2009年12月04日

[最後のパレード]事件と著作権法を再考する

私は法律の専門家ではなく、著作権法に関しては全くの素人(しろうと)であり、無知でした。その素人だからこそ、今知りたいことがあるのも事実です。

現行法における「最後のパレード」事件の法的実務は弁護士にお任せするとして、前から疑問に抱いていたことを今後明らかにしていこうと考えています。

 


もちろんこの行動は、私憤からのものではありません。世の中の人が私と同じような攻撃を受けないようにするための行動です。

 


何を明らかにしたいかを最初に記します。それは、「最後のパレード」事件で盗作とされたエピソードは、はたして著作権が発生する著作物なのかということを明らかにしていきたいということです、

なぜならば、著作権法では、データ(記録)には著作権は発生しないとされているからです。

 


読売新聞は2ちゃんねるに掲載された「パクッた」という情報を、そのままの形で記事にしました。著者や出版社への取材は、ほとんどありませんでした。つまり、著作権侵害に当たらない「データ」であるかどうかなど、読売新聞の記者の頭にはなく、単に2ちゃんねるの「パクッた」情報を正しいものとして受け入れたのです。

 


つまりこういうことです。読売新聞の記者が「データ」には著作権は発生しないということを知っていれば、あのような乱暴な取材は行われるはずがないのです。また、このことを社会が共有すれば、「最後のパレード」事件のような悲しい事件は防げるのです。

 


本題に入ります。前のブログに「生きテク」のサイトを紹介しました。このサイトでは、自殺寸前で思いとどまり、生還した人の体験談が集められています。匿名であり一定のひな形に沿って体験談が語られています。

 


私の素朴な疑問は、これらの体験談一つひとつに著作権が発生するのかということです。

 


体験談とは、言い方を変えれば読書感想文と同じ感想文です。読書感想文は、本という著作物への感想を記したものですが、自殺寸前で思いとどまった体験談の基になったのは、いじめや病気や過労など、お金とは関係ない出来事です。

 


さらに、です。なぜ、匿名でも感想文を記したかを考えなくてはなりません。それは、自分の体験をほかの人にも分け与えたい、他者の役に立ちたいという利他の心から、体験者は自らの体験を記録(データ)に残したかったのです。

 


自殺の問題だけではありません。いじめの体験談、戦争の体験談、被爆体験談、ハンセン病による差別の体験談、水俣病や薬害エイズ事件などの体験談も同じです。

 


皆さんはこのような体験を記した人の中に、著作権を主張する人が何人いるとお考えでしょうか。

 


私はゼロだと考えますが、読売新聞や小さな親切運動本部のように、利他の心ではなく、自分たちのことしか考えない利己(エゴ)主義の人たちは、「著作権を主張し、権利を金に換えていくべきだ」と主張することでしょう。

 


「最後のパレード」の読者からは、「幸せを分け与えてくれてありがとう」という手紙などがたくさん届けられました。私は読者とはお互いに利他の心を分かち合えたと考えています。今でも応援の声を頂いております。

なぜなのか、それはお金に換算できない利他の心から生まれたエピソードを分かち合えたからだと私は考えます。

 


森林窃盗罪という犯罪があります。

 

森林窃盗罪を厳密に当てはめれば、持ち主の承諾のない山菜採りは「山菜盗り」に当たります。三年以下の懲役、三十万円以下の罰金に処せられます。


キノコ狩りや薬草採り、ヨモギやツクシの採取も窃盗でしょう。それでも、家族で食べる分くらいなら大目に見る・・・これが日本の常識と考えたところに私の失敗の根源がありました。自分にとっての損得しか考えない人たちが世論を誘導している恐ろしさを当時の私は認識していなかったのです。 


山菜採りは窃盗ですが、ネット上のエピソードの転載は引用の範囲にあると私は考えます。多くの人の人を幸せにするために利他の心で記されたエピソードや、多くの人を不幸にしないために利他の心で記録(データ)されたエピソードの引用が、著作権法違反でいいのでしょうか。 


そしてこれらの記録が、新聞社や公益法人や株式会社などの大きな団体に集まった時、私たちは、大きなものにいちいち許可を得なければ、体験者が利他の心で記した体験談を、ブログに転載したり、掲示板で紹介したりできないのです。 


時間はかかりますが私は、著作権の対象にならない「データ」としての体験談と、著作権の発生する体験談の違いを分ける必要があると、国に対し質問注意書を提出していく所存です。