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2005年11月10日号

塾統~慶應義塾の伝統~ 第29回 「糖界の覇王」藤山雷太

数々の企業を再建
「民間外交」の推進役

専ら庭造りと漢詩を趣味に

 福沢の直弟子たる実業人はそれこそ多士済々、綺羅星の如く、人材に事欠かないと言えるのであるが、その中でもとりわけ波乱万丈の実業家人生を真直ぐに切り開いて行ったのが、「糖界の覇王」とうたわれた財界巨頭の一人、藤山雷太(一八六三~一九三八)であった。

 藤山は肥前国の大庄屋に生まれ(英国艦隊が鹿児島を砲撃した年の初秋、大夕立があって、雷が庭の大樹に落ちた晩に生れたので、「雷太」と名付けられたという)、藩主鍋島氏に招聘されて塾を開いていた草場仙山の下で学び、草場が京都に移ると、それに従って、京都に遊学し、よく線香が燃え尽きるまでに漢詩を何首作るかといった勉学に励んだという(こうした修学経験からか、彼が参加した三井グループのメンバー達は皆茶道に熱心であったにもかかわらず、彼のみはそれに同調せず、専ら庭造りと漢詩を趣味としていたという)。その後、明治十一年(一八七八)に長崎師範学校に入学しているが、成績優秀のため(米国前大統領グラント将軍が訪れた時は生徒総代として歓迎の辞を述べている)、卒業と同時に同校助教諭に採用され、三年間、教壇に立った後、慶應義塾に入学した。明治十七年(一八八四)、二十一歳のことである。ここで福沢より実業論を鼓吹されたことが彼の一生を大きく左右することとなる。

 やがて、明治二十年(一八八七)に慶應義塾を卒業すると、翌年には「議政壇上堂々と国事を論じ、功名手に唾してとるべし」と長崎県会議員に当選し、県知事も触れることを嫌がった外国人居留地問題解決(幕府は鎖国時代に唯一の開港場であった長崎に外国人居留地を定め、外人に九十九年間の永代借地権を与えていたが、明治維新後、所有地を元の日本人に与え、しかも借地権はそのままにしたため、地代は三十年来据え置きで安いままであるのに、地主は次第に高くなる地租を払わなければならないため、その負担に苦しんでいた)に尽力するなど、地方政治家として敏腕を振るっている。ちなみにこの時、藤山は上京して恩師福沢の助言を求め、その紹介で当時山陽鉄道社長であった中上川彦次郎にも会っているが、中上川はかつて外務省権大書記官・公信局長であったつてをたどって、藤山に首相黒田清隆、外相大隈重信、取調局長鳩山和夫らを紹介してやった。特に藤山と同郷人である大隈は事情を了承したが、買い上げるにも国庫に買収資金が無いことを嘆いたため、福沢が「かつて下関で、長州藩が外国艦隊と砲火を交えたことがある。この時、幕府は償金を出していたが、その金が米国政府から返還されたはずだ。この金を充当するよう、進言してはどうだろう?」と藤山に秘策を授け、結局、福沢の言う通りになって、外国人居留地を地価の八倍に当たる八十余万円で買収させることに成功するのである。この難問解決によって、地元民が如何に藤山に感謝したかは、長崎市が五万円(今日の数億円に当たる)という大金を彼に贈ったことからも窺えよう。

 ところで、藤山の志は元々実業界進出にあり(「治国平天下も結構であるが、まず一身一家生計の独立を期してのち、人にも及ぼし、物質的文明を促進して国を富ますということが大切だ」と述べている)、第一回総選挙で代議士になるには年齢も足りなかったため、再び福沢に相談すると、ちょうど中上川が三井改革に着手している時であったので、福沢は三井に入ってこれを助けてはどうか、と紹介している。中上川はすでに外国人居留地問題を通して、一介の青年議員に過ぎない藤山が一国の首相以下の大物達と交渉して、県知事さえ手が出ない難問を解決した手腕を高く評価していたので、素人であるにもかかわらず、いきなり三井銀行の抵当係長という重要ポストで藤山を採用したのである(三井銀行では総長以下店員全部を役員と称し、これを十五等に分け、三等以上を「大元締」、四等以下九等以上を「名代」、十等以下を「平役」と言ったが、藤山は最初から名代であった)。中上川からすれば、藤山は朝吹英二に次ぐスカウト人材第二号となるのだが、当時、三井銀行が直面していたのは不良債権の処理であり、これは抵当物件の処理如何がその成否を左右するため、改革の断行を藤山に託したと言ってもよいであろう(中上川が如何に藤山を買っていたかは、彼の妻勝の妹を藤山と結婚させたことからも知られる。その第一子が政治家として活躍した藤山愛一郎である)。ちなみに福沢は藤山の三井採用を我が事のように喜び、次のようなはなむけの言葉を贈ったという。

