写真の一枚すらも残っていなかったので、結局俺は父親の顔を知らないまま育った事になるか。まあ、仮に父親なんてものが居たところで俺の人生が変わる事などなかっただろうから、気にしても仕方のないことだ。

 それにしても、思い返せば思い返すほど、本当に碌でもない家庭だった。
 
 主な収入源が水商売だった母親も、スリと万引きで小遣いを稼いでいた俺も。親子揃って碌でなしの極みだ。
 
 だからと言って親子仲が良かったかと言うとそうではなく、むしろ最悪の部類だったと言えるだろう。
 
 母親は俺を蛇蝎のごとく忌み嫌っていたし、また恐れていた。いい歳をした大人が幼児を怖がるなどと、傍目には滑稽にしか思えないかもしれないが、俺は母親を嘲笑う気にはなれない。

 そんな風に扱われても仕方がないと思う要因が、間違いなく俺にはあったのだ。
 

 人間には様々な特徴があり、才能がある。
 
 運動の才能一つ取ってみたところで、その方向性は様々なスポーツ、武道に枝分かれしていく。

 野球の天才サッカーの天才テニスの天才マラソンの天才、剣道の天才柔道の天才弓道の天才。学問に至っては、果たしてどれほどの分野が存在するのか想像も出来ない。この世界は呆れるほどに色彩豊かな才能で満ち溢れている。
 

 ならば、生まれながらにして見る者を怯え竦ませる様な―――“威圧の天才”が生まれたとして、何の不思議があるだろうか。
 

 つまりはそういうこと。厳密に言えばその表現は正しくないのだが、細かい事は置いておこう。
 
 理屈で説明するのは難しいが、とにかく俺は、周囲を恐れさせるオーラを生まれ持った、傍目には物騒極まりない天才くんだった訳で。
 
 実際的には何の力も持たない幼少時代、虐待の憂き目に遇うのは必定だったのである。

 あの頃はよく悪魔だの化物だの、罵声と一緒に酒瓶を投げ付けられたものだ。

 クスリとアルコールにどっぷり漬かった母親による児童虐待に耐える毎日。

 いくら泣き叫んでみた所で隣人は助けてはくれないし、憎しみを込めて睨みつけても、飛んでくる酒瓶の数が増えるだけの話。

 そんな生活が続いている内に、俺の表情筋は役割を放棄するようになっていた訳だ。

 そうして幼年期の終わり頃に完成したのが、完全無欠な無表情である。

 鏡に向かって無理矢理笑顔を作ってみれば、返ってくるのは酷薄に歪んだ表情。初めて見た時、色々な意味で泣きたくなったのを覚えている。

 俺が元々持ち合わせていた才能と相まって、外見から発せられる威圧感はもはや計り知れないレベルに達していた。


 本業のヤーさんをビビらせる小学一年生の、これが誕生秘話である。


 まあ、それが俺のルーツだ。俺という人間を構成する、最も基本的なパーツ。

 それを絶対的な基盤に据えて、現在に至るまでの人生を構築してきた。

 折角、“才能”を生まれ持ったのだから、最大限に利用して生きてやろう。そんな決意に沿った生き方を常に選択してきた。

 そこに相応の苦労と苦悩があった事は間違いないが、だからと言って後悔はしていない。

 幾多の修羅場を潜る中で己の才能を研磨し、最大の武器として振るい続けること十数年。

 俺が発する威圧感は年を経るごとに増していき、意識的に抑えなければ日常生活すら困難なまでに進化している。

 更に、どのように振る舞えば相手を怯え竦ませる事が出来るのか。どのように立ち回れば己の立場を優位へと導けるのか。そういった副次的な学習もまた、ほぼ完了していた。

 ある意味において自らのスタイルを確立したと言ってもいい俺は、更なる進歩を求め、様々な思惑を胸に行動を開始する。



―――二〇〇九年四月七日。


 
 こうして俺こと織田信長は、己の三歩後ろに一人の従者を引き連れて、川神学園への転入を果たしたのであった。






「自己紹介とは罰ゲームと見つけたり」

 
 ホームルーム中、巨人のオッサン―――もとい宇佐美先生より指定された窓際の席にて、俺はブルーな気分に浸っていた。

 思い出すのはつい先ほどの自己紹介である。アレばかりは何度経験しても慣れるという事がない。表情は動かなくとも、羞恥心までが麻痺している訳ではないのだ。

 全く。碌でもない親を持つと、本当に子供は苦労させられる。主にDQNネーム的な意味で。

「心中お察し申し上げます、主」

 やるせない思考に沈んでいた俺に、背後から気遣わしげな声が掛かった。

 子供の頃に知り合って以来、ヒヨコの如くずっと俺の後ろに尾いてきた声音だ。わざわざ振り返って確認するまでもない。

 俺の真後ろの席を陣取る少女は、森谷蘭。おかっぱ頭が妙に似合う十八歳で、色々とややこしい事情があって幼い頃より俺の従者を名乗っていたりする。

 趣味は武道全般と主(俺)の護衛と言う時代錯誤な武士娘で、性格は至って生真面目。何かにつけて暴走する癖あり。

 なにぶん付き合いが長いので、こいつの事は殆ど知り尽くしていると言ってもいいのだが、こいつを表現するのにそこまで詳しい紹介は不要だろう。

 一言で言ってしまえば、変人である。

「しかし!主は、決してかの英雄の名に見劣りなどしないと私めは―――」

「おーい、そこの転入生ズ、HR中の私語は慎めよー」

「も、申し訳ございません!」

 机から身を乗り出して何事か熱く語ろうとしていた蘭は、担任教師の注意ですごすごと座席に縮こまった。

 その様子を見届けた後、何故か俺に視線を向けながら、担任教師は溜息を吐く。

「……しかし、なんでお前らが入ってくるかね、よりによって俺のクラスにさ。特進組の担任なんてただでさえプレッシャー掛かってしんどい仕事だってのに、お前らみたいな問題児まで抱える羽目になって……ツイてないぜ、ホント」

 教壇の上で疲れたように眉間を揉みほぐしながら、宇佐美巨人はぼやいた。
 
 相変わらず覇気の見受けられない態度だ。教師を請け負ったからと言って、教職者に相応しい姿を目指すつもりは特にないらしい。

 どこで会おうとこのオッサンは本当に変わらないな、と俺は半ば感心していた。例によって表情に出る事はないのだが。

「預かり知らん事だ。日頃の行いが祟ったのだろうよ」

「それをお前に言われたらおしまいだぜ、織田。俺の事務所辺りの地域でお前らがどう噂されてるか教えてやりてぇよ」

「う……。宇佐美さんには度々ご迷惑をお掛けして申し訳ございません……」

「あー……、蘭ちゃんは気にしなくていいって。あと宇佐美先生、な。ここ学校だから」

 俺と蘭との扱いの差にあからさまな贔屓が見て取れる。教育現場の歪みを垣間見た気分だ。

「教職者たる人間が女尊男卑とは感心しない。男女は平等であるべきだろう」

「うっせ、俺はフェミニストなんだよ。ま、老若男女関係なく容赦無しのお前には分からんだろーがな」

 失礼な言い分だった。俺だって老人には遠慮するし、基本的に女性に手を上げたりはしない。

 いつだったか、道路の中央でトラックに轢かれかけていた老婆を無償で助けた事もあるくらいだ。助けたと思ったら殺気に中てられて心臓発作を起こしかけていた気もするが、まあ俺の責任ではなかろう。俺は文字通り手も足も出していないのだから。
 
 兎に角、巨人の言葉は真実を指しているとは言い難いのだが、俺としてはそれを指摘するつもりはない。

 むしろ、その逆。

「ふん。確かに理解は出来んな。己以外の人間の価値など、等しく皆無だ」

「はあ……ったく、これだからな。分かっちゃいたがお前の指導には手を焼きそうだぜ。頼むから校内では騒ぎを起こさないでくれよ、責任問われるのは俺なんだからな」

「それこそ、預かり知らん事だ」

 俺はそういった誤解を、助長する。誤解の種を蒔きっぱなしになどせず、積極的に水を与えて成長させる。
 
 老若男女関係なく、容赦無し。素晴らしいではないか。そんな噂が広まってくれれば大いに結構だ。

 俺の危険性がより強く認識されればされるほど、比例して降りかかる火の粉は減る。

 事実として、これまで俺はそうやって自らの障害を排除してきたし、幸いと言うべきか、俺にはそれを成し得るに適した“才能”があった。

 出る杭は打たれるが、出過ぎた杭は打たれない。

 中途半端な危険は駆逐されるが、ある境界を踏み越え、逸脱した危険は忌避の対象と化すことだろう。俺がこれまでの居場所で悉くそう扱われてきたのと同様に。

 この川神学園において俺が目指すべき当面の立ち位置はそこだ。対外的な俺のキャラ作りもまた、その目標への一手である。

「おや。宇佐美先生、あなたはもしかして転入生のお二人と面識があるのですか?」

 これまで俺達の会話に耳を澄ませていた2-Sの生徒の、その一人が疑問の声を上げた。

 浅黒い肌に甘いマスク。線の細い、いかにも女受けしそうな容貌の男子生徒である。

 先刻の自己紹介において、俺の威圧にもほとんど動じていなかったのは記憶に新しい。要注意人物に認定しておこう。

「俺が街で代行業やってるのは知ってるだろ。この二人には偶に仕事の手伝いを依頼する事があるからな、そういう繋がりだよ」

「なるほど、そういうことですか」

 男子生徒は納得したように頷いてみせると、次いでこちらに視線を向けてきた。何やら意味深な目付きである。

 良く分からないが、取り敢えずいつもの習慣で殺気を込めて睨み返しておく。何故か微笑みを返された。意味不明であった。

「えー、S組は基本ほとんど面子が変わらねぇからいまいち実感が無いかもしれんが、お前らは今日から二年生だ。高校生活三年間の中間地点っつーことで色々と弛みがちな時期だが、サボらず無理せず適当にやるように。んじゃ、今日のHRはこれで終了。気を付けて帰れよお前ら」

 締めの言葉を終え、巨人が教室から立ち去ると、途端に2-S教室には賑やかな声が飛び交い始めた。

 俺と蘭が前にいた学校ではHR中だろうと授業中だろうとお構いなしに私語が飛び交っていたので、こういうキッチリした空気の切り替えは新鮮だ。

 さすがは特進組だけあって、見事に優等生の集団である。そういえば、今日から俺もその一員に加わるのか。……どう考えても場違いだな。
 
 当分の間は過ごす事になるであろうクラスの様子を眺めながら、ぼんやりと思索に耽る。
 
 HRが終わっても俺に話しかけてくる生徒はいない。

 転入生というものは大抵囲まれて質問攻めにされるのがセオリーというものだが、流石に現在進行形で周囲を威圧している俺に声を掛けてくる人間は皆無だった。

 好奇心自体は刺激されるのか、遠巻きにチラチラとこちらを窺っている連中はそれなりにいる様子なのだが、やはり接触を試みるまではいかない。先程からこちらを盗み見て、視線が合った途端に慌てて逸らす和服の少女とか。

 ……なぜ和服なのか、というツッコミは無意味な気がするのでやめておこう。もう帰ったようだが、この2-Sには金ぴかスーツとメイド服を着た男女という、もはや理解を超越した生徒もいる訳だし。恐らくは気にしたら負けなのだろう。

 それはともかくとして。

 俺に対する生徒達の反応は、それでいい。むしろ、そうでなくてはいけない。

 確固たる地位を保つために、「織田信長」は何時でも最凶の存在であるべきなのだ。

 下手に気安く声を掛けられて、舐められては困る。


「……ん?」

「やー」

 
 困るのだが、気付いた時には少女が一人、俺の机の前に立っていた。均整のとれた理想のプロポーションを所有する、文句無しの美少女である。
 
 どこかで見た顔だな、と記憶を遡って、例の自己紹介の際に場違いな笑顔を浮かべていた少女を思い出す。眼前でふらふらしている少女の顔と照合。合致。

 そう言えば自己紹介の後、勇敢にも俺の名前をネタにしていた少女が居たような気もする。小首を傾げてこちらを観察している少女の顔と照合。合致。
 
 まあどうせ間違いなく変人なんだろうな、と半ば確信しつつ、取り敢えず殺気を込めて睨みつけておく。
 
 何故か無邪気な笑顔を返された。
 
 本当に何故だ。幾ら紛い物だとは言え、これほどまでに濃密な殺意、まさか気付いていない訳でもないだろうに。

「ボクはね~、榊原小雪って言うのさー。ノブナガはましゅまろ好き?」

 何処からともなくマシュマロの詰まった袋を取り出す謎の少女、小雪。第一印象は不思議ちゃんで決定。

「嫌いではない。そして信長はやめろ。せめて名字の方で呼べ」

「え~。どうして?ボクはノブナガって呼びたいのにー」

「……ふん。まあ良い。所詮は些末事。勝手にするがいい」

 実際のところ、フルネームで呼ばれさえしなければ大した精神的ダメージはないので、さほど拘るところではなかった。
 
 それに、俺の勘気に触れる事を恐れず、堂々と名前で呼ぶ事ができる人間は非常に数少ない。

 そういう希少な連中くらいには名前で呼ぶ程度の権利は与えてやってもいいだろう。

「うわ~い。お礼にマシュマロをあげようー」

「うむ。苦しゅうない」

 それにしても、俺に対して初対面でここまで馴れ馴れしい態度を取ってきた奴はそうはいないだろうな、と口にマシュマロを放り込みながら思考する。

 常人の神経ならば視界に入る事すらも憚られる、と専らの評判であるところの織田信長なのだが。

 ましてや初対面である。この榊原小雪という少女、些か頭のネジが飛んでいるのだろうか。そう考えれば数々の奇行にも納得がいくのだが、さて。

「おいしい?」

「なかなか。悪くない」

「えっへへん、だったら特別にもう一つ進呈しちゃおうかなぁ。ノブナガ、あーん」
 
 天真爛漫な笑顔で何という無茶振りを。俺のキャラ作り的な意味で論外なのは言うまでもなく、まず素の俺でも難易度が高いぞそれは。
 
 当然の如く、選択肢は拒否以外にあり得ない。

 そう瞬時に判断して、その判断を具体的な形で実行に移そうとした時、俺と小雪の間に凄まじい勢いで何者かが割り込んだ。

「わー、なになにー?」

「ふふ不埒なっ!曲者めっ!不埒な曲者めッ!!ハァハァ、この私がいる限り主に、ハァ、ハァ、て、手は出させませんよ!」

「蘭。どちらかと言えばお前が曲者に見える」

 果たしてどこからダッシュしてきたのかは判らないが、取り敢えず喋る前に息を整えて欲しい。どことなく身の危険を感じる。

「ノブナガー。この子ハァハァ言ってるよ、ヘンタイさんかなー?」

 どうやら小雪の感想も同じらしかった。好き勝手言われている間に息を整えて、蘭が興奮気味に口を開く。

「私が厠へ赴いている隙を狙うとは何とも卑怯千万!あ、あ、主にあーんする権利があるのは私だけです!」

「そんな権利を与えた記憶はない」

「……ハッ!私は何を口走って」

 暴走状態に陥っていた蘭は、俺の言葉でようやく我に返ったらしい。赤くしたり青くしたり、顔色を面白い程に忙しなく変色させる。

 俺にとってはもはや見慣れた光景だが、初めて見るであろう小雪は「おー」と感嘆の声を上げていた。

「信長様、蘭は武者修行の旅に出ます!探さないでくださいっ!」

 次いで脱兎の如き勢いで教室から飛び出していくのも、予測済み。
 
 2-S生徒の大半は呆気に取られた様子で、そんな蘭の姿を目で追いかけていた。
 
 やれやれ、転入初日にして変人認定を受ける羽目になるとは……哀れな奴だ。

 もっともあいつの清々しいまでの変人っぷりは、過去に知り合った連中の誰もが認めるところなので、遅かれ早かれ同じ結果にはなっていたのだろうが。

 経験上、しばらくすれば勝手に帰ってくるので、放っておくとしよう。いちいち構っていたらキリが無い。

「あははー。やっぱりヘンな人だ」

「否定はしない。お前にそれを言う資格があるかは甚だ疑問だが」

 榊原小雪、こいつも相当な変人だ。或いは蘭の言う通り―――曲者なのかもしれない。
 
 俺が放つ殺気を欠片の動揺も見せずに受け止める。その事実が指し示す意味は、そうそう軽いものではない。
 
 念のため脳内の要注意人物リストに加えておくとしよう。常に用心を怠るべからず、だ。

「あー、ユキ、やっぱまだあの物騒な転入生と一緒にいたか。……仕方ない、俺も男だ。腹を括るとするぜ」

「はは。大袈裟ですね、準は。そう構えなくても大丈夫ですよ」

「いやー、若。アレは相当やばいぜ、正直。とても同じ人間とは思えねぇ。敵に回すのだけは勘弁だな」

「あれほど強い準をしてそこまで言わしめるとは、驚きですね。俄然、彼に興味が湧いてきました」

「やれやれ、若の悪い癖が出ちまったか。藪蛇だったぜチクショウ」

 何かしらのやり取りを交わしながら、人混みと座席の間を縫って、俺の机に向ってくる男が二人。

 先程要注意人物認定したばかりの色黒眼鏡と、いっそ清々しいまでにスキンヘッドな男子生徒。俺の殺気に感付いていたという点で共通している二人だ。

 どう考えても彼らの進路はこちらに向いているので、挨拶代わりに取り敢えず殺気を飛ばしておく。俺と二人との間にいる生徒達がビクリと震えた。

「あれー、ジュンもトーマもどこいってたのさ~。ひとり残されたボクの気持ちを考えたことあるのかー、ウサギは寂しいと死んじゃうんだよ?」

「ハイハイ済みませんね。ちと野暮用を片付けてきたんだよ。んでお詫びにお土産を持って来たから、それで我慢しときなさい」

 俺の机の前まで到着すると、慣れた調子で小雪をあしらいながら、スキンヘッドの男子生徒は右手に提げていたビニール袋を高々と持ち上げて見せる。

 今しがた購買部にでも行ってきたのか、中には菓子パンを含む結構な量の菓子類が入っていた。そのラインナップにマシュマロの姿を発見して、小雪はみるみる内に上機嫌になった。よほど好きなのだろう。
 
「アンタも好きなのを食べるといい。俺達からのささやかな歓迎の印ってトコだ。ま、ここは一つ遠慮なく」

 スキンヘッドの男子生徒は袋から適当に幾つかのスナック菓子を取り出し、机に並べながら言った。

 小雪が幸せそうにマシュマロを頬張る様子を横目で見ながら、俺はそれらに手を伸ばす。

「あー、自己紹介がまだだったな。俺は井上準。趣味は子供と遊ぶ事だ。よろしく頼むぜ」

「私は葵冬馬。ふふ、この出逢いには運命的なものを感じます。末長くよろしくお願いしますね」

「井上準。葵冬馬。……確かに、覚えた」

 スキンヘッドが井上準、イケメン眼鏡が葵冬馬。双方共に外見に個性が溢れているので、間違っても忘れる事はあるまい。

「えー、それで、アンタの事は、その、どう呼べばいいんだ?」

 微妙に言い辛そうな調子で切り出す準。俺の笑うに笑えないDQNネームを気遣っているのだろう。まともな配慮が出来る人間のようだ。少し好印象。

「任せる。フルネームでなければ特に拘るつもりはない」

「ちなみにボクはねー、ノブナガって呼ぶことに決めたよー。ぱくぱく」

 マシュマロを摘む手を数秒だけ休めて、小雪がおもむろに告げる。

「それでは私もそうさせて頂くとしましょう。よろしいですか?」

「……俺は既に任せる、と言った。繰り返させるのは感心しない」

「はは。これは失礼しました。許してください、“信長”」

「やっぱおっかねぇなオイ……。まあ、これからは同じクラスでやっていくんだ。どうせなら楽しくやろうぜ?」

 言葉と視線に込められた強烈な威圧に動じる様子もなく、冬馬と準は飄々とした調子で受け流してくる。

 ……参ったな。どうにも調子が狂う。

 小雪も含め、彼らの態度や立ち居振る舞いからは、俺に対する恐れというものがまるで感じ取れないのだ。

 決して鈍感な訳ではなく。俺の威圧に気付いていながら、ほとんど意に介していない。

 もっとも、準が俺に向ける目からは多少の警戒心が伺えるが、それとてそこまで本格的なものではなかった。

 自分達の実力に絶対的な自信があるのか、或いは何かしら別の要因が働いているのか。その辺りはまだ分からないが、珍しいケースである事は間違いない。
 
 それにしても転入早々、こうも異質な連中に次々と遭遇するとは流石に想定の外である。俺は私立川神学園というロケーションを少々甘く見ていたのかもしれない。

「そういえば、気になっていたのですが。もう一人の転入生、森谷蘭さんとあなたとは、一体どういった関係なんですか?」

「ああ、それは俺も気になってたな。同時にウチに入ってきたのも偶然じゃないだろ」

「……ふむ」

 冬馬と準の言葉を受けて、俺は考える。

 関係。俺と蘭の関係、ね。難しい質問なのか、どうなのか。
 
 幼馴染、友人、共犯者。

 脳裏にフラッシュバックする記憶と共に、様々な単語が頭を過ったが、それでも結局のところ、最適な表現は初めから決定している訳で。

「主従だ。何年も昔からの。転入前の高校も同じだった」

「主従、ですか。なるほど、英雄とあずみさんをイメージすれば分かり易いですね」

「あのイロモノを主従の代表例にしちまうのはどうかと思うがね、俺は」

「どっちも同じくらいイロモノってことだね~」

「本人の前で危ない発言は禁止!」

 正直、イロモノにイロモノ扱いされたところで特に何も思わないのだが。

 そういえば、だ。話題に上がった事で思い出したが、出奔してからの経過時間を考えればそろそろ蘭が戻って来てもおかしくない――――などと思っている内に、ドタドタと慌ただしい音を立てて周囲の注目を集めながら、2-S教室に駆け込んでくる人影が一つ。

「不肖森谷蘭!只今武者修行の旅より帰還致しました!」

「おー。へんじん が あらわれた!」

 俺の目の前で急ブレーキを掛けて立ち止まると、蘭はそのまま片膝を付いて元気な声を上げる。

「うむ。修行の成果を報告しろ」

「基礎体力の上昇、体脂肪率の低下等、有意義な修行でございました!尚、購買にて昼食を購入して参りました、どうぞお召し上がりください」

「カツサンドにカフェオレ、か。なかなか、悪くない選択。褒めてつかわす」

「ははーっ、勿体なきお言葉、感謝致します!」

 全く、我ながらいいパシリ―――もとい従者を持ったものだ。蘭が恭しく差し出したカツサンドを受け取り、ぱくつきながら、しみじみと思う。

 蘭は紛うことなき変人ではあるが、付き合いが長い分、俺の好みを誰よりも細かく把握しているため、パシリもとい従者としては手放せない人材だ。
 
 緊張に固まりながら冬馬達と挨拶を交わしている蘭の様子を生暖かく見守りながら、俺はぼんやりとそんな事を思考する。

 そして、数分後。俺がカツサンドの最後の一切れを咀嚼している時、蘭が声を掛けてきた。

「主、主。皆様方が、校内の案内を引き受けて下さると仰っておられますが。如何致しましょう」

 まずは口の中に残っているカツサンドを冷たいカフェオレで胃袋へ流し込んでから、俺は冬馬の顔に視線を向ける。眼鏡越しに覗く涼しげな瞳と目が合った。

「俺を連れ歩こうとは。つくづく物好きな連中だな」

 これは本心からの台詞だった。そういう類の誘いを俺に、それも初対面で掛けてくる人間は初めてだったのだ。

「はは、昔からよく言われますよ。ですが実際、学園の勝手を理解しておくに越した事はありません。私が教えて差しあげましょう。手取り足取り……ね。ふふふ」

「言い方はちっと怪しいが、若の案内は見事なもんだぜ。川神学園の内部事情まで丸分かりだ」

「主、情報収集は戦の常道。いずれ川神学園に覇を唱えるための第一歩として必要なものであると存じます」

「ふん。言われるまでもなく、承知している。障害と成り得るモノをここで把握しておくのも悪くはない。必要とあれば直ぐに滅せるようにな。くく」

 俺は小さく笑いながら、つまり対外的には冷酷非情な嗤いを浮かべながら言った。

 転入前にある程度の情報は仕入れているが、やはり現地での調査に及ぶものはあるまい。

 勿論俺は、蘭の妄想通りに学園支配を目論んでいる訳ではない。

 が、自己紹介の際に宣言した通り、あくまで自分が居心地良く過ごすために邪魔となるものは遠慮なく潰していくつもりである。

 最初に学園内の勢力図をしっかり頭に描いておけば、色々と行動を起こしやすくなるだろう。

「決まりですね。それでは、早速行きましょうか。まずはB棟の案内からですね」

「さりげなく物騒なこと言ってると思うんだが、流すのな……。まあ、気にしてても仕方ねぇか。ほらユキ、行くぞ」

「お?おー、みんなで校内探検に出発進行だー」

 そんなこんなで妙な三人組に連れられ、転入一日目を校内見学で過ごした俺と蘭。

 行く先々で生徒と教員諸君に思いっきり怯えられたのは、まあ予想していたしいつも通りの事でもあるので、もはや気にするまでもない。

 何とも平和な一日。叶うことなら、このまま何事も起こらない平穏な学園生活を送りたいものだ。

 校門前にて三人組と別れ、蘭を引き連れて自宅へ続く道を歩きながら、俺はぼんやりと期待を抱いていた。

 だがしかし。こういう場合の俺の望みは往々にして叶わない。現実が非情なものだというのは、遥か昔からのお約束なのだ。


――――俺がその事をまざまざと思い知らされる羽目になったのは、翌日の事である。



『全校生徒の皆さんにお知らせです。只今より第一グラウンドで決闘が行われます。見学希望者は第一グラウンドに集合しましょう』

 
 嗚呼、やはり素直に前の高校で番長を続けておくべきだったかもしれない。

 
 無慈悲な校内放送が響く2-S教室にて。

 
 抜き身の刃の如き正真正銘の殺意を剥き出しにこちらを睨みつける、やけにおっかないクラスメートのメイドさんを目の前にして、俺は早くもこの学校に転入した事を後悔し始めていたのだった。

 


 


 次回では、いよいよ主人公の実力(笑)が明かされる予定です。お楽しみに。更新は近々。




[13860] 二日目の決闘、前編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:5ac98617
Date: 2011/02/10 17:41
 四月八日。目覚まし時計のけたたましいアラーム音にせっつかれ、午前六時十分、ほぼ日の出と同時に起床。

 天井に向かって背伸びをしつつ、ベッドの横にあるテーブルの上に目を遣れば、そこには焼き上がったばかりのトースト及び目玉焼きが温かい湯気を立てている。

 俺の起床時間を完全に計算し尽くして、冷めないようギリギリの時間に朝食を用意する―――もはや匠の技とも言えるその完璧なまでの気配りは、間違っても完璧とは呼んでやれない我が従者、森谷蘭によるものだ。

 あいつは毎朝、鍛練のために俺の一時間以上前には活動を開始する。

 せっかく起きている以上、主の朝食を用意するのは従者として当然の務めです、とは蘭の台詞である。なんともまあ涙ぐましいまでの忠誠心だ。


「御馳走様、だ」


 そんな忠誠心の結晶を低脂肪牛乳でさっさと胃袋に流し込んで、手早く運動着に着替えると、俺は部屋の外へと足を踏み出した。

 老朽化が激しいアパートのギシギシ軋む階段を慎重に降りて、中庭へ。


「お早う御座います、主!主の臣下として恥じぬ己となるべく、蘭は本日も鍛練に励んでおります!」

「良い心掛けだ。励め」

「ははーっ!有難き幸せにございます!」


 尻尾の代わりに鍛練用の木刀をぶんぶんと振って喜びを表現する蘭。朝っぱらからテンションの高い従者である。
 
 俺とその忠実なる従者、森谷蘭は、堀之外の片隅にひっそりと佇むボロアパートに居を構えている。

 いかに主従であるとはいえ年頃の男女が一つ屋根の下で暮らすのは色々と問題があるので、流石に部屋は別だ。

 基本的な常識やら何やらに欠ける蘭は相部屋を希望していたし、そうした方が経済的に助かるのもまた事実なのだが、部屋の面積の関係上ベッドが二つ以上は入らない現実を考慮すれば、それは却下せざるを得なかった。

 あくまで俺は健全な男子高校生なのである。到底理性なんて曖昧で惰弱極まりないものを信頼できる年齢ではない。
 
 結局のところ、蘭が俺の隣の部屋に陣取ることでひとまず話は落ち着いたのだが。

 それ以降、朝食の用意を含め、掃除洗濯等の家事も蘭が一手に担っている。

 ここまでされると俺としても罪悪感を覚えたり覚えなかったりするのだが、まあ本人が喜んでやっているのだ。黙って世話を焼かれるのが主たる俺の役割だろう、と開き直ってみる。

 俺の住居に関しては、まあそんな感じだ。貧しいながらも、不幸ではない。少なくとも昔の俺には、とても考えられない状況だった。


「さて。時間が惜しい。始めねば」


 一心不乱に木刀の素振りを続ける蘭の横で、俺は適当に身体を動かし始める。

 見ての通り、俺がこうして中庭に降りてきたのは、早朝より鍛練に励む勤勉な従者に檄を飛ばすため―――では勿論なく、俺自身の鍛練のためである。
 
 織田信長の最大の武器はあくまで、見せ掛けの威風と紛い物の殺気による威圧だが、しかし身体を鍛えておいて損をする事はない。

 さすがに片手間程度の鍛錬で蘭のような人外レベルまで成長するのは不可能としても、ある程度の身体能力は必要だろう。

 何せ世界は広いのだ。俺の遭遇する“敵”が、口先と威圧だけで屈伏してくれる相手ばかりとは限らない。

 そういう訳で、一日一時間のトレーニングは俺の日課に組み込まれているのだ。

 そんな自分の心掛けに感謝する瞬間が刻一刻と近付いている事を知る由もなく、俺はいつもと同様に軽く汗を流す程度の鍛練を続けるのであった。


「それでは主、参りましょう。転入早々遅刻などしては、信長様の名に傷が付いてしまいます」

「承知している。往くぞ、蘭」

「ははーっ!私めはどこまでもお供致します!」


 午後七時三十分、蘭に二人分の鞄を持たせて登校開始。

 俺達の住む堀之外から川神学園まではやや距離があるが、徒歩通学が不可能なほどではない。時間に余裕がある限り、俺も蘭も自転車は使わないつもりでいた。

 爺臭いと言われるかもしれないが、事実として朝の散歩は健康維持に貢献してくれるのだ。

 のんびりと周囲を睥睨し、通行人(主に学生)を脅かしながら歩いて行けば、やがて川神学園の正門が姿を現す。

 
――――さて、ここからが本番だ。気合を入れていくとしよう。


 身に纏う威圧感のレベルを校内用のものに切り替えてから、俺は門の内側へと足を踏み入れた。


 
 昨日のスケジュールは始業式とホームルームのみだったので、川神学園にて授業を受けるのは今日が初めてとなる。
 
 そして、ここで驚くべき発見が一つ。

 何と2-Sクラスでは授業中、誰一人、何一つとして私語をしないのだ。居眠りをしている生徒も皆無で、全員が真剣な様子で教師の話に耳を傾け、黙々とノートを取っている。

 新学期が始まったばかりのこの期間、気が緩んでもおかしくはなさそうなものだが……その辺りは流石に特進組と言ったところか。素直に感心した。

 ちなみに授業内容自体は俺にとってはさほど難しいものではなく、真面目に取り組んでさえいれば問題なくついていけそうなレベルだった。

 意外に思われるかもしれないが、俺も蘭も勉強にはそれなりに自信がある。もっとも、そうでもなければ初めからS組の編入試験をパスできる筈もないのだが。
 
 今まで堀之外の底辺私立校で一年を過ごし、まともな授業とは欠片も縁のなかった俺と蘭。

 そんな俺達がいきなりエリート集団の特進組に混じってやっていけるのかと不安に思う事もあったが、この分だと案外どうにかなりそうだ。

 底辺校における学年一位という微妙過ぎる地位に甘んじず、独学で勉強を続けていた甲斐があったというものである。

 そうこうしている内に時間は過ぎて、四限の終了を知らせるチャイムが鳴り響く。それは校内全ての人間に等しく憩いをもたらす時間、即ち昼休みの到来を意味していた。

 早速、弁当(蘭が朝一で用意した)を鞄から取り出そうとしていた俺に、ふらふらと近寄ってくる人影が一つ。

「やー」

「……またお前か。何の用だ、榊原」

「榊原じゃなくてー、ユキだよーん。名字で呼ばないでって言ったのに、ひどいんだ~」

 予想通りというか何というか、榊原小雪であった。俺に声を掛けるような物好きな人間は限られているので、特定は容易である。

 ちなみに昨日は学校案内でそれなりに行動を共にしたこの少女だが、未だにまるで性格が掴めなかった。

 今こうして言葉を交わしてみても、何を考えているのか判然としない。

 彼女について理解できる事があるとすれば、電波ゆんゆんな不思議ちゃんであると言う事と、マシュマロが大好物であると言う二点のみだ。

 もっとも、前者については初対面の時点で直感的に分かっていたことなので、彼女との接触で俺が得た具体的な知識など、実質的には好物くらいのものだろう。

「おー。この弁当からはものっそいおいしそうな匂いがするよ~」

 小雪は机の上に広げられた俺の弁当箱を、じろじろと覗き込みながら言った。

「よーし、食べちゃえ。ひょいぱく」

「ああああ!?」

 可愛らしいタコさんウィンナーを小雪がおもむろに摘み上げ、口に放り込んだ瞬間、悲鳴のような声が上がった。

 勿論言うまでもないが、俺が発したものではない。発生源は後ろの席に陣取る我が従者、森谷蘭である。

「わ、私が主の為に丹精込めて作ったお弁当になんて事を!そのタコさんウィンナーにどれほどの気持ちが込められているか、貴女に想像が」

「こっちもおいしそ~。ひょいぱく」

「ああっ!主の健康を祈りながら握った梅干しおにぎりがぁっ!お、おのれ榊原小雪、これ以上の狼藉は見過ごせませんよ!」

 がたん、と音を立てて椅子から立ち上がり、ぷんすか怒りながら小雪に詰め寄る蘭。
 
 蘭は基本的に温和で礼儀正しく、人当たりも良い常識的な人間なのだが、少しでも俺の事が絡むと頭が瞬間沸騰するから困りものだ。

 ぎゃーぎゃーと喧しく言い争う二人(蘭が振り回されているだけだが)の様子を完全に他人事として見物しながら弁当を食していると、見知った顔が近付いてきた。

「あー、どうもユキが迷惑掛けてるみたいだな。悪気はねぇと思うから許してやってくれ」

「ふん。俺はそもそも怒ってなどいない。莫迦な従者が勝手に暴走しているだけの話」

「そう言ってくれると気が楽になるね、マジで。やれやれ、ちっとばっかし自由過ぎるんだよな、ユキは」

 そう言うと、井上準はいかにも苦労人と呼ぶに相応しい表情で溜息を吐いた。
 
 実態がまるで掴めそうにもない小雪とは違って、準の方は割と分かり易い性格をしていると思う。

 面倒見が良く細かい気配りができる常識人で、2-Sにおけるポジションとしては貴重なツッコミ役。

 必然的に奇人変人連中に全力で振り回される事になる、実に気の毒な立場である。

「しかし。榊原小雪ほどではなくとも、お前も度し難い奴だな。わざわざ自分から俺に近寄ってくるとは。お前は俺を警戒していただろう」

「あー、まあな。俺としてはあんたの事は正直おっかねぇと思うが、余計な真似をしてくる相手以外にまでわざわざ危害を加えたりはしない――俺の見た感じ、あんたはそういうタイプの人間だと思うんだよな。見当違いなこと言ってたらスマンね」

「……」

 何も言わず何も表情に出さなかったが、内心で俺はかなり感心していた。

 たった一日の付き合いで、本当に良く見ている。

 無表情と殺気に惑わされ、何年掛けても俺の実態を掴めず右往左往する人間など掃いて捨てるほど居ると言うのに、この男はどうだろう。

 昼行燈然とした普段の態度には似つかわしくない慧眼。一見しては判らない“何か”を隠し持っているような、そんな気がした。

「ふん。見当違いとは言わん。が、的外れではあるな。俺は向こうから仕掛けて来ようが来まいが関係なく、視界に入った障害物は悉く排除せねば気が済まん。そんな人間だ」

「あー。そういや自己紹介の時に言ってたな、そんなこと」

「お前が真実、葵冬馬と榊原小雪を守護したいと願うなら。精々、俺にとっての障害とならんよう振舞う事だな。井上準」

「……御忠告、感謝するぜ。肝に銘じておく」

 シリアスな表情を見せたのは一瞬。準は肩を竦めて、飄々と言葉を返した。
 
 これだけ釘を差しておけば、少なくとも準本人は俺に妙な真似を仕掛けようなどとは考えないだろう。あわよくば、他の好戦的な連中が俺に対して行動を起こそうとした際、そのストッパーになってくれれば御の字である。

「ところで。葵冬馬は如何した?見当たらないが」

「若なら今頃、英雄の奴と一緒に2-Fに行ってる筈だな。野暮用でね」

「英雄?」

「九鬼英雄。うちのクラスに金ぴかのスーツを着てるやけに偉そうな奴、いるだろ?あいつだよ」

「ああ。アレが九鬼財閥の御曹司とやらか」
 
 九鬼英雄。

 従者たる蘭を筆頭に、俺も結構な数の変人と接してきた自信があるが、あそこまで突き抜けたレベルの変人には未だかつてお目に掛かった事はない。

 没個性が推奨される現代日本において、あのような人材が存在している事に奇跡を感じる程だ。

 叶うならば金輪際お近付きにはなりたくないものである。天然記念物とは遠巻きに鑑賞するものであって、決して触れ合うべき存在ではないのだ。

 しばらく準と適当に会話を交わしながら弁当を消化していた俺だが、ガラリと戸が乱暴に開けられる音に、注意を教室の入り口に向ける。


「あーあ……ったく、やれやれだ。一子殿一子殿と、英雄さまもあんな色気の無い小娘のどこがいいのか」

 
 えらく不機嫌そうに毒づきながら教室に入ってきたのは、メイド服を着込んだ目付きの悪い女。

 俺の記憶が正しければ、先程話題に上がった九鬼英雄の従者の筈だ。

 自己紹介の際に俺が出した殺気にほとんど動じなかったどころか、逆に威圧を返してきたので印象に残っている。名前は確か、忍足あずみ、だったか。

「げっ。英雄はまだ2-Fに残ってんのか。まずい、という事は……」

「……あ?何見てんだハゲ。あたいは今、猛烈に虫の居所が悪いんだ。もしかすると、何か食ったら収まるかも知れねぇなー。って訳だ、タマすり潰されたくなかったらさっさと焼きそばパン買ってこいや」

「あぁー、はいはい行くよ行きますよ……。で、あのー、代金は」

「ツケとけハゲ」
 
 ドスの効いた低い声に、猛獣の如くギラついた目。明らかに素人ではなかった。準の腰がこれでもかと言う程に引けているのもまあ無理はない。
 
 天下の九鬼財閥御曹司付きのメイドともなれば、やはり特殊訓練でも受けた精鋭にしか務まらないものなのだろうか。

 そんな呑気な思考を行いながら問題のメイドを観察していると、唐突にその視線が俺を捉えた。猛烈に嫌な予感がしたが、時既に遅し。

 俺が何かしら行動を起こすよりも先に、忍足あずみは窓際に位置する俺の席まで一直線に歩み寄っていた。


「おい、てめぇ。――てめぇだよ、転入生。聞こえてんのなら返事しろボケ」


「……。食事の邪魔だ、用件があるなら手早く済ませるがいい。時間を無駄に使わせるな」


 流石に机の正面に立たれてしまっては無視する訳にもいかず、渋々ながら俺は口を開いた。

 普通に考えれば喧嘩を売られているとしか思えないであろう俺の態度に、案の定あずみは怒りのあまりか頬を引き攣らせる。

 座っている俺を見下ろすように睨み据える彼女の目には、紛れもなく本物の殺気が込められていた。

 幼い頃から幾多もの修羅場を潜り続けてきた俺だからこそ、分かる。


 これは一線を踏み越えた輩の気配。――殺人者の眼だ。


 それも、恐らくは一人二人どころではないだろう。今に至るまでどれほどの地獄を潜ってきたのか、想像も出来ない。そんなレベルの存在であった。


「……ふん」


 だがしかし。織田信長の威信を守る為には、ここで退く訳にはいかないのだ。

 ほぼ初対面であるはずの彼女が何故いきなり敵意剥き出しで突っ掛かって来るのかは知らないが、事情の詮索など所詮は二の次である。

 挨拶には挨拶を。殺意には殺意を返すのが、礼儀というものだろう。

 俺もまた彼女に視線を向けると、練り上げた殺気を容赦なく叩きつける。視線が交錯し、殺気と殺気が衝突し、俺達の周囲の温度が急速に下がっていく。

 俺達のすぐ傍で巻き込まれた準は、あずみとはまた違った意味で頬を引き攣らせていた。

 いつの間にか、水を打ったように教室中が静まり返っており、生徒達は固唾を飲みながら状況を見守っている。

「…………」

 そんな中、蘭が静かに席を立ち、無言のままに俺とあずみとの間に割り込む―――その寸前に、俺は蘭にアイコンタクトを送った。

 手出し無用、という意味である。蘭は僅かに眉をひそめて、いつもの如く俺の三歩後ろに控える。

「何用か、と訊いている。用が無いなら早々に失せろ」

「用事ならあるさ。てめえみたいな化物は、さっさと2-Sから失せろっつってんだ」

「論外だ。故に却下する。さて、用は済んだ筈。疾く去ね、血の匂いで飯が不味くなる。不快だ」

「血の匂いだ?はっ!てめえが言えたセリフかっての。どういうつもりでここに入ってきたのかは知らねぇが……もし英雄さまに指一本でも触れやがったら、原型なんざ残らなくなるまで、あたいが徹底的に潰す。そいつをアタマに叩き込んどけ」

「ふん。潰すだと?誰が、誰を?己を弁えぬ発言は自らの首を締めるぞ」

 うわなんなんですかこのメイドマジおっかねぇんですけど、と内心にて盛大に冷や汗を掻きながら、俺は堂々と余裕に満ちた台詞を吐いてみせた。

 自身の発言に則るならば、今現在自らの首を絞めているのは間違いなく俺の方だろう。

 この忍足あずみというメイドが只者でない事は分かる。が、重要な問題はそこではない。

 それこそ川神鉄心のような人外でもない限り、「個人」を相手にするのはそう難しい話ではないのだ。

 この場合、真に厄介なものは、彼女の背後に存在するであろう九鬼財閥の勢力である。

 「組織」を相手取るとなれば、個人を相手取る場合に比べて、必要となる手間の大きさは凡そ数十倍にも膨れ上がる。

 今回の場合、九鬼財閥の組織としての規模の圧倒的な巨大さを考えると、数千倍が妥当なところか。

 何にせよ、まともに敵対するのは無謀もいいところである。
 
 だがしかし、目の前のメイドさんはやけに好戦的というかなんというか、どこからどう見ても俺を敵として認識している訳だ。
 
 彼女の性格と織田信長という男のキャラクターを考慮すれば、ここから両者の間に友好的な雰囲気を作り出すのは不可能だろう。

 となれば、行き着く先は血で血を洗う闘争。


 さて……果たして俺はどうしたものやら。俺の辞書に後退の二文字は無い。だが、無謀の二文字も同様だ。


 考えろ、考えろ、考えろ。現時点における、俺にとっての最善の選択とは、何だ?



「フハハハハ、英雄の帰還なり!庶民共よ、拍手で迎えろ!」


 
 そんな俺の思考をジェンガの如く派手にぶち壊すハイテンションな叫び声。


「お帰りなさいませっ!英雄様☆」

 
 ぱちぱちぱち、とやけに虚しく鳴り響く一人分の拍手。いつの間にやらメイドさんのキャラが五百四十度ほど方向転換しているのは俺の気の所為だろうか。


「……奴が」

「ああ。あいつが九鬼英雄だ」
 
 
 色々と強烈なインパクトのあまり思わず呟いた俺に、準がどことなく遠い目で相槌を打った。

 一瞬にしてクラス中の視線を一身に集めたその男は、室内に充満した薄ら寒い空気など気に留める様子もなく、堂々と教室に足を踏み入れた。

 悪趣味過ぎてもはや指摘する気さえもどこかへ失せる金色スーツを制服代わりに着用しているこの男が、九鬼財閥の御曹司か。


「……ふん」


 なるほど。成程成程。


 こういうタイプの人間ならば、或いは「あの手段」が使えるかもしれない。

 どうしても賭けの要素が強くなってしまう上、安全性にも欠ける為、可能な限りは用いたくなかった手段なのだが、事ここに至っては仕方があるまい。川神学園を舐めて掛かったツケだと思う事にしよう。

「おや……。何やら様子がおかしいですよ、英雄。私達が居ない間に何事かあったようですね」

 九鬼英雄の後から続いて教室に戻ってきた葵冬馬は怪訝な表情を作る。

 教室をざっと見渡して、窓際の席にて向かい合う俺とあずみの姿を確認すると、「ああ、なるほど」と何やら納得したように頷いた。何故そこで納得するのか、一体何をどんな風に納得したのかが気になる。

「む?どうしたのだ、あずみ。何事か揉めているようだが。部下が抱える問題を解決してやるのも王たる者の務め、遠慮などせず我に話してみるがいい!」

「さすがは英雄さま!王者の鑑でございますねっ☆でも、大丈夫です。問題は何も――――」


「そう。問題は何もない。従者の躾も満足に出来んような主君の器など知れている。であれば、語るだけ無駄と言うものだろう」
 

 朗らかに答え掛けていたあずみの表情が、そのままの形で凍り付く。

 それでも、主の前ではよほど分厚い猫を被っているのか、あくまでにこやかな笑顔は崩さなかった。目は全く笑っていなかったが。

 
 さて。ここからが正念場だ。

 
 俺に真正面から喧嘩を売られた形となった九鬼英雄は、意外にも怒る素振りは見せず、ただ興味深そうな顔で俺を凝視した。

「む、昨日どこぞから転入してきた庶民……確か名は、織田信長だったか?」

「俺の姓名を続けて呼ぶな。それ以外であれば許容しよう」

 割と威圧感を込めて睨みつけたにも関わらず、英雄はまるで動じた様子もない。単なる馬鹿なのか、或いは器が大きいのか。何とも判断し辛いところだ。

「フハハ、この我を前にしてその気迫、やはり面白い!庶民にしては上出来よ、褒めて遣わす」

「俺を見下すな。不愉快だ。己のみが人の上に立つ存在ではないと、知れ」

「なるほど、そう言えばお前は我と同じく、従者を抱える身であったな。もっとも、我と貴様とでは主君としての格に些か差が有り過ぎるであろう。フハハハ、多少は骨があるとは言えど所詮は庶民、選ばれし者である我と競おうなどとは笑止千万!」

 よし来た。俺は内心にてガッツポーズを決める。俺はまさしくこの言葉、この展開を待っていたのだ。

 九鬼英雄が俺の推察通りの人間だとすれば、此処まで来て風向きが変わる事はあるまい。

 俺は口元に冷笑を貼り付けて、嘲るような目を英雄に向けながら言った。

「ふん。ならば。試してみるか?」

「ぬ?」

「口先では何とでも言える。結果と実力が伴わねば、言ノ葉は虚しく宙を舞うのみ。認めさせたければ、証明して見せるがいい」

「分からん奴だ。我がわざわざ証明するまでもなく、そんな事は――――」

「ほう。成程、九鬼の御曹司は敵前逃亡が得意、か。大言壮語の末がその様では、先程の過剰な謙遜の理由も良く解る。確かに俺とお前とでは、“主君としての格に些か差が有り過ぎる”ようだ。くくく」

 小馬鹿にするように笑いながら言い終えた瞬間、英雄の傍に控えるあずみから凄まじいまでの殺気を感知した。

 正直、冗談抜きで肝が冷えたが、まさかいきなり手は出して来ないだろうと自分に言い聞かせて全力で無視する。

 今現在、俺が集中すべき対象はあくまで九鬼英雄である。

 どれほど危険な実力者であろうと、部下であるあずみは所詮、英雄の命令のままに動く手足に過ぎない。命令を下す頭を押さえてしまえば、自由には動けなくなる。

 
 さて、どう出る九鬼英雄。


 庶民風情にここまで挑発されて、王者を自負する程に驕っているお前のプライドは耐えられるのか?


―――――否、そんな筈はない。


「うぬぬ……、こうまで言われては、我としても黙って引き下がる訳にはいかんな」

「その言葉。挑戦を受ける、と解釈するが」

「当然であろう。庶民共に我の王者たる証を改めて示し、そして一子殿に我の勇姿をご覧になって頂く機会でもある!まさしく一石二鳥ではないか、フハハハハ!」

 自分が敗北する事など欠片も考えてはいないのだろう。愉快げに哄笑する英雄の表情に、不安の影というものはまるで見られない。
 
 その底抜けな能天気さに呆れると同時に、少しだけ羨ましいと感じる自分がいる。
 
 この男は、面倒な芝居も億劫な策略も陰鬱な計算もなく、己の心の命ずるがままに生きているのだろう。
 
 それは或いは生まれ落ちた環境の差。それは或いは、生まれ持った才能の差。
 
 地面を這い蹲って必死に生きている人間にとっては、直視に耐えない星光のような男。

 
 だからこそ俺は、全ての打算を抜きにしても、ただこの男には負けたくないと、そう思った。


「まず。参加者はお互いの主従、各二名。それには文句はないな」

「うむ。主従の格差を示す為なのだから、当然そうでなくては始まるまい」

「……確かに。承りました」

「私が英雄さまをお守りするのは当然ですっ☆」
 
 今まで口を挟まず、静かに事の成り行きを見守るようにしていた従者の二人が、それぞれ口を開く。

 蘭は普段の浮付いた調子が掻き消えた、凛とした口調で。あずみは猫を被りまくった不自然に可愛らしい口調で、己の意思を示した。

 それを確認してから、俺は再びルール説明を続ける。


・得物としては、レプリカ武器の使用を許可。

・それぞれの主が相手側の従者から一撃でも攻撃を受けた時点で、その組の敗北と見做す。

・第一グラウンドをバトルフィールドとして利用し、外に出た時点で失格と見做す。


「……以上。即興で考えたルールだが、不満及び疑問点はあるか」

「うむ、我はそれで構わんぞ。どのような条件であろうとも、我が勝利の栄光を手にする運命は初めから定められているのだからな!そうであろう、あずみ!」

「まさにその通りでございます、英雄さまぁぁぁ!はいところで、一つだけ質問いいですかー?」

 いっそ不気味な程、にこやかな表情であずみが手を挙げた。

「主君が相手側の主君に直接、攻撃を仕掛けるのはアリなんでしょうかぁ?」

「無論。但し、決着と認められるのはあくまで何れかの従者が敵方の主に攻撃を命中させた場合のみだ」

「……そーですか、分かりました~☆」

 数秒間、抉る様な視線を俺に向けはしたが、結局あずみは大人しく引き下がった。
 
 大方、俺が英雄に危害を加えようとしないか心配しているのだろう。何せ外面だけを切り取って見れば、織田信長という男は途轍もない危険人物なのだ。

 しかし、それを英雄に言ってみたところで無駄だろう。何せつい先ほど、主君としての格では比較にならないと豪語したばかりなのだ。

 英雄の性格からして、俺との対決を避けようとはするまい。
 
 
 うむ、善哉善哉。ここまでは、万事が俺の計画通りに進んでいる。上手く嵌り過ぎて逆に不気味な程である。


「皆さん。折角の盛り上がりに水を差してしまうようで申し訳ありませんが、あと少しで授業が始まってしまいますよ」

「なーに、その点は心配無用じゃよ」

 冬馬の台詞を受けて、何処からともなく2-S教室の教壇に出現する爺、川神鉄心。

 川神院総代にして川神学園の学長を務める、一言で表現すれば怪物のような爺さんである。

 否、もはや怪物そのものだろう。この爺さんの存在が核以上の脅威として世界に認識され、諸外国への牽制として働いていると言えば、その突き抜けた異常っぷりを理解して頂けるだろうか。

 例えビームを撃とうが瞬間移動をしようが斬魄刀を所持していようが、それが鉄心であれば何ら驚きには値しない。そういう存在である。

「五限は日本史の授業じゃったの?ならば綾小路先生にはワシから話を通しておこう。存分に試合うといいぞい」

「おー。珍しく気が利いてる、そんな学長にはマシュマロをプレゼントだ~、ぱちぱちぱち」

「ほっほ、ぴちぴちの女子に食べさせてもらうマシュマロの味は格別じゃのぉ」



――――さて、これにて役者は揃い、舞台設定は整った。

 

 あとは舞台の開幕を告げる合図を、俺達の手で鳴らすのみ。

 都合のいい事に、その為の礼儀作法は昨日の内に冬馬から教わっていた。


「2-S所属、織田信長。学園の掟に従い、“決闘”を申し込む」

「その従者、森谷蘭。私の意は主と共に」

 
 俺と蘭が各々のワッペンを机の上に重ね合わせる。


「2-Sクラス委員長!九鬼英雄!その挑戦、確かに受け取った!」

「その従者、忍足あずみです☆よろしくお願いしますね!」

 
 そして更に二つが重ねられる事で――――決闘の儀は、ここに成立した。


「フハハハハ、それでは我は早速ウォーミングアップに移るとしよう!獅子は兎を狩るにも全力を尽くすものであるからな!」

「さすがでございます、英雄様ぁぁぁっ!私は少し教室で準備がありますから、どうか英雄様はお先に」

「うむ、では我は一足先にグラウンドへ赴くとしよう。フハハハ、楽しみに待っているぞ、庶民共!」

 俺と蘭に向かって声を掛けると、英雄は高笑いを上げながら無駄に堂々と教室を去っていく。
 
 その姿が完全に自らの視界から消えたのを確認してから、あずみは被っていた猫を脱ぎ捨てた。

「てめえ。黙って聞いてれば、よくも英雄様に好き勝手言ってくれやがったな……。言っとくが、決闘仕掛けてきたのはそっちなんだ。どんな結果になろうと文句は言わせねえぞ」

「無駄な心配を。完全な勝者の口から文句が出る筈もない」

「その減らず口もすぐに叩けなくしてやるよ。あたいを本気で怒らせたこと、全力で後悔させてやる」

『全校生徒の皆さんにお知らせです。只今より第一グラウンドで決闘が行われます。内容は武器アリの戦闘。見学希望者は第一グラウンドに集合しましょう』

 校内放送がスピーカーから響く中、あずみは抜き身の刃を思わせる両の目で俺を睨み据える。

「いいか。首を洗って待ってろ、クソガキ」

 準備があるから、と英雄を先に行かせて教室に留まっていたのは、あくまでその一言を告げるための口実だったらしい。

 用は済んだとばかりに背中を向けると、あずみは英雄を追って廊下を駆け去っていく。


「なかなか。侭ならぬものだ」


 全く、どうしてこうなるのやら。

 嫌われるのも憎まれるのも恐れられるのも慣れ切っているが、ここまで純然とした殺意を向けられるとなれば話は別だ。

 そもそもここは治安の良さに定評のある日本国内の教育施設である筈なのだが、そんな場所に殺意やら何やらの血生臭い言葉が登場するのはどういう訳だろうか。全く以て場違いもいい所である。

 所構わず殺気を撒き散らしている俺が言うべき台詞ではないと思うかもしれないが、しかし俺の殺気はあくまでも精巧に似せた紛い物。

 言ってしまえば模造刀やモデルガンと大差ないものだ。忍足あずみのような、幾多の血を吸ったであろう本物の凶刃と同列に扱われても困る。

 ……ああ、凶刃と言えば。流石にこれは、フォローしておかなければマズイだろうな。

「蘭」

「如何致しましたか、主」

 名を呼ばれると、蘭は落ち着き払った澄まし顔で俺の足元に跪く。
 
 十数年の経験から判断して、我が従者のこういう似合いもしない凛々しい表情は、相当に危険な兆候である。

「頭を冷やせ」

「畏れながら、私は冷静です。主」

 俺は黙って視線を蘭の顔から下げ、その手元に移した。
 
 自分では気付いていないようだが、蘭の右手は力の捌け口を求めて自身の机の端を掴んでおり。
 
―――その五本の指が、木製の机に深々と食い込んでいた。

「蘭」

「如何致しましたか、主」

「あの二人は障害物だ。“敵”とは違う。それを失念するな」

「……ははっ、了解致しました。不肖森谷蘭、未熟の身なれども必ずや主を守護してみせます!」

「承知している。往くぞ、蘭」

「ははーっ!私めはどこまでもお供致します!」

 
 教室の戸口に向かって俺が進めば、蘭は静かに三歩後ろをついてくる。わざわざ振り返って確認するまでもない事だ。

 
 これより臨むは妥協を許さぬ決闘。不安要素は多々あれど、退く事だけは不可能だ。

 
 どうかこの苦難を無事に乗り越えられますように、と信じてもいない神に祈ってみたりしながら、俺は決闘場たる第一グラウンドへと足を進めるのであった。



~おまけの三人組~


「今日は、信長に英雄を友人として紹介しようと思っていたのですが……まさかいきなり決闘になるとは予想外です。どうなることやら」

「あははー、トーマ、心配御無用。雨降って血固まるってことわざがあるよ」

「こえーよ!その諺、間違いなく降ったのは血の雨だろ」

「あーめあーめふーれふーれ♪」

「懐かしいはずの童謡が何だか不吉な歌に聞こえてくるぜ」

「ピッチピッチチャップチャップ、らん・らん・るー♪」

「不意討ちで危ないネタは禁止!」






 



