(河出書房新社・1890円)
「電車の終点まで来たら空港だったような」。一つの到達点であり、新しい旅路の起点となる長編小説である。
『金毘羅(こんぴら)』『萌神分魂譜(もえがみぶんこんふ)』に続く、金毘羅3部作の完結編。第1作で深海生物「金毘羅」であることを自覚した<私>(=著者)は、神話の時代よりも古い霊「亜知海(あちめ)」と出会う。亜知海は海底で光を放つ死者たちの王。「不当に消された人たちの、草分け、兄貴的な存在です」と説明した。
<私>は亜知海と対話しながら、身の回りに起こる数々の理不尽な出来事、社会での生きにくさの根源を追究する。高齢の猫の発作や文壇での論争……。自身の私小説的な日常が交錯し、現代と太古の昔が切り結ばれる。
「家の猫がもう寿命で助からないと言われていたころ、陰険な制約を受けながらも頑張る必要があった。この世の理を求め歴史を振り返り、想像を尽くして、彼を描きました」
ドゥルーズ/ガタリが、『千のプラトー』で示した「捕獲装置」という概念。国家による支配の力学を「捕獲」ととらえたこの考え方には、共感、通底するものがあった。それは、国家や社会通念に捕獲される自らの境遇に目を向けることでもあった。
「権力とは何か、勝手に物事をゼロにする力。だけど俗世間の私、小さな猫、そんななかにこそ宿る濃い本質がある。『千のプラトー』より前に、大乗仏教の華厳経などでもいわれているそうです。しかし、小さくてオリジナルなものは、すべて隠され簒奪(さんだつ)されがちで」
老猫2匹と暮らす小さな日常は、ドゥルーズから神話、国家の成立にまで、大きなうねりとなってつながっていく。3部作の完結であるが、「原始八幡シリーズ」の始まりの作品でもある。デビュー28年。「人力で掘って、ある日最後の鉱脈に当たった。ようやく私の課題が始まる」と力を込めた。生涯のテーマを掘り当てた著者の、充実ぶりが伝わってくる。<文・棚部秀行/写真・荒牧万佐行>
毎日新聞 2009年11月29日 東京朝刊