2009年12月05日

「最後のパレード」事件と普天間問題の共通点

ディズニーランドの仕事の常識ですが、仕事とは「施策を選択する段階」と「選択された施策を決定する段階」に分かれます。

 


以前にも書きましたが、炊飯器の「炊飯コースを選択する段階」と「炊飯コースを決定(入力)する段階」と同じことです。



 

 

普天間問題では、これまで政官業が一体になり、「代替地は辺野古しかない」と、候補地を一つにしぼってきました。つまり、選択肢を複数にせずに、国民に提示してきたのです。なぜならば、旧政権の頭の中には、地元に「土建」を発生させることしかなかったからです。

 


新政権は、旧政権の有したこのしがらみを断ち切っています。ですから、複数の選択肢をテーブルに上げることができるのです。そのことを「ぶれてる」としか言えないマスコミは、稚拙としか言いようがありません。

 


テーブルには複数の選択肢が上げられそうです。グアム、辺野古、関空、海上メガフロートなどです。マスコミには登場しない識者の見方は、グアムになる可能性が高いというものです。そうすることにより、沖縄県民にも、民主党にも社民党にもメリットが生じます。来年の参議院選も与党が勝利することになると予測しています、

 


私は、個人的にはグアム移転に大賛成です。さらに言えば、日本の領土であり国民が住んでいない硫黄島の自衛隊の基地も共同使用すべきです。硫黄島には、悲しい歴史がありますが、世界平和のためには東村山市より広い面積(23.16km²)を持つ硫黄島を活用しない手はありません。




 

 アメリカは莫大な移転費用を要求してくるでしょうが、私は要求通りに支払うべきであると考えます。 日本の2009年度の防衛予算は4兆7千億円です。この莫大な年間予算の一部をグアムや硫黄島へ整備や移転費用に充てていけばいいだけです。  


話を戻します。問題は施策や政策を選択したのは誰かということです。普天間問題は、政官業の癒着が辺野古を選択しました。

 


翻って「最後のパレード」事件はどうでしょうか。問題になったエピソードを選択したのは、出版社の編集者です。

 


例えるとこういうことです。「昭和の歌の祭典」という番組をイメージしてください。膨大な数の歌の中から、ジャンルに分け、候補曲を選択し、全体を方針に沿って「編集(編み上げる)」し、番組の価値を高める役割は誰にあるのでしょうか。

 


「最後のパレード」も同じです。ディズニーランドの膨大な数のエピソードから「これは必要」という素材を「抜き出し(選択し)」、本の価値を高めるために「並べ」、そして「テーブルに上げた」のは誰でしょうか。その答えは、前述のように、サンクチュアリ出版の編集者です。

 


しかしながら、サンクチュアリ出版は「私たちが選択しました」とは決して言いません。その背景には「真実を語ったら出版界では生き残れない(嘘をついても生き残りたい)」という思惑があるからです。

 


ここで私が、なぜ「最後のパレード」事件と普天間問題を重ねているかを記します。それは、選択者を明らかにして物事を論じないと問題の本質が見えてこないからです。「最後のパレード」事件のように、情報の受け取り手は、間違った判断をしてしまうからです。

 


選択者には必ず思惑があります。思惑自体は悪いものではありませんが、選択者を明らかにしないと選択の背景にある思惑は見えてきません。場合によっては、だまされることにもつながります。

 


アカデミーへのノミネートも選択です。オスカーという「決定」の前には、必ず選択の段階があるのです。

 


話題の「仕分け作業」も同じです。今回テーブルに上げられたのは447事業ですが、これは全体の15%でしかありません。全体から、447事業を選択した人たちがいるのです。

 


これまでの日本人は、「選択をする段階」に目を向けてきませんでした。というより、選択の背後にあるものに目を向けないように洗脳されてきたのです。これはマスコミの仕業です。

 


このように、選択の段階に目を向けることは、まさに真実を知ることなのです。そして、選択者の思惑を知ることこそが、真の民主主義社会を築きあげる第一歩なのです。