 決闘に至るまでの流れに思いのほか文量を使ってしまったので、戦闘シーンは次回に持ち越しとなってしまいました。自分の文章構成能力の欠如を改めて実感する今日この頃。


※前回の更新分に対し感想を下さった方々、本当にありがとうございます。
 
 そして、誠に申し訳ありませんが今作においては、作者による個々の感想への返信は控えさせて下さい。
 
 私は元々が遅筆な上になかなか時間が取れず、短い時間をやりくりしてどうにか書き上げているのが現状。
 
 この上更に感想に対する返信を考え、文章に起すとなれば、更新速度の低下はどうしても免れないものとなってしまいます。

 全ては私の力不足に起因するもので心苦しい限りですが、これは作者が一刻一秒でも早い更新を優先すべきと判断したが故の結論である事をご理解頂ければ幸いです。




[13860] 二日目の決闘、後編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:5ac98617
Date: 2009/11/19 02:43
「けっ。何が悲しくて俺様、S組の奴らの内輪揉めなんぞを見物しなけりゃいけねぇんだ」

「またそういうこと言う。S組の転入生の女子がレベル高いらしいから見に行こうって最初に言い出したのはガクトだからね」

「なんだよモロ、お前だって内心じゃ気になってる癖しやがってよ。やれやれ、これだからムッツリスケベは嫌だぜ」

「何でそこまで言われなきゃいけないのさ!……あ、噂をすれば。来たみたいだね」

 現在時刻は午後一時ジャスト。昼休みの終了と第五限の開始を告げるチャイムが川神学園に鳴り響く。

 その音とタイミングを合わせるように、決闘の舞台として指定した第一グラウンドに俺達は足を踏み入れる。

           ざわ……ざわ……

 噂の転入生、織田信長と森谷蘭。

 その姿に、どよめきと共に不特定多数の視線が向けられた。

「おお、見ろ。どうやらヨンパチ情報は正しかったみたいだぜ。顔もスタイルも一級品、ありゃあ確かに結構な上玉だ。チェックしておこう」

「うん、そうだね。……でも、それよりも僕は、男の転入生の方が気になるかな」

「なんだ?モロお前、まさか―――、つ、ついに目覚めちまったのか!?」

「違うよ!無理矢理ヘンな方向に話を持って行くのやめてよね!しかも“ついに”ってどういう意味さ!……僕が言おうとしてるのはその、なんて言うか……」

「まあ、モロの言いたい事は分かる。あの転入生、雰囲気が明らかに普通じゃない。君子危うきに近寄らず、だ。軍師として意見するなら、あまり関わらない方がいいと思う」

「大和の意見に賛成だな、あいつは何だかヤバイって俺の勘が告げてるぜ。ってか見てるだけで普通にコエーもん、あいつ。いったい何者なんだろうな」

「安心して、キャップ。ファミリーのみんなには絶対に手を出させないよ。そして大和の貞操は私が頂く。じゅるり」

「助けてゲンさん!俺を強姦魔から守って!」

「アホか、てめえらの痴話喧嘩に俺を付き合わせんじゃねぇ。……しかし、早速騒ぎを起こしやがったな、信長の野郎。何考えてやがるんだか」

 
 先程の校内放送で決闘の情報を知らされた所為だろう。俺達が到着した時は、既に相当な数の生徒が決闘の見物人としてグラウンドに集まっていた。

 2-Sの生徒は勿論のこと、恐らくは他のクラスや学年が違う生徒達までもが挙って姿を見せている。

 もはやちょっとしたお祭り状態だ。このまま全校集会でも始められそうな勢いであった。


「あわわわわ、す、凄いプレッシャーです。この学園はあんな強そうな方達ばかりなのでしょうか……うぅう~、松風、由紀江は入学したばかりなのに自信がなくなってきました」

『いやいやオラの見た感じ、アレはちょっとまともじゃねぇよ。自信持ってこうぜまゆっち!』

「ねぇ見て。黛さん、また携帯ストラップと喋ってるよ……」

「え、なにそれこわい……」

「なんて禍々しい気迫。間違いなくあの男が二年生のトップね。面白いわ、この川神学園のレベルがどの程度のものか、私のプッレ~ミアムな眼力で見極めてみせる!」


 五限目がもう始まっている時間にも関わらず、この異常なまでの集まりの良さ。川神学園における決闘というイベントが、いかに全校生徒の注目を集めているか分かろうというものだ。決闘者の俺達が転校生である事も関係しているのだろう。

 それにしても、こうも多くの人数に抜けられると、もはや授業が成立しなくなりそうなものであるが、その辺りはどうなっているのだろうか。


「はぁ。あいつ、転入早々騒ぎを起こしやがって。せめて学校の中でくらいは大人しくしていて欲しかったんだけどねぇ。オジサンは悲しいぜ、全く。……ところで梅子先生。どうですか、今晩一緒に食事でも」

「お断りします。予定がありますので。というかその誘いは幾らなんでも脈絡が無さすぎるでしょう、宇佐美先生」

「やれやれ、この巨人が女一人も口説けなくなっちまうとは。年月の流れってのは残酷なもんだ」

「成るほど……、彼が総代の言っていた転入生カ。己の目で確かめルまでは信じられなかったケド、確かに釈迦堂並みに危険な気配を漂わせてるネ。まだ百代よりも一つ年下のハズだというのに、末恐ろしい事だヨ」


 全校生徒というか、教職員の皆様方も決闘に興味津々のご様子だった。これではもはや授業が成立するしない以前の問題である。


 そんな群衆達が作る輪のド真ん中、即ち広大な第一グラウンドの中央にて。

 既にウォーミングアップを終えたのか、堂々と腕を組んで待機している英雄とその従者の姿を確認すると、俺は蘭を従えて二人の元へと向かう。

 直ぐそこに迫る対決の時に、否が応でも高まる緊張と心音、そして静かな興奮。じわじわと脳内麻薬が分泌され、身体に気が漲ってくる。

 こうなると俺はいまいち加減が効かない。日常生活に支障が出ないよう、常に抑え込んでいる殺気が溢れ出してくるのだ。


「ひ、ひぃっ!?」

「ば、バカ、早く下がれ!目を付けられるぞ!」

「でも、あ、足が震えて動かないよぉ~」

「くそ、世話を掛けさせやがる!ほらエミ、掴まれって」

「あ、ありがとうケンジ……」


 そんな状態の俺が近付くと、生徒達は一様に怯えながら慌てて道を空けた。

 モーセの奇跡を再現するかの如く、進行方向を遮っていた人垣が自然と割れていく。その際に何ともラブコメ臭のする腹立たしいやり取りが聴こえたのは気のせいと言うことにしておこう。


 そうして織田信長の為に造られた道を、俺は悠然とした歩調で進む。


「くくく」


 ああ、なんとも気分がいい。俺にしては珍しく、勝手に口元が歪んだ。


 何度経験しても、この瞬間は爽快だ。己という存在が如何に強く畏怖されているのか、全身を以て体感する事が出来る。

 全世界に息づくありとあらゆる生命が、彼らと同様に俺を畏れてくれればいいのだが。そうなれば、俺自身は何も恐れる事無く気ままに生きていけるものを。

 
 そんな下らない夢想を描きながら歩けば、気付いた時にはグラウンドの中央まで辿り着いていた。


「フハハハハ、良くぞ逃げずに来たな庶民よ!その度胸は感嘆に値するぞ。褒めて遣わそう!」

「俺を見下すな、と言った筈だ。お前の愚かしい思い上がりが何時まで続くか見物だな」

 
 馬鹿笑いで出迎える英雄に冷たい語調で言葉を返し、真正面から向かい合う。


「…………」

「…………」

 
 一方、蘭とあずみはそれぞれ無言で睨み合っている。決闘が始まるまでの僅かな間に、互いの実力を見定めようとしているのだろう。対戦相手の情報を事前に多く得れば得るほど、比例して勝機は増す。
 
 あずみの両手には小太刀。九鬼英雄の専属メイドはどうやら二刀流の使い手のようだ。対する蘭の得物は、普段は教室に飾られているレプリカの日本刀である。


「そう言えば、九鬼英雄。お前は武器を所持していない様に見受けられるが?」

「フハハハ、我が鍛え抜かれし黄金の肉体はそのものが既に武器も同然。それに、我の刃はあずみ一人で十分であるからな!」

「ふん、成程。どうやら主義は俺と変わらぬらしい。気に喰わん事だ」

「ぬ、貴様も武器を持っておらんのか?庶民が我と同じ条件で競おうとは不遜である。が、その意気や良し!」 


 一見した限りでは完全な徒手空拳の俺に、英雄はむしろ好感のようなものを抱いたらしい。なかなかに愉快そうなご様子だ。
 
 実際のところを言うなら、制服ズボンのポケットに護身用の匕首(レプリカ)を忍ばせていたりする俺だが、その事をわざわざ教えてやる必要はあるまい。

 それに、この匕首を使用するのはあくまでも最終手段になるだろう。

 不意討ちなどという姑息な手段で勝利を掴んだとしても、織田信長の名に傷が付くだけである。そんな勝ち方に意味は無い。ポケットから取り出さないままで済むなら、それに越した事はなかった。

 逆を言えば、決闘の中で圧倒的且つ絶対的な余裕と実力を見せつける、その目的さえ果たす事が出来るなら勝敗はさほど問題ではないのだ。


「さて、お主達。そろそろ始めても良いかの?」

「ああ。問題はない」

「うむ、我は待ちくたびれたぞ。早く始めるがいい」


 何時の間に現れたのか、俺と英雄の間に立った川神鉄心の問い掛けに、俺と英雄は頷いた。

 
 それを見届けると、鉄心は俺達に向かって頷き返し、静かに息を吸い込んだ。


「―――これより川神学園伝統、決闘の儀を執り行う!!」


 張り上げられたその声は老人のそれとは思えぬ力強さを以て、グラウンド全体に伝播した。

 途端に湧き上がる生徒達の歓声に包まれながら、俺と蘭、英雄とあずみは改めて名乗りを上げる。


「ワシが立ち会いのもと、決闘を許可する。勝負がつくまでは何があっても止めぬが、勝敗が決したと判断された後も攻撃を続けようとした場合は、ワシが介入させてもらう。よいな?」

「うむ。承知したぞ」

「元より一撃当てれば片の付くルール。無闇に追討ちを掛ける必要もない」

 
 鉄心の確認に頷いてみせながら、俺はちらりと後ろに控える蘭に目を遣った。

 予想通り、どうにも固い顔をしている。身に纏う雰囲気もいつもより多分に張り詰めていて、触れれば噛み付かれそうな危うい予感を見る者に抱かせた。

 勿論、目前に迫る決闘への緊張もあるのだろうが、それはあくまで原因の一つであって、俺の見立てでは主な理由は別にある。

 やれやれ。先ほど釘を差しておいたとは言え、この分だとやはり覚悟はしておく必要がありそうだ。俺の計算通りに事が進めば、確実に“そうなる”訳だし。

 過去、幾度矯正を試みたところで遂に治る事はなかった我が従者の悪癖を思って嘆息していると、賑わっていた観客のざわめきが静まっていく。


「主、御用意を。どうやら始まるようです」

「心得ている。蘭。己が如何動くべきであるか、判っているな」

「ははーっ!この身を盾と為して主を守護し、この身を刃と為して敵将を討ち果たして御覧に入れます!」

「うむ。苦しゅうない」

 
 さて、ようやく舞台の幕が上がる。

 川神学園における最初の試練。初っ端から容赦なく過酷極まりないが、ここを無事に乗り越えて初めて、俺は本当の意味で学園生活を始める事ができるだろう。

 ならば、精々気張らせてもらうとしようか。表向きは余裕綽々と手を抜いて、その裏側では常に全力全開。それが俺こと織田信長のスタンスである。


 これまで幾度となく繰り返してきたように―――障害物は、排除するのみだ。


「いざ尋常に……」

 
 あずみが小太刀を、蘭が打刀を鞘から抜き放った。各々の構えを取りながら、互いが互いの主君を庇う様に、前方へと踏み出す。


 そして。



「――――はじめぃっ!!!」


 
 決闘の始まりを告げる鉄心の声と同時に、両者の刃が激突し、火花を散らした。





 



 九鬼家メイド長兼九鬼英雄個人のボディーガードを務める忍足あずみは、当然の如く素人ではない。

 あらゆる戦闘術・暗殺術を身体に叩き込み、戦場を渡り歩いては傭兵として幾多の命をその手で刈り取ってきた、云わば殺人のプロである。

 今では前線を離れ、メイドとして平和な日常に順応しているものの、その圧倒的な腕前は未だ衰えていない。

 故にあずみにとって、平和ボケした島国の女子高校生などまるで相手にもならない、筈であった。

「さっさとやられちゃってください☆私には英雄様をあのおっかない男からお守りする義務があるんですよ~」

「左様な事は、私とて同じです!この身を以て盾と為す。そう主に誓った言葉を反故にするなど、絶対に許されません!」

 鍔迫り合いの最中、激しい語調と共に蘭が力を込めると、あずみは舌打ちしながら飛び退さる。

 既に決闘の開始から数分が経過していた。元々は十秒以内には片を付けるつもりでいたあずみにしてみれば、この結果は計算違いも甚だしい。

 刀を正眼に構え、凛とした表情でこちらを見据えるおかっぱ頭の少女―――森谷蘭。

 はっきり言って、その戦闘スタイルに特徴的な所はない。地味、と言ってしまってもいいだろう。

 観衆の目を惹く様な派手さ、華々しさは彼女の剣には存在しなかった。見栄えの良い応用技には目もくれず、ただひたすらに剣術の基礎のみを徹底的に鍛え続けて来た。蘭の振るう剣は、そういう類のものだ。

 あくまで基本に忠実。地味故に堅実。だからこそ、攻略の糸口がまるで見つからなかった。蘭はどのような場合においても無理というものを一切しないため、隙を見せる事も殆ど無いのである。

 下手に斬り掛かれば寸分狂わぬタイミングで正確無比なカウンターが返ってくるし、ならばと敢えて退いてみせ、誘いを掛けてみても決して自分から追ってはこない。

 己の領分を弁えている人間は、己の力量を過信している人間と比べて何倍も厄介な相手となるものだ。森谷蘭には、文字通りの意味で油断も隙もありはしない。

 立ち居振る舞いからして何かしら武道の類を嗜んでいるとは予想していたが、まさかここまでのレベルとは想像の埒外である。

「参りましたね~。正直な話、一秒でも早く英雄様の元へ駆け付けたいんですけど」

 チラリ、と横目で己が敬愛する主人の姿を確認する。視界に映るのは、こちらの様子を見物しながら何事か会話を交わしている、主人ともう一人の男……織田信長の姿。

 二人の主君はまずは従者同士の対決を見届ける事で合意を得たのか、互いに接近しながらも相争う姿勢は見せなかった。その事実にあずみはひとまずは安心を覚える。

 あの男が主人に対して「何か」をやらかしはしないかと、あずみはそれを危惧していた。

 そんな不安を抱かずにはいられない程に、信長という男の纏う雰囲気は危険極まりないものなのだ。かつて戦場という戦場で敵兵の血飛沫を浴びたあずみですらも、あの男が放つ高密度の殺気はかなり堪えた。

 今のところは何も仕掛けてはいないようだが、あまり長時間、信長を主人の傍に放置する訳にもいかない。主人の身に万が一の事が起きる前に、不安の種は取り除いておかねば。

 ……ならば、早々にこの決闘に終止符を打つ必要があるか。

「果たし合いの最中に余所見、更に考え事とは!いい度胸ですねっ!」

 やや苛立った様子で声を荒げながら、蘭が一歩を踏み込みつつ横薙ぎに刀を振るう。

「教科書通りの動きじゃ、防御は出来ても私に攻撃なんてムリムリ!ですよ☆」

 その太刀筋はひたすらに早く鋭く、しかしながらあまりに真っ直ぐ過ぎる。フェイントすら碌に織り交ぜられていない蘭の判り易い動きを事前に予測するなど、百戦錬磨のあずみにとっては容易い事であった。

 あずみは右手の小太刀を蘭の斬撃に重ねて受け流しつつ、同時に左手の小太刀による反撃を繰り出す。

「くっ!」

 首筋を狙ったあずみの一撃必殺の刃は、蘭が咄嗟に上体を後方へ傾げた事で空を斬る。

 しかしそんなやや無理のある避け方は、蘭の体勢を崩させる。彼女が後方へと僅かにたたらを踏んでいるその隙に、あずみはさり気なく立ち位置を移動させていた。

 距離は目測にして五メートルと二十六センチ。充分に、狙い撃てる距離だ。

 目標は、あずみから見た蘭の立ち位置の、その延長線上。角度修正は非の打ち処もなく、完璧。

 予めグラウンドより拾い集め、メイド服のポケットに仕込んでおいた小石の一つを、その手の中にそっと握り締める。

――――従者が相手側の主に一撃入れれば勝ち。

 例えそれがどれほど矮小で非力なものであったとしても、当たれば一撃は一撃である。

 卑怯などとは言わせない。恨むなら、このルールを提案した自分を恨む事だ。

 再び踏み込んできた蘭を先程と同様に片手でいなす。と同時に、残った片手が小太刀を手放して地面に落とすと、即座に握り込んでいた小石を流れるようなサイドスローで投擲した。

 計算上、信長の視界からは、従者の身体が障害物となってその瞬間を捉える事が出来ない筈である。自らに飛来する小石の存在に気付いた瞬間には、手遅れだ。

 更に言うなら、忍足あずみの投擲技術は随一。コントロールには絶対の自信がある。

 
 これで決まりだ。


 己の手を離れた石礫の行方を見守りながら、あずみは半ば勝利を確信していた。









 それは、これ以上ないほどに的確な不意討ち。


 完全な死角より突如として飛来する礫に反応する事など出来ず、為す術もなくその直撃を受ける――――という事はなく。

 俺は軽く首から上を動かすだけの僅かな動作で、恐ろしい事に顔面を狙ったその一撃を回避する。

 風切り音を立てながら、相当な速度で顔のすぐ横を通過する石礫。もし当たっていたら割と洒落にならないダメージを被っていただろう。そう思うと、少し肝が冷えた。

「……あれをこうも簡単に避けますか。冗談じゃないですね、これだから化物は困ります~」

「ふん。斯様な下らぬ小細工が俺に通用すると、本気で思っていたのか。愚昧も過ぎれば嗤うしかないな」

 今の一撃で仕留められる自信があったのか、苦々しげな表情を作るあずみに向かって、俺は嘲笑うように言い放つ。

「申し訳ございません、英雄様ぁ!決着を付けられませんでした」

「いや、あずみよ、お前に落ち度はない。あの奇襲、並の者ならば間違いなく決まっていたであろう」

 あずみ本人と英雄、そして観客達の目には、俺が彼女の完璧な不意討ちを純粋な反射神経と身体能力だけでいとも容易く回避してのけたように映るだろうが、実際のところは勿論違う。

 だからと言って偶然に頼った訳でも助けられた訳でもなく、この結果は云わば、定められた必然であった。


 具体的に種を明かすならば。俺には最初から、あずみの行動が読めていたのである。

 
 お互いの主に対して一撃でも入れれば勝ち、というルールがこの決闘の枠組みに存在している以上、間違いなくあずみはそれを利用しようとすると俺は踏んでいた。

 今まで交わした会話から予想される彼女の性格を考慮すれば、確実にその方法を選択するだろうと。そして、その為の手段として最初に思い付くのは、飛び道具による奇襲である。

 そこまで事前に察知できているなら、後はそう難しい話ではない。

 彼女の一挙一投足に注意を配り続け、不意討ちの条件を満たしたと思われる瞬間に万全の準備で待ち構えておけば、俺の常識的な反射神経でも余裕を持って反応する事が出来る。それだけの話だ。

 不意討ちとはあくまで相手の不意を討たねば成立しないからこその、不意討ちなのである。

 従者が相手側の主に一撃でも当てれば決着―――。
 
 決闘を申し込む際、わざわざ俺がこのルールを提唱した目的の一つが、この一連の流れによって「不意討ちを簡単に回避した」という客観的な事実を作り出す事である。

 その事実によって、誰もが俺の実力を誤解し、過大に捉えてくれるだろう。

 たった一度の回避行動、それも殆どが予定調和であるところの回避で、「織田信長の実力は紛れもない本物」という認識を周囲の者達に植え付けられるのだ。

 その誤った認識は人々の間で俺に対する警戒心を呼び、警戒心はやがて畏怖に通ずる。

 まあ、つまりは、そういう事だった。


 それが目的の一つ目。一つ目とわざわざ表現するからには、当然二つ目がある訳で。


「面倒ですねえ。雰囲気からして只者ではないと思ってましたけど、本当に見た目通りですかぁ。私としては是非とも違ってて欲しかったですね~」

「ふん。……忠告しておいてやる、忍足あずみ。悠長に御喋りしている余裕など。お前には欠片も無い」

「はい?何を言ってるんですか~?」

「俺とは違い、“見た目通り”ではない人間も居る。それだけの話だ」

 
 発言の意を掴めず、僅かに眉を潜めたあずみは―――次の瞬間、表情を凍り付かせた。

 
 否、凍り付いたのは表情だけではない。俺とあずみの間に立つ我が従者、蘭を中心にして、周囲の空気が急激に冷え込んでいく。
 

「……わたしの、あるじに」


 みしり、みしりと。思わず怖気が走るような音が、静まり返ったグラウンドにやけに大きく響いた。

 蘭の手元。両の手で握り締められた模造刀の柄が、悲鳴の如く軋みを上げているのだ。


「わたしの、あるじに、投げましたね。石を、固い石を、角のある石を、あんなに強く、あんなに速く、あるじの、あるじの、あるじの、御顔に向けて」


 地面に向けて俯いたまま、蘭はぶつぶつと呟く。怒りも憎しみもなく、どころか感情そのものをまるで感じさせない無機質な声が、淡々と言葉を紡ぐ。


「当たっていたら、もし当たっていたら、御怪我でもなさっていたら、御顔に御怪我でもなさっていたら、どうするんですか?どうしてくれるんですか?どうすればいいんですか?」


 そして、ユラリと蘭は顔を上げる。地獄より這い上がった幽鬼を思わせるその動作に、観客達の誰かが息を呑んだ。


「あなたは敵です。あなたは敵です。あなたは敵です。あなたは敵です」

 
 眼前のあずみを見つめる蘭の目は、ガラス玉のように虚ろ。

 いつしかその身体からは、禍々しい黒色の気が溢れ出していた。負の感情をそのままこの世に体現したかの如き不吉なオーラは、見る者全てを怯え竦ませる。

 それは蘭の全身のみならず、手に携えた模造刀をも覆い始めていた。

 元は六十センチ程度だった脇差の刃が、凝縮された気によって補強され、従来の二倍以上の刀身を有する黒い大太刀へと変貌を遂げていく。


「っ!ヤバイッ!」


 異常な雰囲気を放つ蘭に呑まれ、硬直していたあずみが、我に返ったように小太刀を構える。


「敵は排除します。敵は排除します……主の“敵”は、老若男女一族郎党一切合切関係なく―――私が、排除します」

 
 そして、一閃。

 もはや俺を含む常人には視認すら難しい剣速で繰り出された、蘭の斬撃。

 長大な大太刀と化した模造刀による横薙ぎは、今までのそれとは比較にならない程の“重さ”を伴っていた。


「なっ……!?」


 そんな一撃を正面から受けた結果。

 あずみの身体は文字通り、比喩表現でも何でもなく、“吹き飛んだ”。

 咄嗟に身体の前で交差させた両の小太刀で受け止める程度の事では衝撃を殺すには足らず、グラウンドからあずみの両足が離れ、空中へと後ろ向きに弾き飛ばされる。

 そのまま数秒間、あずみの身体は宙を舞い、そして重力に従って背中からグラウンドの地面に叩き付けられた。

「ぐぅっ……!」

 衝撃と共に肺から空気が押し出され、あずみが苦しげに呻く。あまりに派手な倒れ方だったためか、珍しく英雄が焦った調子で声を上げた。

「あずみ!無事か!」

「大事ございません、英雄様あぁぁ!」

 しかし、反射的に空中で小太刀を手放して受け身を取ったお陰か、致命的と言える程のダメージは負っていないようで、これにてK.O.と言う訳にはいかなかった。

 あずみは俊敏な動作ですぐ傍に転がっている小太刀を掴みながら跳ね起きると、英雄へと叫び返しつつ、再び蘭の前に立ち塞がる。

 この間、時間にして一秒にも満たない。呆れるほどの早業だった。

「…………」

 そんな彼女に向かって、蘭は無言のままに下段から踏み込みつつ、容赦なく二ノ太刀を振るった。今度は足元から掬い上げるような荒々しい斬り上げ。

 あまりにも長大過ぎる刀身の切っ先がグラウンドを抉り、地面に斬撃の軌跡を刻みながら迫る。

 まともに受けるのは拙いと判断したのか、あずみは蘭が踏み込むと同時に素早く横に跳んでいた。メイド服の裾に掠ったものの、ギリギリのところで太刀筋から逃れる事に成功する。

 が、その程度で蘭が攻撃の手を休める訳もない。外見からは想像出来ない凄まじい膂力を以て大太刀を縦横無尽に振り回し、次々と斬撃を放った。

 最初の一撃にて派手に吹っ飛ばされた事で懲りたのか、あずみはそれらを決して正面から受けようとはせず、専ら驚異的な身の軽さを利用して回避し、二振りの小太刀を用いて巧みに受け流していく。

 その技術の高さは全く以て大したものだと思うが、しかし防戦一方である事には変わりない。最大限の集中力を要する紙一重の回避行動の連続に、明らかにあずみは消耗し始めていた。

「うう……何なんですかぁ、この小娘。お利口さんの優等生かと思ってたら、とんだ狂戦士(バーサーカー)じゃないですか。酷い詐欺です」

 小休止とばかりに一旦動きを止めて、ゆらり、と緩慢な動作で大太刀を構え直した蘭に、あずみが毒づく。

 なるほど、狂戦士とはいい表現だ。どうしようもない“暴走癖”を抱える我が従者の特性を、実に的確に示している。

 主、つまりは俺が絡むと何かにつけて暴走しがちなのは毎度の事だが、中でも取り分け俺に対して向けられる敵意・害意・悪意などに、森谷蘭は過敏な反応を示す。

 ましてや、先程の石礫のように、直接的な攻撃が俺に加えられようものならば―――その結果は説明するまでもない。見ての通りである。

 だからこそ。これが、“二つ目の目的”だ。

 蘭の潜在能力を限界まで引き出す為には、暴走させるのが手っ取り早い。何処ぞの人型汎用決戦兵器だって暴走さえすれば大抵の相手に勝てる訳だし。……それは何か違うか。

 つまり、俺は敢えてあずみに自らを攻撃させる事で、蘭の強化を図ったという訳だった。強化ついでに狂化してしまったが、そこはまあ目を瞑るしかない。どんな場合であれ、力には代償が付きものである。

「確かに、パワーは今までとは比較になりませんね☆でも」

 ……しかし、暴走はあくまで暴走。

 無表情の蘭は一見して冷静沈着だが、間違いなくアレは大部分の理性を失っている。

 それは即ち、通常状態における嫌味なまでの隙の無さ、鉄壁の守りを放棄する事を意味していた。

 紛れもない玄人であるあずみが、その隙を看過する訳がない。

「付け入る隙が出来てありがたいですよ、私としてはっ!」

 あずみは両手の小太刀を同時に、蘭に向けて投擲する。

 不意を突かれたのか、一瞬の硬直を見せた後、蘭は自らへと飛来する小太刀を無造作な動作で斬り払った。

 気で強化された大太刀による凄まじい剣撃に耐え切れず、空中にて真っ二つにへし折れた小太刀の残骸が地面に落下を始める、その瞬間――あずみはがら空きになった蘭の懐へと無手で突っ込んだ。
 
 固めた拳で顎を打ち抜こうとばかりに大きく腕を振りかぶるが、それすらもフェイント。直後、上体の防御のために重心が浮き、疎かになった蘭の足元に、あずみの強烈な足払いが決まった。

 予想もしない衝撃に耐え切れずバランスを崩した蘭は、前向きに地面に倒れ伏す。

「わざわざあなたの相手をする必要もありませんからね~」

 無防備な状態の蘭には目もくれず、あずみはそのまま一瞬たりとも動きを止めずに駆け出した。

 当然の如くその標的は“主”である俺である。武器を失い、同時に蘭との戦闘を継続する手段を失った彼女に、他の選択肢などあろう筈もない。

 姿勢を低くしたまま、一目散に俺の元へと直進するあずみ。その背後で地面から身を起こした蘭は、転倒の衝撃で我に返ったのか、狼狽した表情で俺へと視線を向けた。

「蘭。構わん。往け」

 主の身を守るべく今にもあずみを追って俺の元へ駆け出そうとする蘭に、俺は静かに指示を出した。

 時間が惜しかったので片言のような命令になってしまったが、蘭であれば俺の言いたい事は理解できているだろう。即ち、“俺に構わず無防備な英雄を仕留めろ”である。

 どの道、今更追い掛けたところであずみを止めることが不可能な以上、致し方ない。

 もう二秒も待たずして、彼女は俺を攻撃の射程範囲に収める。蘭がどう足掻いても間に合わないだろう。

「ふん」

 まあ、だからと言って勝負を諦めた訳ではないが。蘭が足掻いても無駄だと言うなら、代わりに俺が足掻いてみせるだけの事だ。従者の尻拭いは主君の役割である。

 幸いにして、全ての条件と準備は既に整っている。

 暴走して隙だらけになった蘭が抜かれる事もまた、事前に予測されていた未来図の一つ。

 事前に予測さえしていれば対策を練ることも、その為の覚悟を決めることも可能になるのだ。

 あと一秒もすれば俺の身体に肉薄するであろうあずみの姿を、確りと視界に捉える。

 全くと言っていいほど気が進まない方法だが。俺の選択できる唯一の手段である以上、文句を言っても仕方がない。

 頭の中にイメージを描く。今回のテーマは“俺が殺意を覚えた瞬間”。

 幼少の頃より体験してきた、忌まわしい記憶の数々が脳裏にフラッシュバックする。


―――その映像の中に、衣服を半ば引き裂かれ、恐怖に泣き叫ぶ幼い少女の姿を見出した時。


 俺が放出する紛い物の殺気に、更なる殺意が上乗せされた。俺自身の保有する、正真正銘の殺意だ。

 そうして絡み合い昇華した殺気を更に凝縮。今までのような広域を巻き込む面ではなく、一箇所を刺し貫く点の形へと。

 眼前に迫るあずみに向けて、俺は極限まで高めた殺気を一切の手加減無く叩き込んだ。


「ぁ……っ!?」


 その様はあたかも、蛇に睨まれた蛙。

 コンセントを引っこ抜かれた電化製品を連想させる唐突さで、あずみの動きがピタリと静止した。

 指先を俺に向って伸ばした、何とも不自然な体勢のまま、石像の如く硬直したあずみ。その顔色は幽霊を見たかのように真っ蒼に変わり、大きく目を見開いている。

「どうしたのだ、あずみ!なぜ動かん!……うぬぬ、おのれ、我の従者に何をした!」

「さてな。俺が少し睨んでやれば、この様だ」

 殺気を拡散させず、一点に凝縮したので、英雄には何が起きたのか分からなかったのだろう。それは観客達も同様だ。突如として不自然に動きを止めたあずみに、訝るようなざわめきが起きている。

 あと十センチ。あずみの指先が俺の身体へと届くには、ただそれだけの距離を詰めれば良い。

 しかし、それは無理な注文でもある。俺が練り上げた最大級の殺気をまともに浴びて、身体が動く筈はない。

 強烈な“死”のイメージに囚われた身体は、意志とは無関係に身動きを拒絶する。そもそも、こうして気絶せずに意識を保っていること自体が既に異常なのだ。

「大体。お前に従者の心配をしている余裕があるのか?俺の従者が、何時までももたついている訳もあるまいに。何故逃げない」

 俺の言葉通り、蘭は命令に従って行動を開始していた。もはや不要と判断したのか、模造刀を放棄して身軽になっている。あと数秒と掛からずして、その手は英雄へと到達するだろう。

 しかし、英雄は一歩もその場から動こうとはせず、堂々と腕を組んで笑い声を上げた。

「フハハハ、馬鹿を言うな!王たる我が背中を見せる筈があるまい。心配せずとも、我はあずみを信じている。何をされたのかは判らんが、この我の従者がおめおめと敵に膝を屈する事など有り得ぬのだからな!」 

 その言葉、その表情に、虚勢の色は欠片も見受けられなかった。という事はつまり、この男は一切の偽りなく、一片の曇りもなく、心底から己が従者を信じ切っているのだろう。

「ふん。何とも、酔狂な」

 根拠もないにも関わらず、この絶対的な自信。それは無謀と傲慢の産物でしかない、と言ってしまっていいハズなのだが。

 
 主君として、一人の従者を抱える身として―――俺は、そういう風に考える事は出来なかった。


「ふぅ……、メイドも、つらい」

 
 その時。囁くような小声が、目の前のあずみの口から発せられた。凍り付いた喉と舌を無理やりに動かして、あずみは言葉を紡ぐ。


 俺に向かって伸ばされた指先が、ピクリと僅かに痙攣した。


「あたいはなぁ。どうあっても、英雄様を敗者にさせる訳には、いかねえんだよっ!!」


 あずみが殺気による拘束に抵抗し、指先をゆっくりと進め始めるのと。


「左様なこと!私とて同様だと、言った筈ですっ!!」


 蘭が英雄に向かって決死のヘッドスライディングを敢行するのは、ほぼ同時の出来事であった。

 
 未だ殺気の影響から脱し切れていないあずみの動きはスローモーションが掛かっているように鈍く、その指先から逃れるのは簡単だ。

 
 一方、英雄の身体能力がいかなるものかは知らないが、馬鹿正直に真っ直ぐな蘭の突進など、軽く横に跳ぶだけで回避は容易だろう。

 
 しかし、俺も英雄も、自らに迫り来る攻撃に対して身動き一つ取らなかった。

 
 決闘そのものに勝利したとしても、その方法が“逃げ”であればまるで意味はない。


 主君としての器の差を競う。それが、この決闘のそもそものお題目だったはず。ならば、ここで選択を誤る訳にはいかないだろう。


 織田信長は己が偽りの威信を守り通す為。九鬼英雄は己の勝利を信じるが故。敢えて動かず、その場に踏み留まる。


 故に――――決着は、次の瞬間であった。





「それまで!!」


 


 決闘の終了を告げる鉄心の声に、グラウンドは静まり返る。
 

 あずみが俺に。蘭が英雄に。互いの従者が互いの主君にその指先を到達させたタイミングは、ほぼ同時。

 
 少なくともギャラリーや俺達の観察力では、それ以上の判定を下す事は不可能である。しかし、武神と呼ばれる鉄心であれば話は別だろう。

 
 故に観客達の誰もが固唾を飲んで、鉄心の次なる一言を待っていた。


 
 そして、数瞬の沈黙を経たのち、川神鉄心は朗々と宣言する。





「――――勝者、なし!この試合、両者引き分けとする!」


 











 戦闘描写に思いのほか手間取ってしまい遅くなりましたが、更新です。ようやく決闘が終わった…もっと短く纏めるつもりだったのになぁ。
 
 感想を下さった皆様に感謝。返信こそ出来ませんが、感想・御意見は参考及び励みにさせて頂いています。では、次の更新で。



[13860] 二日目の決闘、そして
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:5ac98617
Date: 2011/02/10 15:51

 誰もが予想していなかったであろう、まさかの結末。

 “両者引き分け”。

 衝撃的とも言える川神鉄心の決着宣言に、観衆は静まり返った。

 が、それも一瞬の事で、静寂はすぐさま爆発的な歓声に取って代わられる。

 全校生徒の半分に届きそうな数のギャラリーが織り成す大歓声は、その中心に居る俺達の耳朶を心地よく打った。

「くぁー、引き分けとか、そんなのってアリかよぉ!」

「畜生、俺の上食券が……なんてこったい」

 そんな中、歓声に混じってところどころで上がる悲痛な叫び。青空闘技場辺りで良く耳にする種類の悲鳴だった。大方、決闘の結果でトトカルチョでもしていたのだろう。

 多少は気の毒だとは思うが、まあ概ね自業自得だ。他人様の苦労に便乗して気楽に儲けようなどと考えた報いを受けるがいい。

「あ、主……」

 決闘を無事に乗り切った安堵感から脱力し、益体も無い思考に浸っていた俺の前に、蘭が歩み寄ってきた。

 生彩の感じられない顔でふらふらと近付いて来るその姿は、傍目にも危なっかしい。まるで幽鬼であった。

「主に大見得を切った挙句の、此度の結末。面目次第もありません……」

 どんよりと陰鬱なオーラを漂わせながら、蘭は搾り出すような声で言葉を紡ぐ。蘭には別に珍しくも無い事だが、どうやら本気で落ち込んでいる様子だ。

 やはり、“引き分け”という結果はこいつにとって責められて然るべきものだということか。

「この森谷蘭、いかなる罰であれ甘んじて受け入れる所存です。主が腹を召せと仰せになるならば、今すぐにでも」

 何をトチ狂ったのか、どこからともなく抜き身の小刀を取り出す馬鹿従者の姿に、心中にて盛大に溜息をつく。

「蘭」

「……はっ」

「顔を拭け」

「はっ?」

「見苦しい」

 つい先ほど英雄に向かってヘッドスライディングを敢行したばかりの蘭の顔面は、見事なまでに砂に塗れていた。

 更にはそこに流した汗と悔し涙とが交じり合って、お前はどこの甲子園球児だと言いたくなるような有様となっている。少なくとも年頃の女子が観衆の前で見せるべき顔ではない。

「使え。許す」

 ぽかん、としている馬鹿に構わずハンカチを懐から取り出し、無造作に放り投げる。蘭はわたわたと慌しい動きでそれをキャッチし、目を瞬かせた。

「俺の従者を務める以上、衆目に醜態を晒す事は許さん。命も賭けぬ勝負の結末など些事。己が強さは、その姿を以って示せ」

 威厳溢れる雰囲気を醸し出しながら静かな口調で言い放つ。

 傍目には間違いなく馬鹿馬鹿しく思えるだろうが、こいつにはこれくらい芝居がかった諭し方が丁度良かったりするのだ。

 長年主従として付き合っている内に、なんだかんだで俺もこの“主”役がすっかり板についてしまった。実に嘆かわしい事である。

「は……、ははーっ!蘭は愚かでありました……誉れ高き主の従者の肩書きに恥じぬよう!蘭は、蘭は胸を張ります!」

 俺の言葉の何処らへんが琴線に触れたのかは知らないし知りたくもないが、蘭は唐突に平伏しながら感極まったように叫び出す。

「苦しゅうない。が、先ずは顔を拭いてからにしろ。恥を掻かせるな。阿呆が」

「ははっ、それでは失礼致します」

 俺が渡したハンカチで顔を覆うと、ずびびびびー、と何とも力の抜ける音を立てて鼻を啜る蘭。

 特に文句は言うまい。俺としては汚して貰っても一向に構わない。どうせ洗濯は(というか家事全般は)蘭の仕事なのだから。

 取り敢えずこいつへのフォローはまあこんなものでいいだろう。全く、変人の従者を持つと主人は苦労させられる。

 まあ、今回の決闘に関しては蘭にほぼ任せっきりだった訳だし、少しくらい労わってやっても罰は当たらないか。

「ん?」

 ふと背後からの足音を感じて、俺は振り向いた。目に映るは無駄に眩しい金ぴかスーツとメイド服。

 先程までの決闘相手、九鬼英雄と忍足あずみの主従のご登場である。

 はてさて、どういう用件があるのやら。或いはまたしても喧嘩を売ってくる気かもしれない。

 心中では油断無く身構えながら、俺は悠然とした調子で二人に向き直った。

「何用か。決闘は既に終結を見た筈。異議の申し立てならば川神鉄心の所へ行くがいい」

「違いますよぅ、つれないですね~。恐れ多くも英雄さまから、庶民の貴方にお話があるそうですよ。ありがたく聞いて下さいね☆」

 営業用全開のスマイルで爽やかに答えてから、あずみは英雄の後ろに控えるように立つ。

 英雄と俺は僅かな距離を挟んで向かい合った。そして、その周囲を不特定多数のギャラリーが見守るように取り巻く。……この注目度の高さは一体全体どういう訳なのだろうか。

「庶民。……いや、織田信長と言ったか?」

「姓名を纏めて呼ぶな。姓のみか、名のみだ。それ以外は許容しない。先刻も言った筈だが。その頭は飾りか」

 たとえ相手が九鬼財閥の御曹司だろうが全宇宙の創造主だろうが、そこだけは譲れない。

「フハハハ、名前などと細かい事を気にしていては器が知れるぞ、信長よ」

 割と本気の殺気を込めて睨んだのだが、英雄は気にした様子もなく笑う。

 肝が据わっているのか単純に無神経なのかは分からないが、何にしても常識外れな奴だ。幾多の修羅場を潜り抜けてきた荒くれ共をも恐慌状態に陥れる俺の威圧を、こうも容易く受け止めてみせる人間などそうはいない。

 竜兵やら釈迦堂のオッサンやら、あの辺りの救えない変態どもはまた話が別なのだが――いや、あいつらの事を考えるのは止めておこう。

「それで。話とは」

「なに、我は貴様を好敵手として認定することにしたのでな。名を記憶しておこうと思ったのだ。光栄に思うがいい、フハハハハ!」

「…………」

 こいつは何を言っているのだろう。何故そうなる。どうしてそうなった。話の展開が唐突過ぎて付いていけそうもない。

 一人で勝手に馬鹿笑いを上げる英雄に、流石の俺も咄嗟に言葉が出てこなかった。

「む、感動のあまり言葉も出ないようだな。殊勝な心掛けである」

「……馬鹿な寝言は寝てから休み休み言え。何の故あって俺が貴様の好敵手にならねばならん」

「簡単な事よ。我は、貴様もまた人の上に立つべき者であると認めたのだ。互いに競い、争うに足る男だとな。であるならば、ライバルと呼ぶのは当然であろう!」

 少なくとも九鬼英雄の脳内においては当然の理論であるらしかった。俺にはいささか理解の難しい言葉だったが、周囲を取り巻くギャラリーにとってはそうでもなかったようだ。

「あのプライドの塊みたいな英雄がライバル宣言か。珍しい事があるもんだな、若」

「ふふっ、英雄は相変わらずですね。少し妬けてしまいます」

「熱い、熱いわ……これぞ男の友情って感じよねぇ。ヴィヴァ青春」

「創作意欲が湧いてきました。何かこう、ムラッと」

「こーゆう時は、えーと、アッー?」「ちょ、ユキ、それは色々と危ないからやめなさい!」

 個々の内容までは聞き取れないが、概ね好意的な雰囲気のどよめきが上がっている……ような気がする。その割に妙な悪寒を感じるのは何故だろう。

「うむ、そういう訳だ。我が好敵手、信長よ。これはもはや決定事項、取り消しなど効かんぞ」

「…………」


 何だか色々と面倒になってきたので、俺は早々に反論を諦めた。こういうタイプの人間にマトモに対応するのは時間と体力と精神力の無駄遣いというものである。

「……下らん。勝手にするがいい」

「フハハハ、言われるまでもないわ!」

 そういう訳で突き放すような調子で吐き捨ててみたのだが、今更その程度の抵抗でダメージを受けてくれる筈もなく、英雄は満足気に頷いた。

 そして、用件が済んだならさっさと失せろと目線で促す俺を、真正面から見据えてくる。

「我は貴様を超えるためには努力を惜しむつもりは無い。貴様も我の好敵手に相応しくあるために日々の精進を怠るな。今回は叶わなかったが、いずれ必ず改めて雌雄を決する時が来るであろう。その時まで念入りに首を洗っておくといい!」

 そう言い残して、英雄は颯爽と踵を返した。

 後ろにあずみを引き連れて、ギャラリーが作った人垣の間を悠然と歩き去っていく。

 その威風に満ちた後姿は、確かに王を自負するだけのことはあると思わず納得させられるものであった。

「去ったか」

 周囲に悟られない程度に、ふぅ、と小さく息を吐く。九鬼英雄に忍足あずみ、あたかも台風の如く騒がしい主従だった。

 英雄の去り際の台詞からして、これにて永久にお別れという訳にはいかないのだろうが、ひとまず解放されたのは事実だ。一息つきたくもなる。

「御疲れ様でございました、信長様。本日は手製の和菓子を持参しておりますので、よろしければご賞味下さい」

「ん、然様か。ならば疾く教室に戻るとしよう」

「ははーっ」

 蘭の手作り和菓子は俺の大好物の一つである。特に今日の決闘という一大イベントで疲労した頭脳には、あの水羊羹のまろやかな甘みがさぞかし染み渡る事だろう。

 こうなっては居ても立ってもいられない。一刻も早く教室に帰還し、今日という波乱の一日を無事に乗り切った喜びを和菓子の甘さと共に噛み締めなければ。

 そんな思いに駆り立てられるようにして足を踏み出せば、英雄達の時よりも更に大仰にギャラリーが割れ、必要以上に広い道を作った。

 気の所為でなければ、織田信長という男に対する彼らの視線には、恐怖心のみならず畏敬の念のようなものを感じる。

 先程の決闘を通じて俺への評価に何かしらの変動が起きたのかもしれない。その辺りは流石に経過を見てみなければ判別が付かないが、悪い方向への変化でなければ歓迎するとしよう。

 まあ。そんな事は後でいくらでも考えればいい。

 今の俺にとって最も重要な案件は、一刻一秒でも早く教室に辿り着き、蘭の机に保管されているであろう和菓子を味わうことである。邪魔をする者が現れるなら、己が全力を以って排除して見せよう。


 募る想いに身を任せ、今まさに教室へ向かう足を速めようとした、その時であった。



「ちょーっと待ったぁー」

 

 妙に間延びした緊張感の無い声に、俺がピタリと足を止め、観客達がどよめき、背後で蘭が息を呑む。

 この場に居る全員の視線は、俺の前方、まるで進路を塞ぐ様に仁王立ちしている人影に向けられていた。

 美しい闇色の髪を長く伸ばした、抜群のプロポーションを有する文句なしの美少女。

 だらしなくにやけた口元とは裏腹に、猛禽類の如く鋭い目で真っ直ぐにこちらを見据えている、その少女は、この川神学園――否、川神市における最大の有名人であった。

「川神、百代……!」

 蘭は表情を引き攣らせながら、誰一人として知らぬ者の居ない少女の名を呟いた。

「おー、転校生のカワイコちゃんも私を知ってるんだな。いやー有名人は辛いなー困っちゃうなー。よしよし、是非とも後で私といちゃいちゃしよう」

「………っ」

 普段の蘭なら大なり小なりツッコミを入れて然るべきところだが、今は何一つとして言い返せていない。

 完全に相手の、川神百代の圧倒的な存在感に呑まれている証拠だった。

 何をされた訳でもない。ただそこに立っているだけで、にやにやと笑っているだけで、押し潰されそうな重圧を周囲に振り撒いている。

 これが、川神院の産み落とした世界最強の闘士か。こうして実物を目の前で拝むのは初めての経験だが、なるほど。

 正真正銘、怪物だ。

「蘭。下がれ」

「……はっ」

 落ち着け。俺まで呑まれてはいけない。いや、呑まれている事を悟られてはいけない。

 一度でも動揺を悟られてしまえば、織田信長の虚像に亀裂が入ってしまう。他の全てを犠牲にしてでも、それだけは絶対に回避しなければならない事態だ。

「そんなに怖がらないで欲しいんだけどなー。お姉さんの繊細なハートが傷付いちゃうぞ」

「そうも剣呑な眼をしておきながら、良く言えたものだ。鏡を見る事を推奨しよう」

 決して言葉にも表情にも動揺を浮かばせないよう細心の注意を払いながら、俺は織田信長の仮面を被った。

 この川神学園への転入を決めた時点で、川神百代と言う怪物と向き合う覚悟も準備も済ませた。それを今更になって怯え竦んでどうするというのだ。

 現在の事態は、来るべき時が来るべき時に来たに過ぎない。

「或いは、真に気付いていないのか。貴様の眼は、飢えた獣のソレだとな」

「おおっと、いきなりご挨拶だなぁ、転校生」

 感情の読み取り辛い薄ら笑いを浮かべながら、川神百代が俺に声を投げかける。

「ちなみにここで豆知識、私は三年生でお前は二年生だったりするんだ。ちょっと先輩に対する口の利き方がなってないんじゃないかなー。そんな生意気な後輩には誰かが縦社会の厳しさを教えてやらないとダメだよなぁ。だからさ」

 甘ったるい猫撫で声が、ここまで人間の恐怖を煽る物なのだと俺は学習した。

 にぃぃ、と彼女の口元が弧を描いて、背筋が凍るような笑みを形作る。

「戦おう。今すぐここで私が満足するまで存分に。戦おう」

 俺に向かって嬉々とした調子で語り掛ける彼女の声は、これ以上ないほど陽気に弾んでいる。

 仮にこの声音で語られる内容がデートのお誘いであれば、俺はどれだけ救われた事だろう。

 そんな益体も無い考えで現実逃避をしたくなる程度に、状況は切羽詰っていた。

 川神百代。

 その戦闘能力はまさしく驚異的の一言であり、他の追随をまるで許さない。現時点において実力で彼女を抑え込めるのは、祖父である川神鉄心のみと言われている。

 そんな次元が一つも二つも違うような存在を相手に、正面から戦いを挑めばどうなるか。

 その答えはかつて彼女に挑んで散っていった無数の闘士達が身を以って証明してくれていた。

 しかしだからといって、いつもの如く小細工を弄したところで通用するようには思えない。ネズミ用の罠をライオン相手に仕掛けるようなものだろう。

 つまり。俺に残された選択肢は最初から一つしかない。

 いかにして川神百代との“戦闘”を回避するか、だ。

「さっきの決闘な、ゾクゾクしたよ。こんな感覚は久しぶりだ……私とジジイくらいしか気付いてなかっただろうが、最後のアレ、超圧縮した殺気で相手の動きを封じたやつ。あんな芸当、私にも出来ないぞ。そういうのが得意な師範代の釈迦堂さんでも、あそこまでの殺気は出せやしなかったハズなんだ。ははは、何だろうな、本当にワクワクが止まらないんだ。なあ、もっとあるんだろ?勿体ぶらずにお姉さんに見せてみろって、なぁ」

 眼を爛々と光らせて、舌なめずりせんばかりの表情で俺に語り掛ける百代。

 どう考えてもこの流れはマズいな。穏便に解決できる道筋がまるで見えてこない。

「決闘の直後で疲労している。故に全力で戦えない……と言ったら。如何する?」

「あのな、そんな訳あるか。さっき、お前ほとんど何もしてないだろうが。後ろのカワイコちゃんに任せっきりで」

 やや呆れた顔で一蹴されてしまった。ですよねー、と言わざるを得ない。いや、口に出しては言わないが。

 さてどうしたものか、と心中にて思案しつつ、俺はさりげなく百代から視線を外し、その背後のギャラリーからある人物を探していた。

 人間型最終破壊兵器百代に対する唯一のストッパー、川神鉄心。あの怪物爺さんの動向次第で、俺の取るべき対応もまた変わってくる。

 数秒後、発見。少し離れた地点のギャラリーの最前列からこちらを観察している。どうやらまだ様子を見る心積もりらしい。

 例え戦闘が始まってしまったとしても、都合よく助け舟を出してくれるかどうかは微妙な所か。偶然の要素に頼るのは俺の主義に反するので、ここはやはり、自分の力で戦闘を回避するのがベストな選択肢らしい。

 幸いにして、幾つか対策案が無いわけでもない。最適の対応を選ぶ為にも、まずは会話を通じて可能な限り川神百代の性格を分析せねば。

「川神百代」

「お?なんだ、転校生」

「貴様は俺との闘いを望んでいるようだが。俺は違う。両者の合意が無ければ、決闘は成立しない。故に、俺が貴様と拳を交わす必要もない」

「んー、なんだ、私と戦うのが嫌なのか?ははーん、さては怖気づいたな、転校生?男なのに女の子との勝負から逃げちゃうんだー、へー、ふーん」

 なんという分かり易い挑発。こんなものに引っ掛かるのはガキか、頭の足りないDQNくらい……だと笑い飛ばせればいいのだが。

 正直を言えば、俺にとってこの手の挑発は致命的だ。織田信長が織田信長である以上、決して“逃げ”は許されない。例えそれが見え透いた挑発だとしても、相手が天下無双と名高い川神百代だとしても、乗らなければ臆病者の謗りは避けられないだろう。

 なんとも面倒な話だが、しかしこれが俺の選んだ生き方なのだ。今更女々しく愚痴は言うまい。

「俺が貴様から逃げる。怖気づいたから。ふん。面白い発想があるものだな」

「お、違うのか?だったら―――」

「川神百代。俺は現在、最高に苛立っている。貴様の無粋な足止めによって、俺は。かれこれ九分と三十六秒もの間、和菓子を食する瞬間の到来を遅らせている」

「は?」

「理解出来ぬなら噛み砕いて言ってやろう。俺にとって、貴様との勝負には和菓子を犠牲にする程の価値などないと。そういう事だ」

「…………」

 さすがに言葉を失ったのか、百代は何とも形容しがたい表情で沈黙した。
 
 さて、この場面でどういう反応をするか。百代の人格を推し量るいい機会だ。

「……もし」

「ん?」

「もし戦ってくれたら、おねーさんとしては仲見世通りの甘味処で色々とおごってあげるのも吝かじゃないんだけどなー。正直言って出費は痛いが、それもお前と戦うためなら安いものだと割り切ってみせるぞ。私はお前との勝負にそれだけの価値を感じてるんだ。なぁ、それでも、ダメか……?」

「ふん……」

 能面の如き無表情を貫き通している裏側で、俺は吐血しそうな勢いで葛藤していた。

 やばい。

 色々と反則だ。反則過ぎる。そんな風に上目遣いで弱弱しくお願いされて陥落しない男がどれだけいると言うのだろう。

 しかも仲見世通りの甘味処と言えば、万年金欠の俺と蘭では手を出すことすら難しい高級店ばかりではないか……っ!

 どうしてこうもピンポイントに俺の弱点を突いてくるのだ。まさかそれすらも作戦なのか。一目で俺の弱点を見切ったというのか。だとすれば恐るべき怪物だ、川神百代。さすがに世界最強の名声を欲しいままにするだけの事は―――っと違う違う。思考が脱線し過ぎだ。落ち着け。

 そう、例えどんな理由があろうと、俺は川神百代と戦ってはいけない。

 それは、揺らぐ事の無い絶対条件だ。

 幸いにしてと言うべきか、既にゴールに至るまでの道筋は見えた。

 事前に仕入れておいた情報と、こうして直に確認した彼女の人となりを併せて考えれば、俺の取るべき対応は確定したと言っていい。

 たとえそれが、どれほど気が進まない方法だったとしても、俺はやり遂げねばならない。

 生憎と現実は和菓子ほど甘くはないものだ。


「そうか。それ程までに、俺との死合いを望むか。其処まで言われては、俺も応えぬ訳にはいかない、か」

「お。やっと分かってくれたか!こんな美少女にここまで想われて幸せ者だぞお前は。さあさあ、始めよう戦おう。ああ、待ちくたびれた―――」

「ならば断言しておこう」

 百代の浮かれた言葉に被せるようにして、俺はどこまでも冷たく言い放つ。


「俺は、貴様のような半端者と死合うつもりなど、毛頭ないと」

 
 その言葉を告げ終えた瞬間から数秒間、時が止まった。少なくとも俺はそのように体感していた。

 群集のざわめきすらもピタリと止まり、痛いほどの沈黙がグラウンドを支配する。

「半端者……?なあ。それは、もしかしてさ、私に向かって言っているのか?」

 その異様な沈黙を破ったのは、やはり百代だった。

 怒りを無理やり押し殺したような低い声音で、俺に問い掛けている。全身からはドス黒く禍々しい気が溢れ出し、その双眸から放たれる本物の容赦ない殺気が鋭利な刃となって俺に突き刺さる。

 “人間”を怖いと本気で思ったのは、久々の体験だった。

 以前に似たような怪物と対峙した経験が無ければ、こうも完璧に外面を取り繕うことは不可能だっただろう。

 今だけはあんたに感謝してやってもいい、釈迦堂のオッサン。あんたのお陰で耐えられるし、川神百代という怪物を少しは理解できそうだ。

 震え出しそうになる脚を抑え、浮かびそうになる冷や汗を抑え、引けそうになる腰を抑えて、俺は真正面から悠々と百代の怒気を受け止めてみせた。

「なあ、私はそんなに気が長い方じゃないし、善人でもないんだ……私に話をする意思が残ってる内に答えてみろよ。私の何が半端なのか」

 ここで退いては全てが台無しになる。今こそが踏ん張りどころなのだ。

 俺は真っ直ぐに百代の燃えるような目を見つめ返して、用意された言葉を淡々と紡いだ。

「貴様の眼は、獣の眼だ。飢えを癒す為、ひたすら獲物を捜し求める、血走った狂気の瞳。貴様の本質は、疑いなく……闇」

「それがどうした。私だって分かってるよ、そんな事は。自分の衝動がどういうものかは誰よりも理解してる」

「ならば尚の事度し難い。己が何者か自覚がありながら、光にしがみ付いていると言うのか」

「光……ね」

「家族。友人。恋人。貴様は何も捨てていない。捨てて闇に堕ちる覚悟もない。だからと言って、欲望のままに闘う事を止める意思もない。獣と人のどちらにも成り切れず、闇にも光にも染まり切れず。ただ才能に任せてその境界線上に胡坐を掻いている。そんな半端者と、命を賭けて死合うなど御免蒙る。そこに何の価値がある?俺が言っているのは、そういう事だ」

 一息に言い切ると、そこで一旦口を閉ざして、百代の反応を窺う。

「私は……だが……、むぅ……」

 俺の指摘に心当たりがあったのか(まあ無くては困るのだが)百代は何かしら葛藤している様子だった。眉間に皺を寄せて、小さく唸っている。

 ただ、その身に纏う雰囲気からは、怒気と殺気が薄れているように思えた。それだけ俺の言葉に真剣に耳を傾けてくれているのだろう。

 聞く耳持たずに問答無用で攻撃されていたらかなりマズイ状況になっていただろうから、取り敢えずは一安心である。

 よし。この調子なら、一気に言葉を重ねて勢いで押し切ってしまうのが上策だろう。

 俺は唇を軽く舐めて湿らせてから、再び口を開いた。

「勘違いは望まぬ所。故に言っておこう。俺は貴様を誰よりも高く評価している」

「そんな風には聞こえなかったがな。あれ、私の耳がおかしいのか?あれぇー?」

 皮肉が飛ばせるくらいなのだから、怒りは殆ど収まっていると考えてもいいだろう。好都合だ。今ならば、ある程度の理屈が通じる。

「貴様の実力は紛れも無く本物。戦うとなれば、互いに手心を加える余裕など無いだろう」

「ま、私が強いのは当たり前としてだ。お前の方はどうなんだろうなぁ?随分と自信満々だけど、私はお前の実力をぜんっぜん知らないからなー。ほんとーは弱っちかったりするんじゃないのか?」

「下らん事を言うな。貴様が本気でそう思っているなら。わざわざ勝負を挑んだりはしないだろう」

「ま、その通りだけどさあ。あーあ、イジリ甲斐がないなー、うちの舎弟とは大違いだ」

「ふん。それは実に喜ばしい事だ」

 何とも肝の冷える遣り取りである。百代にとっては軽い嫌味程度の認識なのだろうが、俺の精神はガリガリと凄まじい勢いで削られているのだ。正直勘弁して欲しい。

「話を戻すが。俺はあくまで、“現在の中途半端な川神百代”に死合う価値を見出せていないだけの話。如何に中途半端な状態であれ、貴様とやり合って無傷で済むとは思えんのでな」

「それはな。当たり前だろ」

「この五体は、いずれ“未来の完成された川神百代”と死合う日の為にも……損なう訳にはいかない。貴様もまた、半端なままで俺と死合って、五体を損なうのは本意ではあるまい」

 我ながらとんでもない理屈を並べるものだ、と内心馬鹿馬鹿しく思わずにはいられなかったが、しかし思えばリアルトンデモ人間の川神百代を説得するのだ。これくらいネジのぶっ飛んだ理論でも用いなければ到底納得させられないだろう。

 そんな俺の努力の甲斐あってか、ついに百代は降参するように両手を上げて、若干うんざりした様な調子の声を上げた。

「あー、まあお前の言いたいことは大体わかったよ。わかったわかった、はいはい、大人しく諦めるって。……今日のところは」

 何やら不穏な言葉が最後に聞こえたのは気のせいだろうか。

「…………」

「だって、明日になったら気が変わってるかもしれないし」

 それでは困る。校内にて常に百代の影に怯え続ける生活など論外だ。俺の平穏なる学生生活が完全に崩壊するではないか。

 何という事でしょう。俺の魂を込めた説得は無駄に終わってしまったのか。くそっ、川神百代……この悪魔めっ!
            
「まあでも」

 脳内にてケケケと笑うデビル百代を泣きながら罵倒していた俺を、現実に引き戻す声。


「私もお前とは真剣マジで決着を付けたい気はするな。だから、私も今は我慢してやるさ。ただし―――私が真に“完成”したら、その時こそ私と戦うと約束してくれ。と言うか約束しろ。いいな」


「……ふん。言われるまでも、ない事だ」

 内心の動揺を押し殺して鷹揚に頷いて見せると、百代は満足気にニンマリと笑って、絶対だからな、と念を押した。

「よーし、約束も取り付けたし、それじゃ私はそろそろ退散するか。あー、ちなみに私な、後ろのカワイコちゃんにも興味津々だったりするから」

 俺の背後に控える蘭に、ねっとりと熱視線を送る。ビクリ、と蘭は蛇睨みにあった蛙の如く硬直した。

「そういう訳でお二人さん、これからもまたよろしくなー。ばっははーい」

 そんな蘭を見てニヤリと嫌な笑みを浮かべると、百代は颯爽と手を振りながらギャラリーの中へと去っていった。

「やれやれ、だ」

 今の気分を四文字熟語で表現するなら、まさしく台風一過、と言ったところだろう。

 ひとまずはこれにて一件落着。どうやら、当面の危機を回避することには成功したらしい。

 ただし、こんなものは所詮、その場凌ぎの方便に過ぎない。根本的な解決を行っていない以上、そう遠くない将来にこのツケは払うことになりそうである。

 考えるだけで何とも頭の痛くなってくる話だが、まあ、将来の問題は将来の自分が何とかする事だろう。

 少なくとも今、気に病んでも仕方のない事だ。

 そんな事よりも今は、兎にも角にも無性に和菓子を貪りたい気分である。それ以外の事など、思考する気にもなれない。


「蘭」

「は、ははっ。信長様、何用でございましょうか」

「今日の和菓子の品目は」

「はっ。水羊羹と桜餅を用意しております」

「うむ。主の求める物を良く理解している。褒めて遣わす」

「ははーっ、有難き幸せにございます!」

 
 よーし、今日は胸焼けするまで存分に食そう。うんそうしようそうに決まった。わぁい楽しみだなぁ。


 ……疲れた。










 





~おまけの風間ファミリー・放課後にて~








「いやー、軽い暇潰しのつもりで見学に行ったんだけど、色々とスゲーもん見ちまったぜ」

「全くだな。姉さんがキレそうになった時は本気で焦った。あれだけ人がいるところで暴れられたら被害が洒落にならないし」

「もー、お姉さまは関係ない人を巻き込んだりはしないってば!でも、あんなに怒ってるお姉さまは久し振りに見たわ……うぅ、恐かったよぉ」

「よしよーし。ワン子、泣かない泣かない」

「泣いてないわよ!うー、これも全部あの変な転校生のせいよ。今度見かけたらお姉さまの代わりにアタシが成敗してくれるわ!」

「それなんだけどな……ワン子だけじゃない、皆の耳に入れておいた方がいい話がある」

「おお、さすがは我らが軍師、あの美少女転校生の個人情報を早くも入手したか!」

「そんな訳ないでしょ!何だか真面目な話みたいだから邪魔しちゃダメだって、ガクト」

「俺様の小粋なジョークが理解できねぇとは哀れな奴だぜ。で、話ってなんだよ、大和」

「どうも気になったから人脈を使って調べてみた訳だけど……2-Sの例の転入生二人、相当ヤバイ奴らみたいだ。詳しい話はもう少し調べてからにするけど、正直言って触りの部分だけで十二分に危ない感じがする。学校でも可能な限り関わらないようにした方がいいだろうな。特にワン子、間違っても喧嘩売ったりしないように」

「分かってるわよ、もー。人を狂犬みたいに言わないでよ!」

「大丈夫。ワン子はどっちかというと忠犬」

「そ、そう?えへへー、それほどでも」

「犬扱いにも文句を言わない辺りが全力で忠犬だよね……」













 GW中に書いておいたものをひっそりと更新してみます。

 プロットだけで小説が完成すればいいのにと思う今日この頃。時間が欲しいなぁ。

 おまけの風間ファミリーはどの台詞が誰のものかを推測しながら読むと楽しい……可能性が無きにしも非ずかもしれませんね。

 ヒント:まゆっちとクリスは時期的にまだファミリーに加入していません



[13860] 三日目のS組
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:5ac98617
Date: 2011/02/10 15:59
 
 四月九日、金曜日。

 まるで鈍器で殴り合うかのような耳障りな音と、あたかも骨をへし折られたかのような喧しい悲鳴をアラーム代わりに、俺は目を覚ました。

 のっそりと緩慢な動作で上半身を起こして、枕元の目覚まし時計に目を遣る。表示時刻は、午前五時ジャスト。

 なんと言うことだろう、本来の起床予定時間よりも一時間以上も早い。なるほど、道理で寝足りない気分な訳だ。

 しかしそれでいて、わざわざ二度寝するほどの纏まった時間も残っていないときた。全く、何とも中途半端なタイミングで叩き起こしてくれたものである。

 眠い目を擦りつつ、窓の外に映る景色を睨み付ける。

 当然の話だが、時間帯が時間帯だけに、部屋の外はまだまだ薄暗い。

 ベッドの縁に腰掛けたまま朦朧とした意識で思考すること数分、俺は意を決して立ち上がった。

「やれやれ。致し方ない」

 丁度いい機会だと思って、本日はいつもより気合を入れて朝の鍛錬に取り組む事にしよう。

 ひび割れがあちこちに走った鏡の前にて洗顔、歯磨きを済ませ、手櫛で寝癖を抑え付ける。

 次いで蝶番の軋むクローゼットの中から適当な上着を選んで引っ掛け、最後に冷えた麦茶で渇いた喉を潤してから、俺は玄関のドアを開け放った。

 朝方の新鮮な空気を吸い込みながら、間違っても踏み外さないよう慎重に階段を降りて、いつものように中庭へと向かう。

 予想通り、そこでは我が従者が勤勉に木刀の素振りをしている最中であった。

「あ、お早う御座います、主!」

「うむ」

 俺の姿を見つけるや否や、いつものように鍛錬を中止してぱたぱたと駆け寄ってくる蘭に、鷹揚に頷く。

「今日は随分と早いお目覚めですね。あ、すぐに朝食を用意致しますので、少々お待ち頂ければ幸いに存じます」

「うむ。俺は此処で鍛錬を始めるとしよう」

「ははっ、ではこちらまで食膳をお持ち致します。して、和・洋のいずれをご所望でありましょうか」

「和」

「承知致しました!この森谷蘭、主のご期待に沿うべく死力を尽くして朝餉を用意致しますっ!」

 無駄に暑苦しく叫ぶや否や、蘭は鍛錬用の木刀をぽいっと放り投げて、老朽化した階段を嵐の如き勢いで駆け上がっていった。

 刀は武士の魂などと良く言うが、一応は武家の血筋であるハズの蘭の行動を見ている限り、その言葉も眉唾物に思われて仕方がない。

「まあ。木刀は所詮木刀。刀には含まれない、と言う事か」

 地面に無造作に転がっているソレに一瞥をくれてから、俺は強張った筋肉をほぐす為に背伸びをする。

 途端、バキリボキリ、と想像以上に壮絶な音が全身から聞こえてきた。やはり昨日の俺は相当に疲労していたらしい。

 肉体的にはそれほどでもないが、主に精神的な意味での消耗が酷かった。まあ、かの悪名高い川神百代と真正面から対峙して五体満足で生き延びているのだから、この程度の疲労で済んでいるのはむしろ僥倖と言ってもいいのだろうが。

 川神学園への転入。いくら自分で選んだ道とはいえ、あんな怪物の相手は可能な限り御免蒙りたいものだ。

 いつも以上の時間を掛けて体の各部を念入りにマッサージしながら、俺はそんな事をつらつらと思考していた。

「不肖森谷蘭!只今主の朝餉をお持ちいたしました!」

 数分後、ちょうど柔軟体操を終えたそのタイミングで、突風のごとく舞い戻った蘭が俺の眼前にて急停止した。その両手には幾つかの食器を載せたトレイを捧げ持っている。

「今朝の献立は」

「主は和食をご所望と仰せになられましたので、握り飯と味噌汁、漬物の三品を」

「大儀であった。己が鍛錬に戻るがいい」

「ははーっ!主の臣下として恥じぬ己となるべく―――」

 弛まぬ研鑽を重ね鍛錬を繰り返し雨ニモマケズ風ニモマケズ云々。

 もはや定型文と化した蘭の暑苦しい決意表明を適当に聞き流しながら、俺はトレイの上で温かい湯気を立てている味噌汁のお椀に手を伸ばす。

 それにしても。配膳の際にあれだけ激しい動きをしていながら、味噌汁が一滴も零れていないのはどういう理屈なのだろうか。

「……考えた所で、無意味か」

 とっくの昔に人間辞めてる連中に人間の理屈を当てはめる行為自体がナンセンスである。

 ちなみに朝食の味は文句なしであった。我が従者は人格がちょっとじゃ済まない程度にアレだが、掃除洗濯炊事等の家事全般に関しては疑いなく優秀なのだ。

 これが変人でさえなければ嫁の貰い手など幾らでも見つかるのだろうが、天は二物を与えずとは良く言ったものである。

「ああ。掃除と云えば、蘭」

「はっ。何で御座いましょうか、主」

 朝食を終え、蘭と並んで自分の得物を素振りしながら、おもむろに口を開く。

「ゴミは既に出してきたか」

「主の御起床の数分ほど前に済ませておきました!主のご意向を伺うまでは、と思いましたので、ひとまず玄関前に積んでありますが……如何いたしましょうか?」

「少々、訊いて置かねばならん事もある。蘭。案内しろ」

「ははーっ!蘭は確かに承りました!」

 蘭は子犬が尻尾を振るような調子で、実に嬉しそうに血塗れの木刀を振った。

 未だ乾いてはいない誰かの血が、滴となって地面に跳ねる。

 ところどころに出来上がった血溜りと、散乱したナイフやらポン刀やらの刃を誤って踏まないように注意しながら、小規模な戦場跡と化した中庭を横切り、表玄関からアパートの敷地外へ。

 少なくとも昨晩までは確実に存在しなかった、奇怪なオブジェがそこには聳え立っていた。

「二十五。いや、六か」

「ご明察の通りです、主。これほど大掛かりなゴミ出しは久しぶりでございました。まさに大掃除です」

「ふん。日も昇らぬ内からわざわざ骨を折りに来るとは、御苦労な事だ」

 遠目にも分かるほどにズタボロにされ、無造作に積み上げられた二十六の人体をしげしげと眺める。揃いも揃って気絶している真っ最中らしく、呻き声すら上げていなかった。

 どう見ても不自然な方向に折れ曲がった手足が時折ピクピクと痙攣している様が、何とも言えず不気味である。蘭の侵入者に対する容赦のなさ加減が良く窺える情景であった。

 観察を続行。年齢層は十代後半から二十代前半程度、見た限り全員が男のようだ。どうやら哀れな犠牲者の中に女子供は混じっていないようで、少し安心した。

 こういう風にいかにもそれっぽい容姿の典型的雑魚チンピラ連中が相手なら、俺としても余分な同情は抱かずに済む。

 大体。

 よりにもよって“蘭を相手に”“集団で取り囲んで暴行を加えようと”するから、ここまで徹底的に痛めつけられる羽目になるのだ。

 無駄に刺激しなければ、せいぜい腕の一本ほどで済んだだろうに。まさに自業自得、骨折り損のくたびれ儲けという奴である。

「しかし。今回は手間取ったようだな、蘭」

「はっ。各個人の練度は失笑ものでしたが、なにぶん数が多く……面目次第もありません」

「許す。今後の精進に、期待する」

「ははーっ!主の御期待に沿えるよう、蘭は必ずや強くなってご覧に入れます!」

 流石にこれだけの大所帯が相手と来れば、“普段通り”に声も立てさせずに瞬殺して終わり、と言う訳にもいかなかったか。

 二階に位置する俺の部屋まで悲鳴が届くケースは珍しいと思ったが、そういう事情があったなら納得というものだ。

 まあ、それはさておき。爽やかな早朝から気が重いが、俺は俺のすべきことをするとしよう。

「全く。無駄に、手間を掛けさせる」

 俺はオブジェの中から適当な一パーツを選んで引っこ抜き、アスファルトの路面に引き摺り落とした。その際の衝撃と痛みで覚醒したのか、男は「ぎゃっ」と小さく悲鳴を上げながら勢い良く目を開ける。

 焦点の合わない虚ろな視線が少しのあいだ宙を彷徨い、そして無表情で目の前に佇む俺の姿を捉えた瞬間、男の表情はみるみる内に恐怖の色に染まっていった。

「ひっ!て、て、テメエは……、クソッ、お、オレに手ェ出したらどうなるか分かってんだろーなぁ、ああ!?お、オレはあの“黒い稲妻”の一員で―――」

「黙れ。貴様は只、俺の疑問に回答しろ。それ以外の行為を許した覚えは無い」

 なぜ朝一番に叩き起こされた挙句、こんな意外性の欠片も無いテンプレ野郎の相手をせにゃならんのだ。

 盛大にうんざりした気分に襲われながら、俺は威圧のレベルを尋問用のものに調整する。

 面倒極まりないが、こいつから訊き出しておくべき情報が多いのも確かである。

 何せ、実に数週間ぶりに現れた“敵対勢力”の一員だ。

 場合によっては、今週末の俺の行動予定に変更を加える必要も出てくるだろう。

「忠告は一度だ。二度はない。生きながらにして地獄を覗きたくなければ。貴様の有する情報の全て、洗い浚い吐き出して見せろ」

 取り敢えず、HRの刻限に間に合うように手早く吐かせなければ。

 腕時計で現在時刻をさり気なく確認しつつ、俺は誰にも聞こえない小さな溜息を吐いた。

 
 夜討ち朝駆けは、織田信長にとっては割とありふれた日常の一ページである。





 


 そんな慌しい早朝の一幕も気付けば過ぎ去り、俺と蘭は現在、川神学園の正門を潜っていた。

 中央校舎の時計を見上げれば、七時五十五分を指し示している。HRの開始は八時二十分なので、かなり余裕を持って到着できた事になる。

 うむ、頑張って脅した甲斐があったと言うものだ。

「さて。征くぞ、蘭」

「ははーっ、私めはどこまでもお供いたします!」

 そんなこんなでやってきましたB棟二階、2-Sクラス。

 引き戸をガラリと開けて教室内に足を踏み入れた瞬間、ビシリと音を立てて空気が凍り付き、皆の視線が一斉にこちらに集中する。

 冷静に考えるとかなり嫌な反応だが、しかし俺としてはとっくの昔に慣れ切ってしまっているため、もはや何も感じない。期待通りの反応に、むしろ安心感すら覚えるほどだ。

 やれやれと心中で肩を竦めつつ、沈黙した教室を横切って窓際の席へと向かう。

 異変が起きたのは、その時だった。

「お、織田くん、おはよう……ございます」

 一瞬、それが自分に向けられた挨拶だと認識できなかった俺を誰が責められよう。想定外かつ不意討ちにも程がある。

 ざわり、と教室中で小さなざわめきが巻き起こった。

 そんな事態を引き起こした人物は、精々が眼鏡くらいしか特徴のない、顔も名前もまるで記憶していない女子生徒。

 俺が訝しむままに彼女を凝視すると、見る見る内に顔色が青ざめていく。周囲の生徒達は固唾を呑んで状況を見守っている様子だった。

 この場合、最低限の対応だけはしておくべき……なのか?むう、想定外過ぎて咄嗟に正しい判断が浮かばない。どうしたものか。

「……ああ」

 取り敢えず、彼女と目を合わせたまま悠然と頷いてみせた。それだけの動作でも、反応があったのが嬉しかったのか、女子生徒はあからさまに安堵したようにホッと息を吐いた。

「えっと、森谷さんも、おはよう」

 俺の時よりもかなり気楽そうな調子で、今度は蘭に声を掛ける。

「は、はいっ!?あ、お、お早う御座いますっ!」

 やはり蘭にとっても想定外の展開だったのだろう。若干慌てた調子だったが、しかしそれ以上に喜びが勝っている様子だった。

 そして、女子生徒の挨拶を皮切りに、教室のあちこちから遠慮がちな「おはよう」が聞こえてくる。

「わっわっ、何という事でしょう、こんなに沢山の方達に挨拶を頂けるなんて……主、主、蘭は皆さんにご挨拶を返しても宜しいのでしょうか!?」

「許す。好きに振舞え」

「ありがたき幸せにございますっ」

 蘭が喜び勇んで挨拶を返して回る様子を横目に自分の席に腰掛けてから、俺は腕を組んで事態の分析に務め始めた。

 解せぬ。どうにも解せぬぞ。一体全体どういう事態なのだろう、これは。

「おはようございます、信長」

 この三日間で多少聞き慣れてきた柔和な声が、俺の思考を中断させた。

 気付けば、隣の机の上に優雅に腰掛けて、葵冬馬がこちらをにこやかに見ていた。

「ふふ、流石は私の見込んだ人物ですね、信長。こうも早くこのSクラスの方達に認められるとは、驚きを禁じえません」

 どこか嬉しそうに語る冬馬の言葉は、現在進行形で俺の脳内を駆け巡る疑問に、ピンポイントで答えてくれそうなものであった。

「認める?」

「ええ。自分の属するクラスをこういう風に表現するのはくすぐったいものがありますが、この2-Sは紛れもないエリート集団です。各々が自分の能力に自信を持ち、そして相応のプライドを持っている。そんな彼らから自発的に挨拶をされるほどに認められるのは、そう容易いことではないのですよ。かくいう私も、去年は少し苦労しましたからね」

 気障ったらしく眼鏡を持ち上げてみせながら、冬馬は懐かしむように微笑んだ。

 聞いたところによると、冬馬は学年総合順位で不動の一位、全国模試ですら常に十位以内をキープしているらしい。

 つまりは成績優秀者が集うSクラスの中でも特に突き抜けた頭脳を持っており、そのルックスもあって、クラス内とは言わず学園内の誰もが一目置く存在という立場を確保している。

 その葵冬馬が言うのだから、確かな説得力がある。なるほど、そういう事か。

「ならば、切掛けは。昨日の決闘、か」

「おそらくは。あなたは転入して日が浅いので実感が湧かないかもしれませんが、英雄はクラス委員長。云わば、S組の顔です。あなたはその英雄と真正面から勝負し、そしてライバルとして認めさせさえした。……誰にでも出来ることではありません」

「成程、な。ふん、その程度の事で他者を認めるなど、気楽な連中だ。理解に苦しむ」

「その程度、ですか。ふふっ、本当にあなたは面白い人ですね。俄然、興味が湧いてきましたよ」

 悪寒がしたので反射的に殺気を飛ばす。効果はいまひとつのようだ。

 こっち見んな。頼むから嘗め回すような目でこっち見んな。

「おお、ノブナガだー。ちゃお~」

「よ、おはようさん。朝っぱらから若に言い寄られるとは災難だったな……同情するぜ」

 そうこうしている内に騒がしい連中の登場である。何処からともなく現れた榊原小雪と井上準が、俺を囲むようにして適当な机に腰掛けた。

 初日に声を掛けられて以来、どうにもこの陣形がデフォルトとなりつつある気がする。こいつらはなぜ当然のように俺の周囲に集まってくるのだろうか。

 しかも追い払おうと殺気を放ってもまるで動じてくれないので、結果として黙認している風に振舞うしか選択肢がない。どうしたものやら。

「なあ、信長よ。お前の従者はなぜにあんな嬉しそうなんだ?朝の挨拶がそんなにハッピーなイベントだったとは知らなかったぜ」

 蘭の姿を目で追いながら、準が呆れているのか感心しているのか良く分からない口調で言う。

 つられて見れば、我が従者は満面の笑顔で教室中を駆け回っては、無駄に元気な大声で一人一人に挨拶している。

「もー、ジュンはデリカシーがないよねー。そういう事を聞いちゃいけないんだ。ランはねー、おはようを言う友達もいないかわいそうな子だったんだよ」

「デリカシーがないのはどっちでしょうね!全く、何とか言ってやってくれよ、若」

「ユキ、そういう事は思っても口に出してはいけませんよ」

 やんわりと叱っているように見えるが、実際はどこか面白がっている表情の冬馬。今更だが、やはりこいつは割と性格が悪い。

「まあ。小雪の言葉、特に的外れでもないが」

 言いながら小雪に目を向けると、満足気な笑顔を浮かべていた。名字で呼ばれなくなったのが嬉しかったのだろう。

 織田信長のキャラを考慮すれば、あまり馴れ馴れしく接するのは好ましくないのだが、名字で呼ぶ度にいちいち訂正されるのが面倒だったので仕方なく折れた訳だ。

「ん?どういうことだよ」

 首を傾げる準に、俺は説明を重ねる。

「あの莫迦従者に友達が居ない、と言う事だ。少なくとも、学校という環境においては皆無だろうな」

「……それはまた何とも、意外だな。確かに変わってるとは思うけどな、礼儀正しく明るくて、おまけに結構な美人ときたもんだ。友達の一人や二人くらい、簡単に作れそうに見えるぜ」

 本気で理解できない、と言わんばかりの表情をしている準に、俺は頭が痛くなってきた。

 大体は準の言う通りだろう。蘭は本来なら友達作りに苦労するような人間ではない。

 あくまで、俺と―――織田信長という人間と、一緒に居なければの話だが。

 冬馬に小雪に準、それに英雄やあずみのように、俺を恐れずにいられる人間は数少ない。それは別にこれまでの環境が特殊だったという訳ではなく、むしろこのS組の方こそが例外なのだ。どうにも当の本人達にはその自覚がないらしいが。

 馬鹿馬鹿しいほど幸せそうにS組の生徒達と挨拶を交わす蘭の姿を見ていると、何とも複雑な気分に襲われる。

 もしかしたらあいつは、俺と出逢わなかった方が幸せだったのかもしれない、と。


「ノブナガー、それ、違うと思うよ?」

 
 何の前触れもなく、心臓を鷲掴みにされたような気分だった。絶句しそうになりながら、俺は声の主に視線を向ける。

 
 ウサギを連想させる小雪の紅い瞳が、俺をじっと覗き込んでいた。何もかもを見透かされているような気分にさせられる、落ち着かない目だ。

「ランはね、そこそこボクに似てるから。なんとなく分かるんだよー」

 いや、まさか。本当に見透かされているのか?

 俺の思考と表情はほぼ完全に独立している。よって、思考内容が顔に出た、という事は考えられない。にも関わらず、“織田信長”の仮面で頑強に覆い隠した俺の内面に、この少女は僅かでも踏み込んだと言うのか。

 いや、そんな事は考えるまでもない。理屈ではなく直感が、それを事実だと告げている。

 初対面の時から、曲者かもしれないと思ってはいたが。まさか、その予感がこんな形で的中するとは。世の中本当に分からない。

「……ふん。無様な」

 俺は当惑と動揺とを無理矢理に抑え込み、今度は一切の油断を排除して仮面を被り直した。

 ここまでだ。これ以上、織田信長の内面に踏み入られる事など、あってはならない。

「ホントは、ノブナガもわかってるでしょ?」

 そんな俺の警戒心を知ってか知らずか、ちょこん、と可愛らしく小首を傾げながら小雪が言う。

 何を、とは問い返さない。小雪が俺に伝えようとしているであろう事は、余すことなく伝わった。

 そして、ソレに対して俺の返すべき言葉は、唯一つだ。少なくとも今は、それだけでいい。

「ああ。否定は、しない」

 俺のその回答にどういう感想を抱いたのか、全く以って想像もつかないが、小雪はにまーっと天真爛漫な笑顔を浮かべた。

「うん、だったらいいんじゃないかな。ねー、トーマとジュンもそう思うよね?」

「よね?ってそんな可愛らしく言われても困るぜ、ユキ。俺は完全に置いてきぼりだよ。なあ、若は理解できたか?」

「いいえ、残念ながら。見事に二人だけの世界を作っていましたからね。妬けてしまうくらいでした」

 どっちに妬いたのかとは訊くまい。にこやかな笑顔で「勿論、両方です」と返されるのが目に見えている。わざわざ自分から進んで鳥肌を立てる必要もないだろう。

「下らん話だ。お前達が気に掛ける意味は無い」

「そう言われると嫌でも気になっちまうんだけどな……ちょ、睨むなって、冗談抜きでコエーんだよそれ!分かった分かった」

 それなりに本気を出して殺気を飛ばしてやると、準はスキンヘッドに冷や汗を浮かべながら引き下がった。一方の冬馬だが、最初から望みがないと判断していたのか、特に詮索してこようとはしなかった。賢明な判断である。

 ある程度の馴れ馴れしさは許容するとしても、超えてはならない一線は確かに存在する。是非ともそこだけは見誤らないで欲しいものだ。

「まあ、ユキが不思議なのは今に始まったことではないですし、置いておきましょう。今は、信長と森谷さんがS組の皆に認められた事を喜ぶべき時かと」

「おー、おめでとー。お祝いにましゅまろをあげる」

「正直俺はお前らが羨ましいよ。俺なんて未だに“葵くんのおまけのハゲ”扱いなんだぜ?」

 準があまり笑えない自虐ネタを披露したタイミングで、妙に勢い良く教室のドアが開け放たれる。

 その騒々しさの時点で何となく予想がついていたが、次いで教室に姿を見せたのは金色スーツのクラス委員長及び、お付きの猟犬メイドであった。

「フハハハハ、皆の者おはよう!九鬼英雄である!さあ庶民共、我に挨拶する権利をくれてやったぞ!」

「おはようございます、英雄。ふふっ、今日も元気そうで何よりです」

「おお、我が友トーマ。それに横にいるのは、我が好敵手、信長ではないか。どうした、遠慮なく我に挨拶するがいいぞ」

「ふん。妄言は程々にしておくべきだな」

 元々が賑やかな三人組に英雄とあずみのイロモノ主従が加わり、更には「あの女狐から主をお守りせねば!」などと妙な決意を叫びながら蘭がダッシュで戻ってきたことで、俺の周囲には手の付けられない混沌空間が完成しつつあった。

 もはや俺にはどうしようもない、と諦め掛けた瞬間、黒板上のスピーカーからチャイムが鳴り響き、数秒遅れて担任の宇佐美巨人が教室に姿を見せる。

 巨人は実にだるそうに教卓の前に立つと、相変わらず覇気の感じられない調子で声を上げた。

「はいはい、チャイム鳴ってるの聞こえてるだろーが。お前らさっさと席に着けー。……って葵に井上に榊原、お前らの席そこじゃないだろ」

 三人は現在、窓際に位置する俺と蘭の隣の席を陣取っていた。無論、巨人の指摘する通り、昨日までは別人の席であったことは言うまでもない。

 何を考えているのか、と俺が問い質すよりも先に、冬馬が巨人に答えた。

「ええ、昨日までは確かにそうでした。つい今朝方、席替えを行ったのですよ。クラス委員長の許可は取ってあります。そうですよね、英雄?」

 冬馬が目配せしながら問いかけると、英雄は堂々と頷きながら言葉を繋いだ。

「うむ!我が友トーマの頼みとあれば、聞き届けるのは当然であるからな!」

「それに、辻さん、久保さん、佐々さん。三人とも席替えに同意して下さいましたね?」

 冬馬達に席を乗っ取られた形となる三人だが、その当人からの確認に迷い無く肯定してみせた。

 それだけ葵冬馬という人物に人望があるのか、或いは借りがあるのか。いずれにせよ、学園中で一目置かれる冬馬の能力を垣間見た気分だ。

「と、言う事です。さて、この席替えに何か問題はありますか、宇佐美先生?」

 穏やかに微笑みながら問いかける冬馬。面の皮が厚いとはこういう人間のことを指すのだろうな、と俺は密かに感心していた。

「あー、そうきたか……まあそういう事なら好きにしていいぞー。全く、可愛くない教え子がいたもんだ」

 疲れたようにぼやく。やる気こそ皆無だが、宇佐美巨人は油断のならない切れ者だ。一連の流れが即興で組み立てられた狂言だと気付いているだろう。

 そして、席を奪われた当人達の証言がある以上、それを指摘したところで無意味。なるほど、確かに可愛くないと言われるのも当然か。

「席が替わるよ!やったねトーマ!」

「ま、そういう訳だから。これからよろしくな、お隣さん」

「ふふ。存分に親睦を深めましょう」

 それにしても、こいつらは本当に何なのだろう。ここまで予想の上を突っ走られると、もはやいちいち思い悩むのも馬鹿らしくなってきそうだ。

  織田信長はあくまで孤高の存在。必要以上に他者と馴れ合う事はせず、己の領分を侵すモノは何であれ容赦なく排斥する。

 俺が“夢”を諦めない限りは、そのスタンスを崩すことは絶対に無いだろう。

「ふん……。勝手にするがいい。俺を煩わせるようであれば、排除するだけの話」

 しかしまあ、こういうのもたまには悪くないかもしれない。

 そんな風に考えてしまう俺は、既にS組の連中に毒されているのだろうか。


 ぎゃーぎゃーと朝っぱらから賑やかなS組の喧騒に包まれながら、俺は心中にて小さく苦笑を浮かべていた。














~おまけの???~






「それで、いい加減に調べは上がったのか?最近俺達のシマで調子に乗っている愚かなヨソ者連中のよ」

「ああ、やっと情報が来たよ。調べてた下僕が使えないせいで、随分と時間を食っちまったけどねぇ。“黒い稲妻”ってグループだそうだ」

「ブラックサンダぁ?ぎゃはは、なんだそりゃ駄菓子かよ!面白っ!そいつら最っ高に面白いな、アミ姉ぇ。ネーミングセンスがイカしてるぜ」

「私―、アレけっこう好きだなぁ。値段の割においしくて飽きないよねぇ」

「奴らの名前なんぞどうでもいい……アミ姉、連中は少しは喰い応えがありそうなのか?最近は雑魚の相手ばかりで詰まらん」

「少なくとも活きだけはいいみたいだねぇ。今朝方、連中の一部が例のアパートに殴り込みを掛けたらしいよ。まあ、結果は言うまでも無いだろうさ」

「はァっ!?シンの家にかっ!?なんだそいつら、自殺志願者かよ。それともアミ姉の客みたいなドMの集団か?どっちにしてもウチにゃ理解できねーなー」

「どんな連中だろうが関係ねぇな。俺達の縄張りで好き勝手に暴れやがったんだ……地獄を見せてやらねぇとな?くくくっ」

「けけけ、賛成賛成―。色々と試してみたい技があんだよな。サンドバッグにゃ困らなさそうだぜ」

「フフフ……連中がどんな悲鳴を上げてくれるのか、想像するだけでゾクゾクしてくるねぇ。今から楽しみだよ」

「……」

「……」

「……」

「zzz」

「「「寝るな!」」」








 想像以上に多くの方々から応援メッセージを頂いたので、奮起して書いてみました。こんな駄文に感想を下さって感謝です。

 事情あって時間があまり取れない為、相変わらず更新は不定期になりそうですが、お付き合い頂ければ幸いです。それでは次回の更新で。



[13860] 四日目の騒乱、前編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:5ac98617
Date: 2010/05/15 07:08

「信長様、信長様。どうかお目覚めになってください」

 
 誰かに―――否、誰かは分かり切っているのだから、そんなまだるっこしい表現はすまい。

 我が従者たる森谷蘭にゆさゆさと身体を揺さぶられて、俺は目を覚ました。

 さて今日は何月何日の何曜日だっただろうか。七割方サボタージュ中の俺の頭脳は、たっぷり五秒ほど思考してからやっと答えを引っ張り出してくれた。

 四月十日、土曜日。

 そう、今日は川神学園への転入を果たしてから初めての休日だった。


「あ、お早う御座います、主!」


 俺が目を開けている事に気付くと、ベッドの傍に立ってこちらを見下ろしながら、蘭はニコニコとやたらに明るい笑顔を浮かべた。

 どうやら料理の途中で起こしに来たらしく、私服に着重ねた純白のエプロンがなんとも家庭的な雰囲気を醸し出している。

 十年来の付き合いの俺にとっては特に目新しくもない格好だが、それでもほんの少しだけ心動かされてしまったのは否定できない。

 これで相手が蘭でさえなければ、溢れ出る新妻オーラに間違いなくノックダウンされていたことだろう。危ないところだった。

 朦朧とした意識の中で益体も無い思考を行いながら、俺は身体を起こして時計を確認する。


「正午を過ぎたか。多少、寝過ぎたな」


 いくら休日とはいえ、平日と起床時間がズレ過ぎている。これはよろしくない。こんな風に昼を過ぎるまで爆睡したのは久しぶりだ。

 まあ今週は転校やら決闘やら川神百代やら、色々と濃い日々が続いたので、知らず疲労が溜まっていたのだろう。


「はっ。畏れながら、これ以上の睡眠は御健康に差し障るやもと愚考し、主にはご起床頂くべく行動致しました。主の許可を得ぬ勝手な振る舞い、お許しください」

「苦しゅうない。主の意を汲み、己が裁量で働いてこそ真の臣と言えよう。褒めて遣わす」

「は、ははーっ!勿体無きお言葉、蘭は果報者にございますっ!」


 半ば寝ている脳味噌が適当に考え出した台詞を、欠伸を噛み殺しながら言ってやると、蘭はえらく感激した面持ちで平伏した。

 こういう時に埃一つないフローリングが役に立つ。と言うか、まさかその為に毎日念入りに掃除しているんじゃなかろうな、こいつは。

 あまり考えたくもない疑惑を抱きながら、体温の残る布団から身体を引き剥がして、洗面所へ向かう。

 頭が冴えてくるまで存分に冷水で顔を洗い、適当に髪型を整えてリビングに戻ると、蘭が狭いテーブルに料理皿を並べているところだった。


「献立は……冷麺か」


 黄金色に輝く麺の上に緑のキュウリと赤のキムチを添え、更にゆで卵や焼豚等の幾つもの食材がトッピングされた、実に色鮮やかな一品である。当然、見た目だけではなく味の方も保障済みだ。 


「それで、蘭」

「ははっ」

「何故、皿が三枚も用意されている」


 俺の眼球が正常に機能しているとすれば、明らかに一枚多い。

 ついでに言うなら、冷えた麦茶の注がれたグラスも一名分余分に用意されている模様である。


「むむ、不覚。主、も、申し訳ございません!蘭はお伝えし忘れておりましたっ」

「何を」

「間もなくお客様がこちらにおいでになるそうです。主にご起床頂いたのは、その事にも関係がございました」

「客?」

 
 休日の真昼にお客様、ねぇ。生憎と心当たりは一人くらいしかないのだが、さて。

 もしやと思い携帯電話の着信履歴をチェックしてみれば、見事に当たりだった。

 睡眠中の俺が一向に電話に出なかったので、代わりにより確実な蘭の方に連絡を入れたのだろう。蘭は休日も鍛錬のために早朝から活動している事が多いのだ。

 悪い事をしたな、と反省していると、アパートの階段を上る軋んだ音が聞こえてきた。

 次いで、ドアをノックする音が数回。噂をすれば何とやら。どうやら当人のご到着のようだ。


「この“気”は……、間違いありませんね。はい、ただいま!」


 嬉しそうに返事をしながら、蘭が玄関の扉を押し開く。

 予想通りの仏頂面でそこに立っていた幼馴染に向かって、蘭は身近な者にしか見せない満面の笑顔を浮かべた。


「いらっしゃい、タッちゃん!」

「おう。……邪魔するぞ」

「邪魔するなら、帰れ」

「はっ、くだらねぇ。ベタ過ぎてツッコミを入れる気にもなれねぇな」


 そっけなくダメ出しをしながら今まさにリビングに足を踏み入れたこの男こそ。

 我らが幼馴染にして至高のツンデレ。タッちゃんこと源忠勝である。

 忠勝は目つきが鋭く言葉遣いが乱暴で喧嘩っ早い、の三拍子が揃った生粋の不良だが、実際に接してみると意外と親切な部分も多かったりする。

 面倒見もよく、機転が利いて腕っ節も強い。何とも頼りがいのある出来た人間なのだ。

 にも関わらず、その素顔を知る人間はあまりにも数少ない。第一印象で損をするタイプの典型と言えよう。もっとも、本人は他人にどう思われようが全く気にしていないのだが。


「ちっ、このアパートは相変わらずのボロさだな。階段がいつ抜けるかと冷や汗モンだぜ。その割に部屋だけは妙に綺麗ってのが納得いかねぇが」

「ふん、此処は俺の住居、侵されざるべき寝所だ。故に、清純を保つのは当然のこと」

「アホか。家事をことごとく蘭に任せっきりの野郎が威張ってんじゃねえ」

 
 毒づきながらベッドの縁に腰を下ろして数秒後、忠勝は気難しい表情を浮かべた。

 布団にまだ俺の体温が残っている事に気付いたらしい。


「電話に出ないと思ったら、やっぱり寝てやがったか。ったく、怠惰な生活してやがるぜ。蘭の世話がねぇとまともに生きていけるかどうかも怪しいな」

「その時は、忠勝。お前を新たな世話係に任命するだけの話」

「ええっ!?だ、ダメです!タッちゃん、主の世話をするのは私だけの仕事なんです!取らないで下さいよ~!」

「誰か取るかボケ!こっちから願い下げだ、お前は好きなだけ世話焼いてろ!」


 口を開けば文句と小言ばかりだが、忠勝はどこか楽しそうな様子だった。蘭は言うまでもなく活き活きとしているし、勿論俺も楽しんでいる。

 気心の知れた三人だけの集いなのだ、楽しくない訳があるまい。しかも三人が三人とも事情あって友人が少ない身となれば、尚更である。


 源忠勝と俺達との出会いは、およそ十年程前にまで遡る。


 当時の堀之外で起きた“とある事件”を通じて知り合って以来、俺達は適度に衝突と和解を繰り返しながら友情を育んできた。

 今では紛う事なき親友同士であり、互いに互いの本性を知る数少ない人間の一人となっている。


 織田信長と、森谷蘭と、源忠勝。三者が力を合わせれば、大抵の障害は無理矢理に突破できるだろう。乗り越える、ではない辺りがミソである。


「これは……、冷麺か。もしかしてオレの分まで作ったのか?」


 テーブル上の皿の枚数に目敏く気付いて、忠勝が尋ねる。それに対し、蘭が弾んだ声で答えた。


「はい!電話のとき、昼ご飯がまだだって言ってましたから。それに、久し振りにタッちゃんと一緒に食べたかったですし!」

「お節介なやつだな、ったく。……だがまあ、一応感謝はしといてやる。ありがとよ」

「えへへ、蘭はタッちゃんにお礼を言われてしまいました、主」

「くく。お前も漸く、素直に感謝する事を覚えたか。忠勝」

「勘違いするんじゃねえ、文句を付けながら食うのは食材に失礼だから言ってやったまでだ」


 忠勝の素敵なツンデレっぷりは今日も絶好調だった。これで自覚がないのだから恐れ入る。

 その後、三人で黙々と冷麺を啜る。何年も昔に忠勝が「食事は静かにするもんだ」と主張し始めて以来、俺達は食事中の発言は自重する事にしていた。

 賑やかでなければ皆で食べる意味が無い、と当時の蘭は半べそを掻きながら反対したものだが、そんな蘭も今ではこの静かに流れる時間を気に入っているようだ。


 数分間、ずるずると麺とツユを啜る音だけが部屋に響く。客観的に見るとさぞやシュールな光景だろう。


「ふう。また腕を上げたんじゃねえか、蘭。そこらのラーメン屋なんぞよりよっぽど上等な味だぜ」


 食事を終えて、冷たい麦茶で一服しながら忠勝が口を開いた。

 全く以ってその通りだと思う。スーパーの安売り品とボロアパートの貧弱なキッチン設備でここまでの味を出すのは容易ではなかろう。

 実際、本格的に勉強すればそちらの道でもやっていけるのではと真剣に検討したくなる程に、蘭の料理の才能は突き抜けているように思える。


「えへへ、蘭はタッちゃんに褒められてしまいました、主」

「くく。お前も漸く、素直に賞賛する事を覚えたか。忠勝」

「あのな、信長。てめぇはオレを何だと思ってやがる」


 それは勿論ツンデレですが何か、と言いたいが殴られるのは嫌なので耐える。幼馴染の関係には遠慮も容赦もないのだ。必要以上に刺激するのは得策ではない。


「ああ、そういや……オイ。こいつを取っとけ」


 ぶっきらぼうに言いつつ、忠勝は自分の脇に置いてあった紙袋を差し出してくる。受け取って中身を覗いてみれば、駅前の人気洋菓子店の箱が姿を見せた。


「和菓子の方が好みって事は分かってるがな。別に洋も嫌いって訳じゃねぇだろ」

「わー、これってベーカリー・ラクスティの梱包じゃないですか!あそこってすぐに品切れになるから入手が難しいって噂になってるんですよ。わざわざありがとう、タッちゃん!」


 これで三時のおやつは決定です、と上機嫌にはしゃぐ蘭。


「仕事で依頼人に渡されたのを処理できねぇから厄介払いしただけだ。言っとくが別にお前らの栄養状態を気遣った訳じゃねぇぞ」

 
 ツンデレ全開な台詞を無自覚に吐きながら、忠勝は俺に向かって僅かに目配せした。


 ……やれやれだ。やはりただ三人で集まって呑気に駄弁りに来た、という訳ではなかったか。まあ何となく予想はしていたのだが、遣る瀬無いものがある。

 
 この心地良い空気をもう少し楽しんでいたかったのだが、仕方がない。


「蘭。忠勝と話がある。席を外せ」


「え、あ……は、はい、主。蘭は了解致しました……」


 未練たっぷりな様子でちらちらと振り返りながら、しょんぼりと部屋から退出しようとする蘭。

 その哀愁漂う背中につい笑ってしまいそうになるのを堪えて、俺は言葉を続けた。


「但し。三時までには戻れ。舌の肥えた客人を満足させられる茶を淹れるには、従者が要る」

「は……、ははーっ!三時のお茶会を励みに、蘭は己を鍛え上げて参ります!」

 
 途端に元気を取り戻して、そのままの勢いで部屋の外へと飛び出していく。

 何とも気分の浮き沈みが激しい奴だ。あの立ち直りの早さは見習うべきポイントかもしれない――などと頭の片隅で思考しながら。

 二人だけになった部屋で、俺はベッドの対面にある椅子に腰掛けて、忠勝と向かい合った。

 数秒間の沈黙の後、切り出す。


「それで、忠勝。何用か」

「まずはその面倒くせぇ喋り方をやめろ。誰も聞いちゃいねえし、今は蘭もいねえんだからな」

 
 ふむ、言われてみればそれもそうだ。唯一の従者が不在なら、主君の存在は必要ない。

 今この場に限っては、俺が“織田信長”を演じる理由は皆無だった。

 その事に思い至った以上、俺としても不要な我慢はすまい。我慢は身体の毒である。


「あー、あー。やれやれ、普通の喋り方をするのも久々な気がするな。何だか“あっち”が板に付き過ぎてて、本来の喋り方に違和感を覚えつつある自分が怖い」

「……相変わらず、蘭とはいつもあんな調子なのか?二人だけの時でも」

「相変わらず。いつだってあいつは従者で、俺は主君だ。おはようからおやすみまで、ずっとな」


 肩を竦めて皮肉っぽく答えると、そうか、と忠勝は少し暗い表情で頷いた。

 幼馴染の忠勝は、俺と蘭の複雑な関係を誰よりも良く理解している。俺達主従を取り巻く厄介な事情を知っている以上、俺の言葉には感じるものがあるだろう。


「色々と言いたい事もあるが……これは結局のところ、てめぇらの問題だからな。オレが口出しするのも違うだろ」

「ああ。そうしてくれると助かる」


 実際、こればかりは誰かにどうこう言われて解決するような問題でもない。

 答えの出ない問答をあれやこれやと続けるよりも、今は優先すべき事があるハズだ。


「それで?その話がしたくてわざわざ蘭を追い払った訳でもないだろう、タツ」


 ちなみにタダカツを略してタツ。蘭のタッちゃんも由来は同じである。

 実のところ、最初はカツと呼んでいたのだが、そう呼ぶ度にキレて殴りかかってきたので仕方なくタツで譲歩したという背景があったりする。

 子供の頃の忠勝は今以上に喧嘩っ早かったのだ、という微笑ましいエピソード。

 
 閑話休題。


「ああ、そっちも気になるっちゃあ気になるが、今のオレが訊きたいのはその事じゃねぇ。信長、てめえ……どういうつもりで、ウチに転入してきやがった」

「……成程、そういうことか。今まで訊かれなかったのが不思議なくらいだな、それは」


 忠勝の鋭い目が据わり、声も低くドスの利いたものへと変化する。ただそれだけで、室内の雰囲気が重苦しいものへと染め上げられていくのを感じた。

 どうやらこの件に関しては、忠勝は真剣らしい。適当に答えたりしては殴られる程度じゃ済まないかもしれないな。心して掛からねばなるまい。


「随分と気にするんだな、タツ。俺が今までどういう風に生きてきたか知らない訳じゃないだろ?何故今更になって文句を付ける?」

「確かにオレはてめえの行動に関しちゃ干渉しなかったさ。ヤバい連中と関わってる事も、二人分の学費を稼ぐ為の手段の事も、それに―――太師高でてめぇらがやらかした事も、な」

 
 太師高とは、俺と蘭が川神学園への転入前に通っていた県立校の通称である。


「だがな、それを“表側”に持ってくるってんなら話は別だ。てめえと蘭が、太師高でやったのと同じような事をウチの学校でもやるつもりなら、オレはそれを見過ごす訳にはいかねぇんだよ」


 俺の目を真っ直ぐに見据えて語る忠勝の表情からは、悲壮な使命感のようなものが感じられた。こいつのこういう顔を見るのは随分と久し振りな気がする。


「やけに拘るな。母校が大切……ってタイプでもないか、タツは。だったらアレだ、学園内に誰か好きな女でもいるのか?で、俺の魔の手がその娘に伸びるのを心配してるとか」

「……」


 割と冗談のつもりで言った台詞だったのだが、忠勝はなぜか沈黙してしまった。
 
 まさか意図せずして図星を突いてしまったのだろうか。だとしたら何とも申し訳ないことをした。

 そういえば随分と昔に、好きな人がいると聞いた覚えがあったが、もしかするとその恋は未だに現役なのかもしれない。

 いや、きっとそうなのだろう。何だか忠勝にはそういう純情な想いが似合う気がする。


「成程な。そういう事なら、心配するのも道理だろう。川神学園が太師高と同じような状態になったら、好きな娘の青春に拭い難いケチがつくのは間違いない。それが嫌だったと」

「……否定はしねぇ。オレは、あいつには普通の学園生活を送らせてやりたいんだよ。あいつの幸せを見届けるのが、オレの役目だ」

 
 力強い意志を双眸に込めてこちらを睨む忠勝の姿は、最高に眩しかった。

 常に不機嫌そうなイメージしかない忠勝も、その内面ではちゃんと青春していると言う訳か。

 これで色々と合点がいった。どうにも先程から調子がおかしいと思っていたら、そうかそうか。恋なら仕方が無い。


「くくっ」

「んだよ、笑う事はねぇだろうが。心配しなくても、似合わねぇってのは承知の上だ」

「くくくっ、別にそういうつもりじゃないんだがな。ただ、恋は盲目という言葉を思い出さずにはいられなかっただけだ」


 今の忠勝は完全に目が曇っている。それだけ想い人の事が大切だということなのだろうが、しかし“らしく”ないのも確かである。


「川神学園の学長の名前を思い出してみるべきだな。或いは3-F所属の孫娘の方でもいい。あと、あの体育教師もイイ線いってるか」


 川神鉄心、川神百代、ルー・イー。川神院を代表する強者達。


「なぁ、タツ。俺がその人外どもを“どうにか”して、太師時代のような状況を再現できると……本当にそう思うのか?」


 脳裏に蘇るは愛すべき我が古巣、県立太師高等学校。


 俺と蘭の入学当初、そこにあったのは無秩序な混沌だった。堀之外という街を象徴するかのような、ルール無用の無法地帯。

 品の無い人間達による品の無い争いが日常的に繰り広げられ、それによって学校としての正常な機能が完全に麻痺している状況だ。

 そんな様があまりに見苦しく、腹立たしいものだったので、俺はいっそ自らの手で学校を統治することに決めたのであった。

 もっとも、理由はそれだけではない。この十数年の人生で俺が培ってきた力がどれほどのものなのか。学校と言う一つの社会構造にどれほどの影響を及ぼす事が可能なのか。


―――俺の夢は本当に実現できるのか。


 丁度、何らかの形で試す機会が欲しかったところでもあった。

 見せ掛けの威圧と多少の暴力、更にはそれらによって作り上げてきた裏社会における人脈と噂を最大限に活用して、まずは自身の所属するクラスを掌握。

 危機感を覚えて攻撃を仕掛けてきた他クラスの連中を適度に痛めつけると、お次は先輩方の御登場である。

 そんな風にわらわらと沸いて来る反抗勢力を、手段を問わず叩き潰し、従う者だけを配下に加える。

 一年間を通じてそんな闘争を繰り返し、勝利を重ねている内に、いつしか校内で俺に逆らえる人間は居なくなっていた。教師ですらも例外はない。皆が俺を恐れ、畏敬の念を払って接してきた。

 授業中に騒いでいる連中も、俺が睨めば借りてきた猫の如く大人しくなったし、クラス同士の抗争は俺が出張るだけで瞬時に鎮圧された。

 いつしか恐怖による新たな秩序が生まれ、気付けば俺は、事実上の独裁者として君臨していたのであった。


―――だが。川神学園で同じ事が可能かと言われれば、答えは否。断じて否である。


 まず第一に、トップにあの“武神”が居る時点で論外だ。恐怖による学園支配など目論めば、呼吸する間もなく叩き潰されて終了だろう。

 そして、あの爺さんを除外したとしても尚、障害は多い。

 天下の九鬼財閥の御曹司に、日本三大名家が一つ、不死川家の御息女。本当の意味で敵に回した瞬間、背後に控える巨大な勢力が動き出すような、別の意味で危険な連中もいる。

 そこに加えて言わずと知れた川神百代だ。正直言って難易度が高いなんてものじゃない。

 そんな事は、これまで川神学園の生徒を続けてきた忠勝の方が良く理解しているハズなのだ。


「……ああ、そういうことかよ」


 俺から視線を外すと、忠勝は苛立たしげに頭をガリガリと掻きむしった。いつにも増して不機嫌そうな面だが、その怒りは主に自分自身の迂闊さに向いているようだ。


「ちっ、確かに、頭に血が昇ってたらしい。んな簡単な事にも気付けねえとは情けない限りだぜ。ったく、アホかオレは」

「なに、恋愛は人を狂わせると言うからな。タツも人の子、例外ではなかったってだけの話だろ。気にする事はないさ。何より面白いから俺は許すぞ」

「うぜえぞボケ!……しかしまあ、八つ当たりみてぇな形になっちまったのは確かだ。一応は謝っておく、悪かった」

 
 忠勝は僅かに表情を和らげて頭を下げた。「デレたか」と無性に言いたくなる衝動をどうにか抑える。今それをやると、ツンに逆戻りを通り越してキレる可能性が高い。


「それにしても、太師か。今頃はどうなっている事やら」


 織田信長と云う独裁者が消えた事で、再び混沌の坩堝と化しているのだろうか。それとも誰かが俺の跡を引き継いで秩序を保っているのか。

 まあ、俺にとってあそこは既に通過地点の一つでしかない。後は野となれ山となれだ。


「信長。てめえがウチで無茶をするつもりはねえってのは分かった」


 最初に比べればかなり険の取れた口調で、忠勝が切り出した。


「だが、だったら何が目的だ?わざわざ“あんな手段”で入学金を稼いでまで、ウチに転入しようと思った理由が分からねぇな」

「タツと同じ学校に通いたいって事だよ。言わせんな恥ずかしい」

「だったら言うなアホが!オレも聞きたくなかったぞボケ!ちっ、いいからさっさと話せ」


 場を和ます冗談はさておき。俺が川神学園への転入を決意した背景には、まあ幾つかの理由がある。
 

 太師高における俺の計画は万事が上手く運んだが、問題が一つだけ生じた。それは、あまりにも上手く行き過ぎたことである。


 予想に反して最初の一年で概ねの目的を達成してしまった俺は、今後の身の振り方を色々と考えた。

 このまま底辺校の番長を続けるだけで、十代の貴重な三年間を無為に過ごしてしまっていいのか。当然、答えは否だ。良いハズがなかろう。


「タツ。お前も知っての通り、俺こと織田信長には夢がある」

「……どうした、突然。一年や二年の付き合いじゃねえんだ、てめえが難儀な夢を抱えてる事くらいは知ってるよ」

「夢とは坐して叶うのを待っていても仕方が無い。だから俺は何としても前に進まなければならなかった」


 確かに俺は太師高の支配を通じて、自身の成長と実力をある程度、確認することができた。

 しかし、足りない。その程度では全く以って足りないのだ。俺の最終目標地点、すなわち“夢”に届かせるには、何もかもが不足している。

 知識、人脈、経験、学歴。十代を終えるまでには、それら全てを一ランク上のものへと昇華させる必要性があった。


 要するに、川神学園は俺にとっての修行場なのだ。


 川神学園のSクラス、特進組は有力者の子息が多く集う。学生期間の内にどういう形であれ関わっておけば、将来思わぬ形で役に立つかもしれない。

 実力が足りなければ問答無用で落とされる、という厳しいルールも、修行にはかえって好都合だ。元々頭の出来にはそれなりに自信がある。二年間マジメに勉強すれば高偏差値の大学を狙うのも不可能ではないだろう。

 半ば公然と相手に喧嘩を吹っかけられる制度である“決闘システム”と、常に強者との戦闘を求めている川神百代の存在がネックだったが、それも修行の一環と考えれば悪くないものだ。

 それらの試練を乗り越えることで、俺は更に成長できる。胆力演技力思考力判断力行動力、俺にはまだまだ鍛える余地が残っている筈なのだから。

 
 “織田信長”をより理想的な存在として完成させるために、俺はあえて虎穴に足を踏み入れた。
 
 
 正直、転入一週間目にして色々と弱音を吐きたくなる現状だが、しかし逃げ出す訳にはいかない。 


 
 全ては、“夢”を叶えるためなのだ。



「……とまあ、大まかな理由としてはそんなところだ。納得してくれたか?」

「ああ。てめえが例の夢に関して、今でも真剣だって事は分かった。そこまで決意が固いってんなら、オレも邪魔をする気はねぇ」


 目を瞑りながら、忠勝はどこか諦めたような調子で呟いた。

 子供の頃、俺が一度だけ語って聞かせた“夢”の内容に、忠勝は少なからず反対したものだ。この態度を見る限り、その意見は未だに変わっていないらしい。

 まあ、それも当然の話か。俺の夢はそれだけ、一般的な人間の感性から“外れて”いる。俺はその程度の事は自覚していた。


「ただな。あまり無茶すんじゃねぇぞ。一昨日、グラウンドでモモ先輩に絡まれた時はどうなるかと思ったぜ。ヒヤヒヤさせんなボケ」

「おおっと、俺を心配してくれるとは。くくっ、タツはやはり優しいな」

「違ぇよ、勘違いすんなボケが。放って置いて昔馴染みが取り返しのつかねぇ事になったら俺の寝覚めが悪くなるからな。それだけだ」

 
 憮然とした表情で吐き捨てる忠勝。これが照れ隠しだと分からなければ、源忠勝の親友を名乗る資格はない。

 目つきと口は悪くとも友誼に厚く、世話好き。そんな我が幼馴染には是非ともずっと変わらずにいて欲しいものだ。


「……」

「……」


 お互いに言うべき事は言った、という風に、俺も忠勝も口を閉ざした。

 そのまましばらくの間、静かな時間が流れる。気まずさや居心地の悪さは、少しも感じなかった。


「ああ、それと」


 数分後。ふと思い出したような調子で忠勝が声を上げた事で、沈黙は途切れる。 


「仕事絡みで親父から何か話があるらしい。今日の夕方に事務所まで来て欲しい、だとよ」


 忠勝の言う親父とは、何を隠そう川神学園2-Sクラスの担任教師、通称ヒゲこと宇佐美巨人である。名字が違うのは、巨人が孤児院出身の忠勝を養子として引き取ったからだ。

 巨人は堀之外の某所に代行業――いわゆる何でも屋の事務所を構えており、忠勝は日頃からその仕事を手伝っている。依頼内容は様々で、浮気調査やらストーカーの特定やら合コンの人数合わせやら、とにかく節操無く引き受けているらしい。

 あまり表沙汰に出来ないような類の依頼も結構な数をこなしているという事で、宇佐美代行センターと言えば裏社会でもそれなりに名の通った事務所である。

 その巨人からの呼び出し、それも仕事絡みと来れば、用件の内容も大体は予想が付こうと言うものだ。十中八九“裏側”関係だろう。

 
 例のクスリ―――ユートピアの件と言い、最近は“裏側”の騒がしさがやけに目立つ。

 
 ここのところ、あの板垣一家の動きが妙に活発化している事を考えても、俺にはこの川神で何事かが起きようとしているような、そんな予感がしてならないのだ。


「タツ。飯時に行くから夕食を用意して待っていろ、とおっさんに伝えてくれ」


 休日にも関わらず、わざわざこちらから事務所まで足を運ぶのだ。それくらいの見返りはあっても罰は当たるまい。


「ちっ、相変わらずセコい野郎だぜ。まあ女遊びに使われるよりかは食事代に消えた方が幾らかマシかもしれねぇがな。分かった、伝えておく。……オレの用事はこれで終わりだ」

「ふむ、だったらさっさと蘭の奴を呼び戻してやるとするか。そろそろ三時だしな」

 
 今も中庭で律儀に鍛錬を続けているであろう我が従者を出迎えるべく、玄関のドアを押し開く。


「三時!三時でございますねっ!?蘭はすぐに参ります!参ってお茶をお入れ致します!」
 
 
 忠勝を交えた久々の茶会をよほど楽しみにしていたのだろう。

 俺がドアを開けた途端、こちらに向かって中庭から叫ぶや否や、あろうことか蘭は直接ジャンプし、一瞬で二階の部屋の前まで飛び上がってきた。

 ああ、やはりこいつも人外なんだなぁ、と実感せざるを得ない光景であった。


「ところで、僭越ながらお聞きしても宜しいでしょうか。先程まで主は何のお話を?」

「何。天下国家に関する諸問題について、思う所を論じていた」

「流石は信長様、談ずるところの壮大さが違います!蘭は感服致しました」

「おいてめぇら、合流早々アホな会話してんじゃねえよ。イライラさせんな」

「あー、酷いです、タッちゃん!そんな意地悪ばかり言ってると愛しの一子ちゃんに嫌われてしまいますよー」

「なっ……!蘭、何でその事を知ってやがるっ!?」

「愛しのと申したか。蘭。詳細を」

「てめぇも食いつくなボケ!ちっ、薮蛇もいいところだぜ……ったく」


 
 そんな調子で始まったお茶会は、幼馴染のコイバナという最高の話題を肴に、大いに盛り上がったのであった。


 
 ちなみに忠勝の想い人だが、何とあの川神百代の義妹であることが判明した。なんというチャレンジャー、そこに痺れる憧れる。真似はしないがな!







~おまけの風間ファミリー~





「っくしょーい!ううっ、急にくしゃみがぁ」

「花粉症かもしれないな。この季節、症状持ちは辛いだろうし」

「風邪でも引いたんじゃないの?……あ、いや、それはないかな」

「モロの言うとおり。ワン子が風邪を引くわけがない」

「ぐぬぬ、どーいう意味よ!何だかすっごいバカにされてる気がするわ……」

「ワン子はいつも身体を鍛えていて健康的だから、風邪なんて引く理由が無い。ってモロと京は褒めてるんだと思うんだけどねぇ」

「えっ!?そ、そうだったの!?あ、あはは、てっきりバカだから風邪引かない~とか言われてるんだと思って」

「なんという被害妄想。自分が褒められても気付けないとは、さすがの私も同情せざるを得ない」

「うう~。お姉さまぁ」

「おーよしよしワン子、存分に私の胸で泣くといいぞ」

「そういえば大和、例の転入生ズについて何か新情報はないか?オレ、どーにもあいつらのことが気になるんだよなー」

「それなんだけど……太師高の知り合いから聞いた話によると、あの二人、ウチに転入してくる前は、冗談抜きで学校を一つ支配してたらしい。しかも極端な恐怖政治」

「えー、支配ってそんな大袈裟な。ちょっとばかり仕切ってただけでしょ?」

「いやー、そうでもないと思うぞ、モロ。私がこんな風に言うのも何だが、あいつはとんでもない化け物だよ。本当に全校生徒を恐怖で抑え付けていても不思議じゃないな」

「同感。あの殺気、尋常じゃなかった。……正直、人間とは思えない。アレは悪魔」

「その悪魔にウチの学園が狙われてるのかもしれないんだ。注意だけはしておかないと」

「オレ達の学園はオレ達の手で守る!青春学園バトル物って感じだな。おおー、なんだか燃えてきたぜっ!」

「キャップは悩みが無さそうで羨ましいよ、ホント……」






 


 今回は主に説明+次回への繋ぎ的な話でした。あとゲンさんは皆のヒロイン。

 
 尚、感想で何人かの方から共通の疑問が上がっている様なので、この場を使って回答しておきたいと思います。


Q1.どうして主人公はわざわざ危険が多いと分かっている筈の川神学園に転入したの?
 
 
 この疑問に関しては、大体は今回で説明された通りです。特に主人公がMだという設定はありません。


Q2.鍛錬の時間が一日一時間って少なすぎじゃない?

 
 全く以ってその通りです。が、これに関しても一応はちゃんとした理由を用意してありますので、どうか作中にて明かされるまでお待ちください。プロット上そろそろ判明する予定です。

 

 今回の事で痛感しましたが、やはり色々な設定を小出しにし過ぎるのは悪い癖ですね。説明不足になってしまっては元も子もありません。反省の材料とさせて頂きます。

 
 それでは、次回の更新で。



[13860] 四日目の騒乱、中編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:5ac98617
Date: 2011/02/07 02:56
「じゃあな、オレは先に事務所に行ってる。あんまり待たせるんじゃねぇぞ」

「ふん。精々、夕食に期待しておこう」

「また後でね、タッちゃん!」

 午後五時。茶会の開始から二時間が経ち、茶菓子とコイバナが尽きる頃である。

 忠勝はおもむろに立ち上がると、ほっとしたような表情でアパートを後にした。

 茶会中、俺と蘭によって延々と続けられる執拗な尋問に、流石に誤魔化し切れないと観念したのか、忠勝はムスッとした顔で色々と吐いてくれた。

 初恋の相手が孤児院時代からの幼馴染であり、その想いは現役である事。

 どうにも自分は彼女にとって家族でしかなく、男として認識されていない節がある事。

 今年度になって同じクラスになれたのは良いが、今更どう距離を縮めるべきなのか分からないんだがどうすれば云々。

 うむ。聞いていると、忠勝はいたって健全な青春を送っているようで何よりだ。

 俺から見た忠勝は少々ストイック過ぎて、正直なところ女というものに興味がないのだと思われても仕方の無い部分があった。その旨を言うと、


「違ぇよ。一子以外の女に興味がねぇだけだ」


 と実に男前な答えを頂けた。十数年もの間、純粋な片想いを貫いている忠勝はさすがというか何というか。是非とも報われて欲しいものだ。

 幸運にも今年はクラスが同じ(2-F)なので、接近のチャンスは幾らでもある。俺も影ながら応援させて貰うとしよう。

「さて。準備が、必要か」

  源忠勝の恋愛事情についての思考を一旦打ち切って、俺は行動を開始した。

  さしあたって俺が考えるべき事項は、今晩にでも降り掛かるであろう厄介事にどう対処するかだ。

「主。宇佐美さんのお話と云うのは、やはり例の件でしょうか」

「十中八九。お前も準備を怠るな。慢心と油断は破滅を招く」

「ははーっ、その御言葉、蘭は確かに心に刻み申し上げました!」

 まあ、蘭が準備しなければならないのは心構えくらいのものだろうが。問題は俺の方だ。

 大抵の事は武力で突破できる蘭と違い、基本スペックが一般人の俺は入念に準備しなければあっさりと足元を掬われる羽目になる。

 まずは服装からか。それに小道具も可能な限りは持ち込みたいところ。状況を推測するに、今日の俺に必要なものは……この辺か。念の為にアレも持参しておこう。

 そんな調子でガサゴソと装備を整えた後、時計が午後六時を回るまで適当に時間を潰してから、俺は蘭を引き連れてアパートを出立した。


 紅い夕日が沈み、夕方と夜の境界が訪れると、日本有数の歓楽街たる堀之外は真の意味での賑わいを見せ始める。

 朝方だろうが昼間だろうが治安が悪いことには変わりないが、しかしそれも夜間の危険さに比べれば生易しいものだ。

 メインストリート、親不孝通り。俺と蘭が今まさに足を踏み入れたこの通りは、ほとんど無法地帯も同然である。

 夜の闇に紛れ、後ろ暗い経歴を持った連中が雑踏を形成し、各々の欲望に従ってありとあらゆる悪を為す。

 ここでは、“力”が全てだ。暴力権力財力知力、なんでもいい。他者を圧倒する何かしらの力を持つ者だけが唯一絶対の正義。弱者には強者の餌となる以外の運命は待ち受けていない。

―――そうだ。だから、気の遠くなるほどの昔、俺は強者になることを選んだ。

 外出用の高級な黒コートを翻し、三歩後ろに忠実なる従者を引き連れて、何も恐れる物はないとばかりに織田信長はネオンで満ち溢れた通りを闊歩する。

「アレは……」「の、信長だ……!」「オイお前、早く道を開けろ!死にてぇのかっ!」

 そんな俺の姿に気付くと、群衆は一様に青褪めた顔で自ら道を空けた。

 堀之外の街、特に親不孝通りに集う類の人種で、俺の顔を知らない者など殆ど居ない。知っていて道を開けない命知らずとなれば、尚更である。

「お、織田さん、久し振りです、この前の件ではお世話になりやした」

 腰を低くして恐る恐る挨拶してくる者には鷹揚に頷き返しながら、歩調を変えずに悠然と足を進める。

 ここにいる連中の大半は、過去に一度は何らかの形で俺に関わっていた。大抵は俺が叩き潰した相手だが、中には先程のように恩を売った奴も多い。

 何にせよ確実に言えるのは、この堀之外において、織田信長は絶対的な強者だという事だ。

―――日々の食事を得る為に行ったスリが露見し、半死半生になるまで叩きのめされた。目つきが気に入らないと腐臭の染み付いたゴミ箱へぶち込まれた。それでもただ生き残るためにひたすらもがき足掻いた、惨めな幼少時代。

 力が欲しい。力があれば。当時の俺は、自身の持つ最大の“武器”をまるで理解していなかった。だから、地面に這い蹲って無様に震えるしかなかったのだ。

 今は違う。今の俺には、力がある。

 あれから十数年の歳月を生き抜く過程で、俺はこの腐った街で現在の地位を築き上げてみせた。

 
 それでも、未だ真の目標地点には遠い。しかし、いつかは必ず実現してみせる。幼心に抱いた、あの果てしない夢を。



「あ、お、織田さん!?」


 感傷に浸っていた俺は、狼狽と恐怖を足して二で割ったような声で現実に引き戻された。

 気付けば、良く見知った集団が俺の目の前に固まっている。懐かしき太師高校時代、つまりは去年までクラスメートだった連中のグループだ。何人かは俺の知らない顔も混じっているが。

「如何にも。久しいな」

 春休み突入寸前の終業式にて、全校生徒を相手に転校を宣言したその日以降、俺は太師高の連中と一度も遭遇していなかったのである。

 それも理由の一つだろうが、今の今まで俺は元クラスメートの存在を完全に失念していた。

「あ、は、はい」「お、お久しぶりっす……」
 
 おずおずと挨拶を返す元同級生共は、明らかに腰が引けていた。まあ当然か。太師時代に俺がしてきた事を考えれば、気安く接するなど自殺行為も同然だ。

「え、何スかセンパイ、この人そんな偉いんスか?チョーワルい人っスかぁ?ほーへー、パネェっスねぇ」

「お、おい!前田、ちょっと黙ってろっ」

 ケバケバしい金髪と耳から大量にぶら下げたピアス。いかにも頭の中身が軽そうなチャラチャラした男が、俺の顔を無遠慮に眺め回す。

 元クラスメートをセンパイと呼んでいるという事は、太師の新入生か。道理で俺が顔を知らない訳だ。

「えー、何スかセンパイ方、ちょっとビビり過ぎじゃないんスか?言いたかねーんですけどォ、ちょーっとダサイっスよ?」

「馬鹿ヤロウが、てめーこの人のこと知らねぇのかよ!“太師の魔王”だぞ!」

 初めて聞いたぞそんな称号。しかも残念なことにネーミングセンスが致命的に欠如している。魔王て。

 どうせならもう少しくらい気の利いた称号にして欲しかった、と思う俺は贅沢なのだろうか。

「はーっ、この人がそーなんスか。でもこの人、アレなんスよね?もうウチから引き上げたんスよね?要するにィ、イモ引いたんじゃないッスか。別にそんな風にヘコヘコする理由なくないっスか?」

「バカ、てめ、なんつー……!あ、す、スイマセン織田さん、コイツ新入りで礼儀を知らなくて……っ」

  見る見るうちに顔を青くして、元クラスメートは無理矢理にでも頭を下げさせようと、前田と呼んだ後輩の後頭部に手を伸ばす。

 が、前田はその手を鬱陶しげに払いのけて、ニヤニヤしながら言葉を続けた。

「えーっと、織田サン?でしたっけ?オレってなんつーかー、下げたくない頭は下げないって決めてるんスよォ。ポリシーってやつ?で、アンタ、“魔王”って呼ばれてるくらいなんスからチョーつええんスよね。実はオレもケンカには自信アリアリっつーか地元じゃ負けなしっつーか?ってワケなんでェ、ちょーっと相手してもらえると嬉しいんスけど」

 言葉の途中から何かを諦めたように天を仰いでいた元クラスメートだが、流石に見過ごせなくなったのか、血相を変えて前田に掴み掛かった。

「アホなこと言ってんじゃねぇよ、てめぇ死にてぇのか!今すぐ謝れ、そうすりゃ――がっ!?」

「センパイ、正直ウザイっスよ。オレ、この人とハナシしてるんスから、邪魔しないでくださいよぉ」

 なるほど。ケンカに自信ありとは、何も口先だけではなかったらしい。

 固めた拳で無防備な腹を殴られた元クラスメートは、一撃で気絶したのか、ピクリともせずアスファルトの上に転がっている。

 改めて観察してみれば、その身体はチャラい外見に似合わず、引き締まった筋肉で覆われていた。

「前田ァ、てめぇ!!」「センパイ殴ってタダで済むと思ってんじゃねぇだろうな!」

「だァ、かァ、らァ。オレはそっちの人と話してるんだっつってんだろォが、貧弱野郎どもがァ!!……で、どうなんスか織田サン、イモ引くってんならそれでもいいッスよぉ?」

 自分を取り囲む元クラスメートの集団を恐ろしい形相で一喝して黙らせると、前田は一転してニヤニヤと笑いながらこちらに問い掛ける。なるほど、そちらが本性と言う訳か。

 対する俺はと言えば、無礼な物言いに怒るよりもまず、その度胸に感心していた。いくらその自信が無知から来るものだとしても、こうも躊躇無く“織田信長”に喧嘩を売る命知らずがいるとは。

 堀之外のチンピラどもは大抵が軽く威圧しただけで膝を屈するのだが、稀にこういう変り種が現れる事がある。

「主――――」

 おっと、従者へのフォローを忘れていた。これだけあからさまに喧嘩を売られているのだ、そろそろ蘭の忍耐ゲージが危険域に達する頃だろう。

「蘭。下がれ」

「……はっ」

 俺の背後で静かな殺気を漲らせていた蘭を控えさせる。

 危ないところだった。あと数秒でも放置していたら、親不孝通りに局所的な血の雨が降っていたかもしれない。

 なにせ今日の蘭が腰に提げているのは、訓練用の木刀などではないのだから。

「ふん。些か、後輩の教育が不足しているようだな」

「す、スイマセンっ!」「今すぐこいつシメますから、どうか俺たちは……!」

「構わん。此処で遭ったのも何かの縁。俺が直々に、矯正してくれよう」

「おお、いいッスねぇ。そうだよなそうだよなぁ、オトコならそうでなくっちゃア」

 俺が戦いの意思を示した途端、前田は心底嬉しそうな笑顔を浮かべた。

 話していて何となく予想はついていたが、やはり戦闘狂バトルジャンキーの類か。竜兵や川神百代に近い性質を感じる。ぞっとしない話だった。

「話が決まったところで、場所はどォしましょおかね?」

「時間が惜しい。此処で何の問題もないだろう」

「ストリートファイトっスか、いいッスねェ!でも大丈夫っスかァ?アンタがここでボコにされちまうと大恥かく羽目になると思うんスけど?」

「ふん。御託はいいから早く来るがいい。野犬の躾などに時間を取られたくない」

 舐めるのはいい加減にして貰うとしよう。俺は堀之外における絶対的強者、“織田信長”だ。

 怪物相手ならいざ知らず、同じ土俵に立つ人間を相手に脅威を感じる事など有り得ない。

 ポキポキと両手の骨を鳴らしながら挑発してくる前田を、俺はただ冷たく鼻で笑う。

「……言いやがったなァ……、後悔すんなやオラァァァァっ!!」

  怒りの形相で雄叫びを上げるや否や、前田は右腕を大きく振りかぶって突進してきた。そのまま上から叩き下ろすようなテレフォンパンチを放つ。

 あからさまな喧嘩殺法だ。型も何もあったものではないが、威力だけは相当なものだろう。

 まあしかし、ここは有名なアレだ。

 当たらなければどうということはない!

 半身を軽く傾けるだけの最低限の動作で前田の拳を回避する。

 まさかこうもあっさりと避けられるとは思っていなかったのか、前田は殴りかかった勢いを殺しきれず、前方へとたたらを踏んでいた。

 やや狼狽した表情で焦りながら体勢を立て直し、振り返りざまに顔面を狙った裏拳を繰り出す。咄嗟に首を軽く後ろに倒すと、拳はまたしても虚しく空振った。

「ふん。やはり、所詮はその程度、か」

「っ!ナメんじゃねぇ!こっから本気で行くぞオラァ!!」

 冷め切った表情でさもつまらなさそうに言ってやると、前田は憤怒で顔を赤く染め上げ、再び拳を振り上げた。

 対する俺は心中にてほくそ笑み、回避行動のために悠然と身構える。

 

 そして、数分後。

「ハァ、ハァ、クソッ!なんでだ!なんで当たらねぇんだよォォ!!」
 
 息を切らして怒鳴り声を上げる前田と、汗の一筋すらも流す事無く、余裕綽々とそれを受け止める俺がそこにいた。

 戦闘の展開はある意味で一方的なものだった。ひたすらに前田が攻撃を続け、俺がそれら全てを最低限の動きで避け続ける。

 その様子をダイジェストでお送りしてみると、大体こんな感じだ。


 前田のこうげき!ミス! ダメージをあたえれない
 
 前田はたいあたりをはなった!ミス! ダメージをあたえられない

 前田はまわしげりをはなった!ミス! ダメージをあたえられない

 前田はおたけびをあげた! 信長にはきかなかった
 
 前田のきあいため! 信長はようすをみている
 
 前田のばくれつけん!ミス! ダメージをあたえられない×4

 前田はこしをふかくおとしまっすぐにあいてをついた! ミス!ダメージをあたえられない

 
 注、イメージです。あくまで比喩である。―――そう、俺の憧れたばくれつけんはもっと速いし、せいけんづきはもっと重いのだ。

 なんてどうでもいい俺の妄想はこの際置いておこう。今は一応、真面目な戦闘の最中である。

「ふん。何故当たらない、だと?答えは明瞭。俺に拳を届かせるには、お前は鈍過ぎる」

 実際のところ、むしろ動きが直線的なだけ速度は相当なものがあったのだが、わざわざそれを教えてやる義理はない。

 まあ、一般人の感性からすれば十二分に速いのだろう。だが、残念ながらその程度では俺を補足する事など到底不可能だ。

 あの地獄のような命懸けの特訓を思えば、あまりの落差と楽さに涙が出てきそうにすらなる。

「……このオレが遅い?このオレが、スロォリィ?」

「確かに、そう言った筈だが。言葉も通じんのか?」

「冗談じゃ、ねええええええええええええええっ!!」

 ブォン、と盛大に大気を唸らせながら、拳が顔のすぐ横を通り過ぎる。
 
 いちいち雄叫びを上げるのはこいつの趣味なのだろうか、と悩みながら、俺は全力を込めたであろう顔面狙いのストレートパンチを、その場から一歩も動くことなく、首を捻って回避してみせた。

 その結果を受け入れられなかったのか、愕然とした表情で、前田は力なく呟く。
 
「く、チクショウ、どうなってやがる!オレが、手も足も出せねェだと……!?」

「……もういい。詰まらん。飽きた」

  ここまでやれば、力の差を思い知らせるには十分だろう。宇佐美代行センターでは今頃、忠勝とタダ飯が待っているのだ。こんな所で無駄に時間を潰している場合ではない。

 日常的に抑えている殺気を開放し、収束させる。

 一昨日の決闘で忍足あずみに対して使用したアレを、少し控え目に威力を調整してから、俺は目の前で呆然としている前田に叩き付けた。

「が、アっ……!?」

 効果は歴然である。石化の魔法でも掛けられたかのように、前田は完全に硬直した。

 あずみの時とは違い、この金縛りが破られる事はないだろう。いかに強力なチンピラであろうと、所詮は一般人の範疇からは出ない。

 プロの軍人や“気”の扱いに習熟した武闘家、或いは板垣一家のような突き抜けた異常者でもない限りは、俺の殺気に抵抗することなど不可能だ。

「なん、だ、なん、だよ、こりゃァ、体が、動かねェ……!」

「ほう。意識を失わず、加えて舌の根が動くか」

 俺は素直に感心していた。さすがは竜兵の同類だけはある。戦闘狂という人種は、総じて殺気に対する耐性が相当に高いらしい。

 まあ幾ら喋れたところで、身体機能が凍っていれば同じことだ。

 相手が抵抗していようが無抵抗だろうが、俺がやるべき事は何一つとして変わらない。

 彫像と化した前田にゆっくりと歩み寄ると、悔しげに歪んだ顔面を鷲掴みにし―――手加減を一切省いた力で、頭から路面に叩き付ける。アスファルトと頭蓋とが衝突する鈍い音が響き、周囲に鮮血が散った。

「ひっ!?」

 あまりにも容赦の無い暴力を目の前で見せつけられ、元クラスメート達が小さく悲鳴を上げた。

 そんな周囲の反応に構わず、俺は黒革のブーツの踵で、路面に倒れ伏す前田の頭部を踏み付ける。

「くく。下げたくもない頭を、下げさせられた気分はどうだ?」

「て、めェ……!」

 まだ反抗する気力が残っていたか。これはあまりよろしくない。体重を更に上乗せして、踵に込める力を増す。額が軽く路面にめり込んだ。

「お、織田さん、ちょっとやり過ぎなんじゃぁ……」

「やり過ぎ。やり過ぎ、だと?」

 サッカーボールを蹴る様な無造作さで前田の後頭部に蹴りを入れると、元クラスメート達が息を呑む。

「新入りが図に乗る要因が、お前達のその温さにあると、何故気付かない」


 僅かな殺気を込めて睨み付ければ、一様に震え上がって黙り込んだ。

 そんな情けない我が元クラスメート達を放置して、俺は足元に転がっている後輩に視線を移した。未だ心は折れていないのか、頭から出血しながらも反抗的な眼でこちらを睨みつけている。

「先輩として、特別に教えてやろう。この堀之外において、暴力は罪ではない。罪は、弱さだ。弱者はその罪を問われ、強者により罰せられる。この様にな」

「ぐぅっ!?」

 淡々と語りながら、今度は腹にブーツの爪先を食い込ませる。くの字に折れ曲がった姿を見下ろしながら、無感情に続ける。

「罪と罰の両者から逃れたければ、強くなる事だ。足掻きもがき這い蹲ってでも、力を手に入れろ。その覚悟が無い者は、この街では生きられない。いずれ強者に喰われ死ぬのみ」

「……っ」

「本来ならお前は、此処で俺と言う強者に喰われて終わる所だが。その度胸に免じ、一度だけ機会をくれてやるとしよう。精々、拾った命を無駄にしない事だ」

 冷たく言い捨てると、俺はコートを翻して、沈黙した前田とクラスメート達に背を向ける。

―――もはやここには用はない。織田信長としての俺は、既にその務めを果たした。

 少し離れた所に佇み、ただ黙して事の推移を見守っていた蘭に、声を掛ける。

「蘭。往くぞ」

「ははっ」

「……待て、待ってくれ!」

 そのまま去ろうとする俺達を、後ろから呼び止める声。

 肩越しに振り返ってみれば、前田が必死の形相で身体を起こし、顔に幾筋も血を流しながらこちらを睨んでいた。

「オレの―――オレの名は、前田啓次ッ!いいか、この名を覚えとけ。ゼッテーにいつか、アンタの居るところに立ってやるからよォ!」

 場違いに活力の漲る雄叫びに、俺は内心にて、呆れ半分感心半分といった気分で苦笑した。

 何ともまあ、元気な事だ。どう考えても、あそこまで自分を痛めつけた相手に対して取るような態度ではない。

「ふん。期待せずに、待つとしよう」

 案外、大物なのかもしれない。少なくとも此処の住人として馴染むのはそう遠い話ではないだろう。

 声にも表情にもそんな感情を滲ませずに吐き捨てて、今度こそ俺はその場を後にした。

「お疲れ様でございました、主」

「ふん。俺は俺の義務を果たしただけだ」

 気遣わしげに声を掛けてくる蘭に素っ気無く返すと、俺は小さく溜息を漏らした。

 勘違いした余所者には誰かが、この街の流儀を教えてやらなければならない。無知に任せて自分が強者だと錯覚し続けていると、そのうち本当に取り返しのつかない事態になる。

 そういう意味では、あの前田という男は運が良かった。もし自分の実力を知らないまま悪名高い板垣一家にでも喧嘩を売っていたら、目も当てられない事になっていただろう。

 天か辰子の二人ならまだしも、長男長女―――竜兵や亜巳が出てきた場合、悲惨の一言では済まない。

 身の程知らずには多少痛めつけてでも身の程を教えてやるのが、本人の為だ。馬鹿な元クラスメート達は気付いていなかったが、俺のやり方などむしろ温いと言われても仕方がない。

「無駄に時間を浪費したな。急ぐぞ、蘭」

「ははーっ!」


 その後は誰にも絡まれる事もなく、無事に親不孝通りを抜ける。

 それから歩き続けること数分、俺と蘭は薄汚れた小規模なビルに到着した。

 このビルの二階に位置する事務所こそが、宇佐美巨人の城。宇佐美代行センターである。

「よう。やっと来たか」

 事務所のドアを叩くと、忠勝が応対に出てきた。その片手に包丁を握っているのは、まあ料理中だったからだろう。むしろそれ以外の可能性など考えたくもない。

「親父が待ってるぜ。ほら、さっさと入れ」

 後ろから包丁で追い立てるように俺と蘭を招き入れると、忠勝はそのまま奥の調理スペースに引っ込んだ。律儀にも忠勝自ら俺との約束を守るつもりらしい。

 素晴らしい友を持ったものだ、などと大袈裟に感激してみながら、俺は所長用の事務机の前まで歩み寄った。

 机を挟んだ向かい側で、代表取締役たる宇佐美巨人はだらしなく背椅子にもたれかかっている。どうやら接客という言葉はこの中年親父の辞書には存在しないらしい。

「さて。来てやったぞ、宇佐美巨人。いや、ヒゲとでも呼ぶべきか?くくく」

「今晩は、宇佐美さん」

「お、こんばんは、蘭ちゃん。若いのに礼儀がしっかりしてるってのはいいねぇ。そこの御主人様にも少しは見習って欲しいぜ、ったく」

「畏れながら、信長様は元来、人の上に立たれるお方。私如きのような従者と同様の礼儀などは全く必要ないのです」

「あ、そ……。蘭ちゃん、その癖さえなけりゃウチの忠勝の嫁に欲しいくらいなんだがな、のわっ!?」

 その瞬間、調理スペースと事務室を遮る暖簾の向こうからお玉が飛来した。巨人の顔をギリギリのところで掠めて壁に衝突し、床に転がる。

 数秒後、両手にトレーを載せた忠勝が暖簾を押しのけて姿を見せた。

「ひでえな忠勝、いい年したオッサンに何しやがる」

「アホなこと言うからだろうが。ったく、ボケ親父が」

 文句を飛ばす巨人に不機嫌に返しながらも、手はてきぱきと動き、手際良く皿をトレーからテーブルに移していく。

 ここで明かされる新事実、忠勝はそのまま主夫が務まりそうな程に家事スキルが高いのだ。

「まずは食え。てめぇらにはこれからすぐに働いて貰うんだからな。しっかり栄養付けとけ」

「……ま、話ってのはそういう事だ。聞きたい事もあるだろうが、今はとりあえずメシにしようぜ。冷めると忠勝がうるせーからな」

「んなもん当たり前だろ。オレの目が黒い内は、食材を粗末にする事は許さねぇ」

 男前な宣言を頂いたところで、俺達は事務所中央のテーブルを囲み、昼間と同じく無言の食事を開始した。

 ちなみに献立は豚カツと味噌汁、そしてホウレン草の胡麻和え。なんと言っても我らが源忠勝の手料理、味は最初から保障されているようなものだ。

「ふぅ。ごちそーさん」

 満足気な様子で食事を終え、空になった食器類を調理スペースの流しの中に放り込み、そして洗い物を全て忠勝に丸投げしてから、宇佐美巨人が口火を切った。

「あー、今回お前らを呼んだのは……、まあいつも通りの用件だ。俺達の仕事の助っ人を頼みたい」

「助っ人か。近頃は、あまり呼ばれなくなっていたが」

「そりゃそうだろ。俺達は代行のプロなんだ、これでもプライドってもんがある。そうそうお前らの手を借りる訳にはいかねーよ」

 言われてみれば当然の話である。過去、俺と蘭は何度か巨人の仕事を手伝った事があるが、それらは合コンの穴埋めやら猫探しやら、そんなチンケな仕事では勿論ない。

 俺と蘭が力を貸したのは、宇佐美代行センターが独力では解決できないと踏んだ、規模の大きな難題ばかりだった。しかも大抵が“裏側”絡みの荒事である。

 という事はつまり。今回もまた、同様なのだろう。

「ま、そういう事だな。これまでと較べてもかなりデカい依頼だ。多分だが、お前さんも無関係じゃない」

「ふん。そう云われれば、予想も付く。大方、“黒い稲妻”を名乗るグループの件だろう」

「やっぱ知ってたか。ああ、その通り。あの連中、少しばかり調子に乗り過ぎててな。人数を頼んで暴れ回って、色々な所から恨みを買ってる。“裏側”と無関係な民間人にもちょっかい掛けてるっつー事で、“正義の鉄槌”を食らわしてやりたいってのが今回の依頼人サマの頼みだ」

「具体的には?」

「一体どこから掴んだ情報かは知らんが……依頼人が言うには、今夜、連中の集会が開かれるらしい。時間と場所を教えるからそこで確実に連中を叩き潰してくれ、と来たもんだ。やれやれ、相手が何十人いるかホントに分かってて言ってるのか疑問だぜ」

 眉間を揉み解しながら、巨人が面倒くさそうにぼやく。

 確かに名が売れているとは言え、宇佐美代行センターの従業員は数えるほどしか居ないし、戦闘要員に至っては巨人と忠勝の二人だけである。そんな所にそんな依頼を持ち込むのは理に適っているとは言いがたい。

「依頼人は、何者だ?何を考えている」

「俺は知らんよ。匿名の依頼だからな。ただ口座に前金が振り込まれてるから、支払いに関しては信用できそうだぜ」

「そんな事は訊いていない」

 匿名ねぇ。あからさまに怪しいが、しかしどういう事なのか。

 俺達が手伝った事で、過去にこの事務所は結構な数の荒事を解決している。

 その実績を考慮した結果、今回の件も達成可能と踏んだ可能性は十分にあるのだが。

 ……取り敢えず、この問題に関しては頭の片隅に留めておくとしよう。思い過ごしならそれでいいし、無駄に悩むのも馬鹿な話だ。

「成程。それで、俺と蘭の力を頼ろうと考えたか」

「ここまで来てノーとは言わないでくれよ、もう依頼は受けちまったんだからな。何なら報酬の取り分はそっち優先でいいぜ」


 無責任に引き受けたお前が全面的に悪い、とよっぽど言ってやりたかったが、まあ勘弁してやるとしよう。

 どちらにせよ、俺としても“敵対勢力”である連中を放置する訳にはいかないのだ。

 前回の尋問では集会に関する情報は引き出せなかったので、まさに今回の巨人の申し出は渡りに船というものであった。

 忠勝と巨人が戦力として加われば、こちらとしても楽に目的を達成できる。そして俺達は相当額の報酬を頂けて、更には宇佐美代行センターに恩を売れる。果たして一石何鳥だろうか。

「ふん。仕方が無い。力を貸してやるとしよう。恩に着るがいい」

 内心ではほくほく顔になりながら、俺はいかにも面倒くさげな調子を装って言った。

 巨人はそんな俺の態度に気付いているのかいないのか、「これで信用を落とさずに済むぜ」と安心したように額の汗を拭っている。

「どうやら話はまとまったらしいな」
 
 その時、暖簾が持ち上げられて、忠勝が事務室に戻ってきた。という事は洗い物を終えた筈なのだが、両手に小鉢を持っているのはどういう訳か。

「ほらよ、食後のデザートだ。言っとくが、別に手伝いを頼んだ礼に作ってやった訳じゃねぇぞ」

 さすがは我らが源忠勝、アフターサービスも万全だった。忠勝にはツンデレ喫茶の店員こそが天職なのではなかろうか。

 そんな事を考えながらタッちゃんお手製の杏仁豆腐をぱくついて、来るべき戦いに備えて英気を養う。

 依頼人からの情報によれば、“黒い稲妻”の集会は川神の重工業地帯、第十三廃工場にて、午後十時より開かれるらしい。


「蘭。覚悟は済んだか」

「ははっ。不肖森谷蘭、命に代えても主の御身を護り抜き、主の敵を討ち砕いてみせます!」

 

 時計が示す現在時刻は午後八時―――決戦の時は、すぐそこまで迫っていた。














~おまけの???~



「どうしたんだい、リュウ。いきなり召集なんて掛けて」

「あと少しで獣拳で五連勝できそうだってのに、着メロで気が散って負けちまったじゃねーか!あ゛ー、思い出すだけでも腹立つ!」

「うう~、まだ眠い……」

「くっくっく、なぁに、すぐに目も覚める。――マロードから新たな指令が来たぞ」

「うはっ、マジか!なんだなんだ、ウチは何すりゃーいいんだ?」

「くく、そう急かすな……喜べ天、お前好みの指令だ。例の“黒い稲妻”のアジトに乗り込んで、原型が残らなくなるまで叩き潰せ、だとよ」

「おおー、そりゃーいいな!暴れ放題じゃん!やっぱイカシてるなぁ、マロードは」

「マロードだからな。当然の事だ」

「つまり、マロードは連中のアジトを突き止めたってことかい?流石だねぇ」

「マロードだからな。それも当然の事だ。くっくっく、あいつはやはり最高だ……!」

「ねえリュウ~。それっていつやればいいの?」

「奴らの集会は今晩の十時。つまりは一時間後だ。今から身体が疼いて仕方がないな」

「そっかぁ。じゃあ、それまで寝ててもいいよね。おやすみ~」

「「「寝るな!」」」










 この話を書いてる時は妙に調子が良く、他の回の数倍のペースで書き上がってしまいました。

 何でだろう、作者的に前田くんが書き易過ぎたのか。

 普段からこの調子が出せれば良いのに、と切実に思う今日この頃です。それでは、次回の更新で。

 



[13860] 四日目の騒乱、後編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:5ac98617
Date: 2010/08/10 10:34
「オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラ、オラァッ!!」

 ああ、やっぱストレス解消にはこれが一番だぜ!

 そんな愉快痛快な叫びを心中で上げつつ、息もつかせぬ拳打のラッシュを叩き込み、よろめいた所を顔面への渾身のストレートで締める。

 哀れな犠牲者は血と歯を飛び散らせながら後方に数メートルほど吹っ飛び、薄汚れたコンクリの壁面に衝突した後、ズルズルと力なく崩れ落ちた。

 そんな様子を他人事の様に眺めながら唸り、返り血の滴る拳をゆっくりと引っ込めて、前田啓次はしみじみと一人呟いた。

「オレってさァ、やっぱ強ェんだよな。……まァそれなりにゃ」

 つい今しがたノックアウトした男の他に、啓次の周囲には十数人ほどの同年代の男共が気を失って転がっている。

 連中は揃って、頭に包帯を巻いて集合場所に現れた啓次の姿を嘲笑い、侮辱的な野次を飛ばしたのだ。

 喧嘩っ早さに定評のある啓次の血管がブチ切れたのは当然と言えよう。その必然が生み出したのが、目の前に広がる惨状という訳だ。

「見ろよアイツ、一人であんだけの人数やっちまいやがったぜ……」

「マジかよ、バケモンじゃねぇか」

「おいおい、しかもあいつ怪我してるじゃんよ。ひょっとして俺らのボスより強いんじゃねーの?」

「ギャハハ、バッカ、さすがにそりゃねぇって!」

 どうやら知らずの内に注目を集めていたようで、周囲に集ったギャラリーからは賞賛と畏怖のどよめきが聞こえてくる。

 まあ、さほど広くもない廃工場の中で一対十八の乱闘を演じたのだ。暴力の匂いに目が無いこの連中の注目を浴びるのは当然の話か。
 
 数時間前の自分なら、連中の反応に対して素直に浮かれて調子に乗れたんだがなァ――と啓次は苦い感情と共に思う。

 十八人の男を問答無用で叩き伏せ、地に這い蹲らせた拳。

 それが掠りもしない本物の“バケモノ”が存在することを知ってしまった今となっては、連中の頭の悪い褒め言葉など虚しく感じてしまう。

 つい先刻まで、前田啓次は自分の力に絶対的な自信を持っていた。事実として喧嘩に敗北したことは一度もないし、自身を上回る力の持ち主に出逢った事もなかった。

 わざわざ家を出奔して県外の高校に進学したのは、地元には居ない強者との闘いを求めたからでもある。

「強ェ奴と会えたのはイイけどよォ。あんなケチがつくとはなァ」

 自分の力は何処に行っても通用すると信じ込んでいた。

 世界は広く、自分より強い奴もいるかもしれない。しかし、相手が誰であろうと自分ならば楽しい勝負が出来るに違いないだろう―――この堀之外に越して来た一週間前の時点で、啓次の抱いていた認識はその程度のものだ。

 甘かった。啓次の苦手とするカルーアミルクすら霞んで見える程の、激烈な甘さだった。

 辿り着いた新天地で啓次が遭遇した初めての“強者”は、楽しい勝負どころか、勝負すらもさせてはくれなかった。

 全力で繰り出した自慢の拳は初撃の時点で完全に見切られ、いとも容易く空を切る。お前の拳などわざわざ防ぐ必要すらないと言わんばかりに、相手は終始コートのポケットから両手を出そうとしなかった。

 根本的な実力差を嫌と言うほど思い知らされる、余裕に満ち溢れた態度。今こうして振り返って見ても、初めから勝負として成立していなかったのは明らかだった。

 アレは遊びだ。最初から最後まで、徹頭徹尾これ以上なく完膚なきまでに、遊ばれていた。事実、奴が「飽きた」と口にした後の展開は……正直、思い出したくもない。

「井の中の蛙、かァ。自分じゃ分かんねェもんだな」

 上には上がいる。そのまた上には上がいるのだろう。

 啓次の想像を遥かに超えて、世界は広大だった。あのまま地元でお山の大将を気取っていては何時まで経っても気付けなかったであろう事だ。

 今回の一件で自身のどうしようもない未熟さを自覚できた分、自分は運が良かったのかもしれない。

 血塗れの拳を見つめながら感慨に耽っていると、何やら周囲が騒がしくなってきた。

「あ、アレは……」

「ボスだ、ボスのお出ましだぜ」

「ん?」

 啓次は眉根を寄せた。郡を為すチンピラ連中の間を抜けて、誰かがこちらに向けて歩み寄ってくる。

 その何者かは、カツン、とコンクリの床で高らかに靴音を響かせながら、啓次の目の前で立ち止まった。周辺の床の上で白目を剥いて気絶している男達を冷たく一瞥した後、啓次の顔を下から覗き込むようにしてジロジロと無遠慮に眺める。

「何だか騒がしいと思ったら……はぁ。キミ達、味方同士でなにやってんの?これだから脳味噌まで筋肉で構成されてる連中は困るよ」

「あァ?」

 ああなんだ喧嘩を売られているのかじゃあ取り敢えず泣くまでブン殴っとくか、と殆ど反射的に動きそうになる拳をどうにか抑えて、啓次は状況把握に努める事にした。

 何の遠慮も躊躇も抱かずに殴り飛ばすには、眼前の相手の容姿が問題だ。何と言っても、パッと見た感じでは自分よりも年下の、小柄で線の細い少女である。

 全体的な雰囲気を一言で表すなら、猫っぽい。特徴的な猫目で、その上結構な猫背だ。

 加えてどういう訳だか袖の余りまくったダボダボのコートを羽織っており、ただでさえ小柄な背丈がますます縮んで見える。男の中でも比較的長身の啓次と対峙すると、軽く頭一つ分以上の身長差があった。

「何だテメェはよ」

 どう考えても一度でも見たら忘れられないタイプの人間だが、生憎と見覚えはない。

 そんな啓次の反応に対して、少女は心底呆れたような声を上げた。

「ハァ?何だ……、ってキミ、いかにも脳筋っぽい顔してるけどさ、流石にボクを知らないとか言い出さないよね」

「……クッ」

 鎮まれ、俺の右腕。隙を見ては啓次の理性を無視して動き出しそうになる拳を抑え込む。

 いかに喧嘩っ早い啓次と言えど、女の、しかも子供を相手に拳を振るうような真似はNGだ。男としての美学に反する。

「知らねーな。んで、何か文句でもあるってのかよ、あァ?」

「……。呆れて言葉が出ないな。一応、キミが現在進行形で所属してるグループのリーダーをやってる筈なんだけど」

「あ?リーダー?って事は何だ、テメェが“黒い稲妻ブラックサンダー”のボスなのかよ」

 啓次が不良仲間を通じて“黒い稲妻”を名乗るグループの勧誘を受けたのは、確か三日ほど前の事だったか。

 根無し草の一匹狼を自認する啓次としては、当初は特定の組織に属する気は無かった。

 ただ好きな様に暴れるだけで構わない、束縛は一切しない――と説得されて軽い気分で加入したが、仲間になったつもりなどまるでない。

 そういう背景もあって、啓次にしてみれば自分が“黒い稲妻”の一員であるという意識は底無しに低かった。今回のような集会に参加するのも初めてであるし、当然の如くボスの顔など知る筈もない。

 それに、この貧弱そうな少女を一目見ただけで不良グループのリーダーだと判断するのは難しいだろう。

 まじまじと改めてその場違いな姿を眺める啓次に、少女は不愉快げに鼻を鳴らした。

「何さ、キミも女のリーダーは認めないってクチなの?そういうの、いい加減ウンザリしてるんだけど」

「あー。いーや、そうじゃねェんだがな……」

 いまいち整理し切れていない部分に触れられて、啓次の返答は歯切れの悪いものとなった。

「ふーん、ちょっと驚き。キミみたいなタイプは兎にも角にも、人を外見で判断する場合が多いからね」

 意表を突かれたらしく、少女は少しだけ意外そうな顔だった。実際、数時間前の自分なら間違いなく舐めて掛かっていたであろう事を思えば、文句を付ける気にもなれない。

 武力か知略か。この少女が何を以って粗暴者揃いの不良グループをまとめ上げているのかは判らないが、“何か”がある事だけは間違いないだろう。

 ―――もっとも、それがあのバケモノに対抗出来るほどのモノだとは、到底思えないが。

「ちょうど良かったぜ。アンタがボスだってェなら、ここで言っとくわ」

 だからこそ、啓次は現在こうしてこの場所に立っている。わざわざこの集会に顔を出したのは勿論、ここに屯している連中に対しての仲間意識が芽生えたからなどではないのだ。

「んん?まあいいや。何?」

「入ったばっかでナンだけどよォ。オレ、今日限りでこのグループ抜けっから」

 ちょっとコンビニ行ってくる、と同じ程度に軽いノリで告げる。

 案の定と言うべきか、その言葉に対して眼前の少女が何かしらのリアクションを見せるよりも先に、周囲の取り巻きが喧しく騒ぎ始めた。

「あぁ!?なにフザケた事抜かしてやがんだてめぇ!」

「新入りが調子乗ってんじゃねーぞコラ」

「なになに、“教育”すんの?しちゃう感じぃ?オレも混ぜてくれよ、ぎゃははっ!」

 口々に罵声を上げながら啓次を取り囲む。次いで、騒ぎを聞きつけた廃工場内の連中が次々と集まって来る。

 彼らは裏切り者に対する怒りで表情を歪ませる――などという事もなく、むしろ大部分の連中は獲物を見つけた喜びに高揚し、ニヤニヤと残忍な笑みを浮かべていた。

“黒い稲妻”のメンバーの共通項は一つ。一方的な暴力の捌け口を常に求めていると言う点である。

「けっ、どうやら今度は一対十八どころじゃァ済まねェか」

 黒い稲妻というグループの構成人数など把握していないが、ざっと見ただけでも百人は下るまい。

 まあその程度は最初から覚悟していた事だ。たまには百人組み手と洒落込むのも悪くはない。

 啓次はボキボキと骨を鳴らしながら、獰猛な笑みを浮かべた。その心中に恐怖心などはこれっぽっちもない。ひたすらに湧き上がる心地良い闘志に身を委ねるだけだ。

 どれほど手酷く叩きのめされようが、そうそう簡単に性根が変わる事はない。結局のところ、前田啓次は真性の戦闘狂だった。

「さっさと掛かってこいや、タイマン張る度胸もねェチキン野郎共!後腐れなくぶっ潰してやっからよォ!」

 怒号のような啓次の挑発が廃工場を反響し、空気が張り詰める。

「言ってくれるじゃんよ、ああ!?」

「ぶっ殺し確定!二度とオレらにナメた口効けねーようにしてやるよ」

 一発触発の事態だ。誰かが何かしらの行動を起こせば、そのまま大乱闘に突入することだろう。

 じりじりと包囲網を狭めてくる連中に対し、先手を打って自分から仕掛けようと、啓次が大きく息を吸い込んだ時であった。

「はぁ……あのさ。両方とも、少し待ってくれるとボクとしては嬉しいんだけど」

 今の今まで沈黙を保ってきた猫目の少女、黒い稲妻のトップが口を開く。その声音は酷く気だるげで、彼女が現在の状況を少なからず面倒に感じている事は明白だった。

「ハァ?ボス、ここまで来てそりゃないッスよ―――」

 さながら、餌を目の前にお預けを食らった犬である。連中の中の一人が、あからさまに不満たらたらの様子で少女に食って掛かった。

 否、食って掛かろうとした、と言うべきか。

「はぁ。誰が口答えしていいなんて言ったのかな」

 馴れ馴れしく少女の肩に手を掛けようとした男は、次の瞬間には肋骨のへし折れる嫌な音を引き連れて宙を舞っていた。

 啓次は驚愕に目を見開く。人体一つを高々と宙に浮かせた少女のモーションが、全く視えなかったのだ。

 それが溜め無しで繰り出された前蹴りだった、と認識出来たのは、少女のしなやかな脚が天に向かって伸びているのを確認してからの事だった。

 腹部への一撃で完全に意識を刈り取られたらしく、男は受身を取る事もなく落下。コンクリートの床に叩きつけられ、そのまま動かなくなる。

「ふん。リーダーのお願い一つ素直に聞けない愚図なんて、ボクのグループには要らないんだよ。……そのくらいの事、他のみんなは分かってるよね?」

 意識を失っている男の頭を容赦なく踏み付けながら、少女は酷薄に目を細めて周囲を見渡した。

 無言。誰も彼もが目を逸らし、彼女と真っ向から視線を合わせようとはしない。些細な理由で仲間が足蹴にされている状況も関わらず、反抗する者は皆無だった。

 小柄で細身の少女一人に、百人を超える不良達が完全に呑まれている。

 啓次はどこか目の覚めるような気分でその光景を眺めていた。
 
 そう、これだ。これこそが本物の“力”だ。

 この少女が持つ力は、有象無象が振るう只の暴力とは一線を画している。まさしく、一線を踏み越えた先の領域に存在していた。

 ただ一撃を放つだけ。ただそれだけで、対峙した相手のみならず、見る者全てにその圧倒的な武の実力を悟らせるソレは、あの男が啓次に対して振るったものと同質だ。

「さてと」

 少女の眠たげな双眸がこちらに向けられ、啓次は素早く身構えた。油断の許される相手ではない事は十二分に承知している。

「やっと落ち着いて話ができるよ。それじゃあ、ゆっくり聞かせて貰おうかな」

「……あァ?」

 しかし、どうやら相手には今のところ争いの意思は無いらしかった。拍子抜け半分、安堵半分といった気分で啓次は力を抜く。
 
 はっきり言って眼前の少女は、今の自分には少しばかり勝ち目の薄い相手だ。

 強者との闘いは望む所だが、それはあくまで“闘い”として成立している場合においてである。戦闘狂だろうが何だろうが、一方的に嬲られて楽しめる道理はない。

「聞くっつってもよ……何を聞きたいってんだ」

「勿論、理由だよ。キミがボクの“黒い稲妻”を抜けたいと思う、その理由さ。リーダーを務めてる身なんだ、グループの何が不満なのか気になるのは当然の話でしょ?」

 そんな風に答える少女の表情は、妙に白々しく、どこか嘘っぽさを感じさせた。少なくとも本心を話している訳ではないのだろう、と啓次は当たりを付ける。

 まあ彼女が内心で何を企んでいようとも、別に自分には関係のない事だ。わざわざ喧嘩を仲裁してまで“それ”を聞きたかったと言うのなら、素直に答えてやるとしよう。元より、特に隠し立てするような大した理由でもない。

「オレぁよ、ちょっと前まで自分こそが最強の男だと思ってたワケだ。だから、どんな無茶だろうが平気でやってこれた」

「んん?ちょっと、ボクは質問に答えて欲しいんだけど」

「まあそう焦んなや。オレぁ頭が良くねェんだ、筋道立てて話すなんざ無理な注文だぜ。まだるっこしい話を聞きたくねェってんなら質問は取り下げな」

「……いいよ。キミの好きな様に話せば?」

「へ、言われなくてもそうするぜ。……んで、オレはある男にブチのめされて、ちったァ自分の力ってもんを計れるようになった。そこでオレは初めて、今までどんだけ危ない綱を渡ってきたか分かってきたのさ。情報屋に改めて話を聞いてみりゃ、堀之外っつー街にゃヤバい奴らがうようよしてやがる。シマを荒らした相手は誰だろうが容赦なくぶっ潰す、そんなイカれた連中がよ」

 啓次の乏しい記憶力ではごく一部の“イカれた連中”の名前程度しか覚えられなかったが、その情報だけでも十分過ぎる。

 堀之外を暴力と享楽で纏め上げる表の支配者、板垣一家。

 絶対的な恐怖を以って秩序を保つ裏の支配者、織田信長。

 いいかお前さん、何があっても絶対にこの連中には逆らうなよ――と情報屋は冷や汗混じりに忠告してきたものだ。既にその片方に喧嘩を売ってしまった後だ、とは流石に言えなかった啓次であった。

「そんでもって、もう一つ大事なことが分かっちまった。ここ最近、その連中の縄張りをあちこち引っ掻き回してる命知らずな連中がいるらしいってな。確か、ブラックなんとかっつー名前のグループだったか?」 

「ふーん。成程ね。それでキミは怖くなっちゃって、巻き添えを食らわない内に尻尾を巻いて逃げ出そうと思ったワケだ。なんとも男らしい事だね」

「あァ……?」

 少女の言葉に、啓次は眉根を寄せる。本来ならば一瞬で血管がブチ切れるような皮肉だったが、今回に限っては戸惑いが激昂を凌駕した。

 どういう訳か、嘲笑うような言葉の内容とは裏腹に、彼女は感心したような表情を浮かべていたのだ。

 その態度にどうしようもない違和感を抱えながら、啓次は言葉を続けた。

「今のオレは自分が最強じゃねェことを嫌ってほど知ってんだ。それに、オレはいつかゼッテーに“あの男”の居る高みまで這い上がるって決めちまったからよ、こんな所で潰されて終わるワケにゃいかねェ」

「何だぁ。ごちゃごちゃ言っても結局はビビってるだけじゃねーか、腰抜け野郎が!」

「ギャハハ、ダッセェ!」

 周囲の連中から野次が上がると、それを皮切りに次々と嘲笑の声が飛び交い始める。瞬く間に悪意に満ちた不快な笑い声が廃工場を埋め尽くした。

「けっ、笑いたけりゃァ好きにしやがれ糞ッ垂れども。いつかオレが最強になった時、オレを笑ったことを存分に後悔させてやっからよォ!」

 啓次が吼えると、連中の下品な笑い声は益々そのボリュームを上げた。

 構いはしない。所詮は負け犬の遠吠えに過ぎないことは誰よりも自分が理解している。

 今はまだ、負け犬でいい。いつの日か、この屈辱と怒りを糧にして、前田啓次は獅子へと大成してみせよう。

「あのさ」

 男達の下卑た笑い声の渦巻く中、少女が気難しい顔で声を掛けてくる。

「ちょっと気になったんだけど。キミの言う“あの男”って、もしか」

 そこまで言ったところで、少女は不自然に言葉を打ち切った。

 訝しがる啓次を余所に、猫に似た目をカッと見開き、見えない何かに怯えるように大きく跳び退って、廃工場の玄関口に当たる鉄扉を注視する。

 その扉が軋んだ音を立てて押し開けられた時、啓次はようやく少女の行動の意味を理解した。

 
 文字通り、身を以って。


「ふん、此処で正解だったらしいな。宇佐美巨人の当てにならん情報も、稀には役に立つ」


 己の身体と共に周囲の空気が瞬時にして凍り付く、異様な感触。それは、啓次にとってはどう足掻いても忘却し得ない感覚だった。

 あれほど喧しかった笑い声も、誰かが一時停止ボタンを押したかのようにピタリと止まっている。

 唐突且つ不自然な静寂に支配された第十三廃工場に、二つの靴音だけが鮮明に響いた。

「主。念の為、先ずは確認を取られるのが宜しいかと存じます。……流石に間違って斬り捨てたとあっては不憫です」

「ふん。斯様な時刻、斯様な場所に屯する連中の身など、預かり知らん事」

 男が一人に女が一人。啓次にとっては決して見間違えようのない二人組―――織田信長とその従者、森谷蘭。

 堀之外における恐怖の象徴として君臨する主従は、何ら気負った様子もなく、埃の積もったコンクリートの上を悠然と闊歩する。

「お、おい、何だテメーらは!」

「俺達のアジトに勝手に踏み入っていいとでも思ってんのかよ、ああっ!?」

 そんな中、異様な雰囲気に呑まれまいと、メンバー数名が怒鳴り声を上げながら侵入者に詰め寄った。
 
 そのあまりに命知らずな姿が数時間前の自分と重なって、啓次は思わず警告の声を上げようと口を開く。

 しかし、それも既に手遅れだった。信長は眼前に立ち塞がる男達を、ゴミでも見るような冷酷な眼で一瞥した。

「頭が高い。控えろ」

 その瞬間、何が起きたのかを正しく理解できた人間は恐らく啓次だけだろう。

 まるで信長の有無を言わせぬ声音に従うかのように、男達の身体が次々と床へ崩れ落ちた。

「な、何アレ……」

 啓次の横で、少女は顔を強張らせ、呆気に取られたように呟く。

 床に倒れ込んだ男達は、誰も彼も口から泡を吹いて気絶している。そんな彼等の身体を踏み付けながら、信長は何事も無かったかの如く歩みを再開した。

 もはや“黒い稲妻”の誰一人として、彼等を妨げようと動く者はいない。あたかも呪いによって物言わぬ石像と化したかのように、口を開くことすら忘れている。

「面倒至極ではあるが、訊いてやるとしよう」

 そして、彼と彼女は廃工場の中央にて足を止めた。

 誰もが彼もが硬直する中、一人の少女だけが全身の毛を逆立てるような調子で警戒心を露にし、姿勢を低くして身構えている。

 その様子を見て何かしらの判断を下したらしく、二人組は少女に注意と視線とを向けた。

「偽証は死と同義と思うがいい。心して答えろ――貴様等は、“黒い稲妻”に相違ないか」

「フーッ、……うん、そうだよ。間違いない。一応名乗っておくよ。ボクはリーダーの明智音子ねねさ」

「認めるか。くく、潔い事だ。同時に、愚かでもある」

「そう言うキミは、かの有名な織田ノブナ……ッ!?」

 言い終えるよりも前に、爆発的に膨れ上がった殺気に貫かれ、啓次も少女も絶句した。恐らくは呼吸すらも止まっていただろう。

「ふん。記憶しておけ。俺の勘気に触れたくなければ。二度と、俺の姓名を、続けて、読むな」

 心臓が凍るような恐怖に支配され、指一本動かす事すら適わない。

 傍で巻き添えを被っているに過ぎない啓次ですらこの有様だ。真正面からその殺気を浴びせ掛けられている少女――ねねにはどれほどの負荷が掛かっているのか、想像すらしたくない。

 今の織田信長が身に纏っている張り詰めた殺気に較べれば、先刻、親不孝通りで浴びせられた殺気など生温くさえ思える。所詮、この男にとっては啓次の相手など、正しく児戯に等しかったと言う事か。何とも笑えない話だった。

「バケモンにも限度があるだろーがよ、クソッ」

 啓次は固まった舌を無理矢理に動かして、小さく毒づいた。その呻きを聞き咎めたのか、欠片の感情も宿さない双眸が啓次を射抜く。

「ほう。くく、これはまた、随分と早い再会だ。さて、貴様がこの連中の同志だとするならば。折角拾った命を早くも無駄にする羽目になるが、如何」

 淡々と語り掛けるその言葉にも、表情にも、怒りや失望と言った感情は見受けられなかった。ただ事実を事実として確認しているだけの、無機質極まりない質問。

 だからこそ、啓次の返答次第では、本当に何の情け容赦もなく命を刈り取られるだろう。こうして強烈な殺気に曝されている現在では、容易に想像できる情景だった。

「オレは、」

「ちょっとちょっと、冗談はやめてよ。コイツはね、ゴミ同然の裏切り者で、これから皆で自分の立場を思い知らせてやろうとしてたんだ。キミ達が見事にいい所で邪魔に入ってくれたけどね」
 
 どうにか口を開きかけた啓次に被せるようにして、ねねが声を張り上げた。信長の冷たい視線が数秒ほどねねを捉え、そして背後に控える従者に向けられる。

「蘭」

「ははっ、承知致しました!蘭は只今を以って、彼を殲滅対象より除外します」

 ……これは、少なくともこの場における身の安全は保障されたと考えていいのだろうか。いまいち状況が掴めないが、雰囲気から察するにそういう事なのだろう。

 主従の遣り取りを見届けながら、啓次は小さく息を吐き出した。

 ふと、小柄な姿が視界に映る。真っ向から織田信長と対峙する猫目の少女。

 ねねの先程の発言は、自分を庇おうとしてのものなのだろうか。何分、彼女に庇われる理由としては全く思い当たる節が無いので、いまいち確信が持てない。

 ねねはグループ“黒い稲妻”のリーダーだ。どう転ぼうが、啓次の様に見逃される事は有り得ないだろう。

 啓次にしてみれば別に彼女を心配する義理はないし、理由もない。仮に心配してみたところで何か現実的な意味がある訳でもない。

 何にせよ、この場における前田啓次の役割は終わったのだろう。望むと望まざるに関わらず、傍観者として状況の推移を見守る事しか出来ない。


「クソッタレがっ」


 何故だか湧き上がる腹立たしい気分に任せて、啓次は自分にしか届かない小声で吐き捨てた。







 

「……それで?堀之外の裏の顔が、こんな辛気臭い所に何の用なのさ。一応言っとくけど、この秘密基地は部外者立ち入り禁止だよ」

 猫っぽい茶色の目を油断なく光らせ、こちらの様子を窺いながら、少女――明智ねねが口を開く。

 “黒い稲妻”のリーダーを名乗った彼女は、会話を交わしている最中も常に全身の筋肉をピンと張り詰めさせ、いつでも行動を起こせるように身構えていた。下手に動けば手痛い反撃を貰う事になるだろう。

 外見は何ともアレだが、一つのグループを仕切るだけの実力は間違いなく感じられた。少なくとも素の俺では手の届かない相手であることは間違いない。

 脊椎動物亜門哺乳綱ネコ目(肉食)を連想させて止まないこの少女をどう処理するか、今回の依頼はその辺りが鍵になりそうだ。まあ、ともかく様子を見てみるとしよう。

「ふん。辛気臭いのは事実だが、大いに結構。秘密基地から秘密墓地への模様替えも、容易になろうと云う物だ」

「はぁ、何とも物騒なことを仰るね。ボクは思うんだけど、暴力で全てを解決しようとするのは頭の足りない愚か者の考えだよ。人間、もっとクレバーに生きないと」

「だとすれば、貴女方こそ愚者の好例とでも言うべきですね」

 俺の背後に控える蘭が冷たく言い放った。普段の馬鹿っぽさとは結び付かない、抜き身の刃を思わせる鋭い声音。蘭がこういう声を出すのは、大体がキレる一歩手前の時である。

「昨日の朝方、“黒い稲妻”は我が主の住いに刃を携えて討ち入ろうとしました。幸いにしてこの森谷蘭が下手人の全てを斬り捨て、大事無きを得ましたが、場合によっては――我が主に危害が及ぶ可能性とて在ったのです。故に、私は貴女方を許すつもりはありません」

 結局のところ、そういう事だった。蘭がここまで怒りを露にする理由が、俺に関わること以外であった試しがない。本来、右の頬を打たれたら、困った顔で左の頬を差し出すようなお人好しなのだが。

「ふん。聞けば“黒い稲妻”とやら、表裏問わず、各所で見境なく暴れて恨みを買っていると聴くが。然様な事は、俺にとっては至極どうでもいい。問題があるとすれば、只の一度でも織田信長に手を出そうと血迷った事のみ。俺は己に仇為す“敵”は総て排除せねば、気が済まん性質でな。――さて、どうだ。そろそろ覚悟は終えた頃か?」

 冷たく言い放ち、ねねに向けて脅すように一歩を踏み出す。同時に俺はその身に纏う威圧感を更に底上げしていた。

 このレベルの威圧を受けると、ミシミシと音を立てて周囲の空間が歪んでいるような錯覚に陥る……らしい。天の奴が前にそんな事を言っていた気がする。

「くっ!」

 板垣一家お墨付きの殺気を発しながらゆっくりと迫る俺を前にしては、流石に平静を保てなかったらしい。

 ねねは顔を引き攣らせながら、数メートルほどの距離を一気に跳び退って、俺との間合いを広げた。

 予想外に身軽な動作。ほう、と俺は心の中で感心する。少しばかりぎこちないが、殺気に中てられているにしては十二分に俊敏な身体捌きだ。

「ああもう!こうも明瞭に交渉の余地は無いって宣言されちゃあお手上げだよ、全く!」

 彼女はうんざりした様な呻き声を上げてから、未だに凍り付いて呆けている己が部下達をギロリと睨みつける。

「で、キミ達はぁ、さっきから何をボーッと突っ立ってんのさ!和平交渉はもう決裂したんだよ、そんでもって相手さんはこっちを許しちゃくれないって言ってるんだ!やらなきゃやられるだけだってどうして判んないかなぁ!」

 噛み付くような叱咤の叫びが、凍り付いた空気に僅かなヒビを入れた。

 そこを見逃す事なく、ねねは現在の空気を打破せんとばかりに、小柄な身体に似合わない大音声を張り上げる。

「それとも何、キミ達は新しい伝説でも作りたいワケ!?“黒い稲妻”は百対二の勝負にビビって逃げ出した腰抜け集団ですって!言っとくけどボクは嫌だからね、自分が作ったグループが臆病者の代名詞として語り継がれるなんてさ!」

「お、おお……」

「そうだよな、考えてみりゃ相手はたった二人なんだ」

「それに俺達には無敵のボスがいるじゃねぇか!負けるワケがねぇって」

 罵倒混じりの激励は確かな効果を挙げたようで、硬直していたメンバーが次々に金縛りから復帰していく。

 未だに顔色は真っ青で、手足の動きもどうにもぎこちないが、只の石像が“動く石像”になっただけでも劇的な改善と言っていい。

「何つったってここはオレらのアジトなんだ、得物も揃ってる!やれない道理がないぜ」

「裏の顔だか何だか知らねぇが、俺達“黒い稲妻”を舐めんじゃねぇぞッ」

 見る間に大多数のメンバーが復帰し、撒き散らされる殺気へのお返しとばかりに雄叫びを上げ始める。ねねは闘志を取り戻した男達を見渡し、そしてこちらを鋭く睨み据えた。

 やれやれである。統率力が高いのは結構な事だが、この状況でそれを発揮されても誰も得はしないだろうに。

「ふん。中々、上手く煽るものだ。……あのまま逆らわずに幕引きとする事が、最も易しく、優しい道でもあったものを。残酷なものだ」

「……」

 俺の言葉に反論する事もなく、ねねはただ苦々しげに表情を歪めた。その様子を見る限り、自覚はあるのだろう。やはり彼女は、“黒い稲妻”に勝機があると考えてはいない。

 実際、見たところリーダーである明智ねねを除けば、一山幾らでそこらに転がっているような有象無象の集団に過ぎない。“織田信長”の魔手に掛かれば鎧袖一触、瞬く間に壊滅するのは必定―――と、そんな風にねねは考えている事だろう。

 現実的に、この状況下で俺にできる事などほとんど無いのだが、長い年月を掛けて作り上げられた“虚像”にとってはチンピラ百人斬りなど朝飯前もいいところ、なのである。

「オイコラテメ、さっきからゴタゴタとうるっせーんだよ!覚悟決めろやオラァッ!」

 黙り込んだねねの姿に焦れたように、集団の先頭にいた鼻ピアスの不良が雄叫びを上げた。それを切っ掛けに、遂に“黒い稲妻”が動き始める。

 鉄パイプに木刀にメリケンサックにサバイバルナイフ。

 無駄にバリエーションの豊富な凶器をそれぞれの手に握って、五人ほどの男達がやや遠巻きに俺達を取り囲み―――そして、喚声と共に一斉に襲い掛かってくる。

「ふん」

 溜息を吐きたいような気分で、俺はその光景を眺めていた。

 こうなってしまってはもう手遅れだ。

 せめて徒手空拳で俺達に喧嘩を売る男気が彼らにあれば、まだ救われたものを。

「是非もなし」

 俺が呟いたのと、銀閃が迸ったのは、どちらが先だったか。

「え」

 唯一、その瞬間をその目で捉えられたであろうねねが、呆けたような声を上げる。

 数瞬が過ぎ去った後――薄汚れたコンクリートに血の雨が降った。パラパラと生暖かい血飛沫が所構わず降り注ぎ、俺の顔面に不快な感触を残していく。

「ぎぃ、ああああぁぁッ!!」

 何とも形容しがたい絶叫が響き渡る。

 床に転がって苦痛に悶える男達は、揃って切り裂かれた脚から腕から、ドクドクと新鮮な血を垂れ流していた。

 赤く濁った血溜まりが順調にその規模を広め、鼻につく鉄錆の臭いが瞬く間に廃工場に蔓延していく。

「……」

 そして、それらの全てに一切の関心を覚えていないような、そんな冷め切った顔で、森谷蘭は抜き身の愛刀を横薙ぎに振るう。刃に付着した赤い血が払い飛ばされ、ぱたぱたと音を立てながらコンクリートを打つ。

 どうやらそんな我が従者の姿は、観衆達の恐怖心をますます煽ったようである。

「う、うわ、わぁああああああっ!」

 誰かが恐慌に染まった叫びを上げると、途端に場は騒然となった。

「き、斬りやがった!アイツ、ホントに斬りやがったぞっ!」

「い、イカれてやがる……!人殺しがっ」

 口々に喚き立てる。パニック寸前、見事なまでの混乱っぷりだ。リーダーのねねでさえ、表向きは取り乱してこそいないものの、どう見ても顔色が悪い。

 取り敢えず、この反応ではっきりした。どうやら“黒い稲妻”は裏社会に属する類のグループではないらしい。

 彼らの反応は、日常的に出血を目にする事に慣れていない、表側の一般人のそれに他ならない。仮にこれが演技だとしたら表彰ものだろう。

「貴方達がその手に持つ得物を以ってすれば、人を害する事は容易です。そのような物を軽々しく主に振るおうとする愚か者を、刃にて誅するのは、それほどおかしいですか?」

 喧々囂々と騒ぎ立てる群衆に向かって、蘭が平然と問い掛ける。

 あたかも人を斬ることに何の疑問も抱いていないようなその態度は、“黒い稲妻”の面々には無慈悲な殺戮機械の如く映ったことだろう。

「さあ、次は何方ですか。私は主の敵を砕く忠実なる刃なれば、悉く斬り捨て、先祖代々受け継がれし我が太刀の錆としてくれましょう」

 その言葉に、自分が斬り捨てられる姿を嫌でも想像させられたのか、集団に更なる動揺が広がる。

 実際のところを言えば、蘭は初めから手足の腱を正確に狙ったのであって、殺意を持って太刀を振るった訳ではない。見た目こそ多少派手に出血しているものの、それだけだ。よほど対処が悪くない限り、間違っても命に関わるような傷ではない。

 そういう訳で、本来ならば人殺し呼ばわりされるのは筋違いなのだが。

 しかしまあ、わざわざそれを教えてやる必要もないだろう。勝手にこちらの意図を誤解して勝手に恐怖してくれるなら、俺としては願ったり適ったりだ。

「さて。俺を敵に回す、その意味を。貴様らの骨肉に刻んで、理解させてやろうか。傷の痛みに悶える夜、悪夢と共に明瞭に思い出せるように、な」

 他者の血で紅く濡れた顔を冷酷に歪ませながら、俺は“黒い稲妻”の連中に向けて、手加減無しの殺気を放出した。

 十中八九、これでチェックメイトだろう。その為の下準備は既に整っていた。
 
 実際に蘭の手で“斬り捨てられた”仲間の姿を連中の目に焼き付ける事で、俺の有する殺気は具体的な実体を手に入れている。

 “殺されるかもしれない”と“実際に殺される”とでは、その恐怖の度合はまるで異なる。今の連中が俺に対して抱くであろう恐怖心が、当初とは比にならない程に巨大なものであることは間違いない。

 歯向かえば問答無用で斬り捨てられ、血の海に沈められる。そう、あそこに転がっている、五人の仲間のように。 
 
 そんな状況下で心が折れなければ、それは既に不良グループとは言えない。チンピラと呼ばれる人種の持つスペックには、あくまで限界があるのだ。

「うっ」

 元々、動揺に次ぐ動揺で完全に浮き足立っていた彼らは。

 俺の言葉を決定打として、容易く崩れた。

「うわあああ!冗談じゃねぇっ!!」

「チクショウ、こんな所で死んでたまるかよぉっ!」

 俺の殺気を浴びせ掛けられた事で、無残に斬り捨てられ、血の噴水と化す己の姿を幻視したのだろう。彼らは恐怖に染まった情けない悲鳴を上げながら、恥も外聞も無く逃走を始めた。

 殺気とは本来、受け取る者に“死”をイメージさせるもの。故に、“死”という概念と基本的に縁遠い一般人にはかえって効果が薄い場合が多い。

 しかし、具体的な例を、それも自分の目の前で鮮烈に見せ付けられた直後、という条件が付けば――まあ、ご覧の有様である。

「ちょ、ちょっと!こら、キミ達、逃げるなっ」

「無駄だ。死に勝る恐怖はなく。そして恐怖を超越するには、連中は弱過ぎる」

 慌てた調子で喚いているねねに、俺は少し同情しながら声を掛けた。俺と蘭にやられた十人ほどの仲間と、更には殺気に耐えて踏み止まったリーダーをあっさりと置き去りにして逃亡する彼らに、グループの誇りはこれっぽっちも感じられなかった。

 正直、そんな小物連中を放って置いたところで大した害にはならないだろうが、まあ仕事は仕事。手を抜かず、きっちり追い討ちを掛けておくとしよう。

「蘭、手筈通りに。往け」

「はっ」

 廃工場から脱出しようと、入口の扉に向かって一目散に駆けていく“黒い稲妻”の面々。

 蘭は太刀を片手に彼らの二倍近い速度で疾駆すると、追い抜き様に刃を一閃していった。誰かを追い抜く度に血飛沫が舞い、新たに人体が一つ床に転がる。

「やめて、もうやめてよ!どう見たってみんなもう戦意なんて残ってないじゃないか!」

「……」

 正面から必死の形相で吠え掛かってくる少女に、黙って視線を向けた。

 決して恐怖を感じていない訳ではないらしく、顔は青褪め、華奢な身体は小刻みに震えている。それでも、端に涙の浮かんだ目を俺から逸らす事なく、真っ直ぐに睨んできた。

 はてさて、一体何がここまで彼女を駆り立てるのやら、少しばかり引っ掛かるな。あくまで勘でしかないが、単純な情や義侠心とは異なるような気がした。

「ふん。己を見捨てた部下の心配とは、何とも寛容な事だ」

「いいから止めてよ!止めないって言うなら力尽くでも――」

「下らん。格の差を理解できんほど、愚昧でもあるまい。五体を留めぬ屍を晒したいか?」

 姿勢を低くして剣呑な気配を放ち始めたねねを、すかさず収束させた殺気を以って制する。

 忍足あずみというプロの殺人者を拘束し得たほどの威圧。もっとも、あのレベルの殺気を放ち続けるには精神力をガリガリ消費しなければならないので、今回はやや控え目に設定してあるのだが。

「うぅっ……!」

 それでも“表側”の住人には十分過ぎるほどの威力だ。顔色をますます蒼白にして、ねねは頭から爪先まで硬直した。

 暴れ出されたら俺一人の手には負えそうもないので、少なくとも蘭が仕事を終えて戻ってくるまでは、このまま拘束しておくとしよう。

「ひぃぃっ」

「ぎゃああっ!」

 哀れな子羊を追い立てる我が従者は絶好調のようで、ゴールを目指す連中の内、既に十数人ほどが志半ばで斬り捨てられていた。

 されど、たかが十数人。“黒い稲妻”は百人以上もの大人数で構成されているのだ。

 このままでは、残りの大多数の面子は無事に工場外への脱出を果たしてしまう――と思われる所だが、抜かりはない。

「ふん。伏兵は、戦の常道」

 何と言っても工場の玄関口には、二人の腕利き――宇佐美巨人と源忠勝を事前に配置済みである。

 後門の狼に追われ必死に逃げ出してきた羊を狩ろうと、前門では二匹の虎が手ぐすね引いて待ち構えているのだ。残念ながら羊達の群れには、大人しく諦めて餌となって貰う他ない。

「くく。計画通り」

 心中にて会心の笑みを浮かべる。ここまで俺の目論み通りに事が運んだのは久し振りだ。

 何せ今回、俺自身のした事と言えば殺気を放っただけである。それ以外には一切何もしなかったにも関わらず、敵対勢力を完璧に叩き潰し、依頼を完遂する事に成功したのだ。最小の労力で最大の成果を得る――実に素晴らしい。

 用意しておいた小道具も使わずに済んだので、出費もほぼゼロに等しかった。返り血を思いっ切り浴びたコートは流石にクリーニングに出す必要があるだろうが、まあその程度だ。

 明日は稼いだ報酬金で仲見世通りに繰り出して、思う存分高級和菓子を堪能しよう。


――――俺が異変を察知したのは、脳内にて文字通りに甘い夢を描いていた時だった。

 
 突然だが、武の世界における常識の一つ、“気”について講釈させて貰おう。

 この地球上に存在するありとあらゆる生物は、“気”と呼ばれる生命エネルギーを内包している。当然ながら、万物の霊長やら何やらと持てはやされる地球内生命体であるところの人類もまた同様に、この“気”を保有している訳だ。

 その所有量や性質は個人によって様々であり、ある程度武に通じている者はそこを利用して、“気”を探ることで相手の存在を感知し、個人を特定する事が可能なのだ。蘭のような人外連中と較べると悲しいほどに精度は悪いが、大雑把になら俺でも出来る。

 そして、ここで本題だ。俺は廃工場の外に、代行人の親子を配置しておいた筈である。が、現在、鉄の扉の向こう側から感じる“気”は、間違ってもその二人のどちらのものでもない。

 明らかに異質だった。奈落の底の如き禍々しさと、天を突くような雄大さを併せ持つ異様な“気”。

「まさか」

 記憶を探ること数秒、俺がその正体に思い至った瞬間。

「は、早く扉を開けろ!追いつかれちまうっ!」

「ん?ちょっと待て、向こう側に誰かが――」

 とんでもない振動と轟音が廃工場を揺るがせた。

 直後、工場の入口を守る鉄扉が、文字通り“飛んできた”。

 直線状に居た十数名の男達を巻き込みながら常識的に有り得ない速度を保って約五十メートルの距離を飛行し呆然と立ち尽くす俺の身体をギリギリのところで掠めて通過していった―――って何だ、これは。

「何だァ一体、ってうおわああああッ!?」

 後ろを振り返ると、金髪ピアスのチャラ男が巻き込まれて派手に宙を舞っているのが見えた。前田啓次、そこに居たのか。まるで気付かなかった。

 まあ今は空気の存在などを気にしている暇など無い。悪い予感に人知れず身を震わせながら、俺は随分と開放的な姿に成り果てた入口へと目を向ける。

「あのねぇ、たつ。扉を開けろとは言ったけど、向かい側の壁まで蹴り飛ばせと言った覚えはないよ」

「う~ん、加減がムズカしいんだよねぇ……まあいいかぁ。ちゃんと開いたし」
 
 悪い予感は見事なまでに的中した。なるほど、前門で待ち構えていたのは虎ではなく、実は龍だったというオチか。何ともまあ、無駄に良く出来た話だ。

「うはは、まあいいじゃんかアミ姉ぇ。選手入場は派手な方が気分出るぜ!」

「くくくっ。違いない」

 呆気に取られた顔で突っ立っている“黒い稲妻”メンバー達の存在などまるで意に介していないかのように、傍若無人に喋りながら工場に足を踏み入れた四人組。

 揃いも揃って、嫌になるほど良く見知った顔だった。

「うっはー、既に死屍累々じゃん。すっげー、床が血まみれだぜ」

 場違いな無邪気さではしゃぐ三女、板垣天使エンジェル

「ん~、ちょっと匂うなぁ。服に染み込んだらイヤだなぁ」

 場違いな呑気さでぼやく次女、板垣辰子。

「これは結構な惨状だねェ。一体誰がこんなえげつない事をやらかしたのか……なんて、考えるまでもないけどね。フフッ」
 
 場違いな妖艶さで笑う長女、板垣亜巳。

「ああ。この堀之外には、俺たちの獲物を横から掻っ攫うような命知らずはいねぇからな。そんな真似を出来るのはいつだってお前だけだ――なぁ、シン」

 そして長男、板垣竜兵が、俺に向かって獰猛に笑い掛ける。

 そんな状況に対して、俺は怒りやら嘆きやら呆れやらを通り越し、いっそ笑い出したくなるような気分に襲われていた。

「い、板垣一家……!?冗談でしょ……?」

 弱々しく呻いたねねの言葉に、俺は心中にて全力で同意する。

 圧倒的な暴力で堀之外を支配する、悪名高き板垣一家。何というか、場違いだ。場違いにも程がある。何故こんな時間にこんな場所でこんな奴らと遭遇する羽目になるのか。

 偶然の産物?いや、そんな事は有り得ないだろう。あまりにもタイミングが良過ぎ、いや悪過ぎる。誰かの意図が絡んでいるのは間違いない。となると、何者だ?そんな事をして何の益がある?

「ふん」

 色々と考えるべき事は多いようだが、少なくとも一つははっきりしている事があった。

 どうやら“黒い稲妻”との一戦は、ただの前哨戦に過ぎなかったらしい。道理で妙に難易度が低い訳である。

 織田信長にとっては、ここからこそが真の正念場。

 ゆっくりと息を吸い込んで、吐き出す。気付けば、傍には蘭が控えていた。似合わない凛とした表情と、手に携えた血塗れの太刀が何とも頼もしい。


「主」

「問題ない。退屈を紛らわす相手には、悪くないだろう」


 さて。吐き出した強気な言葉とは裏腹に、全く以って気は進まないが、仕方がない。


 誰かさんのお望みのままに、第二ラウンドを始めるとしよう。















「ねートーマ、さっきから何見てるの?」

「ふふっ、見世物ですよ。とても楽しい舞台です」















お久し振りです。一人でも覚えていて頂けたならそれだけで嬉しい。

半端なく更新が遅れてしまい、大変申し訳ありません。

作者のスキルがもっとあれば、と自分の到らなさを嘆くばかりです。定期更新している方を少しは見習わねば……

あと今回、原作キャラが最後しか登場しないという暴挙に出ていますが、こうした構成は恐らく今回が最初で最後です。

二次創作としてあまり良くない書き方だと自覚していますが、今回に関しては今後の展開の為にどうしても必要な話だったので、寛大な心で見逃して頂ければ幸いです。

それにしても、天使エンジェルちゃん真剣マジ天使エンジェル。 それでは次回の更新で。



[13860] 四・五日目の死線、前編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:5ac98617
Date: 2010/08/07 00:05

 俺こと織田信長と板垣一家の関係を、一言で説明するのは非常に難しい。

 過去十数年の腐れ縁を通じて積み上げられ、ゴチャゴチャと複雑に絡まり合った俺達の関係性を、事情を知らない他人に理解させるのは余りにも難易度が高すぎる。というか、はっきり言って無理だろう。

 正直な話、かく云う俺自身すらも、あの一家との複雑怪奇な関係については未だに整理し切れていないのだから。

 そういう訳で、その辺りの事情についてはまたの機会に語るとして。取り敢えず今は、板垣一家のパーソナリティについて軽く触れておこう。

 
 板垣竜兵、板垣亜巳、板垣辰子、板垣天使。

 
 断言してもいいが、この四兄妹の中にマトモな感性の持ち主など一人もいない。揃いも揃って何処かしら神経がイカレている。思考も価値観も常識も、何から何まで外れていて、“裏”の社会の中ですらも異端・危険視されている連中だ。

 にも関わらず、他の有象無象から排斥される事もなく自由気ままに振舞えている辺り、その力がいかに人外じみているか判ろうと言うものである。

 昔はそうでもなかったのだが、現在の堀之外には板垣一家に逆おうとする連中は殆ど居なくなっていた。理由は単純明快、逆らえば文字通りの意味で叩き潰されるからだ。

 まさしく享楽と暴力とをそのまま形にしたような在り様。堀之外という魔窟が産み落とした魔物――そんな表現がこれ以上なくしっくりくる。

 俺とその忠実なる従者であるところの森谷蘭が繰り広げた、明智ねね率いる“黒い稲妻”とのバトル。

 それが俺の完全なる勝利を以って終局を迎えようとしていたまさにその瞬間、それをブチ壊すように突如として乱入してきた連中、板垣一家とは――まあ、そんな奴らである。

「乗り込んでみれば既に祭りの後、と思ったが……どうやらまだ生き残りがいるらしいな」

 板垣一家のド派手な登場に度肝を抜かれたのか、“黒い稲妻”の面々は未だにポカンとした顔を晒して突っ立っている。顔に獣じみた凶相の浮かぶ長身長髪の男、竜兵はニヤリと残忍な笑みを浮かべながら、傲然と彼らを睥睨した。

「フフ、安心したよ。今夜はたっぷり愉しむつもりでわざわざ出向いたってのに、アタシのために鳴き声を上げる豚どもが居ないんじゃつまらないからねェ」

 亜巳は相変わらずの嗜虐趣味全開な目つきで、値踏みするように男達を眺め回していた。生粋のドSの気持ちなど想像したくもないが、SMクラブでの仕事(女王様)だけでは物足りないものなのだろうか。

 ……まあ他人の性癖に口を出すのは賢明ではない。少なくともこちらに目が向くまでは放って置くのが一番だろう。君子危うきに近寄らず、である。

「ウチはウチで新・必殺技!の実験台、募集中なんだよなー。うけけけ、さーて何から試そっかなーっと」

 天の奴はどうせまたゲームの技の真似でも試そうとしているのだろう。ヒーローショーを視る子供のようにワクワクした顔でゴルフクラブを素振りしている。

 何故か本人にとってはこれ以上手に馴染む得物は無いらしく、ゴルフクラブは奴が護身術を始めて以来、愛用し続けている武器だった。

 たまに交換はしているようだが、いつ見てもヘッドの部分に黒い血痕がこびり付いていると言う、何とも恐ろしい凶器である。

「zzz」

 そして残る一人。辰子は先程自分が蹴破った入り口にて仁王立ちしたまま、実に幸せそうな顔で夢の世界へと旅立っていた。

 奇人変人の知り合いは嫌になるほど数多くいるが、流石に敵地のど真ん中で堂々と居眠りできるような図太い神経の持ち主はこいつの他には知らない。マイペースにも程があると言うものだ。

 そんな彼女に亜巳が無言で歩み寄ると、安らかな寝顔に慈愛の眼差しを向けながら、無防備な腹部に容赦なくボディーブローを叩き込んだ。

「おふっ!……ん~?あ、おはよぉアミ姉ぇ。もう朝かぁ」

「残念ながらおはようを言うには半日近く早いねェ。寝惚けてんじゃないよ、まったく」

 何だこいつら――そんな思いで、今現在、“黒い稲妻”の面々の心は一つになっている筈だ。俺だって長年の付き合いで慣れていなければ、同様に混乱するのは間違いない。

 多少たりとも常識のある人間ならば、あまりの得体の知れなさに不条理な恐怖心すら抱く事だろう。実際、板垣一家に注目する彼らの表情は、揃って当惑と不安に満ちていた。

 竜兵はそんな彼らを鼻で笑い、小劇を繰り広げている三姉妹に声を掛けた。

「俺も血が滾って仕方がねぇところだが、今回は暴れる前にやるべき事があるからな。ちっ、腹立たしいがエモノは譲ってやる。遠慮はいらん、俺たちのシマを荒らすってのがどういうことか、愚かな新参どもに教育してやろうじゃねえか」

「おお、珍しく太っ腹だなリュウ!そんじゃ早速ウチから行くぜぇ、ゲーセンで鍛えたウチの北都神拳を見せてやらーっ!」

 ゲームとリアルを混同してしまった感じの色々と危ないセリフを叫びながら、天が愛用のゴルフクラブを振り回して暴れ始める。武器を使っている時点でそれは既に拳法ではないと突っ込みを入れたくなる俺は間違っているのだろうか。

「ひとまずシンへの挨拶は任せたよ、リュウ。ほら、いつまでボケっとしてんだい。アタシ達もさっさと行くよ、辰」

「うぅ~、眠い……」

 次いで亜巳が妖しい笑みを浮かべながら得物の棒を振るい、最後に辰子がフラフラと覚束ない足取りで参戦する。

 そして、人外の人外による人外のための蹂躙の宴が始まりを告げた。

「うぎゃああぁぁっ!!」

「ひぃぃっ!助けてくれえぇええッ!」

 蘭に追い回されていた時点で既に戦意を失っていた“黒い稲妻”の面々が、人外街道まっしぐらな三姉妹を相手に抵抗など出来るはずもない。

 人体が重力を無視して縦横無尽に宙を舞い、殴打と骨折の音響が四方八方から鳴り響く、そんな阿鼻叫喚の地獄絵図が瞬く間に展開された。

 悲鳴が飛び交う危険地帯の中を平然たる顔つきで横切って、こちらへと歩み寄る男が一人。そして、二メートルほどの距離を挟んで俺達は対峙した。

「よお。くっくっく、こんな所で遭うとは奇遇だな」

「奇遇だと?ふん、その言葉の意味を解しているとは思えんな。まあいい、能書きは不要。用があるなら今すぐ言え」

「言わずとも分かっているだろう?血の匂いに満ちた戦場で、俺と、お前が会ったんだぜ。やる事は初めから決まっている……違うか?」

 胸の前で指の骨を鳴らしながら、板垣竜兵は不敵に言い放つ。

 やれやれだ。どうやらこの分だと、戦闘を回避するのは少しばかり難しそうである。

 もしかしたら穏便に解決できるかもしれないと踏んでいたが、やはり希望的観測は宜しくない。世界は俺の望む通りに動いてくれるほど、ご都合主義的には出来ていないのだから。

「リュウさん。主に害を為そうと思うなら、私の刃を浴びる覚悟を致してからに下さい」
 
 俺と竜兵の間に漂う不穏な気配を察知して、蘭が素早く愛刀を鞘より抜き放った。二尺五寸の刃が鋭く光る。こいつが顔見知りの人間に向ける態度にしては珍しく、随分と好戦的だった。

 まあ無理もない、基本的に人を斬った直後の蘭は気が立っているのだ。一度血を見ると、誰彼構わず斬り捨ててしまいたくなります、勿論主は別ですが―――とは蘭の言である。

 何とも物騒極まりない話だが、これは過去のトラウマに起因する蘭の自衛本能のようなものだ。俺には精々、ストッパーとして振舞うことしか出来ない。

「蘭。少し待て。奴とは話がある」

「……ははっ、承知致しました」

 俺の命令を受けると、蘭は表情をぎこちなく強張らせながらも太刀をゆっくりと鞘に収めた。それを確認してから、俺は竜兵に向き直る。

「念の為に問うておくとしよう。先の言葉、俺に対する宣戦布告と捉えるが。相違はないか?」
 
 元々、織田信長と板垣一家は明確な敵対関係にある訳ではない。表の顔と裏の顔、立場としては利害が衝突する事もあるが、実のところ私的な面ではそれなりに付き合いが深かったりする。

 親不孝通りを歩けば結構な頻度で一家の誰かと遭遇するし、そんな時は連れ立って行動する事も珍しくない。少なくとも、会う度会う度に死闘を演じるような険悪な間柄ではないのだ。

「他にナニがある?辰はともかく、俺もアミ姉ぇも天も、いつだってお前との死合いを望んでるぜ……それはガキの頃から変わってねぇ」

 しかし、単なる仲良しな隣人、と言い切れるほど分かり易い関係でもないのもまた、確かだった。だからこそ、この忌々しい現状が出来上がっている。

「ふん。今更になって俺に勝負を挑もうとは、随分と増長したものだ。街の顔と持て囃され、驕ったか?リュウ」

「っ!くくっ、相変わらずイイ殺気だ。肌にビリビリきやがる」

 竜兵は俺の威圧にも動じる事なく、むしろ愉しむように身体を震わせる。少し言葉を交わしただけで既にうんざりし始めている俺を誰が責められようか。

 このどうしようもない戦闘狂にとって、殺気は夏場に浴びるクーラーのように心地良く感じられるらしい。中途半端に殺気を飛ばしてみたところで逆に喜ばせるだけと言う、俺からしてみれば何とも鬱陶しい性質を有している男なのだ。

「参ったな、お前と話してるとますます昂ぶってきたぜ。なあシン、やり合う前に場所を移して、俺の槍を受け入れてみないか?」

「死ぬがよい」

 不気味に頬を染めながら世迷言を抜かす竜兵の股間を全力全開で蹴り上げてやりたくなる衝動に襲われたが、いや待てそれは織田信長のキャラクター的に考えて宜しくない、と理性を以ってどうにか抑える。

 その一方で、全身に浮かんだ鳥肌はなかなか収まってはくれなかった。気分としてはS組の葵冬馬に口説かれた時よりも酷い。つまり死ぬほど胸糞が悪い。

「つれないな……かれこれ十年以上の深い関係なんだ、そう邪険にすることもないだろう」

「深い関係?ふん、訂正が必要だ。不快な関係、だろう」

 ――板垣竜兵十八歳(♂)、好みのタイプはイイ男。少なくとも一年前の時点ではそっちのケはなかった筈なのだが、気付いた時にはいつの間にやら俺を見る目つきが怪しくなっていた。背中を向けた際に寒気がするようになったのもその頃からである。

 どうしてこうなった、と頭を抱えたい気分だ。本人曰く、とある運命の出逢いで考え方が変わっちまった、との事。何とも傍迷惑な運命もあったものだ。
 
 そこまで考えた所で、俺は何とも嫌な予想に思い至ってしまった。板垣一家が正面入口からこの工場内に侵入してきた以上、当然ながらあの二人にも遭遇している筈なのだ。

「……外には見張りを置いてあった筈だが。彼奴らにも、手を出したのか?」

 巨人のオッサンはともかくとして、忠勝は川神学園のイケメン四天王エレガンテ・クアットロの一人に数えられる程のルックスの持ち主である。十分、竜兵好みのイイ男に該当するだろう。

 もしも万が一、大事な幼馴染が無残にも野獣の毒牙に掛けられてしまったのなら。俺は、この命を賭してでも仇を取ってやらねばなるまい。

「ああ、あいつらか。なかなか美味そうだったが、後一歩の所で取り逃しちまった。くっ、思えば何とも惜しい事をしたな」

 竜兵は心の底から悔しそうに顔を歪めた。どうやら我らがタッちゃんの純潔は無事に守り抜かれたようで、全く以って何よりである。

 しかし、安心してばかりはいられない。重要な戦力であるあの親子が撤退した事で、俺と蘭は敵地に取り残された形になる。

 彼らにしてみれば別に見捨てたつもりはなく、“織田信長”の実力を信用しているが故の戦略的撤退なのだろうが……虚像を取り払った俺の素の実力を考えてみると、この状況は相当に厳しいものがある。

 さて、どうしたものやら。

 会話の最中に幾つかのプランを脳内で組み立ててはみたが、果たしてどの手段を選択するのがベストなのか。いまいち判断に困る。自身の置かれた状況をより正確に把握するためにも、まずは情報を引き出す必要がありそうだ。

「下らん前置きは此処までだ。時間が惜しい。お前達が何故、何の為に。この場所に居るのか、いい加減に説明して然るべきだろう」

「くくっ、何を説明すればいいのか分からんな。ヨソ者連中の教育に足を伸ばしたら、偶然お前達と鉢合わせた。それじゃあ駄目なのか?」

 竜兵はニヤリと笑いながら、わざとらしい口調で答える。その様子を見る限り、どうやら初めから誤魔化そうと言うつもりもないらしい。

 殺気を飛ばして催促すると、竜兵は軽く肩を竦めて見せてから、楽しげに言葉を続けた。

「そうだな。俺がここに来て、今こうしてお前と話しているのは――全て、マロードが望んだからだ」

 竜兵が口にしたのは、何処かで聞いた事のある名前だった。マロード。マロード?記憶を探ってみるが、咄嗟には思い浮かばない。

「マロードだって……?ちょっと待ってよ、マロードがキミ達をここに寄越したって言うの!?」

 背後から上がった叫び声が、思考に沈み掛けていた俺を現実世界に引っ張り戻した。首を捻って後ろを見てみれば、驚愕に目を見開いた明智ねねの姿が視界に映る。

 そこで初めて彼女の存在に気付いた竜兵は、眉間に皺を寄せ、凶悪な眼光でねねを睨み据えた。

「おい女、なぜマロードの名前を知ってやがる。てめえは何者だ?」

「ボクは……“黒い稲妻”の、リーダーだよ」

「ブラックサンダー?ああ、俺たちの街で馬鹿をやりやがった件のゴミ連中か。くくっ、つまり、今まさに貴様の部下が壊されている訳だ。それを、こんな所で黙って見ていていいのか?」

 竜兵が顎で指し示す先では、三つの暴力による容赦の無い蹂躙が続いていた。

 辰子が薙ぎ払うような動作で無造作に腕を振るえば、ただそれだけで複数の男達が纏めて吹き飛ばされ、五体を変形させながら宙を舞う。

 その圧倒的な暴虐から逃れようと必死で走る者を、人体の急所を正確に狙って繰り出される亜巳の冷徹な一撃が昏倒させる。

 そうして意識を失い、地面に伏していった者達にも安息が訪れる事はない。倒れた者に対しては、天が嬉々とした顔でゴルフクラブをスイングし、一人一人の頭蓋を打ち抜いて追い討ちを掛けていた。

「酷い有様ですね……」

 裏の世界で幾多の暴力を散々その目に焼き付けてきた我が従者でさえ、そんな呟きが零れ出るのを抑えられなかったらしい。

 “表”側の人間ならば直視することも躊躇われるような、どうしようもなく悲惨な情景が眼前にて繰り広げられている。

「もうダメだよ。もう、手遅れだ。ボクには、彼らを救う事なんてできない」

 しかし、意外にもねねが取り乱すことはなかった。激昂する事も悲嘆する事もなく、ただ疲れ切ったような表情で、淡々と言葉を紡ぐ。

「フン、心が折れたか、つまらん。“黒い稲妻”は残党の一匹も残さず徹底的に叩き潰せ、それがマロードの指令だ。安心するといい、貴様もすぐにあの連中と同様に壊してやる。いや、まずはマロードとの繋がりを吐かせるのが先か?」

「そう……、そうなんだ。この結末が、マロードの望んだモノなんだね。そうかそうか、なるほどね」

 恫喝の言葉が全く耳に入っていないかのように、ねねは俯いてブツブツと呟いている。俺の立ち位置からはその表情を窺う事はできない。

「うん、そうだ、あの時から。ああそう言うこと?最初から、そのつもりで?ふ、ふ、ふふふふ、あははははっ」

 不意に不気味な笑い声を上げ始めたねねの姿が勘に触ったのか、竜兵が青筋を立てて凄みを利かせる。

「貴様、何が可笑しいん――」


「ぅぅぅぅぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああむかつくムカつくムカツクぅ!胸糞悪い!死ねばいいのに!ここまで舐め腐られた経験は初めてだよ……、マロードォッ!!」


 唐突な怒りの咆哮が廃工場を揺るがせる。


 カッと限界まで見開かれ、ギラギラと燃えるねねの目は、先程までとは打って変わって異様な迫力を有していた。竜兵ですらも、彼女の突然の変貌にたじろいだ様子を見せている。


「ああそうだよ何もかもボクの自業自得さ。だけどそれでこのボクが泣き寝入りすると思われちゃ困るね、絶対に思い知らせてやる!ゼッタイ、絶対にだッ!」


 傍にいる人間が取り乱していると、見ている側はかえって冷静になれるものだ。怒り狂って喚き声を上げるねねの姿に、俺はようやく我に返った。この切迫した状況で思考を停止するとは、何とも不覚である。猛省して然るべき失態だ。

 仕事を放棄していた十数秒を取り戻そうとするかのように、俺のさして高性能でもない頭脳が全力の高速回転を始める。
 

 マロード。そうだ。ようやく思い出した。

 
 何処かで聞いたと思えば、ここのところ堀之外を中心に広がり始めている合法ドラッグ――ユートピアの流通ルートの元締めが、確かそんな風に名乗っていた筈だ。

 勿論のこと偽名であり、その本名はおろか国籍も容姿も年齢も、性別すらも知る者は誰一人としていない謎の売人と専らの評判であった。

 新参が調子に乗って羽目を外さないよう、裏の顔として直接釘を刺してやろう。そんな目的を胸に、俺自ら堀之外のあらゆる情報屋を当たってみたが、それでもその尻尾を掴むまでは至らなかった。

 結局、これまで大した問題は起こしていないので放置していたのだが、まさかここに来てこのような形で障害となろうとは。予想だにしていなかった展開である。

 
 さて。竜兵は何と言っていた?“俺がここに来て、今こうしてお前と話しているのは――全て、マロードが望んだからだ”。

 
 その言葉の意味を察するに、つまり例のマロードとやらが板垣一家に命令を下す立場にあると、そういう事なのだろうか。

 はてさて、それが事実だとするとまた妙なことになる。こいつらは他者の指示に大人しく従うような殊勝な連中ではない。マロードという人物が、板垣一家の手綱を取れるほどの驚異的な統率力を有している、と考えるべきなのか。

 
 そして問題は、ここに来て何やら妙な繋がりが見えてきた少女、明智ねねだ。

 
 言動から推察するに、彼女は以前にマロードと接点を持っている。そして板垣一家がこの場に現れた事で、騙されたか、或いはそれに値する裏切り行為を受けた事を悟った、と。

 
 …………。

 
 成程。あくまで何となくではあるが、全体の構図が浮かび上がってきた。同時にここで俺が選ぶべき道筋もまた見えてくる。思考が一つの方向性を持って固まり掛けてきた、その時。


「なーんかスッゲー怒鳴り声が聞こえた気がしたけど、何だったんだ?マロードがどうこうって言ってたよな」

 
 血に染まったゴルフクラブを片手に歩み寄ってくるのは、鮮やかな橙色の髪をツインテールに束ねた活発そうな顔つきの少女。天こと板垣天使である。

 ちなみに天使と書いてエンジェルと読む。天使と書いてエンジェルと読む。大事なことなので二回言った。

 蛇や竜をイメージして名付けた姉や兄が実にアレな感じに育ったので、せめて彼女だけは天使のような子に育って欲しいという思いからのネーミングだったらしい。

 しかし残念ながら見ての通り、どちらかと言えば悪魔と呼んだ方が適切な感じの性格へと成長を遂げているのが現実である。

 両親の思惑が見事なまでに裏目に出た訳だが、同情なぞ出来る訳もない。自業自得以外の何者でもなかった。

 天は板垣一家の末妹にして、DQNネーム被害者の会におけるナンバー2の地位に就いている。ちなみに会員は俺と天の二名のみである。互いにロクな親を持たない者同士、通じ合うものは多い。主に趣味とか。

 そんな訳で、俺と天は月に何度かの頻度でガチバトルを繰り広げ、時には協力して強敵を打ち倒す。ちなみにゲーセンの話である。アーケードゲーム、特に格ゲーは俺達の共通の趣味なのだ。

 何だかんだあって板垣一家の中では最も俺との親交が深い少女。それが板垣天使である。

 しかし、その彼女もこの状況で遭遇する限りにおいては厄介な“敵”以外の何者でもない。ここで天が家族を敵に回してでも俺に味方してくれるような展開があれば助かるのだが、まあ有り得ない妄想をしても無意味だろう。

「オイオイ、もういいのか?意外に早かったな。一番暴れたがっていたのは確かお前だったハズなんだが」

「だってさぁ、アイツら手ごたえ無さ過ぎでつまんねーのなんのって。最初はリアル北都無双っぽくて楽しかったけど、すぐに飽きちまった。あー、やっぱヌルゲーじゃダメだな」

 竜兵の言葉に肩を竦めて答えると、天はこちらに目を向けた。ニィ、とその口元に三日月のような笑みが形作られる。

「それに何より、スリル満点で激ムズの熱い死合いゲームが目の前にあんだぞ?そっちが気になって楽しめねーっての。つー訳でウチが欲求不満なのはシンのせいだかんな、責任取れよ!」

 なんという嬉しさの欠片も感じられない誘惑。嘆かわしい。昔は悪ガキだった天も今ではすっかり年頃の女の子だと言うのに、どうしてこんな色気のない暴力娘に育ってしまったのだろう。

 ああ名前か、そう、DQNネームが諸悪の根源。天は犠牲になったのだ……思慮の足りないDQN親、その犠牲にな……。

 などと愚にもつかない思考を頭の片隅で行いながら、俺は天の言葉を鼻で笑う。

「ふん。天」

「な、なんだよ……」

 じっと目を見つめながら口を開くと、嫌な予感を覚えたのか、天はたじろいだ様子で後ずさる。

「そこまで言うからには、当然オムツは用意済みという訳か。くく、いつぞやの様にしっき―――」

「わあああああああああぁぁぁっ!昔の話を蒸し返すんじゃねええええええぇぇっ!!」

 俺の必殺の一撃を受けて、天は釜茹で蛸の如く顔を真っ赤にして喚いた。血のたっぷり付着したゴルフクラブをブンブン振り回してさえいなければ微笑ましい姿なのだが。

 若さゆえの過ち、忘れたい過去という物は、大なり小なり誰にでもある。天にとってのソレは常人よりもいささか巨大過ぎた――それだけの話だ。まあ彼女の名誉を守る為にも、これ以上は触れてやるまい。

「あ~、つかれたぁ。もう仕事はおしまいでいいのかなぁ」

「おや、これで終わりかい?呆気ないもんだねェ。はぁ、アタシを満足させられる理想の豚は中々見つかりゃしない。そっちはどうだい、辰?」

「zzz」

「寝るな!」

 俺が天で遊んでいる間に、向こう側の騒がしい乱闘にも片が付いたらしい。亜巳と辰子がいつも通りの遣り取りを交わしながら、ゆっくりとこちらに向かってくる。

 二人が通り過ぎた現場は、まさしく台風一過、という表現が相応しい惨状と化していた。廃工場の至るところに血痕と得物の残骸と、無数の人体が散らばっている。

 立ち向かった者は勿論、逃げ出そうと試みた者達の誰一人として屋外の空気を吸うことは出来ず、意識を刈り取られて埃塗れの床に転がされていた。

 総勢百数十名の構成員が揃って戦闘不能。実質上、“黒い稲妻”というグループは全滅したと言ってもいい。


「あのさ」


 いや、違う。訂正しよう、まだ“全滅”ではなかった。この場に一人だけ、自らの足で立っている者が居る。

 明智ねね。グループのリーダーである彼女は未だ無傷で、そして決意の炎を宿した瞳で俺を見つめていた。

「一つだけ、頼みたいことがあるんだ。キミがここで板垣一家と闘うなら、どうかお願い。ボクを……使って欲しい」

「ふん。何を突然。己が部下の、仇討ちの心算か?」

「んー、そうだね。それも確かにあるよ。でも、そういうセンチメンタルな理由はどっちかというとオマケだね。ちょおっとメンドーくさい事情があって、ボクは帰る家を無くしちゃったみたいなんだよね。可哀想でしょ?今のボクは、言ってしまえば野良猫同然なんだ。だからさ、冷たい雨風とか、心ないヒト達の暴力から保護してくれる飼い主を急募中ってワケ」

「……」

 なるほど、そういう事か。これまでの振舞いを見ている限り、単純な激情家かと思っていたが、実際はそうでもなかったようだ。

 計算高いタイプの人間でなければ、間違っても今のセリフは出てこない。彼女は自身の置かれた立場を冷静に把握して、何をすべきか考えて行動している。

 ここに到るまで、“黒い稲妻”は見境も分別もなく暴れ過ぎた。俺や板垣一家が出張るまでもなく、いずれは他の組織に潰されて終わっていた事は想像に難くない。このグループは既にそれほど多くの連中を刺激してしまっている。

 つまりリーダーのねねは、例えこの場を上手く切り抜けても、今後も板垣一家を筆頭とする数多くの勢力から付け狙われる羽目になる訳だ。そうなってしまっては満足に日常生活を送ることすら難しくなるだろう。

 しかし、俺の傘下に入る事に成功すれば話は別である。ねねの肩書きが“黒い稲妻の元リーダー”から“織田信長の配下”に変わる事で、裏社会の殆どの連中は手を出すことを躊躇うようになるだろう。これに勝る保身は早々あるまい。

「ボクは、マロードの奴に一泡吹かせてやるって決めたんだ。こんな所でやられるのはゴメンだからね。それにこの状況じゃ、猫の手も借りたいでしょ?」

 その通りだった。彼女のこの申し出は俺にとっても渡りに船。俺と蘭の二人だけで相手をするには、板垣一家という連中は少しばかり手強過ぎる。

 ねねの実力は未知数だが、間違いなく俺よりは頼れる戦力となるだろう。悲しいほど才能に恵まれなかったとは言え、俺も武道を嗜んだ人間だ。眼前の小柄な少女が只者でないことは一目で分かる。

 つまり、この場における織田信長と明智ねねの利害は、完全に一致していた。

「良かろう。その度胸に免じ、口車に乗ってやる。だが」

 殺気を乗せて正面から睨み据える。ねねは身体を震わせ、表情を強張らせたが、屈する事無くこちらを見返した。

「俺は貴様とは違い、無能な部下など要らん。俺に飼って欲しければ――相応の結果を披露して魅せるがいい」

 一言一言にかつてない強烈な重圧を込めて、俺は言葉を紡いだ。

 明智ねねが織田信長を利用するのではない。織田信長が、明智ねねを選別するのだ。俺が俺であるためには、其処の所だけは譲る訳にはいかない。

 恫喝めいた俺の言葉に顔色を青くしながらも、ねねは黙って頷いた。

「おーい、シン!そんなガキっぽいチビ女はほっといて、早くウチとやろうぜぇ」

 先程から退屈そうな顔で俺とねねの会話を聞いていた天だったが、遂に飽きたのか、ゴルフクラブを構えて声を上げる。

 それに対して俺が何かしらのリアクションを取るよりも先に、ねねが反応した。底意地の悪い笑みを浮かべながら、噛み付くように言葉を返す。

「ガキだのチビだの、随分と言ってくれるじゃないか。キミの事は知ってるよ、板垣一家の末の妹。板垣、えーっと、エンジェルちゃん!いやぁユニークなお名前だねぇ、くすくす」

 その瞬間、ブチ、と血管の切れる音がやけに鮮明に聞こえたような気がした。

 子供の頃、DQNネームが原因で散々からかわれてきた天にとって、自分の名前は最大級のコンプレックスだ。そこを揶揄されれば、いとも容易く理性を失ってしまう。

「てんめええぇええええっ!!殺ス、ぜってーブッ殺すッ!!」

 それ故に、挑発としてはこれ以上ない効果を発揮した、と言えよう。悪鬼の形相でゴルフクラブを振りかぶって突進してくる天を前に、ねねは悪戯が成功した子供のように笑う。

 そして、数瞬の溜めを経て地面を蹴り上げ、150cmに満たない体躯を大きく跳躍させた。人外じみた速度で振り抜かれたゴルフクラブの上を、その持ち主の身体ごと飛び越えるように宙を舞う。驚嘆に値する身軽さだった。

「なっ、どこ行きやがった!」

 天の目から見れば、一瞬で相手が視界から喪失したように映るだろう。

 ねねは標的を見失って戸惑っている天の背後に着地し、同時に着地の衝撃を利用して地面に手をつくと、そのまま半ば逆立ちのような体勢での後ろ蹴りを放った。

 見ているこちらの目が回りそうな程にアクロバティックな動作で繰り出された一撃。後頭部を捉えるかと思われた足先は、しかしギリギリのところで虚空を切る。

 天は咄嗟に振り返ると同時に、身体を捻って蹴りの軌道から逃れていた。相変わらずの恐るべき反応速度だ。空中で一回転して逆立ち状態から体勢を立て直しつつ、ねねが舌打ちを落とす。

「初見で避けるかなぁ、アレを。予想通りというか何というか、ぶっ飛んでるね。流石は板垣一家」

「てんめェ、やりやがったな、このォっ!!」

 怒号と共に飛んでくる鋭い反撃の一閃を、ねねは素早い側転で回避し、ゴルフクラブの射程圏外へと距離を取った。

「さてと」

 腰を落とし、だぶついたコートの袖で顔面を防御しながら、左右へとリズムを刻むようなステップを踏む。一度でも見たら忘れ様のない、特徴的な構えだ。

「ボクが無能かそうでないか。存分に見極めてくれるといいよ、“ご主人”」

 タン、タン、と軽快に円を描いて天の周囲を移動しながら、ねねが俺に向けて不敵に言い放った。

「……決めたぜ……コイツはウチがぶっ殺す!シンは譲る、ただしコイツだけはウチの獲物だかんな、邪魔すんじゃねーぞッ!」

 一方の天は、完全に頭に血が上っている様子だった。どう見てもキレてしまっている。興奮剤によるドーピングもなしでここまで熱くなっている天の姿は珍しい。

 それだけ名前をネタにされるのが気に障ったと言う事か。うん、気持ちは非常に良く分かる。もし俺が誰かに同じことをされでもしようものなら、相手の心臓を止められるレベルで殺気を放てる自信がある位だ。

 激怒に顔を赤く染めた天が猛牛の如く突撃すると、そのまま激しい応酬が始まった。

「ちょこまかちょこまかウゼェェェっての!大人しく頭カチ割られて死んじまえっ!!」

「はんっ、ボクの天才的な頭脳をキミみたいなバカがオシャカにしようだなんて、おこがましいと思わないかなっ」

 直撃すれば骨をも砕くゴルフクラブのスイングを紙一重で見切り、舞踏の様な派手な動きで避ける避ける避ける。ねねの戦闘スタイルは回避に特化したものらしく、戦闘が始まってから天の攻撃を一回たりとも“受け”ようとはしなかった。

 実際、恐らくその判断は正解だ。生半可な防御など容易く突き破って粉砕してくるのが人外連中の人外連中たる所以であり、怖いところである。

 少なくとも身体つきを見る限りにおいては、ねねにそれほどの耐久力があるようには思えない。となるとやはり、現在のように小柄な体躯を活かして回避に専念するのがベストなのだろう。

 しかし、ねねも逃げてばかりと言う訳ではなく、時折隙を見てはカウンターの蹴撃を放っていた。

 宙返りと同時に放つ踵落としや、側転後の勢いを利用した回し蹴り。相当に身体が柔らかいのか、常人ならば無茶としか思えない体勢から繰り出されているにも関わらず、彼女の蹴りは驚く程に速く鋭い。

 未だに手を攻撃に使っていない所を見ると、どうやら足技のみを徹底して鍛えてきたようだ。足技のキレという一点を見れば、俺が今まで出会った使い手の中でも最高レベルに位置しているだろう。

 初見殺しと呼ぶに相応しいトリッキーな立ち回りも合わさって、流石の天も苦戦を免れない様子だった。

「おや。雑魚共の相手をしてる内に、何やら勝手に盛り上がってるみたいだねェ」

「おお~。あのコ、天ちゃんと互角だ。すごいなぁ」

 いつの間にか亜巳と辰子が見物に加わっている。これで泣く子も黙る板垣一家、その四人が全員集合した事になる訳だ。戦闘中の天を差し引いても、残るは三人。俺と蘭の二人だけで相手取るには少々厳しいと言わざるを得ない。

 頭数だけで言えばさほどの差はないが、何せ板垣の家は――あの釈迦堂刑部ですら持て余すような、とんでもない化物を飼っているのだから。

「くっくっく、邪魔な雑魚どもの掃除も済んだ事だ……存分にヤろうぜ、シン」

 激戦を繰り広げる天とねねから視線を外し、竜兵はこちらに向き直った。

「あァもう自制が効かねえ。血が昂ぶって仕方がねえんだ、鎮めてくれ俺の猛りをッ!」

 野獣の如く咆哮を上げる竜兵。俺を見つめる眼はギラギラと貪欲に輝いている。色々な意味で怖いからこっちを見ないで欲しい。

 そんな俺の願いは、全く以って予想も付かぬ形で叶うことになった。

「ウォラァァアアアアアアアッ!!」

 突如として俺の後方から野太い叫び声が響き渡り、同時に二メートル四方ほどの板状の物体が飛来する。

 表面の一部分が無残にひしゃげたその鈍色の物体は、ほんの少し前まで廃工場の入口を守っていた鉄扉であった。何とも強烈なデジャヴを感じる光景だ。

「フンッ!」

 “飛来してきた”とは言え、今回は先程のような非常識な速度ではない。

 竜兵は余裕の表情で両手を振り上げ、自分に向かって飛んでくる鉄扉をタイミング良く叩き落した。アスファルトと金属が激しく衝突し、耳障りな音響が周囲に広がった。

「どうやらまだ生き残りがいたみたいだねェ。フフ、活きのいい豚は嫌いじゃないよ」

 亜巳が舐めるような眼差しを向ける先には、大量のピアスを耳からぶら下げた、派手な金髪の男が立っていた。名前は確か、前田啓次だったか。あの鉄扉の直撃を食らってまだ動ける辺り、相当にタフな男である。

「なんだ、貴様は?俺は今、血が煮え滾って気が狂いそうなんだ……邪魔してんじゃねえよ、ああ!?」

「オレはなァ」

 悪鬼そのものの形相で睨み付ける竜兵に怯んだ様子もなく、啓次は静かに呟いた。

「そりゃな、確かに言ったぜ。自分から格上相手にケンカ売るのは止めにするっつったけどよォ。それでもなァ!」

 呟きが徐々にボリュームアップしていき、やがて天を衝くような怒鳴り声になっていく。

 巻き添えで鉄扉の下敷きにされたのがよほどお気に召さなかったらしい。啓次は完全にブチ切れている様子だった。まったく、蘭といいねねといい天といい、どいつもこいつも沸点が低い。キレる若者が問題視されるのも頷ける。

「吹っ掛けられたケンカを買わずにいられるほど、オレァ腑抜けちゃいねェんだよッ!!」

 どうもこの男の怒りの矛先は板垣一家へと向けられているようだ。ズカズカと床を踏み鳴らしながら俺の傍を通り過ぎて、啓次は竜兵に真正面からガンを付けた。

 大柄で筋肉質な両者が睨み合って対峙する光景には、それだけで一種の迫力がある。

 俺の見立てでは扉を吹っ飛ばしたのはまず間違いなく辰子なので、竜兵に食って掛かるのは筋違いもいい所なのだが、まあここは黙って様子を見守るとしよう。

「板垣だったか?てめェは冗談抜きで強ェんだろうな、一目見りゃ分かっちまうぜ」

「フン、見る目はあるらしいな」

 啓次の賞賛の言葉に、竜兵は当然と言わんばかりに鷹揚な調子で答える。

「だがな、逆に言やァ“一目見りゃ分かっちまう程度の強さ”だってコトだ。てめえからは、信長みてーなあの底知れないヤバさは感じねェ。あそこで戦ってる二人みてェに、一線を踏み越えた感じもしねェ。だからよォ」

 猛々しく不敵な笑みを浮かべながら、啓次は堂々と言い放つ。

「てめェから売られたケンカを買っても、それほど無茶をやってる気はしねェなァ!」

 ブチ、とまたしても血管が切れる音が聞こえた気がした。やれやれだ。ここに集まった連中は本当に、どいつもこいつも地雷を踏むのが無駄に上手い。ついでに本人も喧嘩っ早いと来たから困ったものである。

「……おい。タツ姉ぇ、アミ姉ぇ、気が変わった。シンとヤり合う前に、身の程を知らんカスを教育しておかないと気が済みそうもねえ……」

 もはやどう形容していいか困るような表情で、竜兵は力尽くで感情を押し殺したような声を上げる。

 どうやら、俺と蘭は当面の標的から外れたらしい。竜兵特有の獣じみた殺気は、既に眼前の不敵極まりない男へと向けられていた。これは何とも好都合だ。

「まったく、アンタらはすぐに頭に血が上っちまうから困るよ。結局、シンの相手がアタシと辰しか残ってないじゃないか、この単細胞どもが」

 そんな竜兵の姿に、亜巳が呆れ顔で文句を漏らした。

 長女として一家を取り仕切っている亜巳は、基本的にいかなる時でも冷静さを失うことはない。瞬間湯沸し器を擬人化したような性格の竜兵や天と同じ血が流れているのか、常々疑問に思うところである。

 それを言うなら超が付くほどのんびり屋である次女、辰子も浮いているのだが、まあ奴は奴でアレなので何とも言い辛い。

「えぇとぉ。私がシンとやるんだ?う~ん……痛いのはイヤなんだけどだなぁ」

「最初からそういう予定だったじゃないのさ、今更何言ってるんだい。ほら、いい加減にシャキっとしな!」

 一喝と共に、亜巳の得物――漆黒に塗られた棒が辰子の後頭部に振り下ろされる。瞬間、まるで金属同士が衝突したような甲高い音が響いた。

「うぅ~、痛い……」

 そんな強烈過ぎる目覚ましに辰子は少し涙目になっていたが、それだけである。一般人が同じことをされれば間違いなく頭蓋にヒビが入っている事だろう。

「ふん。二人も戦力を欠いて、それでも俺から勝ちを得られるとでも思っているのか?」

「そうだねェ……アンタの怖さは言うまでもないとして。真剣持ちの従者が一緒となると、アタシ達だけじゃあ危ないかもしれないね」

「そう思うなら、素直に退いて頂けると嬉しいのですが。私は、主の御友人を斬りたくはありませんから」

 淡々と警告の言葉を紡ぐ蘭の表情は一見すると冷静なものだが、主君としての俺はどうにも危険な予兆を感じ取っていた。

 ―――時間切れ、か?

 こういう状況において、人格的に欠陥だらけの我が従者が人並みの冷静さを保てるハズがないのだ。

 散々人を斬って返り血を浴びた上、絶え間の無い敵意と悪意が“主”を襲い続けているこの現状、いつストレスが限界を突破してもまるで不思議はない。

 暴走はするな、と事前に俺自ら命令しておいたお陰で、危ういながらもここまで理性を保ってはいるが……堤防が決壊するならばそろそろだろう。

「残念ながら、アタシ達にも事情があってねェ。ソイツは無理な注文だよ」

「退いてくれないんですね。そうですか。そうですか。退いてくれないんですね。そうですか」

 亜巳の返答を受けた途端、完全に蘭の表情と目から光が消え失せる。

 その姿に、やはり俺は悪い予感に限って良く当たる、と改めて思い知らされる羽目になった。


「一体どういう訳だか知りませんし知りたくもないんですけど、ここに居る人はみんなみんなみんな私の主を傷付けようとするものですからもう苛々して苛々して苛々して、ああもういっそのこと皆死んでしまえばいいのに、なんて思ってしまうんですよ。皆さんひどいですよ、どうしてよってたかって主の邪魔をするんでしょうか。でも考えてみればみんなバラバラに斬り刻んでしまえば主の“敵”じゃなくなりますよね、そうしたらもう誰も斬らずに済みますし主が不快な思いをなさる事だってないんですから、ああだったら簡単ですねそうするのが一番ですよ。いいですか、警告はしましたからね、私がちゃんと退いて下さいって言ったのに退かないのが悪いんですよ、そうです悪いのは貴方達なんですだから私の刃に斬られて血飛沫と臓物を撒き散らしながら死んでください」


 抑揚の欠けた調子でブツブツと呟きながら、蘭は一息に太刀を鞘より抜き放った。

 
 全身から立ち昇る黒々とした“気”が銀の刀身に纏わりつき、五尺に及ぶ漆黒の大太刀へとその姿を変貌させる。

 
 その気になれば人間を容易に真っ二つに両断出来る狂気的な凶器を構え、禍々しい殺気を放つ蘭。そんな物騒な存在を見過ごせる筈もなく、亜巳と辰子の両名が素早く臨戦態勢を取った。


「相変わらずのイカレた“気”だねェ。忠臣――なんて生温いもんじゃないか」

「んん~……早くウチに帰って寝たいなぁ。シン~、手加減してくれない?」

 
 何とも覇気に欠ける辰子の言葉と共に、いよいよ戦いの火蓋が切って落とされる。

 
 明智ねねと前田啓次が板垣天使と板垣竜兵の二人を引き受け、俺と蘭の主従の相手として残ったのは、板垣亜巳と板垣辰子。一家の中でも図抜けた実力を有する二人を同時に敵に回す羽目になるとは、何ともやり切れない話であった。

 
 狂化した蘭という人外の戦力を有して尚、それが大したアドバンテージにもならない戦い。この笑えないデスマッチを仕組んだのが例の“マロード”だと言うなら、俺は必ずそいつを引き摺り出して然るべき制裁を与えてやる。

 
 その為にはまず、この人外一家の魔手を撥ね退けてやらねばならないが。さて、どうしたものやら。


 まあ、最初に打つ手は決まっている。余裕なんぞ欠片もなく、気を抜けば崩れそうな膝を無理矢理に支えてやっとの事で立っている、そんな弱っちい自分自身を誰も彼もに誤魔化して、余裕綽々に言ってやるのだ。




「ふん。板垣風情が俺に挑もうとは笑止千万―――昔日が力関係を今再び、思い出すがいい」


















ようやく更新できました。感想欄での前田君への言及率の高さに変な笑いが込み上げた作者です。今後も彼の地道な活躍にご期待ください。それでは、次回の更新で。



[13860] 四・五日目の死線、後編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:f283be69
Date: 2011/01/30 09:02
「うがぁぁぁっ!鬱陶しーんだよテメェ!いい加減に一発くらい喰らいやがれっての!!」

「謹んでお断りさせてもらうよ。ボクに攻撃を当てたきゃ、精々頑張って狙いを付けるコトだね!」

 今にも地団太を踏みそうな勢いで苛々している板垣天使から約二間の距離を取りながら、明智ねねは余裕の表情で言い放つ。

 しかしながらその内心は、表情とは裏腹に焦りに支配されつつあった。

 先の遣り取りからも窺えるように、戦闘開始から既に数分が経過した現在、ねねの身体に一切のダメージはない。危うい場面も多少はあったが、今のところは天使が繰り出す全ての攻撃を回避し続けられている。

 もっとも、これは事前に予想された結果であり、あくまでヒット・アンド・アウェイを主軸に据えたねねの戦闘スタイルを考えれば、むしろそうでなくてはならない。

 天使の振り回す人外の暴力を一撃でも受けてしまえば、徹底的にスピードに特化したこの華奢な肉体では一溜りもないだろう。故に相手のモーションに細心の注意を払い、隙を見せることなく立ち回ってきた。

 そう、それはいい。そこまでは理想的な展開であり、歓迎すべき事態である。

 問題は――対戦相手の板垣天使もまた自分と同様に、欠片のダメージも負っていない、という事だ。

「フゥゥー……、今度はこっちから行くよ!」

 小さく息を吐いてから、ねねは標的に向けて全力で地面を蹴り飛ばした。

 軽いウェイトと鍛え上げた脚力が生み出す瞬発力をフルに活かした短いダッシュ。そこからの跳躍に加え、更に身体の回転の勢いを付随させた強烈な回し蹴り。

「おっと、危ねーな!流水の構えッ!」

 自身の身体能力を最大限に発揮して放たれたねねの渾身の一撃を、天使は身体の前方で斜めに構えたゴルフクラブを用いて、鮮やかに受け流してみせた。

「いってぇ~、ちょっと腕シビれたぜ。ガキみてーにちっせー癖に蹴りは重いってのはムカつくな」

 天使の得物であるゴルフクラブは、攻撃よりもむしろ防御面においてその本領を発揮するらしい。特異な得物を巧みに使いこなして、彼女はねねの繰り出す全ての蹴りを危なげなく捌いてきていた。

 或いは本人の言うように多少の痺れは残っているのかもしれないが、実質的なダメージはゼロに等しいだろう。

「お礼にこれでも食らっときやがれっ!天使のような悪魔の蹴り!」

「くぅっ!」

 全力を込めた一撃の衝撃を流された結果、僅かに体勢を崩していたねねに対して、お返しとばかりに天使の強烈なミドルキックが放たれる。ねねは危ういタイミングのバク転でそれを避けつつ、素早く相手から距離を取った。

「くっそ、チョロチョロ逃げ回りやがって!メンドくせー奴だぜ、ったくよ!」

「こっちの台詞なんだけど。ゴルフクラブなんて武器にしてるギャグキャラに梃子摺るなんて、ホントに屈辱的だよ」

「ギャグじゃねー!ウチの超最強なマーシャルアーツをバカにしてんじゃねーぞコラ」

 再び一定の距離を挟んで、油断なく互いを牽制しながら睨み合う。それは、先程から幾度も繰り返して描かれている構図だった。

 攻めたくても、攻められない。その内心は両者共に変わらないが、しかしその実、勝負の天秤は確実に一方へ――板垣天使へと傾きつつあった。

 ねねは乱れ始めた呼吸を悟られないように整えながら、心中にて湧き上がる焦燥を必死に鎮める。

 肉体的なダメージこそ受けていないものの、予想を超えて長引いた戦闘によって、それ以上に深刻な問題が生じている。即ち、体力の限界が近付いていた。

 明智ねねの戦闘スタイルは、側転や逆立ち、宙返りと言った極めてアクロバティックな動きを主体として組み立てられている。当然のように全体的な体力の消耗が激しく、それ故に長期戦には向かない。

 だが、そもそも長期戦に向いている必要などないのだ。本来、圧倒的な瞬発力を活かしたねねの戦法は速攻を旨としており、数十秒も時間があれば相手を地に沈めるには十分過ぎる筈なのだから。

 かつて彼女のトリッキーかつ俊敏な動作は対峙した相手を悉く翻弄し、当惑の内に葬ってきた。トドメまで多少手間取ったとしても、幾つか技を重ねてやればすぐに対応が追いつかなくなり、一分と保たずに成す術もなく倒れ伏す。原型となる格闘技がマイナーな部類である事もあって、まさしく初見殺しと言うべきものである。

 しかし、現実として板垣天使は今もなお無傷で、自分の前に立ちはだかっている。そこに、ねねはどうにも不吉な違和感を覚えずにはいられなかった。

 思えば最初からおかしい部分はあったのだ。挑発によって冷静さを失っている状態で、更には初見であるにも関わらず、自身の攻撃は紙一重ながらも見切られていた。派手なアクロバットに驚いていたのも最初だけで、以降は惑わされる事もなく落ち着いて対処してくる。

 そんな彼女の異常な対応力の高さは、「板垣一家だから」の一言で済ませてしまっても良いものなのだろうか?

 ねねの脳裏を渦巻く疑問と当惑を見透かしたように、天使は嘲るような表情を浮かべながらおもむろに口を開いた。

「うけけ、オマエさぁ、青空闘技場って知ってっか?」

「……名前は知ってるよ。行った事はないけどね」

 青空闘技場。確かつい最近始動したばかりの施設で、廃工場の敷地を利用して造られたアンダーグラウンドのアリーナ、だったか。

 川神に越して来てから日が浅く、未だに周辺の地理を掴めていないねねにとっては、部下達の口から噂話を小耳に挟んだ程度の存在だ。

 廃工場とは言っても、“黒い稲妻”がアジトとして利用していたこの第十三廃工場とはまた別の場所に位置している。そこでは抜けた天井から青空を覗かせた工場内をリング代わりに、ルール無用の危険極まりないストリートファイトが繰り広げられているらしい。当然の様に試合結果は賭博の対象にされており、金の流れを嗅ぎ付けた柄の悪い連中が挙ってギャラリーとして集う事で大いに盛況しているとの評判だ。

 それにしても、何故ここでそんな話が出てくるのか。その意図が掴めず、ねねは眉を顰めて天使の言葉を待った。

「そんじゃ親切なウチが教えといてやるよ。ウチら一家は全員、あそこの常連でさ。いやぁ、ホント色んな連中がいて楽しいんだよな、気に入らねー奴は後腐れなくブッ潰せるし」

「別に宣伝文句は要らないよ。結局、キミは何が言いたいのさ」

「ヒトの話は最後まで聞こうぜぇ、ちゃーんとヒントは出してやってんだぞ?色んな連中がいる、ってのは超控え目に言ってのハナシだったりして。実のところ、それこそ全国どころじゃねー、全・世・界のバトル大好きな奴らが集まってきちゃうレベルなんだよなぁ」

 全世界、をやたらと強調した天使の言葉に、ねねは彼女の言わんとしている内容を察する。嫌な汗が額を伝った。

「時代はやっぱグローバルコミュニケーションだぜぇ。お、今ウチ超アタマよさそうなこと言ったんじゃね?」

「キミのアタマの出来はとてもよく理解できたから。さっさと本題に入ってくれないかな」

「焦んな焦んな、短気は暢気っつーじゃん」

「言ってたまるか。根本的に矛盾してるじゃないか……はぁ、まあいいや。で?」

 投げ遣りに続きを促すと、天使の顔にニタリと嫌な笑みが広がった。

「ウチがちょい前にやり合った“外人”がさぁ、オマエみてーなヘンテコな動きしてたんだよ。割とメンドーな相手だったからウチにしちゃあ珍しく覚えてたな。んで、気になったから後で師匠に教えてもらったぜ」

「ああ……そう。そういうコト。やっと得心がいったよ、どう足掻いたって納得は出来そうもないけどね」

 苦々しい思いが込み上げてくるのを抑えられず、ねねは唇を噛んだ。

 日本国内においては相当にマイナーなハズの自分の格闘スタイルがこうも早く見切られたのは、既にその使い手と対峙した事があったから。ネタが割れてしまえば何とも下らなく、そして理不尽極まりない理由だった。

 世界的に見ても絶対数の少ないレアなスタイルの格闘家が、近頃オープンしたばかりの青空闘技場に参戦していて、多数の選手を差し置いて偶然にも板垣天使と闘い、選りにも選ってその彼女と自分が今こうして対峙している。

 何者かに仕組まれているとしか思えない程、ねねにとって不都合な流れだった。運が悪い、の一言で済まされては堪ったものではない。何より性質が悪いのは、恨む相手が見付かりそうもない、という点である。

 ギリリと奥歯を噛み締めるねねに勝ち誇った顔を向けて、天使は言い放った。

「“カポエラ”ってんだろ、ソレ。何せウチって天才だかんな、対策はバッチリだぜ。そのレベルじゃもう通じねー。ヒャハハ!残念でしたァ!」

「正確には“カポエィラ”なんだけどね。まあ言っても無駄だろうけど。……ハァァ~、もう。参ったなぁ、ホント」

 カポエィラとは、かつてブラジルの黒人奴隷によって編み出された、ダンスと足技を組み合わせた異色の格闘技である。

 日本にも道場自体は存在するが、それらは舞踊としての一面を前面に押し出しているか、或いは単なるエクササイズの一種として扱っている場合が多く、純粋な戦闘用格闘技としてのカポエィラは日本国内ではまるで浸透していないと言ってもいい。

 それこそねねの様に、本場ブラジルのカポエィリスタを師匠に持つ日本人など数える程しか居ないだろう。

 当然の如く知名度は低く、その技の数々に対する対策等も練られてはいない。だからこその初見殺し、だったのだが……どうやら全ては神の気紛れによって台無しにされてしまったようだ。重い溜息の一つも吐きたくなる。

「何でよりによってこんなタイミングなのさ。今回ばかりは失敗は許されないのに」

 もしもここで実績を上げられなければ、あの男――織田信長はねねを容赦なく切り捨てるだろう。

 切り捨てる、で済めばまだいい。何せ文字通りに斬り捨てる、という可能性は十分以上にあるのだから。

 事前に集めた情報などに頼るまでもなく、彼の人格は一目見れば明らかだ。冷酷非道にして傲岸不遜。例え味方であろうと役に立たなければ無慈悲に始末する事は疑いない。

 惨劇はつい先刻、まだまだ記憶に新しい。血飛沫を上げて倒れ伏す部下達の姿が脳裏にまざまざと蘇る。ねねとしてもアレの二の舞は勘弁願いたいところだった。

「あれだけの大見得を切った手前、やっぱダメでしたー、ってワケにはいかないよね。やれやれ、口は災いの元だよ」

 よしんば命を繋げたところで、だ。このタイミングを逃し、織田信長の庇護下に入る事に失敗しようものなら、自分には川神から撤退する以外の選択肢は残らないのだ。この街の住人が放つであろう追っ手から逃れる為には、最低でも他県へと拠点を移す羽目になるだろう。

 少なくともマロードへの意趣返しを果たすまでは、明智ねねはこの地から去る訳には行かないと言うのに。

 己の前に広がる暗澹たる未来図を思い描いて憂鬱な気分に浸る。そんな彼女の姿を、天使は妙に醒めた目で見ていた。

「あー、なんか飽きたな、相手すんのも面倒になってきちまったぜ。さっさとステージクリアしてシンと遊ぶか。仕方ねえ、そろそろウチも本気出そっと」

「何を言ってるのさ……」

 訝しむねねを余所に、天使は片方の手を無造作にポケットへと突っ込む。

 そして懐からカプセル錠を取り出すと、おもむろに口の中に放り込み、飲み下した。見る間に天使の顔に赤みが差していく。

「くぅぅぅゥゥ、ドーピング完了ぉ!超ぉ絶ぅパワーアァップ!くぁー、こいつはキクぜぇ、ヒャッハハハハハハァッ!!」

「……え」

 ぞっとした。ゆらりと顔を上げて、異常なテンションの笑い声を響かせながらこちらを向いた天使は、不自然に瞳孔が開いている。ビタミン剤を飲む様な気楽さで彼女が今しがた服用したのは、一体全体何のクスリだと言うのか。

 板垣一家は非合法ドラッグの売人とも濃密な繋がりがある――そんな情報が不意に頭を過ぎり、ねねは戦慄に背筋が凍り付くのを感じた。正真正銘のアンダーグラウンドの住人と接触したのは初めての経験だが、ここまでヤバい連中なのか。

 ひとしきり笑い声を上げてから、天使はゴルフクラブをゆっくりと構えた。焦点の合っていない不気味な視線がねねを捉え、そして。

「ウチの名前をネタにしやがった奴に明日はねー、テメェはもうコンテニューできねーんだ、よォ!」

 ねねがその一撃に反応できたのは、ほとんど奇跡と言っても良かった。

「な、速っ……!?」

 絶句する。

 それは爆発的な加速を伴う踏み込み。ただそれだけで、細心の注意を払って保ち続けてきた三メートルの距離は瞬時に詰められ、気付いた時には既にゴルフクラブの射程圏内にまで入り込まれていた。

 そして暴力的に空気を引き裂いて振るわれるアッパースイング。これまでのモノよりも明らかに速く、重く、鋭かった。身体が反射的に回避行動を取ってくれていなければ、棒立ちのまま顎を砕かれていただろう。

 冗談ではなかった。何だこれは。ただでさえ人外じみていた相手が、更に強化されたとでも言うのか。

 しかし、天使の名を冠する悪魔の如き少女は、絶望に打ちひしがれる暇すらも与えてはくれなかった。これまでと同様、とにかく相手から距離を取ろうと試みるねねに対し、間髪を入れずに第二撃が襲い掛かる。

「っ……!」

 駄目だ、余りにも攻撃の繋ぎ目が速過ぎる。今までのような避け方は不可能。どう足掻いてみた所で、このタイミングでは回避が間に合わない。

 逃げられない。ならば―――受け止めるしかない。

「ヒャッハァッ!ゲームオーバーだぜぇ!ザ・エーンド!!」

 勝利を確信した天使の雄叫びを耳にしながら、ねねは体を庇うように両腕をクロスさせ、衝撃に備えてきつく歯を食い縛る。

 そして、鋼鉄の塊が凶悪な速度で空気を引き裂き、小柄な矮躯を強かに打ち抜いた。










「うぉらあああああああああああああああッ!!」

「おおおおおおォあァアアアアアアアアッ!!」

 廃工場の一角に二人の男の野太い咆哮が重なって響き渡る。

 そこで行われているのは、殴り合いだった。

 それ以外に相応しい表現が存在しないと思えるほどに単純で原始的な暴力の応酬。テクニックや駆け引きなど一欠けらもなく、後退も回避すらも完全に度外視した乱打戦。

 本能と湧き上がる衝動に任せてただひたすらに殴り殴られ殴り殴られ殴り殴られ殴り殴られ、派手に飛び散った血飛沫が自分のものか相手のものか、そんな事は些事とばかりに気にも留めず、より重くより鋭くより強い拳を目の前の相手へと叩き込む。それが全てだ。この瞬間、前田啓次と板垣竜兵にとって、それ以外の物事に価値などなかった。

 その姿はまさしく、戦闘狂と呼ぶに相応しい。出自にも経歴にも体格にも性格にも共通する点は少ないが、二人の男は性質の根本的なところで似通っていた。何よりも闘争を求め、血を欲する。そんな飢えた獣同士が遭遇すればどうなるか――その答えが今ここにあった。

「ハハハハハ!いいじゃねぇか、昂ぶってきやがった!もっとだ、もっと俺を愉しませろ!」

「クソが、余裕ぶってんじゃねェ……!そこ動くんじゃねェぞ、そのツラ変形させて元に戻らなくしてやっから、よォ!」

 雄叫びと共に大きく腕を振りかぶり、前田啓次は型も何もない不恰好な、しかし全力を振り絞った一撃を繰り出す。

 そのがむしゃらな拳は確かに竜兵に届き、その顔面を捉えた。が、所詮はそれだけの事でしかなかった。

「く、チクショウがッ!」

「ククク、どうした?わざわざオマエの言う通り、動かずにいてやったんだ。さっさと俺の顔を整形してみろよ、ああ?」

 竜兵はニヤリと獰猛に笑う。さすがに顔面への衝撃で鼻血を垂らしてはいるが、他にダメージらしいダメージは見受けられなかった。間違いなくクリーンヒットだったにも関わらず、まるで通じていない。

 その結果が、現時点における板垣竜兵と前田啓次の戦闘狂としての格の違いを、これ以上なく雄弁に物語っていた。

 啓次を猛獣とするならば、竜兵は云わばヒエラルキーの頂点に君臨する百獣の王だ。弱者は強者に、強者はそれを超える強者によって捕食される。弱肉強食こそが世界の理。

「この俺を相手に良く頑張ったと褒めてやるぜ。シンとヤる前のいい準備運動をさせてくれた礼だ、全力でブチ壊してやろう!」

 それは啓次と同様、型も何も滅茶苦茶な拳だったが、そこに込められた暴力が桁違いだった。

 振り抜かれた竜兵の剛拳が啓次の腹部にめり込むと同時に、びきりばきりごきり、と怖気の走るような音が響いた。

「うぐぁぁっ!!」

 アバラの何本かは折れただろう。激痛と衝撃に啓次は気が遠くなったが、気合を以ってどうにか意識を繋ぎとめる。込み上げる嘔吐感を堪え、ふらつく足を叱咤して立ち続ける。

 膝を屈せずに踏み留まった啓次の姿に、竜兵の表情は愉悦の色を深くした。

「ほう、なかなか頑丈だな、貴様。シン以外の有象無象には何も期待しちゃいなかったが、いい獲物に巡り合えたもんだ!」

「っく、そが。一日の内に何度もダッセェところを見られるなんざ冗談じゃねェ……ぞォッ!!」

 咆哮と共に、お返しとばかりのボディブローを放つが、それを悠然と迎える竜兵は余裕の表情を崩さなかった。

 己の全身を覆う鋼鉄の筋肉が生半可な攻撃では小揺るぎもしない事を、竜兵はよく承知している。実際に啓次の拳は筋肉の鎧に阻まれ、僅かに竜兵の体を揺らしただけの結果に終わった。

「くく、その程度じゃあ俺には届かんな。諦めが肝心だ、雑魚は雑魚らしく這いつくばれ」

「ふざけたこと抜かしてんじゃねェ、誰がてめェ如きに負けるかよ……いいか、オレはなァ、下げたくねェ頭は下げねェって決めてんだ」

「そうかよ、だったら下げたくても下げられないようにしてやる。首の骨をへし折って、な!」
 
 再び竜兵の拳が唸りを上げ、暴力の塊と化して迫る。

 その瞬間、啓次の眼が鋭く光った。

(仕方ねェ)

 油断があったのだろう。何せ眼前の獲物の攻撃が己に決定打を与える事は有り得ない、と分かっているのだから無理もない。

 だが、強者の余裕は驕りと紙一重だ。狩り終えた獲物と侮らず、全力で仕留めに掛かるべきだったのだ。竜兵の対応は、手負いの獣に対するものとしては余りにも無用心だった。

 竜兵が動くと同時に、啓次の拳が伸びた。

 これまでの戦闘の中で最も鋭く速いストレートは真っ直ぐに竜兵へと突き進み、そして竜兵の拳が己に到達するよりも数瞬だけ先に、その顔面を打ち抜く。

「がっ……!?」

 先程の一撃とはまるでレベルの違う衝撃に、竜兵は苦悶の声を上げながら体勢を崩した。脳が揺れた状態で真っ直ぐに立っていられる人間は存在しない。どれほど獣じみていても、板垣竜兵は紛れも無く人間である。

 ぐらり、と身体が傾き――しかしそのまま倒れはしなかった。

「おおおおおおおおおおおおおおッ!!」

 咆哮。アスファルトの床を砕かんばかりの勢いで踏みしめ、僅かな時間で体勢を立て直す。そして、竜兵は野獣そのもののギラついた目で眼前の獲物を睨み据えた。その口元からは紅い血が一筋、流れている。

「ぐ……貴様、何をしやがった……!今まで、そんなパワーはなかったハズだろうが……!」
 
「あァ?いくらステゴロが好きだっつっても、さすがにクロス・カウンターくらい知ってんだろォがよ」

 例え同じ攻撃でも、事前に心構えが出来ているか否かによって受けるダメージの度合いは大きく変わってくる。警戒している相手には通じない攻撃も、無防備な瞬間を狙えば話は違うのだ。

 そして、“攻撃の瞬間”こそ、人間が最も無防備な姿を晒す瞬間の一つ。多くの場合において攻撃と防御は両立しない。そこを見逃すことなく狙い打つことで、己が拳の破壊力を高める……それが俗にクロス・カウンターと呼ばれる技術の概要だ。

「ちっ、やっぱこんなセコイ真似は性に合わねェぜ、ったくよォ」

 地力では満足にダメージを与えられないならば、技術で補うしかない。獣としての格で負けていると言うならば、勝利を得るためには人の生み出したテクニックを用いる他に無かった。

 それが啓次としては不本意だったのか、その表情には相手に一矢報いた喜びは見受けられない。

「クロス・カウンターだと?……なるほど、ただの雑魚という訳でもなかったか」

 怒りに染まった表情に少しだけ用心の色を浮かべて、改めて竜兵は啓次に向き直る。

 クロス・カウンター。口で説明するのは簡単だが、実践するのは極めて難しい。
 
 リターンは大きいが、当然ながらそれに見合うリスクも存在する。相手の攻撃を確実に見切ることが出来なければ本末転倒、かえって己が受けるダメージが倍増するだけだ。故に高等技術とされ、扱いにはある程度の力量と慎重さが要求される。

「ボクシングにハマってた時期もあったなァ、そういや。ま、周りがザコばっかですぐ飽きちまったんだがな」

 何かを懐かしむような目をしながら吐き捨てる啓次に、竜兵の顔が歪んだ。怒りや憎悪ではなく、猛々しい笑みの形へと。

「く、ははは、はははははは!面白い、面白いぞ貴様!いいぞ、いいじゃねぇか、滾ってきた!なあおい、もっと愉しもうぜ。俺の猛りを鎮めてくれ……!」

「オレはてめェみてーな変態とは関わりたくねェんだがな……」

「おいおい、つれねぇなぁ。同じ雄としてどちらが上か、ハッキリさせたいとは思わないか?」

「はん、てめェと同意見っつーのはムカツクけどよォ」

 両腕を肩幅に構え、肘を脇腹につける。左足を一歩前へ。膝を起点に小刻みなリズムを作る。かつて嫌と言うほど反復したフォームを再現することで、身体に染み付いた闘士の記憶が呼び覚まされていく。

 どうやら獣同士の喰らい合いはここで終わりらしい。

 これより始まるのは、人の技と獣の力の闘争だ。

「そればっかりは間違いねェなァ!」

「ハハハハ!そうだ全力で来い!貴様は素晴らしい獲物だ、俺が喰い尽くしてやろう!」
 
 






 一家の長女にして取り纏め役、板垣亜巳は戦場にあって頭の冷静な部分で分析していた。この状況は冗談抜きで不味い、と。

 鉛を流し込まれたように全身が重い。

 心臓は弾けそうな程に激しく脈を打ち、呼吸が速く、苦しくなる。

 四肢は凍えたように感覚が鈍く、指先が得物を握り締める感触すらも希薄だ。

 ほんの僅かでも気を緩めれば、勝手に身体が震え出す事だろう。亜巳の中に潜む生存本能が、絶え間なく恐怖を訴え警告を鳴らしている。

 目の前の男を敵に回し、正面から対峙すると言う事はつまり、死を直視するに等しい。

 亜巳達の師匠である釈迦堂をして「規格外」と言わしめた殺気は、相も変わらず健在だった。いや、以前よりも更に鋭く怜悧に磨き上げられているか。

 こうして敵対したのは、板垣一家と彼が袂を別ち、異なる道を歩み始めた“あの日”以来だが、このイカれた密度の殺気ばかりは何度浴びても慣れられそうもない。

「ふん。如何した」

 黒のロングコートのポケットに悠々と両手を入れて、構えも取らずに亜巳と向かい合う男――織田信長が、静かに口を開く。

 その身に纏う異質な雰囲気だけであらゆる者を圧し、足元に跪かせる様は、まさしく魔王と呼ぶに相応しい。

「くく、怖気付いたか?顔色が悪いぞ、亜巳」

 嘲る様な声音ですらも、一言一言が周囲の空気を軋ませた。亜巳は知らず溜まっていた唾を飲み下してから、声が震えないよう心掛けながら答える。

「流石にサシでアンタとヤる羽目になるとは想定外でねェ、こっちも参ってるのさ。そもそも、アンタのお相手は辰の役目だったってのに」

 板垣の家に弱者と称されるような輩は一人として存在しないが、しかしそれにしても辰子だけは別格である。

 そこらの不良が百人集まろうが鼻歌交じりで蹴散らせる程度には、竜平は強い。素質の高さに加え、優秀な師を仰ぎ武術を身に付けた天使は軽々とその上を行く。知識や観察眼を含めた総合的な亜巳の実力は天使を凌駕するだろう。

 そして、辰子は姿すらも目視できない程の遥かな高みから、そんな自分達を見下ろしているのだ。

 川神百代に、世界最強と謳われる怪物に並び立てるかもしれない――そう師匠に評された、眠れる龍。

 規格外には規格外を。織田信長と言う異形の相手が務まるとすれば、壁の向こう側に到達した呑気な次女しかいなかったのだが。

「あの従者、真っ先に辰を狙ったねェ。お陰で計算が狂っちまったよ」

 その辰子は現在、ドス黒い気を全身に纏った剣士と激突し、暴風を連想させる無茶苦茶な闘いを繰り広げている。

 織田信長の懐刀として悪名高い少女、森谷蘭。本来の手筈では、彼女の相手を引き受けるのは亜巳の役目だった。

 信長に辰子をぶつけ、亜巳が蘭を抑え込む。相性を考慮すれば、間違いなくそれこそが最も有利に事を運べるであろう組み合わせだ。しかし予想を外れて、その構図は現実のものとはならなかった。

 戦闘の開始と同時に、蘭が辰子に対して有無を言わさぬ猛攻を仕掛け、信長と亜巳の両者から引き離すように誘導したことで、既に戦場は分断されてしまっている。

「やってくれるよ、全く。どう見ても暴走してるってのに、随分と要領良く立ち回るもんじゃないか」

「ふん。彼奴は嘆かわしい程に救いのない莫迦だが。何があろうとも俺への忠義だけは忘れん。例え理性を失っていようとも、己が役割を放棄する事など万に一つも、無い」

 信長は冷め切った表情で亜巳を嘲笑い、少し離れた場所にて戦闘中の己が従者へと視線を移した。

 蘭が黒く染まった巨大な刀身を振り下ろす度にコンクリートの床が陥没し、辰子が手近に落ちている武器を拾っては投擲する度に四方の壁が粉砕される。

 轟音と震動が絶え間なく響き、天井からパラパラと埃が舞い落ちてきた。双方共に人間の域を超えた膂力を惜しげもなく振り回して、廃工場の一角を戦場跡へと模様替えしていく。

 人外同士が繰り広げる、駆け引きを除いた純粋な暴力の応酬。常人が巻き込まれれば数秒と保たずにミンチと化す事だろう。

「それにしても、ねェ」

 そんな常識外れの光景を呆れ半分の目で見遣りながら、亜巳は呟く。

 板垣辰子と森谷蘭。一見すると互角の勝負を演じ、拮抗している様に見える二人の力関係だが、実のところはそうではない。

「アレでもまるで本気を出しちゃいないって言うんだから、我が妹ながら末恐ろしいよ」

 亜巳の見立てでは、辰子は未だ実力の半分も出してはいなかった。あの正真正銘の怪物が完全にリミッターを外して暴れ出そうものなら、“こんなもの”で済む筈もない。

 剣道三倍段、という俗説を嘲笑うように、素手で易々と真剣と渡り合っているその姿ですらも、辰子の有する力の片鱗を示しているに過ぎなかった。

 だからこそ、管理が必要。日常的に亜巳自身が手綱を取り続けらなければならないのだ。

「やっぱり、組み合わせをしくじったのは痛いか。アタシならもっとスムーズにやれるってのにねェ」

 亜巳は唇を噛んで失策を悔やんだ。パワーと引き換えに理性を捨て去った蘭の戦い方は完全にその馬鹿力に頼っており、小細工を弄すれば容易に崩せる類のものだ。普段ならともかく、今の彼女の足元を掬う方法など幾らでも思いつく。

 同系統のパワーファイターである辰子が相手だからこそ互角の勝負として成立しているが、対戦相手が亜巳ならば既に決着は付いている事だろう。当然、亜巳の勝利という形で。

 力に対して馬鹿正直に力で対抗している辰子を、ただ見物しているしかない自分がもどかしかった。

「“本気を出しちゃいない”。“しくじった”。ふん。先程から聞いていれば、随分とまあ、暢気なものだ」

「っ!?」

 凶悪な殺気に満ち満ちた言葉に、一瞬で肌が粟立つ。その声音が耳に届いた瞬間、亜巳の身体は反射的に跳び退り、信長と距離を取っていた。

 全身を駆け巡る冷たい悪寒に耐えながら棒を構える亜巳に向けて、信長は無感動な調子で言葉を続ける。

「持てる手札を全て切る事もなく、弱者らしく策を弄する事も儘ならず。然様な有様で、この俺を相手に勝利を収めようとでも?愚かな。俺の想像を超えて増長していたようだな――板垣」

 信長が無造作に一歩を踏み出す。周囲の空気ごとこちらの存在を圧し潰さんとする威圧感を前に、気付いた時には後退っていた。

 やはり、こいつは桁違いにヤバい。

 眼前の男に恐怖心を抱いている己をはっきりと自覚する。同時に、それほど深く考えずこの場に赴いた事に対する後悔の念が頭を駆け巡った。

 そもそも、好戦的な性格の持ち主が多い一家の中でも比較的慎重な一面を持つ亜巳は、当初はこうして信長と敵対する気は無かったのだ。

 今回の件に関しては亜巳自身の意思と言うよりも、マロードに唆されて乗り気になってしまった竜兵と天使をフォローするため、長女として仕方なく付き合っている、という面が大きい。

 板垣亜巳は生粋のサディストである。当然ながらその性質は臆病とは程遠く、自分の実力に関しても揺るがぬ自信を持っている。

 しかし、何事にも例外は存在するものだ。師匠であるところの釈迦堂刑部、そして幼少時代からの隣人、織田信長。この両名だけは亜巳にとって別格と言っていい。

「冷静に考えてみれば、何とも馬鹿をやってるもんだ。アンタと一対一でやろうだなんて、冗談にもなりゃしない」

 こんな筈ではなかった。亜巳が従者の足止めを担当し、その間に残りの三人が協力して信長を仕留める――それが本来のプランだったのだが、そんな構図など今や見る影も無く崩れてしまっていた。

“黒い稲妻”のリーダーが天使とやり合えるほどの使い手だとは想定していなかったし、あの何処から沸いたのかも分からない金髪の男に至ってはイレギュラーも良い所である。

 見たところ、天使も竜兵も優勢に勝負を進めてはいる。が、未だ決着には到らないようだ。

 天使はピョンピョンと機敏に動き回る少女を仕留められずにイラついている。一方の竜兵は、殴っても殴っても屈せず、立ち向かってくる男にむしろ喜んでいる様子だった。

 何と言っても自分の弟と妹だ。双方とも放って置けばそのうち勝利するのは疑いないが、あの調子ではカタを付けてこちらの援護に来るにはまだ時間を必要とするだろう。

 実際、これはある意味において最悪の状況だった。最大の切り札、辰子のリミッター解除を実行できない。今このタイミングで辰子を暴走させれば、まず間違いなく――交戦中の弟と妹が巻き込まれてしまう。

 封印を解くならば、一家全員がこの廃工場内からすぐに避難できる状況を作り出してからだ。眠れる災厄を呼び覚ます以上、その前提条件は確実にクリアしなければならない。

 しかし、彼らの方で決着が着くまでの間、自分が生き延びられるか否か判らないのもまた、事実である。

「如何した、辰を“起こさ”ないのか?くく、一声掛ければ、それで済むだろうに」

 そんな亜巳の心中の葛藤を見透かしたように、信長が酷薄に口元を歪めて哂う。

 そう、目の前にこの男が立ち塞がっている限り、条件が満たされるまで亜巳が立ち続けていられる保障など何処にもないのだ。

 戯れのつもりなのか、今はまだ向こうから仕掛けてくる様子は無い。が、一度彼が動き出せば、亜巳はその計り知れない脅威を単身で受け止める羽目になる。

「チィ……」

 舌打ちしつつ、逡巡する。先手を打って自ら勝負を仕掛けるべきなのか、或いは巻き添えを覚悟で辰子を解放するべきなのか。

 いずれを選ぶにせよ、迷っていられる時間はそう長くない。

 考えている間にも信長が悠然たる歩調で、だが確実に距離を詰めてくる。その殺意に満ち溢れた黒いシルエットが迫り来るにつれて、亜巳の心中を焦りが支配していく。心臓は絶え間なく早鐘を打ち続けている。

 どうするどうするどうする。

 焦燥と逡巡と困惑と恐怖とがぐるぐると脳内を駆け巡り、冷静さと思考力を見る間に奪い去っていた。

「ああ!ごめんアミ姉ぇ、避けて~!」

 焦りを滲ませた叫び声と、次いで風を切る音が背後から届いたのは、その時であった。

「なっ!?」

 事態を脳髄が正しく理解していなくても、幸いにして身体は反射的に動いていた。得物の棒が鋭く弧を描いて一回転し、己へ向けて高速で突っ込んできた“何か”を叩き落とす。

 甲高い金属音を立てながら床に転がったモノは、鉄パイプ。一瞬の空白を経て、亜巳は答えを導き出した。

 辰子が蘭に向けて投げ付けた武器が、流れ弾として飛来したのか。間の悪い偶然もあったものだ。


――――偶然?本当にそうなのか?


「愚かなり」


 背後から響く冷徹な声音に、亜巳は自身の犯した致命的な失態に気付いた。

 突然の“攻撃”に意識を取られて、ほんの僅かな時間とは言え、決して目を逸らしてはならない相手の存在を失念していた事に。


「―――らぁぁああっ!!」


 殺気に絡め取られた身体は重く、焦燥と恐怖に縛られた心は平静を保てず。それでも亜巳の肉体は、鍛錬の反復によって芯まで染み付いた棒術を正確に再現してみせた。

 振り返ると同時に放たれるのは、比較的面積が広く狙い易い人体の急所、腎臓を狙って一直線に伸びる高速の突き。

「甘い」

 必殺を誇る亜巳の決死の一撃に対し、信長は表情を変えないまま、その軌道から僅かに身を逸らす事で対処する。

 結果として突き出された棒の切っ先はロングコートの裾を貫いて、彼の脇腹を掠めたのみであった。攻撃の軌道を完全に読み切ってでもいなければ絶対に不可能な、最低限の動作による理想的な回避。

 そのまま伸び切った棒を脇に挟むような形で、信長は滑るような足取りで亜巳の眼前まで距離を詰める。

 懐に入り込まれるまでは、体感にして一瞬の出来事であった。

「停まれ」

 直後、顎先ギリギリのところで寸止めされた拳と、叩き付けられる凄まじい殺気に、亜巳は小さく息を呑んで硬直した。

「くくっ、もっとも……命を惜しまぬならば、望むがままに振舞えば良いが。さて、どうする?」

 互いの息遣いを感じられる程の至近距離で受ける恫喝の言葉は、普段以上の凄惨さを帯びていた。

 欠片の温もりも宿さない信長の瞳が自身の姿を映しているのが良く分かる。その双眸からは何の感情も読み取れず、ただ絶え間なく放たれる殺意だけが彼の意思を雄弁に物語っていた。

 己の咽喉へと突き付けられた拳に視線を移す。織田信長を相手に、この至近距離では回避も防御もあったものではない。指先一本動かそうものなら、即座に“何か”をされるだろう。

 そのまま首の骨をへし折られるのかもしれないし、或いは頸動脈を切り裂かれるのかもしれない。否、そんな生温い事は言わず、首から上が跡形も残さず消し飛ばされたとしても不思議はない。

 何にせよ、物言わぬ死体が一つ出来上がるのは間違いなかった。肌をピリピリと刺激する強烈な殺気が、碌でもない未来図を亜巳に教えてくれる。

 元より頭の回転が速い亜巳である。完全に詰んだ、と悟るまではさして時間を要さなかった。

「やれやれ、だねェ」

 家族には悪いが、板垣一家と織田信長の因縁の死合いはどうやら、またしても自分達の敗北で終わりそうである。

 亜巳は乾いた笑い声を上げながら、得物の棒を床へと投げ捨てた。









「大人しく降参しとくよ。稼ぎ頭がくたばったら、あの馬鹿どもを食わせてやれないからねェ」

 亜巳の口からその言葉を引き出した時、俺が心中でどれほど安堵していたか、余人には想像もつくまい。

 綱渡りのような真似ならばこれまでに何度も行ってきているが、今回の切羽詰ったギリギリっぷりに匹敵するケースはそうそう無かっただろう。何か一つでも条件を満たしていなければ、この未来を掴み取ることは出来なかった。

 そもそも俺と亜巳が一対一で対峙する状況を作り出せていなければ、まずその時点で相当に厳しい。イレギュラー二名の参戦によってこの形に持っていけたが、その幸運が俺に欠けていればどうなっていたことか。考えるのも嫌な仮定だった。

 次に、俺が亜巳の一撃を回避出来た件だが、これには幾つかの理由がある。

 まず第一に、殺気による身体能力の低下。板垣が相手となれば殺気による拘束自体がほぼ不可能だが、身動きを鈍らせる程度の効果は与えられる。先の一撃にしても、まず間違いなく百パーセントの力は発揮できなかっただろう。
 
 第二に、上手く亜巳の持ち味たる冷静さを奪えたこと。これに関しては我が従者のアシストによるものが大きい。俺と亜巳が対峙している間に辰子との位置関係を誘導して、同士討ちを狙ったのだろう。相手が単純な辰子だからこそ通用したとも言えるお粗末な作戦だが、理性のほとんどを投げ出した状態の蘭にしては上出来だ。不意を衝かれて動揺した亜巳の棒術は、殺気による補正を差し引いても、明らかに普段の精彩を欠いていた。

 そして第三にして最大の理由として挙げられるのが、俺が故あって亜巳の棒術を“見慣れている”という事だ。どのような状況でどのような行動に出るのか事前に予測できる、それは俺のようなタイプの人間にとってはあまりにも大きなアドバンテージである。亜巳が常に人体の急所を狙うことは承知していたし、その精度が限りなく正確無比であることも把握している。正確であるからこそ、計算に狂いが出ることはなかった。予測した刺突の軌道から少しばかり身体をずらしてやればそれで済む。

 とまあ、そんな風に様々な理由を積み重ねた結果でもあるが、最終的にはやはり半ば賭けのようなものだった。亜巳のような人外を相手に百パーセントの保障などある訳もない。少しでも読み違えれば串刺しで終わっていた。

 結局のところつまり、俺は幸運に恵まれていたのだろう。

 幸運といえば、亜巳が俺の「フリーズ」に大人しく従ってくれたのもそうだと言える。

 訳あって回避能力には多少の自信がある織田信長だが、肝心の攻撃手段はゼロに等しい。実際のところ、俺のパンチなどせいぜい少し腕っ節の強い一般人程度のレベルである。

 本気で急所を狙えば人間を気絶させるのはそう難しくないが、“気”を扱える人外を気絶させるとなれば火力不足もいいところだ。

 つまり俺はモデルガンにも劣る玩具の銃を突きつけて、白々しく亜巳を恫喝していた訳だ。何ともまあ、我ながら滑稽な姿だと思わずにはいられない。

 とは言えこういう下らないハッタリが通用するのも、俺が長年を掛けて築き上げてきた虚像あっての事だと考えれば、努力を続けた甲斐もあったというものである。

「ふん」

 まあそんな感じで、色々な必然と偶然が折り重なった先に辿り着いた結末として、俺はここにこうして立っている。常勝無敗の魔王、織田信長は幾度の修羅場を越えて健在だった。

 勝ったならば、盛大に勝鬨を上げるとしよう。この迷惑極まりない闘争に幕を引くために。

「ちょっと、乱暴にするんじゃないよ。女の扱い方が分かってないねェ、まったく」

「ふん、黙るがいい。虜囚は虜囚らしくしていろ」

 コートから引っ張り出した手錠で拘束した後、背中を押して自分の前に立たせながら、俺は肺活量の限界まで息を吸い込む。

 辰子は既に気付いているらしくチラチラとこちらの様子を窺っているが、竜兵と天の二人は完全に自分の戦闘に熱中している模様。そんな戦闘狂どもの注意を引きつけるべく、俺は工場の隅々にまで響き渡る大音声を張り上げた。


「敵将、討ち取ったり!――貴様らが長姉の首、惜しいと思うならば、即刻抵抗を止めるがいい、板垣ッ!!」

 
 特に自慢というわけではないが、常人と比べて俺の声音は良く通る。

 容姿や性格と同様に、“声”という要素は指導者のカリスマ性にかなりの影響を与える、と言うのが通説であり、俺はその辺りを考慮して、中学生の頃からヴォイストレーニングで発声を鍛え続けていた。

 本格的に講習を受けた訳ではないのでそう大したものではないが、それでも取り敢えず戦闘狂どもの意識に入り込むことには成功したようで、連中は各々の戦闘を中断してこちらに注意を向けてきた。

「なっ、アミ姉ぇ!?」

 苦笑いしながら両手を挙げて降参のポーズを取る亜巳の姿に、竜兵が愕然と目を見開いた。鼻から口からだらだらと血が流れており、どれだけ派手な殴り合いを繰り広げたのか一目で分かる姿だった。

 しかし、ここまで竜兵に傷を負わせるとは……前田啓次とやら、俺との戦闘では本気を出していなかったのか?金髪ピアスの俺の後輩を目で探すと、竜兵以上にボロボロになりながら壁にもたれ掛っていた。

 あのやられ様だと骨も何本かは折れているだろう。まあ、竜兵を相手に最後まで立っていられただけでも十分、賞賛に値する。

「うぉいシンてめー!人質取るなんて卑怯だぞ!正々堂々勝負しろやコラ!」

「王将を取られちゃってる時点で人質も卑怯も何もないと思うけどね。あーあ、そんな事も分かんなくなっちゃうなんて……クスリって怖いねーホント、うん」

「うっせーぞ性悪ネコ娘!だいたいてめーもてめーだぜ、卑怯な手使いやがってよー!」

「さて、ボクが何かしたかな?ぜんぜん覚えがないんですけどー、言い掛かりはやめてくれないかなぁ。ボク困っちゃうにゃん」

「あぁウゼェウゼェウゼェどいつもこいつも!イライラムカムカするぜぇー!」

「おおこわいこわい」

 こちらの人外二人組は戦闘直後にしては元気過ぎる。ぎゃあぎゃあと喧しいことこの上なかった。竜兵と啓次の消耗ぶりとは比べるのも馬鹿馬鹿しくなる。

 お互い大きなダメージを負った様子もない辺り、どうやら実力はほぼ伯仲していたらしい。あの天と真正面からやり合えるような人材が未だに発掘されることもなく、この界隈に残っていたとは驚きである。

 ふむ。俺の情報収集能力もまだまだ、と言ったところか。

 反省点を頭に刻み込みながら、戦場跡へと視線を移す。森谷蘭は抜き身の刀を手にしたまま、ぼんやりとその場に突っ立っていた。

「蘭」

「主」

 一言呼び掛けると、我が従者はふらふら、と覚束ない足取りで俺の前まで歩み寄ってきた。

 相変わらず身体からは禍々しい気が黒色のオーラとなって立ち昇っており、虚ろな目はこの世の一切を映していないように見える。現世に遺した未練を晴らすべく黄泉より這い出た幽鬼だ、と何も知らない人間に教えたら信じるかもしれない。

「ふん」

 だとすれば、こいつの未練を晴らすのは主たる俺の役目である。

 表情を失くした森谷蘭に向けて、俺はいつも通り、無造作に声を投げ掛けた。

「大儀であった。暫しの、暇を与える」

「…………ははっ。ありがたき、しあわせ……」

 馬鹿正直にその言葉を待っていたのだろう。糸が切れたように蘭は意識を失い、そのまま俺の腕の中へと倒れ込んだ。

 蘭愛用のシャンプーの香りと、血の匂いが鼻腔を満たす。返り血の飛び散った頬は、先程までの無表情が嘘だったかの如く幸せそうに緩んでいた。

 溢れる忠誠心で誤魔化しているが、実際のこいつのメンタルは豆腐並みの脆さだ。人を斬った時点で今夜の活動限界はとっくに超えていただろう。本当に世話の掛かる従者である。

 周囲に悟られないようにそっと一度だけ頭を撫でてやってから、俺は力の抜けた蘭の身体を床に打ち捨てた。弱みになりそうな姿を衆目に晒す訳にはいかない。

「おやおや、酷いことするねェ。その娘、アンタの為に必死に頑張って戦ってたってのにさ」

「ふん、下らんな。然様な感傷に意味は無い。道具を道具として扱わずしてどうする?」

「フフ……アタシも冷血だの人間じゃないだの色々言われてるけど、アンタには負けるね」

 薄く笑いながら妖艶な流し目を送ってくる。前々から思っていたが、何だか亜巳には妙な親近感の込められた目で見られている気がするな……具体的には同類というか、仲間を見るような。

 まあ“織田信長”のキャラクターを考えれば仕方が無いと言えば仕方が無いのだが、微妙な気分だ。

 しかし人質の癖にこの余裕、さすがに尋常の神経ではない。

「ねえ~二人とも~、アミ姉ぇつかまっちゃったし、もうやめようよ~」

 亜巳が俺の手に落ちたことでもともと乏しかった戦意がマイナスにまで落ち込んだらしく、辰子は緊張感のない声で家族に休戦を呼びかけていた。

 まあ実際のところ、亜巳というカードを俺が有している以上、休戦というよりは降伏という形になるだろうが。

「けどよ、マロードの指令は……」

「何言ってんだリュウ、アミ姉ぇがやられちまってもいいのかよ!相手はシンだぞ?付き合い長いからってためらう訳ねーじゃんよ」

「ね~、リュウ~」

 板垣一家は誰にも支配されず拘束されない無法者だが、家族の命が掛かっているとなれば話は別だ。他人がどれだけ傷付こうが死のうが笑い飛ばせるこの連中も、身内には甘い。

 所詮は他人であろうマロードとやらの命令と、大事な大事な家族の命。どちらを優先するかなど考えるまでもないだろう。

「ちっ、そうだな……マロードには悪いが、こればかりは……ん?」

 竜兵が苦虫を噛み潰したような表情で、渋々頷きかけた時だった。場違いに陽気な電子音のメロディが鳴り響き、誰もが一瞬身動きを止める。

 どうも音楽の発生源は竜兵のズボンのポケットらしい――ということはつまり、携帯電話の着信音か。

「……なぁリュウ、ウチの記憶が間違ってなけりゃ、この着メロって確か……」

 天が言い終えるよりも早く、俺が制止するよりも早く、竜兵は携帯を耳元に宛がっていた。

「ああ。分かった」

 そして数秒の後、気難しい表情で俺の方に向き直り、携帯を投げて寄越しながら口を開く。

「――マロードだ。お前と話をしたいんだってよ」

 手元に納まった携帯電話のディスプレイに視線を落とす。表示されている現在時刻は零時零分。

 深夜のマッドパーティーの主催者が、やっと挨拶に現れたか。

 小さく息を吐き出して気分を落ち着けてから、俺は凪いだ海原の如く平静な心で携帯を耳元まで持ち上げた。

 マロードか。奴に言ってやりたい事は幾らでもあるが、取り敢えず最初の一言だけは既に決定済みだ。


「『ようこんにちは、はじめまして。織田信長』」

 
 ありったけの殺意を、君に。


「死ぬがよい」














 覚えていらっしゃる方はお久し振りです。ここしばらくは創作目的でキーボードを叩くことすら稀になっていましたが、まじこいSの情報を見ていると創作意欲がモリッと湧いてきました。
 やはりモチベーション維持のためには原作に対する情熱が必要不可欠なんだなぁと実感した今日この頃。今はまじこいを再プレイしながら改めて色々と妄想もとい構想を練ってます。
 まあ相変わらず筆は遅いですが、まったり待って頂ければ。それでは、次回の更新で。



[13860] 五日目の終宴
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:81888146
Date: 2011/02/06 01:47
「『アハハハ!これはいきなりご挨拶だねー、怖いなー』」

 子供なのか大人なのか老人なのか、男なのか女なのかすら判別のつかない不自然な声音が次々と耳に流れ込んでくる。機械か何かを使って声を変えているのだろう。

 まあ予想はしていたが、わざわざ自分の素性を明かすような真似はしないか。口調自体はどう考えても男のそれだが、フェイクの可能性も高いので判断材料にはなるまい。

「『いやーでも、電話越しなのに背中がゾクゾクするってどういうワケよ。びっくりしちゃったね俺』」

「……」

 遠く離れた相手から殺気が届いた事に驚いたらしいが、何も驚くべきことではない。

 声は“気”を伝える手段として非常に有効だ。例えば川神鉄心ほどの達人ならば、一喝するだけで地を割り、海を割るとも言われている。

 ちなみにピンチに陥った際に俺が饒舌になるのは、言葉に乗せた殺気で精一杯の威嚇を試みているという切実な理由があったりする。

 そして、そういった知識は武に関わるものならば所持していて当然のものだ。つまり先程の反応から見て、奴自身は武力を持っていない可能性が高いと考えられる。

 幾ら計算高い人間でも、こちらまでフェイクと言う事はさすがに無いだろう。

「『無視しないでよー寂しいじゃん。実際さ、俺とこうやって直接話ができる人間ってほとんどいないんだぜ?交流を深めて損はないと思うけどねー』」

「素性も知れん輩と言を交わす程、俺は酔狂ではない」
 
「『あ、うっかり自己紹介を忘れちまってた。一方的にと言っても君の事は良く知ってるからさー、他人とは思えない感じ?君も竜兵辺りから聞いてるだろうし?さくっと名乗っとこうってワケで改めましてぇ、
――俺がマロードだ。まあ末永いお付き合いを頼むよ』」

「ふん。己が姿を晒す事もなく、良く言ったものよ。厚顔極まる」

「『あー顔見せないのはやっぱ印象悪いかなー。でもまあ勘弁してよ。だって俺、君の目の前にいたら――もう今頃は殺されちゃってるでしょ?それはさ、ちょっと困るんだよね』」

「そして板垣の阿呆共に俺の相手をさせて、己は安全圏より高みの見物か。笑止、であるな」

 板垣との戦闘に決着が着いた、このタイミングを狙ったかのように接触してきたということは、大方監視カメラなりを使って一部始終を見ていたのだろう。

 目に付くところには見当たらないが、まあ機械の小型化が進むこの時代。本気で仕込もうと思えばどこにでも仕込める。

 つまるところ俺の今夜の苦労は全て、正しくこいつの為の見世物にされていたという訳だ。なるほど、いい感じに殺意が湧き上がってきた。

「『あははは、キッツイねー。でもさ、普通トップが前線に出たりしないって。俺は頭脳労働が専門だからさ、君みたいに荒事にも出張ったりとかそーいうのはムリムリ。だから俺、結構君のことリスペクトしてたりしちゃったり?文武両道。いいじゃん、憧れちゃうねぇ』」

「……」

 どこまで本気で言っているのかまるで分からない賛辞に、俺は沈黙で応える。

 それにしても――こいつが、“マロード”か。

 こうして言葉を交わしてみた限りでは、とにかく軽薄そうで不愉快な奴だとしか思えないが……

 しかしながら、“ただそれだけ”の人間が誰にも正体を悟られずに堀之外という魔窟で暗躍し、あまつさえあの板垣一家に命令を下せる訳もない。

 俺が自身に織田信長というキャラクター付けを施しているのと同様に、電話越しの何者かもまた“マロード”という仮面を被っている、と考えておいた方がいいだろう。

 経験上、こういうタイプの輩こそ警戒して掛かるべき相手だ。

「『んー。色々と調べて知ってちゃいたけどさー、やっぱとんでもないねー君。まあちょっとしたイレギュラーはあったにせよ、まさか竜兵達がこんな簡単にやられるなんて思ってもみなかったなぁ。俺はこれでも頭脳タイプで売ってるんだけど、自信なくしちゃいそう』」

「解せんな」

 ぺらぺらと中身の薄い言葉を吐き連ねるマロードを遮って、俺は口を開く。

 ああ全く、どうにもこうにも、嫌な感じだ。上手く言葉で表現できそうにもないが、嫌な予感がしてならない。

「貴様が俺の事を真に調べたと云うなら、此度の結果は目に見えていた筈だが?俺と板垣の力関係など改めて競うまでもなく、遥か以前に決している……あの語るに足らん闘争の顛末、この堀之外に住まう者であれば誰しも知っている事だ」

「『あーそれね、もちろん知ってるぜ。でもさあ、それにしたってもう何年も前の話だし?人間って成長するもんだし?今の竜兵とか見てるとさ、普通はリベンジ出来ると思うのが自然っしょ』」

「下らんな。板垣風情がどれほど成長を遂げた所で、俺の歩みを妨げられる筈も無い。人間である以上、俺とて昔日の俺ではない」

「『アハハハ、人間である以上かー。実際、君を見てるとさ、ホントーに人間なのか疑わしいんだよねー。実はさ、悪魔だったりして』」

「生憎だが。与太話に付き合う程、暇ではない」

 マロードの戯言を冷たく切り捨てると、俺は一度電話越しの会話を打ち切って、周囲に注意を向けた。

 件の板垣一家は取り敢えず様子を見るつもりなのか、少し離れた所から大人しくこちらを睨むに留めている。

 果たして暢気なのか薄情なのか、辰子に至っては立ったままうつらうつらと船を漕いでいた。

 が、相手は猛獣も逃げ出す板垣一家。警戒は幾らしてもし足りない位だろう。念の為、連中が余計な真似を仕出かさないよう保険を掛けておくとしよう。

「ぐぅっ!?」

 という訳で、俺はアミを蹴り倒してその頭を踏みつけ、完全に身動きを封じておいてから電話を続けた。

 竜兵達の放つ殺気がちょっとばかり尋常じゃないレベルに膨れ上がっているが、実際にこちらに手出しできない以上恐れる必要はない。

 そう、動物園。動物園にて猛獣の檻の前にいると思えば無問題だ。不用意に手を突っ込みさえしなければ、大丈夫大丈夫。

 自分に言い聞かせて、怯みそうになる心を抑え付ける。

 そんな風に俺が必死の自己暗示を行っていると、携帯から再びマロードの声が響いた。

「『あらら、人質に乱暴しちゃダメっしょ。なんといっても俺の大事な同志なんだからさー、扱いは丁重にしてよ』」

「ふん、俺の捕虜だ。生殺与奪の権は、全て俺の元にある」

「『困るなぁ、そんな態度取られちゃうと――“こっちの人質”も、身の安全は保証できなくなっちゃうかも?』」

 さらり、とまるで何でもないように放たれたその言葉に。

 俺は咄嗟に自制スキルを総動員して声を殺し、表情を殺し、心を殺した。

「……」

 少なくとも表面上に変化は浮かばなかった筈だ。普段の鍛錬の成果が発揮されたと、願いたい。

 ここで俺が僅かでも動揺を見せれば、それはどうしようもなく致命的な隙となる。その大き過ぎる隙を見逃してくれるほど甘い相手ではない。

 嫌と言うほど、実感させられた。

 故に俺はありとあらゆる感情を伺わせない。眉一つ動かさず、声一つ震わせず、あくまで普段通りの冷徹さを貫いて、淡々と言葉を返す。

「成程。それが貴様の用件と云う訳か」

「『あれ、それだけ?もうちょっと何かさ、リアクションしてくれてもいいんじゃないの?せっかく驚かせてやろうと今まで隠してたのに、寂しいじゃん』」

「ふん。その程度は予期していた事態の一つに過ぎん。貴様の言う人質とやらは、先に離脱した二人だろう」

「『そうそう、宇佐美巨人と源忠勝。堀之外じゃあ名の知れた代行人で、君の今回の依頼人。押さえさせてもらっちゃった、アハハハ!』」

 マロードは不愉快な哄笑を上げる。その言葉の内容もあって、真剣で殺意が湧いてきた。

 この野郎、タツを―――駄目だ落ち着け、冷静になれ。

 親友を人質にされた程度のことで熱くなるのは、織田信長のキャラクターじゃあない。そんな綺麗な役回りは正義の熱血ヒーローにでも任せておけば良い。

 ひたすら冷静沈着に思考を巡らせて最適解を導き出す、それが俺のすべき事だ。間違っても激発するな、今は事態を正確に把握しなければ。
 
「それで?」

「『んん?』」

「俺が、“人質”の存在などを。意に介すると本気で思うか?貴様にとって部下は保護すべき対象かもしれんが、俺にとっては違う。足手纏いとなるなら、躊躇いなく切り捨てるのみ」

「『あー、まあそうだろうね。でもさ、俺としちゃそういうドライアイスな性格も織り込み済みなのよ。役立たずの部下なんて余裕で見捨てられる……でもさ、“依頼人”は違うんじゃない?依頼人を守り切れなくて、請け負った依頼をこなせなかったってのは――つまり、“敗ける”ってコトじゃん』」

「……」

「『信長、君さ……敗けるのキライでしょ。それも、かなり半端ないレベルで』」

 妙に確信的なマロードの言葉。思わず舌打ちが漏れ出そうになり、慌てて自分を抑える。

 少しばかり甘く見過ぎていたのかもしれない。

 こうも自信を込めて織田信長を語る事が出来る辺り、どうやらマロードは想像以上に深い所まで首を突っ込んでいるようだ。

 俺の事を調べた、と言っていたが……こいつ、何を何処まで知っている?

「『俺的にはここで亜巳を失うのは痛いし、君も美味しい稼ぎ口を失くすのは不本意だと思うワケよ。って事で今回はさ、引き分け、痛み分けってことでお互い手を打たない?』」
 
 人質交換という訳か。俺自身としては一も二も無く飛びつきたい提案だが……ここで慌ててはならない。

 “織田信長”にとってこの状況はどういうものなのか、客観的に考える必要がある。虚像の威を保つには、常に細心の注意を払い続けなければならないのだ。

 勝ち負け引き分け。利益に損失、外面と内面。

 ……。

 …………。

 ……今回ばかりは仕方がない、か。

 あまりに予想外が積み重なり過ぎて、こうなる可能性に思考が及ばなかった。

 マロードの手前、見栄を張ってはみたが、実際のところ俺もこの事態はまるで想定できていなかったのだ。

 第一、よりによってあの二人が捕らえられるなど、そう簡単に起きて良いことではない。

 源忠勝に宇佐美巨人。忠勝は昔から腕っ節が強く、場慣れもしている。突出した能力こそ無いが総合的な実力は相当なものだ。

 一方、養父の巨人とて決して弱い訳ではない――それどころか、一昔前はこの堀之外で随分と派手に暴れ回り、色々とヤバい事もやらかした経歴を持つ猛者である。

 現在は第一線を退いてはいるものの、その実力は板垣とも真っ向から渡り合えるほどのものだろう。

 普段はくたびれた中年親父にしか見えない上に強者特有の覇気も感じられないが、自分達の身を守る為ならばさすがに本気で力を振るう筈だ。

 そんな親子が二人揃っていて、それでも不覚を取るものだろうか?いまいち信じられないものの、マロードの口ぶりからしてブラフとも思えない。

 第一、確認を取ればすぐに露見するような嘘を吐く理由もないだろう。

 …………。

 まあ、とは言え、何がどうしてそうなったのか、なんとなく予想はついているのだが。

 宇佐美巨人と源忠勝の両名をまとめて叩き伏せられるような馬鹿げた実力の持ち主で、かつアンダーグラウンドの住人。

 誠に残念ながら心当たりがある。板垣一家が登場した時点で、薄々ながら現れるような気はしていた。

 あくまで予感は予感、叶う事なら当たっていて欲しくはなかったのだが、やはり俺の場合は嫌な予感ほど良く的中してしまうものらしい。鬱陶しくも現実は常に厳しい。

 アンニュイな溜息を吐き出したい気分に任せて、俺は内心にて不機嫌全開に呟く。


―――約束が違うじゃねぇかよ、釈迦堂のオッサン。









 釈迦堂刑部は、元川神院師範代である。その肩書きが意味するところは、一言ではまるで語ることが出来ない程度には重い。

 それでも敢えて簡潔に説明するならば、かつてあの川神百代が師と仰いだ男――と言えば、とりあえずその突き抜けっぷりは伝わるだろう。

 あらゆる天才とあらゆる天災で満ち溢れたこの世界において、頂点から数えて十本の指に食い込むであろう実力を有する、正真正銘の怪物だ。
 
 そして釈迦堂という男の最大の特徴は、世界におけるトップクラスの武力を保有した上で、それを振るう事に何ら躊躇いを覚えないところにある。

 相手が気に入らなければ、一般人であろうとお構いなしに暴力を振り回す。

 対戦相手の選手生命を絶ちかねない非情の技でも、勝利を得るためならば迷わず用いる。

 弱いのが悪い、好きに生きたきゃ強くなれ――それが釈迦堂の口癖だった。

 そんな武闘家にあるまじき思想と行動を危険視された結果、総代の鉄心によって川神院を追放されたのが、約十年前の話。

「おーおー、随分とハデにやり合ってたみてぇだな。ヒヒ、血の匂いがぷんぷんしやがる」

 そして現在。三つの勢力が数時間に渡る激闘を繰り広げた第十三廃工場に、釈迦堂刑部は足を踏み入れた。

 工場内には意識を刈り取られた人体が無数に散乱し、同じ数だけ血溜まりが広がっている。

 森谷蘭と板垣辰子の戦闘の煽りを受けて、壁にも床にも罅割れとクレーターが刻まれている。

 一見して何処の戦場跡かと思うようなその惨状を、釈迦堂はむしろ上機嫌な様子で見回した。

「ま、お前らが暴れたってんならこんなモンかね。若者は元気が一番ってな。さぁて――えらく久し振りじゃねぇか、小僧。懐かしいなぁオイ」

「……」

 俺の正面、約五間の距離を置いて、釈迦堂は立ち止まった。
 
 年に似合わず常にヘラヘラ笑った口元も、それだけでは到底誤魔化しきれていない歪んだ凶相も、最後に顔を交わした時とまるで変わらない。

 そして、この殺気。俺のように虚勢を張って捻り出した紛いものとは違う。

 臨戦態勢に入るまでもなく、ただ暢気にそこに突っ立っているだけで対峙する相手の肌を粟立たせるような、禍々しい存在感。

 川神百代もそうだが、こういう規格外の存在と相対した時、俺はいつも己の矮小さに絶望にも似た想いを感じてしまう。

 無論、俺には才能がない、などと思い上がりも甚だしい事は言わない。形はどうあれ、多くの凡人に比べれば俺は明らかに才に恵まれている。少なくとも、血の滲むような、死に物狂いの努力が、辛うじて実を結ぶ程度には。

 しかし、それでも……“彼ら”と同じステージに立ち続けるには、あまりにも非力。存在としての格が違う。そう感じざるを得ないのもまた、事実であった。

 そんな下らない感傷を俺に抱かせる点も、変わっていない。

 唯一つ違和感を覚える部分があるとすれば――それは、両脇に軽々と抱えた二人分の人体くらいのものか。

 四肢が二人分で八本と、頭が二つ。数えて十のパーツがだらりと地面に向けて垂れ下がっている。

「おいおい挨拶もナシかよ。ったくよー、年長者は敬うモンだぜ?せっかく面倒くせぇ手加減までして、五体満足でお届けしてやったってのに」

「師匠、チィーッス!」

「こんばんは~師匠」

「オウ。お前らは無事っぽいな。ま、俺の弟子がそう簡単にやられて貰っても困るか」

 場違いに元気で暢気な二人の弟子、天使と辰子に、釈迦堂は皮肉っぽい表情で言葉を返す。

 そして、少し離れた所で不機嫌そうに腕を組んでいる男、竜兵に視線を移した。

「ヒヒ、お前さんはなかなかヒデー有様だな。誰にやられたのか知らねぇが、素直に俺の教えを受けてりゃ余裕で勝てただろうによ」

「はっ、余計なお世話だ。俺は誰の指図も受けん、もっともマロードは別だがな」
 
 竜兵は苦々しく眉間に皺を寄せながら、口の中に溜まった血と一緒に吐き捨てた。
 
 ステゴロを信条とする竜兵は他の三姉妹とは違い、釈迦堂に武術を習ってはいない。それはこれからも変わることはないだろう。

 釈迦堂はやれやれ、と肩をすくめた。

「あーあ、勿体ないねぇ。俺の見立てじゃお前にゃ間違いなく才能があるんだがな。才能は大事にしなきゃ駄目だぜ?なんつっても世の中、無能な努力家なんて間抜けで可哀相な連中は腐るほどいるんだからよ」

 よっこいしょ、というわざとらしい掛け声と共に、釈迦堂は両脇の荷物を床に転がした。

 この距離から見間違える筈もない。忠勝と巨人だ。両者とも気を失っているのか、ピクリとも動かない。見た感じでは目立った外傷は無さそうだが……。

 本音を言えば傍まで行って自らの手で確認したいところではあるが、そういう訳にもいかない。

 現時点では、彼らの身柄はマロードにとっての大事な交渉カードなのだ。迂闊な動きは禁物である。

 俺が二人の様子を観察していると、釈迦堂はこちらの交渉カード――亜巳に視線を向けた。

「よう、亜巳。慎重なお前が不覚を取るなんざ珍しいじゃねえか」

「……師匠の手を煩わせてしまい、申し訳ありません」

 俺の足元、手錠で拘束された亜巳がいつになく殊勝な言葉を吐く。

 基本的にはどんな相手にも傲岸不遜な態度で接する亜巳も、師に対する敬意はきっちりと持ち合わせている。

「まー仕方ねぇさ。慎重だからこそ突かれる隙、ってのもあるもんだ」

「……?それはどういう……」

「分からねぇか。ヒヒ、やっぱお前は恐ろしい奴だぜ、信長よ」

 心底愉快そうに口元を歪めながら、釈迦堂は全てを見透かしたような目を俺に向ける。

 ……この糞オヤジ、余計な事を言いやがって。

 不愉快な視線と言葉に対し、俺は手加減無しの殺意を放出する事で応えた。

 ビリビリと空気が一瞬で緊張し、震える。至近距離で殺気を浴びた亜巳が大きく息を呑んだ。

 しかし、肝心のターゲットたる釈迦堂は眉一つ動かす事なく、平然たる表情で殺意の奔流を受け止めている。相変わらず、気に喰わない。

「イイ殺気だ、前に会った時よりもすげぇ。本当にお前は天才だと思うぜ。この俺をしてそう思う。さすがは、元・俺の弟子だ」

「下らん昔話をする気はない。それよりも、何故貴様が此処にいる?マロードとやらの下に付いたのか、貴様ほどの男が」

「まあ色々あんだよ、オトナにはよ。それによ、マロードはチンケな密売人たぁ訳が違うぜ?アイツはもっともっと大きな事をしでかせる奴だ。こうやって協力してんのも、言うなれば先行投資ってところか?ヒヒ、そういう意味じゃお前と同じだよ、信長」

「……」

「それに、何となく気が合ったってのもあるな。お前と相容れるかは別として、面白い思想の持ち主だぜ、マロードは。ま、その辺りは本人が直接話したがってるらしいから言わねぇけどな」

 マロード。板垣一家を引き込むのみならず、釈迦堂刑部をしてここまで言わせるか。

 少しばかり洒落にならない求心力だ。何者かは知らないが放置するのは危険すぎる、と改めて認識する。

 ただ、悪いことばかりではない。先の会話の中で、少しは安心できる要素を見出すことが出来た。

 色々な点でグレーゾーンに踏み込んではいるものの、どうやら釈迦堂は俺との“約束”を破る気はないらしい、と言う事だ。

 このオッサンの行動原理を考えればそう簡単に反故にされるとは思わないが、約束の内容が内容だけに神経を遣わざるを得ない。

 我が元・師匠ながら厄介な男だ――と内心で溜息を吐いた時、釈迦堂が再び口を開いた。面白いものを見つけた、と言う風に口元が弧を描いている。

 ……ああ、やはり。無駄だったか。

「ヒヒ……なかなか気配を殺すのが巧いな、お嬢ちゃん」

「っ!」

「俺じゃなけりゃ何が起きてるか分からねえ内に蹴り倒されてたかもしれねぇな。ま、相手が悪かったと思って諦めな。こっちにゃ人質がいるって事を忘れてもらっちゃ困るぜ」

 飄々と語り掛ける先には、跳躍の姿勢を取ったままで硬直した明智音子の姿があった。釈迦堂の背後、数メートルの地点。

 抜き足差し足忍び足、俺と釈迦堂が会話を交わしている間に足音も気配も見事に絶って徐々に忍び寄ってきていたのだが、残念ながら結果は見ての通りだった。

 この化物を相手に不意打ちが通用するとは最初から思っていなかったとはいえ、少しくらい夢を見させて欲しいものだ。

「しかし、俺にゃバレちまったとは言え、これだけ練度の高い隠行ができるっつーことは……ウチの天と互角にやり合ったってのは嬢ちゃんの事か。の割にあんま血の匂いはしないみてーだが、裏の住人って訳じゃねえのか?」

「粗暴で野蛮なキミ達みたいな人種と一緒にしないで欲しいね。生憎と、こんな血生臭い夜は人生で初めてだよ」

「へぇ」

「ボクは清楚で上品でお淑やかで、問題は暴力よりも頭脳を使って解決したい人間なんだ。仮に探偵をやる羽目になったら安楽椅子は必須だね」

 釈迦堂の発する得体の知れない雰囲気に中てられたのか、顔色はいまいち良くなかったが、ねねの元気は未だ残っているようだった。

 もはや隠れている意味もない、とばかりに、中身のないスッカスカな言葉をぺらぺらと吐き出しながら俺の隣まで歩み寄る。

「ゴメンご主人。失敗しちゃった」

「許す。端から期待もしておらぬ故」

「う。それはそれでショックかも……まあいいや。で、“ご主人”に返事してくれたのは、ボクへの合格通知と受け取って良いのかな?」

 小柄なねねは下から見上げるように、しかしふてぶてしい笑みを浮かべて俺を見つめる。

 なかなか大した度胸だ。頭も回るようだし、武の腕前も天との戦闘を見れば一目瞭然。能力的には何の問題もない。

 もっとも、性格面は相当に癖がありそうだが――そういう輩を部下として自在に使いこなせないようなら、俺の夢など決して叶いはすまい。

 それに、と俺はどこか愉快な気分で思った。

 俺はどうやら、このねねという少女が気に入ってしまったらしい。

「ふん。その小賢しさと面の厚さは認めてやろう。
――許す、今日より明智音子を織田信長が臣下と任ずる。精々、励め。己が領分を弁えている内は、飼っていてやろう」

「えーと。ありがたき幸せに御座りまするー、とでも言っておけばいいのかな?まあそういう訳で、これからよろしくお願いするね」

 重々しい俺の声音にも多少は慣れてきたのか、ねねは緊張することもなく軽い調子で頭を下げて軽い調子で答える。

 これが忠義馬鹿の蘭ならば滝の涙を流しながら頓首再拝、平身低頭して顔面を無駄に汚す場面だろうな、と心中にて苦笑する。

 さて実際はどうだっただろうか。足元で間抜け面を晒して寝息を立てている我が従者を見下ろしながら軽く回想していると、携帯電話のアラームが再び鳴り響いた。

 先程と違い、携帯は最初から俺の手中にある。間髪入れずに受信ボタンを押して、耳に押し当てた。

「『よう、さっきぶり。オレだよ、オレ。オレオレ』」

「………………………」

 通話早々に不愉快な音声で不愉快なギャグを聞かされた。どうしようこいつ真剣で殺したい。

 そんな俺の純粋な殺意が伝わったのか伝わっていないのか、マロードはやれやれと言いたげな溜息を吐いた。

「『ツッコミ待ちの寂しさを分かってないねー。まーいいや、それより人質もちゃんと届いたことだし、ここらで幕引きにしない?』」

「ふん。自ら舞台の幕を上げた輩が、随分と勝手な事を言う」

「『アハハハ、そう?俺の考えは逆かなー。自分でセッティングして幕を上げたからこそ、幕を引く権利と義務があると思うけどねー俺は。舞台に限らず主催者ってのはそういうモンっしょ』」

「己が手で舞台を演出しておきながら、己は観客席に座して其処で踊る道化を笑う。趣味の悪い事だ。貴様の何が、此処にいる獣共を惹き付けたのか。それは関知する所ではないが……俺とは相容れんらしいな」

「『あっれー、嫌われちゃったかな?実際に会ったら好きになってもらえる自信あるんだけどなー。アハハ、でもその前に殺されちゃいそうだからムリか。君は嫌いかもしれないけど、俺は君のこと、結構好きだったりするのよ。似た者同士、シンパシー感じちゃったりー、みたいな?』」

「貴様の如き輩と、俺が。似ている、だと?余程俺の勘気に――」

「『君さ、世界のこと憎んでるでしょ。そりゃもう、滅茶苦茶にしてやりたいくらい』」

「…………」

 またしても。またしても、だ。強い確信に満ちたマロードの言葉に、俺は思わず沈黙を選んでいた。

 知ったような口振りで俺の事を語るマロードに腹が立ったのは事実だが、それ以上に、抑え切れない戸惑いが俺の心を支配していた。

 例え心の一欠けらに過ぎずとも。

 真の意味で本音を見抜かれるのは、初めての経験だった。

「『どうして俺がそんな風に自信満々に言えるのか、不思議じゃない?その辺り、君とは色々と話したい事があるんだけど……、うん、今日のところはここまで!
どうせならもっと落ち着ける状況でゆっくり話したいからさ、またの機会を待つとしますか』

「……」

「『楽しみは後に取っておくのが人生の正しい味わい方っていうか?そんな感じじゃん?我慢強い俺ってステキ!抱いて!って自分で自分は抱けないか、人は皆孤独だねー哀しいね、アハハハ!』」

「…………」

 これ以上の会話は無駄か。そう判断し、携帯を耳から離して通話を切ろうとした瞬間。

「あ、ちょっと待って!」

 つい先程、栄えある俺の直臣第二号の座に収まったねねが慌てた調子で制止した。

 そういえばこの少女はマロードとの因縁があるらしかったな、と記憶を呼び返しながら、俺は用済みとなった携帯をねねに投げ渡した。

「せんきゅご主人。さてさてさぁて、なんて文句を付けてやろうかな」

 傍目に分かるほどにも意気込みながら携帯を耳元に持ち上げて、大きく息を吸い込み、

「…………!」

 そのまま無言で固まった。

 数秒間、表情すらも凍り付いたように固まっていたが、氷が溶け出すように徐々に怒りの形相へと変貌していく。

「うがぁあああああムカツクムカツクムカツクゥゥゥゥ!アイツ!ボクが代わるの分かってて通話切りやがった!死ね、死ね死ね死ね不幸に塗れて惨めに死んじゃえ!!」

 清楚さも上品さも淑やかさも一片たりとも見当たらない罵声を喚き散らしながら、ねねは携帯電話こそが諸悪の根源と言わんばかりに思いっきり振りかぶり。
 
 そして、何の慈悲も容赦もない力加減でコンクリートの床に叩き付けた。

 今夜の戦闘では足技にしかお目に掛かっていなかったが、どうやら膂力も人外級だったらしい。哀れにも携帯は粉々に砕け散った。

「おおおおおおおおおおいテメェェ!俺のケータイに何しやがるゴラァ!!」

「どうどう、落ち着けリュウ!いや気持ちはすっげー分かるけどよ、アミ姉ぇが人質になってるからな!?まあこれでも飲んで落ち着けって」

「って興奮剤渡してどうすんだ!……クッ、しょーもないボケなんぞのお陰で少し落ち着いちまった自分が憎いぞ……!」

「う~ん。買い換えたばっかりだったのになぁ。勿体ないなあ……まあいいか。くかー」

「あ、この携帯キミのだったんだ。ゴメンねぇ他意は全然全く完膚なきまでにこれっぽっちもなかったんだけど、ちょっとうっかり落として壊しちゃった。でも謝ったから許してくれるよね?」

「上目遣いで可愛らしく言えば何でも許されると思ってんじゃねぇぞメスガキ……!いいか、あのケータイにはマロードから届いたメールの全てを保存してある!マロードの生声を就寝用と起床用の二パターンに分けて録音してあるし、更には貴重なマロードの生写真もコレクションしていた!それを、それを貴様は……これが許せるか、なあ天!」

「え、あ~……ごめんリュウ。普通に引くわ」

「ZZZ」

 先程までの殺伐とした空気は何処へ行ったのやら、通話の切れ目がシリアスの切れ目、と言わんばかりに混沌空間が展開されていた。

 これが普段の板垣一家だと言ってしまえば、まあそれはその通りなのだが。

 少し前までガチで殺し合っていた相手がこんな連中だと思うと、何と言うか、色々と遣る瀬ない。心なしか周囲に充満している血臭ですらもシュールに思えてきてしまう。

「あの穀潰しども……馬鹿やるよりもアタシを助けるのが先だろうに。帰ったら制裁だねェ」

 手錠で拘束されて尚、亜巳の目は嗜虐的に輝いていた。まだ解放した訳でもないのに、お仕置きメニューの内容を思案して悦に浸っているようだ。

 真のサディストというものはいかなる状況であれドS心を忘れないらしい。ふっ、また下らぬ知識を付けてしまった。

「なァ、アンタ」

「ん?貴様は――何者だ?此処に至るまで俺の眼を掻い潜るとは見事な陰行、褒めてやろう」

「まるっと存在ごと忘れてんじゃねェぞクソが、前田啓次だ!」

「……?」

「本気で不思議そうな顔してんじゃねェ!オレは、あー、そうだ、夕方に親不孝通りでアンタにケンカ売った――」

 俺は必死で頭を捻る。そう言われてみれば、チャラい金髪と大量のピアスには薄っすらと見覚えがあるような気がしてきた。

「ふん、思い出した。俺に手も足も出ず無様に敗北し。竜兵には見るも無残な姿になるまで殴られた雑魚だったな。得心がいったぞ」

「えらく不本意な思い出し方をされた気がするぜ……まァそれは置いといてだ。アンタには一応、礼を言っとこうと思ってよ」

「何だい、シンに殴り倒されて踏みつけられたのがそんなに嬉しかったのかい?
フフ、活きの良さそうな豚じゃないか、アタシにも踏まれてみる?今なら特別にサービスしてやるよ」

「人質のクセに横から出てきて話をややこしくすんじゃねェよ!……それでだ。まあアンタに礼を言うのも筋違いかもしれねェけどよ、オレはまだくたばらずに済んでる」

「……」

「それはつまり、まだまだ上を目指して足掻けるってコトだ。夕方にも言ったが、オレはこんな所で終わるつもりはねェ、必ずアンタと同じステージに立ってやる。だからよォ」

 チャラい外見に似合わず、凛々しいとさえ形容できる表情で真っ直ぐにこちらを見据え、啓次は言葉を続けた。

「忘れんなよ。オレの名前は前田啓次。前田啓次だぞ、絶対に忘れんなよ!絶対だぞ!」

 思わず何かのネタフリかと疑ってしまいそうなほど執拗に念を押しながら、啓次は工場の外へと歩き去っていく。

 全身は隈なくボロボロで足取りはフラフラ、今にも倒れそうな程に危なっかしい姿だったが。

 その背中は間違いなく、勝者の誇りと力強さに満ちていた。

「ヒヒ、青春ってのはイイねぇ。俺にもあんな頃があったぜ」

「それは無いだろう」

 唐突に思い出を捏造し始めた釈迦堂に冷たいツッコミを入れる。

 実際に釈迦堂の青春時代を知っている訳ではないが、この男が主人公の如く熱血している姿など有り得ない。

 こいつは間違いなく高校生の時点で非道な悪役ポジションだっただろう。

 となると主人公は同期の現川神院師範代、ルー・イーか。なるほど、誂えたかのようにピッタリな配役だ。

「青春かぁ。ルーの奴は主人公気質だったけどよ、ありゃ違うな。だってヒロインいねぇし」

 奇しくも似たような事を考えていたのか、釈迦堂が客観的に見て意味不明な呟きを漏らした。

 同類だと思われるのは癪なので、同調はしない。ついでにルー先生に同情はしない。

「んで、ヒロインと言えば……そこで幸せそうにぶっ倒れてる蘭はどうよ。俺の知ってる限りじゃある意味、辰よりヒデェ暴走癖を抱えてたが、ちったぁ改善したのかよ?」

 ヒロインと蘭の繋がりがまるで見えてこない、文脈を徹底的に無視した内容だったが、他でもない元・師匠の質問だ。俺は生真面目にも答えてやる事にした。

「この莫迦従者が倒れている理由。辰との戦闘で“気”を過剰に消費したのが、その一つだ。それで理解出来るだろう」

「なるほど、本格的に重症だわな。向こう十年も治そうと頑張って、それでも治らないってのは、そりゃもうトラウマってレベルじゃねえ。まるで――呪いじゃねえかよ」

「……」

 俺は、足元でむにゃむにゃと何やら寝言を呟いている従者を、黙って見下ろす。

 返り血を浴びた顔はだらしなく緩んで、見ているこちらに伝染しそうな程に幸せそうだ。

 心中ではあれほど人を斬る事を嫌がっている癖に、俺が適当な一言で褒めてやっただけで、こんなにも幸せそうに笑っている。

 どれほど辛くても、それだけで笑えてしまう。

「俺とルーの青春にヒロインがいなかったのはよ、何も俺達がモテないダメンズだったからじゃねえんだぜ。その辺りを踏まえて若人に忠告しといてやるよ。熱血に燃えるも良し、冷血に徹するも良し、ただ、ヒロイン一人救えねぇようなヘタレ主人公にゃなるな」

「……」

「ヒヒ。らしくないこと言っちまったか?まぁでも、ダークな過去を匂わせる今の俺は間違いなくカッチョイイから良しとするぜ」

 釈迦堂はいつも通りの薄ら笑いを貼り付けて言うと、おもむろに人質二名――忠勝と巨人の襟首を掴み、床をスライドさせるようにして、こちらへと放って寄越した。

 身体のツボでも突かれているのか、乱暴に扱われても二人が目を覚ます様子はない。間近で彼らの無事を改めて確認してから、俺は釈迦堂を睨んだ。

「ふん。一方的に人質を解放していいのか?亜巳は未だ、俺の手中にあると云うのに」

「そういう駆け引きは苦手なんだよ、面倒くせえから。大体お前、もうお互い手を引くってマロードと約束してるじゃねえかよ。織田信長には情けも容赦もねえが、約束を守るだけの誇りはある。それくらいは俺にも分かるぜ」

「……」

 全く、マロードといい釈迦堂といい、見透かしたような事ばかり言ってくれる。何より腹立たしいのは、それが何一つ間違っていない点だった。

 正しく真実を突く言葉ほど対処し難いものはない。俺のように虚飾を虚飾で塗り固めた人間にとっては、尚更だ。

 俺は心中にて何度目かの溜息を吐き出すと、コートのポケットから取り出した鍵を使って亜巳を解放してやった。

「あぁやれやれ、やっと自由に動けるよ。こんな窮屈なモンを進んで身に着けて喜んでる豚どもは理解に苦しむねェ、全く」

 一応警戒は怠らなかったが、さすがに今更暴れるつもりはないらしく、亜巳はその場で大きく伸びをしてから、得物を拾って大人しく妹弟達の下へと歩み寄る。

「さーて」

 そして、素敵に妖艶な笑顔と青筋を同時に浮かべながら、愛用の棒をぶん回したのであった。

「アタシを放置して遊んでんじゃないよ、このクソ虫阿呆どもが!!」


 ――と、綺麗にオチが付いたところで。

 宇佐美代行センターによって持ち込まれた“黒い稲妻”討伐依頼に端を発した今夜の宴は、概ねこれにて幕を閉じる。

 実際にはこの後、唐突に勃発した板垣一家のバトルロワイアルを釈迦堂と並んで見物したり。
 
 気を失った男性二人と女性一人分の身体を然るべきところに搬送するために四苦八苦したり。
 
 我が新たなる臣下であるところの明智音子を色々と尋問したり。

 そんな感じの多種多様な後片付けが舞台裏で繰り広げられるのだが、それらの出来事を延々と語ったところで蛇足というものだろう。

 本人の言う通り、実質的にこの舞台の幕を引いたのは間違いなくマロードだが、それを素直に認めてやるのも腹立たしい限りなので、せめてカーテンコールは俺こと織田信長に飾らせて貰おう。


―――今宵の舞台は、これにて閉幕!















~おまけの川神院~


「ハックショーイ!」

「あれ、ルー師範代。どうしたの?師範代がカゼ引くなんて珍しいね」

「いや、体調管理はバッチリなはずだヨ。これは……誰カがワタシの噂をしてルのかもしれないネ」

「あはは、そんなベタベタな」

「まあそれは無いじゃろ、ルー。お前はわしみたいにモテんからの」

「ワタシは武道一筋デスのでモテなくても結構。カゼを引かなかったなら万事OKネ」

「だからモテないんじゃないか?」

「お、お姉さまぁ!ホントのことをさらっと言っちゃダメだって!」













 マロードの口調がどうにも上手く掴めず、意外なところで苦労した回でした。
 原作だとボイスが入っているのでイメージが掴み易いのですが、それを文章のみで表現するのはなかなか難しい……。
 声優の方々の演じ分けの偉大さを改めて実感しましたとさ。

P.S.今回で話の展開的にも一区切りが付きましたので、次話あたりでチラ裏からその他板に移動しようかと考えています。
 それに併せてタイトルも変更するつもりですので、その他板に見慣れないまじこいSSが増えていたら是非とも覗いてやってください。それでは次回の更新で。



[13860] 祭りの後の日曜日
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:f283be69
Date: 2011/02/07 03:16
「主、主主主主主主あるじあるじあるじあ~る~じぃ~!!」
 
 俺に四月十一日の朝の到来を告げたのは、我が従者のパニクりにパニクった叫び声であった。
 
 次いで襲い掛かってきたのは、脳味噌を前後左右にシェイクされる極悪な感覚。普段ならばゆさゆさと優しいリズムで身体を揺らし、快適な目覚めを提供してくれる蘭の起こし方であるが、仮にその速度が通常の三倍を超えていればどうなるか――答えは明瞭。

 このままでは殺される。今すぐ起きるべきだ。かつて多くの修羅場を掻い潜る中で身に付けた直感に従い、俺は一瞬で意識を覚醒させ、瞼をこじ開ける。

「……っ!?」

 近い。近過ぎる。蘭の見慣れ過ぎて今更なんの感想も湧いてこない顔が、しかしドアップで目の前に迫っていた。常日頃より平常心を保つよう心掛けている俺だが、さすがにこの瞬間はハートのビートが止まらない。

 お互いの吐息がダイレクトに伝わる距離。互いの唇はなんと数センチほどしか離れていないのだ。もしも今この瞬間に地震でも起きようものなら、ズキュゥゥゥゥン、とかいうなんだか良く分からない効果音が盛大に鳴り響くのは疑いなかった。

「あ、お、お早う御座います!信長さま、本日はお日柄も良く!ええと、今すぐ朝餉をご用意―――って、そうじゃありませんっ!」

「!!」

 そんな危機的状況から更に、ズズイ、と顔を前に突き出すというまさしく戦慄の所業をやらかす我が従者に対して、俺は反射的にベッド上にて全力のサイドローリングを敢行していた。

 結果として俺と蘭は互いに色々なものを失わずに済んだ。その代償に俺は布団の簀巻きになりながらアパートのボロ壁に顔面を強打し、無表情で悶える羽目になったのだが。

「あああぁあ、主、主、主!ご無事ですか、信長さまぁ!」

「くく……、我が生涯に一片の悔いなし――」

「信長さま?信長さまああああっ!!」

「……朝っぱらからテンション高いなぁ」

 近所迷惑な悲鳴が木霊する中、至極ごもっともなツッコミが入った。これまでの俺と蘭の主従生活に、絶対的に不足していたもの――常識的なツッコミ。

 いつの間にやら寝巻き姿の小柄な少女、ねねが呆れた顔で部屋の入口に立っていた。朝にはそれほど強くないらしく、薄茶色の目は半ば閉じられ、眠たげに垂れ下がっている。寝起きは全力でテンションが下がるタイプなのだろう、ねねは恐ろしいほど醒めた目で蘭を見遣りながら口を開く。

「あのさ。この辻斬り娘、いつもこんな調子なの?ご主人」

「つ、辻斬ッ!?」

「生憎と、な」

「何ともそれは残念だね。腹心の部下がこんなのじゃあさぞかし苦労したんだろうな……お労わしやマイマスター。でもこれからは頭脳明晰にして容姿端麗、品行方正且つ質実剛健な非の打ち所の無いパーフェクト従者のボクが抜かりなく支えてあげるから安心してね」

「なっ!なっ!なっ!なにを言ってるんですかあなたはっ!そもそも主と私だけのこの住まいに何の権利があって」

「ああキミはもうクビでいいよ、今までご苦労様。短い付き合いだったけど元気でね」

「なっ、なななななななぁ!?主、あるじぃ~!愚かな従者をお助けください主ぃ」

 俺は未来からきた便利すぎるネコ型ロボットか、立場が逆だろ常識的に考えて、などと心中で冴えないツッコミを入れながら、のっそりと布団から身体を起こす。全く、こうも騒がしくては睡眠どころではない。二人して主の安眠を妨げるとは、こいつらには正しい従者としての自覚が足りていないのではなかろうか。

 まあ取り敢えずこの騒ぎのおかげで、寝起きでボケた頭でも大体の状況は理解できた。

 ぎゃあぎゃあと無意味にやかましい蘭はひとまず放置して、俺は洗面所へ向かう。意識がはっきりするまで冷水でじっくり顔を洗い、安さの一点を以ってセレクトした低脂肪牛乳で喉を潤し、無駄に綺麗なトイレで用を足してから再び居間に戻る。

「……」

 するとそこには、磨き上げられたフローリングの隅っこにて体育座りでいじけている我が従者第一号の姿があった。下手人と思われる従者第二号は犯行を隠す気もないのか、無い胸を堂々と張って虚しい勝利に酔っている。

「うぅ、主。蘭は用済みの役立たずで、もはや犬に食わせる価値もない産業廃棄物なのでしょうか」

 上目遣いで哀れっぽく訴えかけてくる蘭は既に涙目であった。完全に心を折られた負け犬の目である。俺が居間から離れた僅か数分の間で、果たしてどれほどの毒舌を浴びせ掛けられたのか。戦慄しながら、仁王立ち+ドヤ顔で勝ち誇るちみっこい少女に視線を移す。

「ネコ。この莫迦を虐めるのは構わんが、俺の眠りを妨げる事は何人たりとも許さん」

「ボクだってご主人に迷惑掛けるつもりなんてなかったよ。そろそろそこのダメ従者が目を覚ますかな、と思ってわざわざ部屋まで挨拶に行っただけなのに、ボクの顔を見るなりいきなり騒ぎ出すんだもん。困っちゃうよ」

「うう。だって、だってぇ」

 心に負ったダメージは想像以上に深刻らしく、蘭には些か幼児退行の症状までもが見受けられた。明智ねね……恐ろしい子!

「ふん。俺の従者を名乗る以上、一を聞いて十を悟る程度の聡明さが欲しいところだがな」

「ううううう、蘭は不甲斐ない従者です……ずびびー」

「元よりお前に然様なものは期待しておらん。俺が求めるのは朝餉の用意である。己が至らなさを嘆く前に為すべき事を為せ。それこそ、俺が一の従者たる者の務めよ」

「……っ!は、ははーっ!」

 “一の従者”を強調して言ってやると、蘭は見る見る内に表情を輝かせた。先程までの陰鬱なオーラは地平線の彼方へと吹き飛び、にへら、と締りのない笑顔が浮かぶ。

 目論見通りの効果とは言え、こうも単純で大丈夫なのだろうかコイツは。色々と心配になってきた。

「蘭は了解致しました!主には最高の朝餉を献上させて頂きますので暫しのご猶予を!」

「うむ」

「……」

 暑苦しく叫びながら勢い良く立ち上がり、疾風の如き俊敏さでキッチンへと駆け込んで行く蘭の姿を、ねねは呆然とした様子で見送っていた。まあ見慣れていない人間ならば当然の反応だろう。何度でも繰り返すが、森谷蘭は紛うことなき真性の変人である。

「ネコ」

 今まさに地球外生命体を目撃した瞬間のように、ポカンと口を開けて突っ立っているねねに、俺は無表情で淡々と声を掛けた。

「従者同士。仲良くせよ」

「どうしてこのタイミングで言うかな!はぁぁ、何だか勢いでブラック企業に入社しちゃった新入社員の気分だよ……」

「くく、なに、ならばまだ遅くはない。四肢を縛って板垣一家に贈呈してやれば、天と亜巳はさぞかし喜ぶだろう」

「アッハハハハやだなぁボクはご主人の忠実な臣下だよ!武蔵坊弁慶も関雲長もボクの純粋無垢な忠義心の前には霞んじゃうと断言しちゃうね。具体的に数値化すると赤穂浪士全員の合計値分くらいにはなるんじゃないかなぁうん」

 空々しく目を泳がせるねねの言葉には、説得力という要素が絶望的に足りていなかった。俺が黙したまま醒めた視線を送ると、額に冷や汗を浮かべて露骨に話題の転換を図る。なんとも小賢しい奴である。

「ところでご主人。昨夜は聞きそびれたんだけど、このアパートって他に誰か住んでないの?朝っぱらからこれだけ騒いでたら文句の一つも来そうなものだけど」

「ふん。入居した頃には結構な数が住んでいたな……数ヶ月と経たぬ内に全員が消えたが。今にして思えば、何とも摩訶不思議よ」

 文句を付けてくる輩が現れる度に殺気を放って黙らせたり、夜討ち朝駆けを仕掛けてくる敵対勢力を殺気全開で追い払ったりしながら平穏無事に暮らしていただけなのだが。

「それを不思議と言い張るのは、世の中の不思議に対して失礼だと思うんだよボクは。まあご主人の存在を抜いたとしても、ボクは出来ればこんなボロアパートで寝起きしたくないけどね。掃除が行き届いてて汚くはないだけマシだけどさ」

 蜘蛛の巣状にヒビの入ったリビングの壁面を嫌そうに見遣りながら、ねねはぼやく。

 昨晩の尋問で聞き出したところによると、意外なことに我が従者二号は結構な名家の出身で、正真正銘のお嬢様らしい。どう考えても不良グループのリーダーとは結び付かない経歴だが、それに関しては実際に裏も取ってあるので、疑う余地の無い事実だ。

 そんな訳で、貧乏暮らしに慣れ切った俺や蘭にとってはまるで気にならないこの老朽化具合も、ねねの肥えた目からしてみれば耐え難いものがあるのだろう。

「が、しかし。分かっているな?」

「はいはい、拒否権やら選択肢なんて上等なモノ、ボクにはございませんよねー。どうせ三月から借りてたマンションはもう割れちゃってるし、あっちじゃ今はまだ物騒でおちおち寝てられやしないよ。少なくとも当分の間は、我慢してここでお世話になるしかないね。う~ん、そうなると身支度品だけでも早いとこ持ち込まないと……他にも小説とか漫画とか……そうなると本棚も……クローゼット……部屋に合わせて小さいサイズのやつを……ホームセンターは……」

 俯いて何やらぶつぶつと呟きながら、ねねは覚束ない足取りで俺の部屋から去っていった。自室(蘭の隣の部屋を無断借用中)へと着替えに戻ったのだろうが、あの様子だとそのまま二度寝へと移行しかねない。

 どうもこれからは蘭の朝の仕事は二倍に増えそうである。主に目覚まし的な意味で。



「主!不肖森谷蘭、全身全霊を込めて朝餉をご用意致しました!どうぞご賞味下さいませ!」

「うむ。苦しゅうない」

 現在時刻は午前十時。朝食の時間としては早いとは言えないが、俺も蘭もねねも揃って昨晩のあれこれで大いに消耗していたのだから仕方が無い。普段ならば日も昇らない内に活動を始める蘭ですら、目を覚ましたのは九時過ぎだったとの事。やはり昨晩の戦闘で“気”を使い過ぎたのが原因だろう。

 それにしても、今日が日曜日で良かった。もしこれが平日なら、織田信長は転入一週間目にして授業をサボった不良学生のレッテルを貼られる所だ。俺の評判が少しばかり悪くなったところで今更ではあるが、しかしだからと言って無駄に“S落ち”の危険性を高める必要もあるまい。

「えーと、ねねさん、でしたっけ。その……どうぞ」

「うん?なんだ、ボクの分も作ってくれたの?」

「私はまだ事情を良く分かっていませんけど。この“家”の食事当番は私ですから。主に認められてここにいる人なら、それが誰であれ、おもてなしするのが私の役目です」

「ふぅん。まあちょうどお腹は減ってたし、食べさせてくれるのは素直にありがたいね」

 クールな口調で返しながらも、ねねはテーブルの上に並べられた品々の観察に余念がない。俺の勘が正しければ、彼女の注意を惹き付けて止まないのは、小皿に鎮座するサバの味噌煮ではなかろうか。いや、我ながら偏見だとは思うが、何と言うかキャラクター的に。

 そして、朝食の時間が始まる。

「ハムッ、ハフハフ――ハフッ!!」

「……」

「……」
 
 食事が始まって数秒が経過した時点で、俺も蘭も思わず箸を止めて沈黙を選択していた。明智ねねという少女の食べっぷりの豪快さには、俺達を否応なく黙らせる何かがあった。

 取り敢えず間違いなく言えるのは、そこにはお嬢様としての品性など欠片も感じられない、と言う事だ。味噌サバにかぶりつき、白米を掻き込み、漬物を噛み砕く。経歴詐称を改めて疑いたくなる姿である。ナイフとフォークは上手に扱えても箸は使えないとでも言い出すのだろうか、この小娘は。

「ぱくぱく、ふーん。むしゃむしゃ、へー。ごっくん、ほー」

「あ、あの……お味はどうですか?タッちゃ……主のご友人と、主には恐れ多くもご好評を頂いていますけど、それ以外の方にはほとんどお出しした事がありませんから、もしお口に合わなかったなら、その」

「素晴らしい。これぞまさしく、ボクの求めていたプリ旨だよ」

「え、プリ……え?」

「サバの味噌煮がプリップリで、箸で持つとトゥルン!と震えて味噌が滴る。それにかぶりついてウマッ!!そんな幸せが―――プリ旨」

「は、はぁ。ありがとうございます」

 箸を置き、神妙な顔で謎の語りを始めたねねに、蘭はかなり微妙な表情で言葉を返した。なんだろうこの人が言ってる意味はぜんぜん分からないけどたぶん褒められているみたいから取り敢えずお礼は言っておこう、という内心がとても良く伝わってくる態度だった。

「うんうん、ご飯はふっくら柔らかホカホカで抜群の炊き上がりだし、この漬物も絶妙に味が染みてて、これだけでご飯三杯はいけるね。いやホントもうウチの料理人に欲しいくらいだよ」

「満足頂けたようで、嬉しいです」

 今度は分かりやすい褒め言葉で安心したのか、蘭はホッとしたように笑顔を浮かべる。

 建前ではなく、本当に嬉しそうな表情だった。昔も今も変わらず交友範囲がとんでもなく狭い蘭は、何と言っても他人に褒められる事に慣れていないのだ。俺にしてみればこいつの家事スキルは誰からも評価されて然るべきものだと思うのだが、当人はいまいち自信を持てないでいるらしい。

 その後もねねは良家の子女にあるまじき健啖家っぷりを存分に発揮し、宣言通りご飯のお代わりを三回要求した上でそれら全てをあっさりと平らげてみせた。俺としては食事中の時間をねねについての説明にあてるつもりでいたのだが、目の前で前触れなく繰り広げられた衝撃映像のお陰でそんな思惑も気付けば忘れ去っていた。

「……ん?」

 そうこうしている内に俺の携帯電話が着信を告げる。

 相手を確認して、数秒ほど通話ボタンを押すべきかどうか真剣に逡巡して、そして結局は電話越しに少しばかり大人気ない罵声を飛ばし合ってから、俺は席を立った。

 意図しない呼び出しにしては良いタイミングだ。所詮は偶然以外の何でもないだろうが、奴にしては珍しく空気を読んだ行動である。

 その意図はいまいち、計りかねているのだが。

「主、どちらへ?」

「誘いがあった。それと……宇佐美巨人に、先の一件の報酬について釘を差しに行く必要があろう」

「ならば私も供を――」

「不要だ。一日の暇を与える。“気”を休めるがいい」

「……ははっ、確かに承りました。明日よりの務めに障らぬよう、蘭は全霊を持って休養を取らせて頂きます!」

「全霊て。気を休めろって聞こえたんだけど、ボクの気の所為なのかなぁ」

「夜には戻る。夕餉の支度をしておけ」

「ははー!行ってらっしゃいませ、蘭は主の御武運をお祈り申し上げております!」

 ねねの醒めたツッコミと蘭の暑苦しい叫びによる見送りを背中に受けながら、クローゼット内の適当なコートを引っ掛けて、俺はさっさとアパートを出立した。

 川神駅へと続く通りを悠然と歩きながら、俺は残してきた二人の従者について思案する。

 昨晩の内に消費した“気”及び精神力の量が相当なもので、回復のためには丸一日の休養を要する――別に嘘ではない。紛れもない事実だ。少なくとも蘭を置いてきた理由の一つは、間違いなくそれだった。

 しかし、この場合においてより優先度、重要度の高い理由があるとすれば、それは。

「まあ、本人の前では話しにくい事もある……か。さて、どう転ぶかね」

 周囲の誰にも聞こえないように口の中で呟いて、俺は待ち合わせ場所へと足を速めた。

 



 


「ふう、ご馳走様。期待してたより遥かに美味しかったよ。やるじゃん」

「お粗末様でした。我が主にご満足頂けるよう毎日研鑽を積んでいますから、その成果が顕れてくれたのかもしれないですね」

「あーはいはい、ご馳走様」

「?どうして二回も……」

「気にしない気にしない。細かい事を気にするのは悪い事じゃあないけどさ、それはあくまで自分の理解が及ぶ範疇に限られるよね、うん。どうせ幾ら考えたって分からないものは永久に分からないんだから、限りある時間をドブに捨てるようなものだよ」

「…??」

「あはは、今まさにキミは時間をドブに捨ててるね。―――まぁそんなことはともかくさ、そろそろボク達は互いに自己紹介の一つくらいしておくべきだと思うんだけど、どうかな」

 そんな遣り取りが最初にあってから――まずは森谷蘭と明智音子が改めて名乗りを交わす。

 そして織田信長がねねを直属の臣下として迎え入れるに到った経緯と、その背景に存在する色々な事情をねねが語った。

 マロードとの因縁。これからの身の振り方。そういった諸々の説明に対し、蘭は一切口を挟まず、ただ静かに耳を傾ける。その間、朝食前の騒ぎ方が嘘だったかのように落ち着いた、しかし何処かしら冷たさを宿した瞳がねねを射抜いていた。

 まるでこれまでの態度こそが演技だったとでも言わんばかりの、雰囲気の変貌。

 やがてねねが全てを語り終えると、蘭は姿勢を正して真っ直ぐに彼女の目を見つめ、淡々とした調子で問い掛ける。

「ねねさん。貴女には、大切なものがありますか?」







「おっせーぞ!待ちくたびれたじゃねーか」

 付近に位置する駅の中でも特に図抜けた敷地面積を有する川神駅、その駅前広場の一角。電話で指定された待ち合わせ場所には既に先客がいた。

 小さな時計塔に背中を預けてこちらを睨んでいるのは、鮮やかな橙色のツインテールが目を惹く少女。やや幼いながらも整った顔立ちとスリムな肢体はどうしても異性を惹き付けるのか、時計塔の傍を通り過ぎる男連中の何割かを振り返らせている。

 やはり外面からは性格の悪さまでは分からないもんだな、と痛いほど実感する瞬間である。

「よっ!半日ぶりってトコか?へへっ」

 先程の不機嫌さはポーズだったのか、俺が歩み寄るとニカッと笑って、屈託ない調子で声を掛けてくる。

「ふん。昨日の今日で俺を呼び出すとは。お前がそこまで度胸のある人間だとは思っていなかったがな、天」

「いやいや、それはウチを甘く見てるぜーシン。クリハンのデータ見てみりゃ分かるぞ、勇気の証が個数カンストしてるもんね」

 俺の殺気混じりの挨拶を軽く受け流してニヤニヤ笑う。そんな少女がまともな感性を持った一般人である訳もなく、板垣一家の末の妹、悪名高き板垣天使とはこいつの事である。

 直接的にやり合った訳ではないとは言え、半日前に殺し合いを演じた相手を平然とデートに誘えるあたり、その精神構造はもはや俺のような凡人が理解できる範囲を超えている。改めて言うまでもなく、異常だ。

「なあ、最初はどこ行く?実はまだ決めてねーんだよなー、ウチとしちゃゲーファンかGAPSの二択なんだけどさ――」

 ……全く以って本当に、理解に苦しむ。幾ら何でも、許容し難い。

「良くも俺の眼前に顔を出せたな、天。それも独り、か」

「……え?」

 俺の発する声音は意図せずとも自然に暗く、冷たくなっていた。街中の明るい賑やかさが瞬く間に遠のいていく。

 天は戸惑ったように人懐っこい笑顔を消して、俺の顔を見つめた。

「単刀直入に訊くが――この俺を、舐めているのか?」

 苦々しく吐き捨てると同時に、日常生活用にセーブしていた殺気を、開放する。ギシリ、と音を立てて空気が歪んだ。本能的に危険を察知しているのか、通行人は悠長に見た目麗しい少女を振り返る事などせず、俺と天の周りを避けるようにして足早に歩き去っていく。駅前公園の巨大な雑踏の中に、ぽっかりと異質な空白地帯が出来上がっていた。

 そんな中で、俺は冷徹な殺気を込めた視線を眼前の相手に浴びせ掛ける。

 対する天は凍えたように身体を震わせながら、どこか怒ったような顔で口を開いた。

「んだよ、ウチはただ……いつもみてーにシンと遊びたかっただけで……、別に舐めるとか舐めねーとか、関係ねーじゃんか」

「関係が無い?ふん、莫迦を言うな。お前は自分の意思で俺に敵対した。生憎、俺は“敵”に容赦するような甘さは持ち合わせていない。昨晩は互いに退いたとは言え、俺と板垣が敵対している事実は消えん。……天。俺が呑気にも集団を離れ、一人現れた“敵”を見逃すと本気で思うなら、それこそが。お前が、俺を舐めている証拠」

「あーもうウゼェな!敵敵敵敵敵って、ウチは別にそんなつもりじゃねーっての!久々にシンと戦ってみたかったから!いつまでも昔みてーに弱っちいウチじゃないって、シンに思い知らせてやりたかっただけで……だから、そんなつもりじゃ」

 言葉の勢いは徐々に萎んでいき、ついには俯いて黙り込んだ。顔色はショックを受けたように青白く、両手をきつく握り込んでいる。

 普段は絶対に見せることのない、まるで傷付いた乙女のような天の姿を見て、俺は唐突に理解した。

 ああ、こいつは本当に分かっていなかったのだ、と。

 俺と、織田信長と敵対する。その行為が保有する意味を正しく知る事なく、故に覚悟を固める事もなく、ただ単純に竜兵やマロードに同調して、普段と同じように気侭に動いただけなのだ。俺に喧嘩を吹っ掛けたのも、天にしてみればいつかのじゃれ合いの延長のようなもの、程度に思っていたのかもしれない。敵対しているという意識が皆無だからこそ、俺の怒りの理由を理解することが出来なかった。

 そして今、俺との関係を自らの手で修復不可能な形まで壊してしまった事に気付いて――その現実にショックを受けている。

 俺から向けられる殺意に傷付き怯え、震えている。

 その事実を悟った瞬間、猛烈な自己嫌悪が俺を襲った。

 俺は何をしている?ただいつも通りに二人で遊びに繰り出す休日を楽しみに、それこそ待ち合わせ時間よりも早く着いて相手を待ってしまうくらい楽しみにしていた、そんなどこにでもいるような少女の在り方を……異常だと、理解できないと切り捨てて、寄せられる好意に対してはあろうことか殺意を向けた。天には恐らく敵意も悪意も、勿論殺意もなかったと言うのに。

 そんな俺の姿こそが、異常者そのものでなくて何だと言うのだろう。先程からの態度は虚像などではなく、俺は本心から言葉を連ねていた。

 あまりにも裏の社会・暴力の世界に染まり過ぎて、俺自身が獣に堕ちようとしていたのか。長年を掛けて創り上げた“織田信長”という強大過ぎる仮面に、本来の俺が乗っ取られる所だった。

 冷酷非道、傲岸不遜、唯我独尊……そんなご大層な属性は、本当の俺には分不相応な代物の筈なのに、何を取り違えていた?

「……」

 戦慄に背筋が凍るような感覚を味わいながら、俺は目の前の少女を見つめた。

 殺気は既に収めているにも関わらず、天は俯いたまま、込み上げてくる何かに耐えるように唇を噛み締めている。

 こういう状況は正直に言って苦手も苦手なのだが、文句を言える立場でもない。無駄にややこしくなってしまった事態を収拾すべく、俺は行動を開始した。

「ふん。泣き虫は何時までも治らんな、天」

「うっせー……誰が泣いてんだ、適当言ってんじゃねー。ウチが泣くのは深夜にホラーゲーやる時とタマネギぶった切る時だけなんだよ」

「くく、初めて会った時の記憶は都合よく抹消されていると見える。亜巳の背後に隠れてベソを掻いていた分際で」

「別に、忘れた訳じゃねーんだけどな……大体よー、ガキの頃なんざ誰でも泣くもんだろ、ノーカンだノーカン」

「全く、現世は惰弱な連中で溢れている。俺は涙を流した記憶など、一つとして無いがな」

「そりゃシンは例外だろーよ。ってかてめーが泣いてるとこ想像したらなんか怖くなってきやがったぜおい。それなんてホラーゲー?」

「ふん。心配するまでもなく、生涯目にする機会はないと断言してやろう」

「………」

 何かを疑うような表情でこちらを窺いながら、天はついに黙り込んだ。俺の態度が示す意味を図りかねているのだろう。先程まで殺気立っていた相手が、何事も無かったかの如く普通に接してきたのだ。当惑は当然か。

「さて、斯様な場所で時間を浪費するは愚行の極み。……往くぞ、天」

 感情を排した声音でさらりと言い放ち、さっさと背中を向けて悠然と歩き出す。

 一歩、二歩、三歩。一秒、二秒、三秒。返事はない。

 肩越しに振り返ってみれば、驚いたように目を丸くしている天の姿が視界に映る。俺と目が合うと、慌ててそっぽを向きながら、拗ねたような調子で口を開いた。

「んだよ、ウチは敵なんだろ。フツー敵とはゲーセンなんて行かないんじゃねーのかよ」

「然り。だが、問題は何も無かろう」

 普段以上に子供っぽく見える天の態度に、内心で笑みを漏らす。

 考えてみれば、この意地っ張りな妹分を相手にこういう甘っちょろい遣り取りを交わすのも、随分と久し振りな気がする。

 不意に脳裏に蘇る子供の頃の情景を懐かしみながら、俺は到って平然とした調子で言葉を投げ返した。

「くく。俺にとっては―――所詮。お前など、敵ではないが故」





「大切なもの?」

「ええ、そう……大切なものです。自らの身を投げ打ってでも守りたいものが。或いはそれ以外の全てを失ってでも捨てたくないものが、何か一つでもありますか?」

「いきなりヘヴィな質問が来るんだね。ほぼ初対面の相手にするような質問じゃないとは思うけど、まあいいや。ボクの一番大切なものは、ボク自身だよ。こればかりは確信を持って言えるね」

「そうですか。素直な方なんですね、貴女は。でも、そんな貴女だからこそ、言わなければなりません」

「やれやれ、一体全体何を言われるのやら。こわいこわい」

「……主の往くは修羅の道。行く先に光明など何一つ見えない、暗闇の旅路です。付き従えば、それはそのまま地獄への道行きとなりましょう」

「……」

「私はそれを恐れません。私の全ては主の為に捧げています。主と共に歩み、主と共に闇へ沈むならば、それは本望。ですが、貴女は違う。……いえ、貴女が何を言おうとも、私と貴女は違います。少なくとも今の時点では、私は貴女を本当の意味での同志と認める訳にはいきません」

「ちょぉーっとあんまりな言い草じゃないかな、それは。ボクの何処に不満があるってのさ」

「あ、いえ、ねねさんに問題があるんじゃなくて、むしろ問題があるとすれば私の方ですね――だからこれは、私の自分勝手な、一方的な通告です」

「通告ね」

「警告、と呼ぶべきかもしれませんね。明智ねねさん。私、森谷蘭は、織田信長が唯一にして忠実なる刃。主の障害を悉く斬り捨て排除するのが、私の使命です。もしも貴女が主の障害となるようであれば、その時は私が貴女を斬り捨てます。此処に到るまで、多くのモノをそうしてきたように。容赦なく、情けもなく」

「昨日までボクの部下だった人たちのように?」

「あの方達は脅威としては力不足。所詮、主の“敵”ではありませんでした。だからこそ、ちょっとした痛みと怪我を負うだけで済んだのです」

「……」

「どうかそれを忘れないで下さい。どうか主の“敵”にならないで下さい。どうか私に貴女を――斬らせないで下さい」







 日曜の午後、その貴重な数時間を二人でゲーセンを巡って存分に浪費したあと、俺は天と別れて一人堀之外の通りを歩いていた。

 夕日が地平線の彼方へと沈み、夜の闇が訪れるまでもう少し。通りの左右の薄汚い建物の群れに、ちらほらとネオンの毒々しい光が灯り始めている。

 堀之外のメイン産業はクスリと風俗だ。そのどちらもこれからの時間帯に盛んな客引きが行われる。俺を煩わせるような命知らずがいるとは思えないが、騒がしいのはあまり好きではない。日が完全に落ちる前に目的地に到着すべく、俺は足を速めた。


「……なるほどな。話を聞く限り、全てはそのマロードって野郎の仕組んだ罠だった訳か」

「“黒い稲妻”を餌にお前らを引きずり出して、板垣の奴らと戦わせる、ね。はぁ、また回りくどいことをしたもんだぜ、ご丁寧に依頼料まで振り込んでよ」

 場所は宇佐美代行センター、事務所。所長用の椅子を限界まで後ろに倒しながら、巨人は呆れたような声を上げた。

 俺はその対面に座り、忠勝はすぐ横の壁に腕を組んでもたれ掛かっている。

 幸い両者ともに大きな怪我やダメージはなかったらしく、今朝には既に復活を果たしていたとの事。極悪無比な釈迦堂のオッサンの事だ、一見して分からないようなえげつない内傷を負わせていたりしていないか心配だったが、この分だと大丈夫だろう。

「しかし分からねぇな。何の為にわざわざそんな真似を?もっと他にやり様はあるだろ」

 難しい表情で忠勝が疑問を呈する。俺は昨晩から思考していた回答を言葉に換えた。

「ふん。状況を指定する為、だろう。常に監視が行き届き、己が望むタイミングでの介入を可能とする戦場。己に都合の良いステージを、奴は作り上げた」

「で、俺達はそこにホイホイ誘い込まれちまった訳かよ。どうにもイヤンな話だなぁオイ」

 こめかみに手を当てながら、疲れたように巨人がぼやいた。普段はしてやられたとしても飄々と流すのがこのオッサンのスタイルだが、しかし今回は結構、参っているらしい。

 それは養子の忠勝も同様で、話している間も終始表情が険しかった。だからこそ、次にこの親子が切り出す内容についても何となく予想はついていた。

「報酬の件だが……折半、と言いたいのは山々なんだが、どうにも今回、俺達は何も出来なかったからな。黒い稲妻の相手も板垣の連中の相手もお前さんと蘭ちゃんに押し付けた挙句、人質なんざになって足を引っ張っちまった。ったく、我ながら情けねぇ限りだぜ」

「こっちにも代行人としてのプライドがあるんだ、こんなザマで金なんて受け取れねえ。代行人が誰かに仕事を丸ごと代行させる、なんて真似が許されるハズがねえ……だから信長、報酬はお前らで受け取れ」

「ふん。殊勝な事だな」

 揃って気難しい顔で言い募る親子を眺めながら、思考する。仮にここで俺が拒否してみたところで、この二人が報酬を懐に入れるようなことは無いだろう。何だかんだで長年の付き合いだ、彼らが自分の仕事に対して誇りを持っている事は知っている。

 結果として俺の懐が潤うならば、無理を言って断る理由もない。故に俺はこの件に関しては口を挟まず、黙って全額を受け取ることにした。

 考えてみれば、そもそもの依頼人の正体がマロードだった以上、この報酬金もまた奴によって振り込まれたものなのだろうが――まあ俺にとってそんな事情はどうでもいい。金は何処から湧こうが金であることに変わりはない。汚かろうが血塗れだろうが関係なく、せいぜい有効に活用させてもらうだけだ。

 それに残念ながら、金の出所などに拘りを持てるほど、俺と蘭の経済事情に余裕はなかった。

 私立川神学園。有名校。当然ながら、学費が安い訳もない。二人分の家賃食費生活費その他諸々。基本的に家計は火の車である。

「しかし、マロードか……どうにもキナくさいな。板垣の連中が絡んでるとなりゃ、単なるクスリの密売人で片付けていい相手じゃねえ」

「ま、お前さんはお前さんで動くだろうが、俺らの方でも調べてみるわ。俺みたいにいい年したオジサンでもよ、やっぱやられっぱなしってのは悔しいもんだぜ」

 珍しくやる気を見せる巨人と、依然として不機嫌そうに眉間に皺を寄せた忠勝。

 両者に見送られて、俺は薄闇色に染まった通りを歩き、帰途に就いた。

 さて、果たして今日の夕餉は何人で囲む事になるだろうな――と残してきた従者共に思いを馳せながら。





「ふふん。ふふふん」

「?どうしたんですか?」

「一つ言わせて貰うけれど、少しキミは調子に乗り易い性格をしてるみたいだね。“斬らせないで下さい”なんてわざわざお願いされるまでもなく、ボクがキミに斬られる事なんて有り得ないさ。例えキミが辻斬り中毒を発症してボクを斬りたくて斬りたくて仕方なくなっても、ボクは余裕で全部避けちゃうもんね」

「……」

「ボクを心配してくれるのはありがたいよ。でもボクを舐めるのは頂けないかな」

「……強い人ですね、貴女は。主がお気に召したのも理解できる気がします。正直に言わせて貰うと、ちょっと、妬けちゃいます」

「ボクとしては割と不本意な立場なんだけどなぁ。――ん?おーい?聞いてる?」

「……?あ、ご、ごめんなさい!私、色々とナマイキな事を!うぅ、いつもそうなんです、主の事になると頭に血が昇っちゃって、自分が自分じゃなくなるみたいで。こんなのっておかしいですよね。気味が悪いですよね。ごめんなさい……」

「確かにね。可笑しいし気味も悪い」

「う、うぅう」

「大いに結構な事だよ。キミみたいな同僚がいると、退屈はしなさそうだし。ボクは何がキライって、退屈よりもキライなものはないね。あれはこの世の害悪だよ」

「え、え?あ、ありがとう……ございます?あ、済みません、そんな風に言って下さった人は初めてで混乱しちゃって」

「そんな訳でさ、キミが何と言おうとボクはここに居座るつもりだから、そのつもりで。キミが刀を振り回してでも泥棒猫を追い払おうってつもりなら、大人しく尻尾を巻いて逃げるけどね」

「いえいえいえ!私はそんなつもりは全然!」

「そうなの?いや~、ボクのキミに対するイメージは辻斬りで定着しちゃってるからさ」

「うぅ……本当の蘭はこれから知ってもらうとして。よろしくお願いしますね、ねねさん。一緒に頑張りましょう!」

「ま、ボクは頑張らないし適当に手を抜くけどねー。これからよろしく、ラン」





 夕日がその姿を隠し、夜の帳がすっかり下りた頃。

 ボロいアパートのボロい自室に戻ってきた俺が目にしたのは、狭っ苦しいキッチンで肩を寄せ合って、ぎゃあぎゃあと喧しく騒ぎ立てながら夕食を用意する二人の姿であった。

 それが良い事か悪い事かの判断は、また後日に先送りするとして。

 取り敢えず、どうやらこれまで以上に賑やかな生活になりそうだ、と俺は思った。










~おまけの織田家~


「あの、主。僭越ながら、お伺いしたき儀が」

「許す。申すが良い」

「ねねさんをネコと呼ぶのは何故の事でしょうか?」

「ふん。何を申すかと思えば。俺の従者でありながら、然様な事も判らぬか」

「も、申し訳ありません信長さま……うぅ、蘭は無知で愚かな臣でございます」

「致し方ない、教えてやるとしよう。蘭、奴の名を正しく思い浮かべてみるがいい」

「?明智音子、です」

「音(ね)+子(こ)ではないか。自明の理よ。得心したか」

「ははー!さすがは我が主、常と変わらず聡明であらせられます!蘭は、蘭は感服致しました!」

「はぁ~。ボク、いつまでここにいればいいんだろう……」












 この度チラシの裏からこちらに引っ越させて頂きました。初見の方は初めまして。
 今回は日常回と言う事で、会話文の割合がかなり多くなりました。後から見直して地の文の少なさに大丈夫かこれ、と不安になったりしましたが、まあこれはこれで雰囲気的に重苦しくせずに済んで悪くない気もします。うーん客観的に自作品を見るのは難しい。
 次回から舞台が学園に戻るという訳で、色々と書きたいキャラを登場させられるのは嬉しいですね。それでは次回の更新で。




[13860] 折れない心、前編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:d4775c47
Date: 2011/02/10 15:15
 四月十二日、月曜日。

 転入から約一週間が経過し、堀之外のボロアパートから川神学園への登校にも馴染んできた。それはつまり、通学に要する時間もそろそろ把握が完了したという事であり、そんな訳で俺と蘭の朝は先週と比べて余裕に溢れていた。少しばかり遅めの時間帯にアパートを出立し、悠然たる足取りで歩を進める。

 親不孝通りから川神駅、そして仲見世通りを通過してしばらく歩くと、東京都と神奈川県を挟んで悠々と流れる河川――多馬川の姿が視界に広がる。その河川敷沿いの長閑な風景を眺めながら進む事しばし、次に見えてくるのは対岸へ向けて真っ直ぐに伸びた一際大規模な橋―――多馬大橋である。この橋は歩道と車道を兼ね備え、東京と神奈川の都県境としての役割を果たしている。よって川神学園へ向かう為には必然的に、神奈川在住の学生の多くがこの橋を渡る事になるのだが……クラスメイトの葵冬馬から聞いた所によればこの多馬大橋、近所の住民には妙な異名で呼ばれているそうだ。曰く、川神学園の奇人変人が列を成して歩む魔の通学路。即ち「変態の橋」――と。

「ん?」

「むむ。主、何やら橋の上が騒がしいですね」

 俺と蘭の歩みがその悪名高き変態の橋に差し掛かったタイミングで、事件は起きた。いや、この表現は正確ではないか。実際のところ、俺達が橋の入口に足を踏み入れた時点で既に事件は起きていたのだ。

 多馬大橋の中央付近にて、通学中と思われる川神学園の生徒の群れが何故か足を止め、あたかも歩道を封鎖するかのように人混みを形成している。

 彼らはざわめき声を上げながら揃って前方に目を向けており、その視線の先に足止めの原因があるようだ。人垣が邪魔をして俺の位置からはどうにも様子を窺う事は出来ない。

「ふん。押し通るぞ、蘭」

「ははー!御意にございます、信長さま!」

 一体全体何が起きたのかは知らないが、通学の邪魔をされるのは気に入らない。

 エリートクラス所属の真面目な優等生たる俺に遅刻などという恥を晒させるつもりか低脳どもめ、騒ぐなら騒ぐで場所を考えるべきだなTPOを弁えなければ社会に出てから苦労するぞ全く、などと溜息交じりに思考しながら軽い殺意を発しつつ足を踏み出すと、俺の存在に気付いた生徒達があからさまに怯えつつ道を空けた。中には勢いよく飛び退き過ぎてそのまま多馬川にダイブしている愉快な輩の姿も見受けられたが、ああいう奴は果たして長生きするのだろうか。臆病者ほど長命だと言うが、しかしそこにうっかり属性が追加された場合はその限りでもあるまい――そんな至極どうでもいい事柄に思索を巡らせながら足を進めていると、やがて鬱陶しい人混みを抜けた。

「ぬぬ、何だお前は?この先に行きたいのか?だがしかし、おれの名は“不動”のヤマ!動かざること山の如し!」

「……」

 生徒達が徒歩で渋滞を起こしていた理由が嫌と言うほど理解できた。

 歩道の中心に陣取って周囲を睥睨している筋骨隆々の巨漢が一人、否、一匹でいいか。無駄にデカい、身長二メートルは余裕で超えているだろう。盛り上がった筋肉のお陰で横幅も半端ない。そして褐色の肌を惜しげもなく剥き出しにしたムキムキの上半身が実に目の毒である。

 なるほど、かくも不愉快な物体が道を塞いでいれば思わず足を止めてしまうのも無理はない。こういう類の変質者が頻繁に出没するが故の“変態の橋”なのだろうか。もしそれが事実だとすれば、深く考えるまでもなく嫌過ぎる通学路だった。

「わはは、おれはこの橋が名高き武神・川神百代の通学路だと知っているのだ!奴が来るまで、おれは動かざるごと山の如し!ここを通りたければ――」

「死ぬか?」

「たまには山が動いてもいいよね!」

 もういっそ存在そのものが腹立たしかったので割と本気で殺意を込めて睨むと、変態は冷や汗をダラダラ垂らしながら巨体に似合わぬ機敏なサイドステップを披露してみせた。

 その体捌き一つとっても、有り余る筋肉が決して見かけ倒しのものではなく、相当な鍛錬を積んだ末に得たものだという客観的な事実を窺わせたが……まあしかし俺にとっては欠片も興味のない事だった。この程度の人材ならば、青空闘技場辺りに行けばそれこそ一山幾らで転がっている。

 何はともあれ巨体が塞いでいた歩道が無事に空いたという事で、俺と蘭は悠然と歩みを再開することにした。12ばんどうろ辺りで寝こけている傍迷惑な怪獣を追い払った主人公はまさにこんな気分だっただろう。

「ん?おー、例の転入生二人組じゃないか。狭い日本、そんなに急いでどこへゆく~♪」

 そして全体即死魔法を容赦なく連発してくる凶悪極まりない雑魚敵×4にバックアタックを受けた主人公はまさに、こんな気分だったに違いない。

 朝っぱらからイキイキと活力に満ちた嬉しそうな声を上げて、俺達の背中を後ろから呼び止めたのは、言わずと知れた世界最強、川神学園3-F所属の武神である。

「川神百代か……面倒な」

 正直に言って俺としてはこのまま無視して平和な学園へ向かいたいというのが切実な本音だが、しかしここで下手に挑戦的な態度を取って、喧嘩を売っている(文字通りの意味で)と認識されるのは勘弁願いたいところだ。

 先週の遣り取りにて、今は戦わない、との約束をどうにか取り付けはしたものの、彼女のとんでもない気まぐれさと傍若無人っぷりを良く知っている俺にしてみれば、残念ながらそんな口約束などまるで信用に値しない。

 さてどうしたものか、と対応に悩みながらもとりあえず振り返ってみると、自重しないバディを堂々と突き出しながら歩道の中央に仁王立ちしている百代の姿があった。どいつもこいつも道の中央に居座って人様の邪魔をして楽しいのだろうか。

 彼女の背後のギャラリーからは「キャー!モモせんぱーい」「今日も凛々しくてステキー」などと、主に女子の後輩たちから黄色い歓声が湧いている。どうやら彼女にはファンクラブ的なものが存在しているらしい。

 日本人に生まれた以上はもうちょっと遠慮して謙虚に生きるべきではなかろうか、と次代を担う若者たちの行く末を憂慮していたところ、そんな俺の想いを踏みにじるかの如く、一度は黙らせた筋肉の変態が身の程知らずにも再び自己主張を始めた。

「わははは、この時を待っていたぞ武神・川神百代よ!」

「あーなんだ、私待ちだったのか?こんな場所で誰かと待ち合わせをした覚えはないんだがな。わざとやってるんだか知らないが、お前、さっきから通行のジャマになってるぞ」

「わっははは、承知の上よぉ!おれの名は武田四天王が一人、“不動”のヤマ!動かざること山の如し!川神百代よ、無事に学園へと辿り付きたければこのおれを倒していくがいい!いかに武神と言えど、まさか山を動かす事など出来まいがな!わっはははは」

 この変態の脳内では俺の殺気にビビって素直に道を空けた過去(約十五秒前)は既に無かったことになっているようだった。恐らく頭蓋に詰まった脳味噌まで筋肉で出来ているのだろう、心底から哀れむべき事だ。

 百代も同意見なのか、どこか生温い目で変態を見守りながら、気だるげな調子で口を開いた。

「んん、よーするに挑戦者か。まあそれ自体は歓迎なんだが、ルールは守って貰わないと困るな。私に挑戦するための手段だとしても、周囲の無関係な奴らに迷惑をかけるのはNGだ」

「周りの有象無象など知った事ではないわ。おれはただ、武神と呼ばれた貴様を倒し、己の最強を証明できればそれでよいのだ!」

「そうかそうか、それじゃー遠慮はいらないな。お前がそーいう態度なら、私も変に迷わずにやれるってもんだ」

「さあさあ来るがいい川神百代、動かざること山の―――ごとしっ!?」

 瞬間、空気を切り裂いて閃光が走る。果たして蹴ったのか殴ったのか、それすらも目視できない神速の一撃。それで全てが片付いた。世紀末の断末魔っぽい声を上げると同時に決め台詞を言い切るという無駄に器用な真似をこなしながら、変態は束の間の空中遊泳の旅に出る。そして、十数秒という常識では有り得ない滞空時間を経てからやっと自由落下を始め、巨体に見合った巨大な水柱と着水音を立てて多馬川に沈んでいった。

 一瞬遅れて、「キャー!」という甲高い悲鳴がギャラリーのあちこちから上がる。「モモ先輩カッコイー!」「良く分からないけど無敵っぷりに痺れる憧れるゥー!」等々。勿論、水面に仰向けに浮かんだまま下流へと流され始めた変態を心配している訳ではなく、あくまで百代へと向けられる浮ついた黄色い悲鳴であった。当然といえば当然の話だが、あまりの人気の差に少しばかり可哀相にすら思えてくる。

「なんだ、山の如しなんて言うから期待してたのに、軽い軽い。タンポポの綿毛レベルだ。富士山は絶対にもっと重かったぞ」

 そして、まるで何事も無かったかのようにその場に佇みながら、百代は実につまらなさそうな口調でぼやいた。

 俺が言葉の意味を取り違えていなければ、この先輩は日本最高峰を誇る霊山を動かした経験をお持ちらしい。つまるところ彼女にとって山とは動かざるものではないと言う事か。いやはや、もはや本格的に人間と認めるべきではなさそうなレベルの持ち主である。仮に俺がレベル5だとすれば百代は軽くレベル53万はありそうだ。いや、むしろ無量大数とかその辺りの領域か。

 まあ、と言っても、問題は―――

「やはり私を満足させられる強者なんてそう何人もいるワケがない、か……。あー不完全燃焼だ欲求不満だ、どっかに私と遊んでくれる心優しい後輩はいないかなー」

 例え俺の実際のレベルが「たったの5か、ゴミめ」と言われる程度のものだったとしても、“織田信長”のレベルは川神百代のソレと釣り合っていなければならない。対等、或いは対等以上に渡り合える敵として存在しなければならないのだ。

 言うまでもなく、凄まじく骨の折れる仕事ではあるが――将来的なビジョンを見据えれば、苦労するだけの価値は十二分にあるだろう。「学生時代、世界最強の武神と張り合った」という“事実”が残れば、俺の夢に多大な貢献をしてくれるのは間違いない。

 しかし、具体的にはどうしたものか。露骨にこちらに向けてチラチラと目配せを送ってくる百代にどう対処すべきか、俺は無表情のまま本気で頭を悩ませていた。

「なんだ無視か、織田は相変わらずつれないな。そんなに無愛想だとモテないぞ。……そうだな、じゃあ後ろのカワイコちゃんはどうだ?」

「は、はい!?わわ私ですか!?」

「そうだお前だ、名前は確か……蘭って言うんだよな?ふふふ、私の弟は調べ物が得意なんだ。よってもうすでに転入生情報はバッチリゲット済みなのさ」

「う、うぅう……」

 自分がターゲティングされたのが意外だったのか、蘭はテンパった様子であたふたと慌てまくっていた。先週にグラウンドで会話を交わして以来、蘭の奴はどうも百代に対して結構な苦手意識を抱いているらしい。

 先日の一件の後、「何をどうしたところで私が勝てる未来図が浮かびませんでした」としょんぼりしながら語っていたので、その辺りに苦手意識の一因があるのだろう。どう足掻いても勝てない相手。武を誇りとする人種にはやり辛いものがあるか。

 もっとも俺としてはそんな事よりも、百代が蘭を見つめる際のじっとりねっとり舐めるような熱視線こそが、最大の理由だとは思うのだが。

「ふふふ、さすがに織田ほどではないかもしれないが、お前も相当な腕だろ?あの決闘を見てれば大体の力量は分かる、ウチの院にもお前ほどの使い手は数人といないだろうな」

「あ、お、お褒め頂きありがとうございます。でも私はそんな」

「それに何よりだ……可愛い。ふふっ、可愛いなあ、今すぐお持ち帰りしたいくらいだ。なあ織田、お前の従者、私にくれないか?それはもうじっくり念入りに大事にするぞ」

「ひぃっ」

 実際、今もまさにギラギラした邪な目で蘭の身体を上から下まで眺め回している。対する蘭は全力で怯えてぷるぷる震えながら素早く俺の背後に回り込み、涙目で制服の裾を掴んできた。

 こいつは全く、従者の分際で主君を盾にして隠れようとは……何とも嘆かわしい事だ。

 従者である以前に人間、苦手な相手の一人や二人は居るのが当然かもしれないが、よりによってその対象が織田信長最大の仮想敵でなくてもいいだろうに。

「あ、主ぃ……」

 見捨てられた子犬のような目で俺を見上げる蘭。こんな所でこんな時に何をやっているんだ俺は、と何とも馬鹿馬鹿しい気分に襲われながら、俺は冷めた目を百代に向けた。

「川神百代。お前の非生産的な嗜好に、俺の従者を巻き込むな」

「別にいいだろ、生産性なんて問題じゃない。私と釣り合う男がいないのが悪いんだ。間違ってるのは私じゃない、世界の方だ!」

「如何でも良い。勝手にするが良かろう。俺に関与しない限り、お前の悪趣味な嗜好など元より興味の外よ。……蘭、往くぞ」

「は、ははー!ええ参りましょう主、すぐ参りましょう」

 いつになく早口な蘭の言葉に従う訳でもないが、実際のところ、今はこんな所で無駄に時間を潰している場合ではない。今日は出立が遅かったので、それほど時間的な余裕がある訳ではないのだ。

 さすがに一回や二回の遅刻でどうこうなるという事でもないだろうが、それも積み重なれば評価に響いてくるだろう。

 塵も積もれば山となる。動かざること山の如し。一度付いたケチは拭う事が出来ないのだ。間に合う状況ならば可能な限りの努力を以って間に合わせるべきである。

 俺は腕時計で現在時刻を確認しながら、ここから川神学園までの道程を脳内に思い浮かべる。そんな俺に、百代は性懲りも無く声を掛けてきた。

「なぁ、織田。本当にちょっとでいいからさ、手合わせしないか?先週、お前に会ってからずっと胸がモヤモヤしてるんだよ。鍛錬していても遊んでいても布団に入っても、気付けばお前が頭に浮かんでくるんだ……あ、言っておくが恋とかじゃないぞ。おねーさんが美人だからってヘンな勘違いはしないように」

「ふん。何やら寝言が聞こえるが、未だ目が覚めていないのか?」

 最後の補足の言葉でギャラリーのあちこちから安堵の溜息が聞こえてきた。

 俺のすぐ真後ろからも周囲と同じような音が聞こえたような気がしないでもないが、まあ取りあえずそこは幻聴と言う事にしておこう。下手に触れると色々と面倒だ。

「まー照れるな拗ねるな。私にここまで想われるなんて幸せ者だぞーお前は、よっ憎いね色男。だからさぁ、少しくらいは私の気持ちに応えてくれてもいいんじゃないか?胸が切なくて苦しくてはち切れそうで狂ってしまいそうだ。これは確かに、“恋とかじゃない”かもしれない――もはや、愛、と言えるかもしれないな?」

 百代が妙に艶めかしい表情で馬鹿げた言葉を言い終えた途端、キャアアアア、と喧しい悲鳴が爆発的な勢いで周囲を埋め尽くす。

 さて先程までのものが黄色い悲鳴だとするなら、この悲鳴は果たしてどう表現すべきだろうか。嫉妬と憎悪で彩られた……ドス黒い悲鳴?いまいちしっくりこないがまぁどうでもいいか。

 俺は、群集にどんな風に思われようが別に構わない。その心中に“恐怖”と“畏敬”の感情が確りと根を張っているなら、それ以外の一切は些事に過ぎない。

 周囲の反応に対して俺は感情も表情も何一つとして動かさず、百代に言葉を返す。

「ふん。成程な。得心した――やはりお前は釈迦堂刑部の弟子だ」

「なっ、お前、釈迦堂さんを知ってるのか!?ちょっと待て、それはどういう」

「蘭。往くぞ」

「ちょ、お前ら」

 さすがに消息不明のかつての師の情報は気に掛かるのか、百代は驚きも露に食いついてきた。

 しかし今の俺はこれ以上の語る言葉を持たない。

 それは高度な戦略的判断に基づく情報の出し惜しみ……などでは全然なく、単純にホームルームの開始時間が迫っているのでゆっくり語っている暇がない――という、ただそれだけの話である。シンプルだが切実な理由だ。

 俺は何やらボケーっとしていた蘭を急かし、何か聞きたそうに食って掛かってくる百代をスルーして、今度こそ振り返らずに“変態の橋”を後にした。












 無事ホームルームに間に合った俺達は、一時間目の数学、二時間目の国語、三時間目の英語を特に波乱もなく乗り切り、現在は昼休み間近の四時間目。

 先週を含めて都合三度目となる歴史の授業を受けている真っ最中なのだが。

「ほほ、マロはまだまだ語り足りぬでおじゃるが、仁明天皇の時代についてはこんなところよ、の。さて次は文徳天皇の代について教えるでおじゃる」

 この歴史教師、平安時代しか教える気がないだろうか。最初の授業の半分で平安時代まで教科書のページが進んだ時にはさすがに唖然とさせられたが、まあ川神鉄心の見込んだ教師だ、何か考えがあるのだろう――とひとまず様子を窺っていた。しかし、それ以降の授業内容はひたすら平安時代に関する講義である。しかも異常に進みが遅い。どう見ても話が脇道に逸れ過ぎていた。結果、明らかに受験に必要のない雑学レベルの知識ばかりが増えていく。

 それでも最初はきっちりノートを取っていたのだが、次第に真面目に聞く気も失せていった。S組の面々もそれは同じらしく、優等生揃いの彼らですらも一様にうんざりした顔を並べている。小雪に至っては既に完全に授業を放り出して、抽象画と思しき何かをノートに書き殴っていた。冬馬は真面目に取り組んでいる振りをしつつ、その実何かしらの内職に励んでいる。熱心に授業を受けているのは、歴史教師(綾野小路家出身)に並ぶ日本三大名家、不死川家のご令嬢くらいのものである。

 白粉を顔面に塗りたくった時代錯誤な外見やら、もはやギャグにしか思えないエセ公家言葉やら、教師として有り得ないキャラの濃さは……まあとりあえず置いておくとしても、授業内容に問題があるのは頂けない。教育者としての務めは果たして欲しいものだ、こちらは苦しい家計から学費を捻り出しているのだから――そんな俺の内心に気付いた訳でもないだろうが、歴史教師は一旦平安語りを止めて、おもむろに俺を指名した。

「織田。麻呂の話を聞いておったかの?」

「ああ」

「では確認を取るでおじゃる、仁明天皇は和風諡号を奉贈された最後の天皇でおじゃるが、その号はなんじゃ?言うてみや!」

「日本根子天璽豊聡慧尊」

「ぬ、正解でおじゃる……確かに聞いておったようじゃの」

 折角正解してやったと言うのに、歴史教師の顔は不本意そうだった。

 どうにも俺は嫌われているらしく、この平安貴族気取りの馬鹿は事あるごとに俺をやり込めようと面倒な質問を吹っ掛けてくる。後ろの席に陣取る我が従者のさりげないサポートが無ければ、どこかで失態を晒していたかもしれない。

「俺からも、質問がある」

「なんじゃ?」

「いつまで平安時代の授業を続ける気なのか、だ」

「ほほ、愚問よの。平安時代こそが至高の文化。麻呂のカリキュラムは平安時代が九、その他の次代は一の割合でおじゃる。そのように覚悟しとく、の」

 駄目だこいつ、早く何とかしないと。口元に扇を当てて笑う歴史教師に絶対零度の視線を送りながら、俺は脳内で計算を巡らせていた。こちらにしてみれば笑って済ませられる問題ではない。俺と蘭は高い学費を払ってまで学校に遊びに来ている訳ではないのだ。俺の不機嫌な内心に応じて殺気が漏れ出たのか、歴史教師は教壇の上でやや顔を引き攣らせながら俺を睨んだ。

「何じゃその目は、麻呂に文句でもあるのかえ?ほ、やはり俗な庶人の出には平安の世の典雅な素晴らしさは分からぬでおじゃるか」

 歴史教師はあからさまに相手を見下したような高慢さを覗かせながら、俺に向けて言葉を続ける。

「どうせそちは戦国時代のような野蛮な時代が好みであろ?何せそちの名は尾張の大うつけと同じ、織田のぶ――――ひぃぃっ!?」

 最後まで言い切れず、歴史教師は教壇の上で白目を剥いてひっくり返った。ドサリ、と勢い良く床に倒れこんで、そのままピクリとも動かなくなる。

「……」

 シーン、と耳に痛い沈黙が2-Sに広がった。しまった、ただでさえイラついていた上、心構えの無い内にNGワードに触れられてついリミッターが振り切れてしまった。

 ほとんど手加減なしの殺気を正面から浴びた歴史教師は、一瞬で気絶してブクブク泡を吹いている。一般人を相手にこのレベルの殺気を放ったのは久々なので、心臓が止まったりしてないか少しばかり心配だ。

「えーい、げしげし(追い討ち)」

「って何やってるんですかこの子は!ほらユキ、気持ちは分かるがそれ一応教師だからな!」

「え、蹴鞠だよ?蹴鞠ってたのしー、平安時代さいこー。ジュンも一緒にやろうよーげしげし」

 けたけた無邪気に笑いながら教師の頭を蹴り回している小雪の姿に、奴を怒らせるのは出来る限り控えよう、と俺は戦慄しながら心に刻む。

 そうこうしている内にガラリと扉が開いて、女教師がS組の教室に飛び込んできた。

「綾野小路先生、大きな音がしましたが何か――先生!?」

 歴史教師とは比べるのも失礼に当たる厳格な雰囲気を持つこの教師、確か名前は小島梅子だったか。

 問題児揃いの2-Fをムチ一本でまとめ上げている敏腕教師で、規則違反に対する厳格な態度から“鬼小島”の異名で恐れられている。

「これは小島先生、丁度良いところに。今まさに人を呼ぼうとしていたところです。いやぁ授業中に突然泡を吹いて倒れられたので、こちらも驚いてしまいましたよ」

 冬馬が白々しく困ったような顔で白々しく困ったような声を上げると、周囲の生徒達が「ホントにな」「びっくりしたよ」と白々しく同調する。歴史教師の人望が足りないのか、冬馬の人望が高いのか。恐らくは両方だろう。

 しかし、そんな彼らの様子に何か嘘くさいものを感じ取ったのか、鬼小島は胡乱げな目を教壇の上に向けた。

「……で、榊原はそこで何をしている?」

 小雪は蹴鞠にも飽きたのか、気絶中の歴史教師の傍でウェイウェイと不思議な踊りを披露していた。マイペースにも程がある。

「ユキは葵紋病院の関係者の養子ですから、医療の心得があるんです。先生が倒れたとき、真っ先に駆け寄って診断してくれたんですよ。心優しい子ですからね」

「そうか……助かったぞ榊原。その心は大事にするといい」

「おー?おー」
 
 嘘を吐く際には何割かの真実を含ませるのがセオリーだが、それを見事に実践した冬馬の言葉に、鬼小島はどうやら納得したらしい。意外と単純なのだろうか。

 ふむ、この情報は今後役に立つかもしれない。脳内メモに記しておこう。

「あとは校医に任せるといい。さて、誰か綾野小路先生を保健室に運んでくれ、私はF組に戻って授業を続けねばならないのでな。そろそろ昼休みも近いが、チャイムが鳴るまでは騒がず自習しているように。まあお前達の事だから心配は要らないだろうが。九鬼、任せてもいいな?」

「うむ。クラス委員長としての務めを果たす程度、我にとっては造作もないことよ」

 特に追求の必要はないと判断したのか、鬼小島は注意事項を述べるだけ述べると、真っ直ぐに背筋を張りながら自分の教室に戻っていった。

 何だろう、宇佐美巨人がS組の面々に低く見られている理由の一端を垣間見た気がする。同じ担任教師という立ち位置で、比較対象がアレでは不満も出るだろう。巨人のオッサンも熱意さえあれば有能な部類だと思うのだが。

 その後、英雄の指示で歴史教師が運ばれていき、平安の世から解放された2-S生徒は思い思いの自習に励む。教師不在の教室だが、決して私語が飛び交うような事はない。教師の目があろうとなかろうと態度を変えない姿勢は素直に好ましいと思えるものだ。古巣の太師校がアレだったから余計にそう思うのかもしれないが。

「ったく。マロの奴も度胸あるんだかないんだか分からんね、自分から喧嘩売っといて勝手にぶっ倒れてたら世話ないぜ」

 スピーカーより流れるチャイムが昼休みの到来を告げる中、俺の右斜め前の席に陣取る準が椅子ごとこちらを向きながら口を開く。

 そこに隣の席の冬馬と小雪、そして後ろの席から蘭が加わり、いつもの陣形での雑談が始まった。

「ふふ、まあ、平安時代の貴族が戦国時代の荒武者の気迫に耐えられる道理はないでしょう。ねぇ信長?」

「黙れ。俺の姓名に触れるなと、何度言えば理解できる?死にたいのか?」

「おや、これは失礼しました。保健室のベッドで午後を過ごすのは嫌ですし、ここは大人しく黙っておきましょうか」

「ふん。賢明な判断だ」

「お二人さん、平和なお昼時になんて物騒な会話してんだ。勘弁してくれよ」

 駄弁っている男子三人を余所に、蘭と小雪が後ろの席で何やら話している。

「あの、小雪さん、それは?」

「テーレッテレー、紙芝居~。新作がねー、もうちょっとで完成だよーん。いぇいいぇい」

「わぁ~!ユキさんはお話を作られるんですか?凄いです、私絵本とか好きなんですけれど自分で書くほうはさっぱりで……尊敬しちゃいます。宜しければ、完成したら見せて頂いてもいいですか?」

「あー森谷よ、悪いことは言わねぇ。やめといた方がいいぜ、お前が想像してるのとは絶対に違うから」

 期待にキラキラと目を輝かせる蘭に、微妙な表情で準が口を挟んだ。更に冬馬が補足を加える。

「何と言ってもユキの紙芝居は前衛的ですからね。エキセントリック過ぎて森谷さんには少し刺激が強いかもしれません」

 誰がどう聞いても紙芝居に対する評価ではなかった。確かに描いている途中の絵を見た限り、メルヘンというよりはメンヘルな雰囲気をひしひしと感じた。

 何にせよ俺の常識的な感性では理解不可能な絵柄だったが、そうなると逆に気になってくるのが人間という生き物の悲しい性である。また後で鑑賞させてもらうとしよう。

「それにしても、マロの奴にも困ったもんだぜ。授業はほぼ平安一色、他の時代は宿題でやれと来たもんだ」

「確かに、あまり目上の方を悪く言いたくはありませんが……少し目に余りますね」

「あの男が教師として相応しいとは、まるで思えん。川神鉄心は何を考えている?」

「ほほほ、分かりきった事なのじゃ!綾野小路家は此方の不死川家と並ぶ高貴なる血筋!教鞭を振るう者として、これ以上に相応しい人選はなかろう。ノブリス・オブリージュという奴じゃ」

「きっと学長がマシュマロ好きだからだねー」

「ははは、ユキの発想は相変わらずユニークですねぇ」

「言われてみれば名前がマロで、しかも白い。うーむ、なんだか納得しちまったぜ」

「此方を無視するでないわー!……ひっ、な、なんじゃその目は」

「煩い。耳元で喚くな」

 どうにも騒がしかったので睨み付けて黙らせる。空気を読まずに居丈高な調子で俺達の会話に加わってきた黒髪団子頭の少女は、不死川心。本人の申告する通り、御三家の一つ、不死川家が息女である。

 平たく言えば先程の歴史教師の同類。さすがにあそこまでエキセントリックな外見ではないものの、常日頃から着物姿で登校しているという時点で、歴史教師と同様“変態の橋”のネーミングに一役買った人物である事は疑いない。

 総じてエリート意識の強いS組の中でも取り分け極端な選民思想に染まった、まあ何とも厄介な奴だった。

「ぬ、ぐぬぬ、なぜ此方がお前などに命令されねばならんのじゃ!ふざけるでないわ!」

 俺の一挙一動に対して明らかにビビりながらも、心の反抗心はまるで消えていない様子。彼女の何が厄介かと言うと、臆病な癖にプライドだけはとんでもなく高いのだ。どこの馬の骨とも知れない俺がこのS組で大きな顔をしている事実が気に入らないらしく、転入以来いつも敵愾心に満ちた目でこちらを睨んでいる。

 と言っても視線を送るだけで、これまで直接声を掛けてくる事はほとんどなかったのだが……どうやら今日は違うらしい。

「俺は喚くな、と言った筈だが。貴様の学習能力は猿並みなのか?」

「なっ!高貴な此方を山猿扱いとは、何様のつもりじゃ!」

「ああ、そもそも前提を誤ったか。猿に人の言葉が通じる筈もない。俺に非があったようだ」

 それこそ猿の如く顔を真っ赤にして噛み付いてくる心の姿を予想していたのだが、彼女は俺の挑発に対し、どういう訳か余裕の表情でニヤリと笑った。自身の優位を確信している者に特有の、不愉快な笑みだった。

「フン、此方は知っておるぞ。お前は貧民の生まれだそうじゃな。そのように卑しい者が不死川家の息女たる此方と対等のつもりで口を利こうなどと、片腹痛いわ」

「……」

「父親は薄汚い逃亡犯、母親は新しい男と雲隠れ。やはり下賎な者共はやることなすこと醜いのぅ?ほほほ、お前もさぞかし恥じておるであろうな。此方に今すぐ非礼を詫びれば、この事は黙っておいてやってもよいぞ?」

 鬼の首を取ったような調子で得意げに言葉を続ける心に対して、俺は特に怒りを覚えるでもなく、むしろ妙に気分が冷めていくのを感じた。

 こうまで知った風な口を利けるという事はつまり、この一週間で俺の出自を調べたという訳か。

 なるほど、不死川家のネットワークを用いればその程度の情報収集は容易いだろう。“表向き”の情報ならば一般人でも普通に調べられる。もっとも、裏側まで踏み込んだ時点で無事では済まないだろうが……それはともかく。

「蘭。控えろ」

「……。ははっ」

 俺は至極冷静に思考を巡らせながら、既にかなりヤバいレベルで殺気立っている蘭を制止する。放置していれば本気で殺しに掛かりかねない程の鬼気を感じた。

「おい不死川よ、それ以上はやめとけ。さすがに聞き流せねぇぞそれは――」

「準。お前もだ。下がっていろ」

 心の罵倒が何かの琴線に触れたのか、静かな怒りを滾らせながら間に割って入ろうとした準は、俺の言葉を受けて戸惑ったように動きを止めた。

 そんな彼に向かって、冬馬が珍しく真面目な顔で首を振る。

「ここは私たちの出る幕ではなさそうですよ、ジュン。見守りましょう」

「若……。そうだな、柄にもなくちっと熱くなっちまったぜ。信長、こんな奴でも一応クラスメートなんだ、ちゃんと加減はしてくれよ?」

「ふん。然様な事、俺の関知する所ではないな」

 普段通りの軽い調子を取り戻した準に無表情で返し、俺は改めて不死川心と対峙する。

 そうか、俺はここまで来たのか。少女の高慢な顔を前にして、不意に感慨が湧き上がってきた。

 かつて世界の底辺の底辺を這い蹲っていた惨めで哀れな薄汚いガキが、今ではかの日本三大名家が一つ、不死川家の令嬢にいかなる形であれ興味を持たれ、警戒の対象とされる存在にまで成り上がった。

 この喜びの深さは他者には決して理解できないだろう。理解されたいとも思わない、その意味は俺だけが知っていればいい。

 それに俺自身、こんな所で終わるつもりはなかった。この地点も所詮、遥か遠き“夢”へのチェックポイントに過ぎないのだから。

「ほほほ、言い返せぬか。自分の卑しさを理解したようじゃのぅ。これからは身の丈に合った態度で過ごすがよいぞ」

 思考に沈んで黙り込んでいた俺の態度をどう勘違いしたのか、心は勝ち誇った顔で胸を張っている。

 この分だと、今になって俺に声を掛けてきたのは、俺の出自に触れる事でアドバンテージを取れると考えたからなのだろう。その滑稽な姿に冷めた目を送りながら、俺は脳内にて打算を巡らせていた。

 現時点において、2-Sクラスの面々で表立って俺に敵意を表しているのは、目の前のこの少女だけだ。他の連中の中にも俺を快く思っていない輩はいるだろうが、それを表に出す度胸もプライドも実力もない以上は気に掛ける必要もあるまい。

 葵冬馬、九鬼英雄、そして不死川心。この三名が2-Sの中心人物であり、俺は既に内二名から認められている。つまり、ここで不死川心の高過ぎる鼻っ柱を叩き折りさえすれば――俺はS組における立場をより確固たるものと出来るだろう。

 しかし、だからと言ってやり過ぎても不味い。不死川家の日本全国に及ぶ勢力、特に政財界に与える影響力は紛れもない本物だ。今はまだ“敵”に回すべき時期ではない。

 憎まれず侮られず、か……中々の難題だが、これもまた修行の一環と考えるとしよう。

 さて、やりますか。幸いにして方策は用意済みだ。俺は密かに気合を入れてから、悠然とした態度で心を正面から睨んだ。

「対等。俺と貴様が対等か。くく」

「な、何がおかしいのじゃ」

「俺は貧しく腐った家に生を受け、そして己が力のみで此処まで辿り着いた。財力の支えも権力の後ろ盾もなく、純然たる実力でな。それに引き換え、先祖の築いた家柄しか依るものも誇るものも持たない小娘が、俺と対等?くく、お笑い種だな。滑稽極まる、誰が貴様を対等の存在などと言った。元より貴様など――俺の眼中には無い」

 あくまで淡々と、無感情に。心底から見下したような視線をお返ししながら言ってやると、心は自分が何を言われたのか咄嗟に理解できなかったのか、ポカンと口を開けて固まった。数秒の後になってから、怒りに顔を赤く染めていく。

「な、んななな……!あ、あろうことか野蛮で粗暴な山猿の分際で!高貴なる血筋の此方を、愚弄しようと言うのか!?」

「事実を事実として述べることを“愚弄”と呼ぶならば、否定する要素はないな」

「な、何じゃと~!おのれおのれおのれおのれおのれ、此方に対する数々の暴言、断じて許せぬ!もはや我慢ならぬわ!」

「ふん。ならば、どうする?」

「決まっておる、お前の下賎な出自を学園中に晒して笑い者にしてくれよう!今更後悔しても遅いのじゃぞ」

「学習能力のみならず、理解力も猿並みか?俺の出自は、自身が何者にも頼らず独力で生き抜き伸し上がった事実の証明。誇りこそすれ、卑下するところなぞ欠片もない。――生まれが貴様の誇りと云うなら、育ちこそが俺の誇りよ」

 何の迷いも衒いもなく、堂々と言い放つ。

 これは彼女に対する挑発であると同時に、紛れもない俺の本音であった。

 勿論、自分の生まれたあのゴミ溜めのような家庭を愛していた訳ではない。惨めな幼少時代を過ごす原因となった生活環境を憎んでいない訳がない。仮に生まれ変われるなら、今度はごくありふれた平凡な家庭で、そこそこ幸せに生きてみたいと願う。

 しかし、それでも俺は、自分の出自を否定するつもりはまるでなかった。誇るべきはどう生まれたかではなく、どう育ったか。それだけの話だ。

 故に不死川心の驕りに満ちた言葉など、俺の胸には何一つ響きはしない。わざわざ殺意を覚えるような価値すら、見出せない。

「ぬ、ぐぅ……!あくまで此方に頭を下げぬ気か!」

「無論。俺に頭を下げさせたければ、力を以って捻じ伏せてみせるがいい。家柄のみが頼りの貴様には、無理な注文だろうがな」

「~っ!」

「くく、言い返せぬか?ならば、これよりは身の丈にあった態度で過ごすが良かろう」

「ぬ、ぐぬぬぬぬぬっ」

 言葉を重ねる度、確実に怒りのボルテージが上昇していくのが手に取るように分かる。己の思う通りの方向に相手を誘導できている確かな手ごたえを感じ、俺は心中にてほくそ笑んだ。

 川神学園への転入に際して川神百代に次ぐレベルで警戒していた存在が、何を隠そう目の前の不死川心という少女である。

 編入先である2-S所属の、不死川家の息女。故に彼女に関する下調べは入念に行っており、そのパーソナリティはかなり詳細に把握していた。

 彼女は比肩する対象が殆どない名家の出身であり、また本人もそれを過剰な程に誇って喧伝して回る事から、ともすればその家柄と高慢な態度だけが印象に残りがちだが――実際に無能な人間かと言えば、それは違う。まるで見当違いと言ってもいい。

 ここ川神学園を構成する基幹となる原理は“競争”。そんな場所のエリートクラスに在籍し続けるには、家柄など無関係に純然たる学力が必要とされる。更に、調べでは柔道において全国区の実力を有しており、学園内でも指折りの武力の持ち主であることは疑いない。

 不死川心は家柄を抜きにして考えても、十分に有能な人間だ。その事実を学園の誰よりも正確に把握している俺が、それでも彼女を無能と見下した態度を取っているのは、当然ながら挑発のためだった。

 彼女は殺気の意味に気付ける程度には聡く、故に“織田信長”には敵わないと心のどこかで認めていたからこそ、これまで俺に直接的な形で喧嘩を売る事を避けていた。負けると分かっている戦いに挑むのは愚者の所業だ。

 しかしながら、俺からしてみれば不戦敗ほど厄介なものはない。実際に勝負して白黒はっきりさせなければ、敗者が自分を敗者だと認める事はないだろう。認めないのをいい事にいつまでも反抗的な態度を取り続けるに違いない。

 幾ら力があった所で、戦おうとしない相手にはどう足掻いても勝てないのだ。そういう意味で、臆病者ほどやり辛い相手はない。

 だからこそ、俺は彼女の逃げ場を封鎖した。思ってもいない言葉で怒りの炎を煽り、俺への恐怖心を焼き尽くすほどの業火へと成長させた。あえて人目が集まる中で挑発を続けることで、膨れ上がったプライドを破裂させるべく刺激した。

 さてどうする不死川心、家柄の高貴さに見合う誇り高さを胸に抱えたお前は、この局面で背中を向けて逃げ出せるか?

「良かろう……!高貴なる此方がお前を実力でボロクソに打ち負かせば、此方は全てにおいてお前に勝っている事になるという訳じゃな?」

「……」

 ついに捉えた。

 待ち望んでいた展開の到来に思わず綻びかける口元を抑えて、俺は冷然とした表情を保ったまま言葉を返す。

「然様。元より不死川家の威光は俺も認める所。認めていないのは――不死川心という個人である故」

「ならば、此方を家柄だけの雑魚と侮ったこと、泣いて後悔するがよいわ!2-S所属、不死川心は学園の掟に則り、お前に決闘を申し込むのじゃ!」

 心の決闘宣言は、瞬く間に教室全体に伝播する。この瞬間よりS組の全生徒が彼女の言動の生き証人となった。

 そう、喧嘩は売ってくれなければ買う事も出来ない。かくも早くこの機会が訪れるとは、望外の僥倖だ。


「くくっ。同じく2-S所属、織田信長。貴様の挑戦、確かに受け取った」


―――わざわざ与えてくれたチャンスを逃す気はない。せいぜい徹底的に“心”を折らせて貰うぞ、不死川の御息女。


 机上に叩きつけるようにして置かれた彼女のワッペンに目を落として、俺は自覚できるほどに邪悪な笑みを浮かべていた。












~おまけの2-S~



「おいおい、真剣で決闘するのかよ……こりゃあ冗談抜きでヤバイんじゃね?不死川の奴」

「まあ決闘となれば学長の介入がありますから、信長も加減はするでしょう。ふふ、クラスメートが心配ですか?」

「あーあ心配だとも。俺は自分のクラスで殺人事件発生なんて真っ平ゴメンだね」

「お墓はやっぱり校門前の桜の木の下がいいかな。あははは、花弁が散る度に思い出しちゃうよーん」

「ユキ、人が不安になってる時に不吉なこと言うのやめてもらえませんかね」

「それにしてもこの状況、英雄の時と随分流れが似ている……。この決闘、英雄はどう思います?」

「結果は見えているな。奴の相手など信長にとっては役不足もいい所であろう。我が好敵手と認めた男よ、庶民如きが敵うハズもあるまい」

「あー、お前的にはむしろ不死川の方が庶民なんだな。御三家を庶民扱いとは、改めて世界の違いを感じるぜ」

「フハハハ、当然よ。大体、庶民共はいつも家柄だの出自だの、下らん思い込みに縛られ過ぎるのだ。親は親、子は子。自明の理であろうに、それしきの事も理解しようとせん。まったく嘆かわしい。……ん?どうした、我が友トーマよ」

「いえ、何でもありませんよ――英雄」












 
 久々に登場のS組の面々。板垣一家も書いていて楽しいですが、やはり自分が一番楽しんで書けるのはS組だと実感しています。しかも今回から本格的に不死川さん家の心ちゃんを書けると言う事で、否が応でもテンション上昇中。かつて心√の呆気なさに肩を落とした自分にとっては、まじこいSでのメインヒロイン昇格はかなり嬉しいニュースでした。この作品の裏テーマはいかに彼女を魅力的に描けるか、だったりするとかしないとか。
 
 これまで感想を頂いた方々に感謝を。返信は出来ませんが、それはもう励みにさせて頂いてます。それでは、次回の更新で。


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