 「思想の深遠なるは哲学者のごとく、心術の高尚正直なるは元禄武士のごとくにして、之に加ふるに、小俗吏の才能を以てし、之に加ふるに士百姓の身体を以てして、始めて実業社会の大人たるべし。」

 かくして藤山は武藤山治(後の鐘紡社長)や和田豊治(後の富士坊社長)らを配下に、着々と不良貸金の整理を推進しているが、その中の一つに桂太郎中将の弟である桂次郎への債権取立てがあった。桂次郎は兄の邸宅等を担保に三井銀行から融資を受け、恵比寿麦酒会社を創立したのであるが、事業が順調に行かず、三井銀行への債務を履行できずにいた。そこで藤山は当時長州閥の寵児で、陸軍元老山県有朋の懐刀にして、飛ぶ鳥も落とす勢いだった名古屋第三師団長桂太郎を訪れ、旅館に泊まり込みで膝詰め談判に及び、担保である桂邸を取り上げて、不良貸金の回収に成功するのである。ちなみに桂はこの時、四十六歳、後には首相になる人物であり、藤山は若干三十歳の若造に過ぎなかった。

 あるいは抵当流れになった田中工場を三井銀行が引き受け、同工場を「芝浦製作所」(後の東芝)として再スタートを切ることになった時、その主任(後に支配人)に選ばれたのが藤山であった。藤山はここで時代の趨勢を見極め、電機製作を開始するという大胆な方針を打ち出し、三井の幹部から「不慣れな電機製作を始めるのは営利会社として取るべき方向ではない」と反発されたにもかかわらず、「いやしくも事業を行なうのに近眼者流の見解にはくみすることはできない。たとえ一時の不利を忍んでも時勢のおもむくところを洞察して、これに邁進すべきである」と主張して譲らず、六十キロワット単相交流発電機や二十五馬力直流電動機を完成させ、芝浦製作所は電機専門工場として世に立つ礎石を築くのである。

 さらには王子製紙の大株主であった三井家を代表して、藤山は同社専務取締役に就任しているが、当時の社長渋沢栄一(最終的に五百もの企業に名を連ねた渋沢であるが、最も力を注いだのが第一国立銀行と王子製紙であった)、古参専務大川平三郎(後に「製紙界の天才」とうたわれる)に対して、新参専務の藤山は何かと対立し、ついには渋沢に対して社長辞任を直言している。

 「あなたは王子製紙の社長をやめてもらいたい。あなたが辞職してくださらなければ会社の前途が安全でありません。大川君が専務としてあなたのところに先に行き話を決めてくれば他の重役は盲判をおすばかりで、私はいたずらに虚器を擁するにすぎません。大川君がいては私は責任をもって経営することができません。」

 結局、渋沢はこの要求を呑んで、大川を取締役技師長工場主管に下げ、藤山のみを専務とする人事改革を断行するのであるが、これも双方に私情あってのことではなく、後に藤山は「二十五歳も後輩の私の言に耳を傾けて、私情にとらわれず公平に判断をくだすところは、さすが澁澤氏は偉いもので、その海のごとき広量には深く感銘している」と述懐していることは注目されよう。

 やがて、中上川亡き後、藤山は三井を離れ、駿豆鉄道社長、日本火災保険副社長、歌舞伎座取締役、泰東同文局社長等を歴任しているが、一大転機となったのが明治四十二年(一九〇九)の大日本精糖社長就任であった。当時、大日本精糖は「明治の一大疑獄」と呼ばれる大事件に遭遇しており、藤山が社長に就任する半月前にも重役数名、代議士、市会議員、弁護士等が続々検挙されており、経理上も完全な行き詰まり状態にあって、再起不能の風評が立っている状態だったのである。この再起に藤山を担ぎ出したのが実は渋沢であり、これが如何に難問であったかは藤山が社長就任を受諾したのが総会開会一時間前であったことからも窺い知れる(息子の愛一郎にも、「おまえは跡取りとして、あるいは自分がこの仕事に失敗すれば路頭に迷うようなことがあるかもしれぬ。それだけの覚悟をもってもらいたい」と申し渡しているほどであった)。結局、藤山は膨大な負債を前に熟慮を重ね、まず日本における消費糖の原料は台湾糖によるのが得策であり、しかも自らの工場で原料を製造するのが有利と判断して、台湾における工場増設を急ぐ一方、日本の工場で製糖したものは中国に輸出する方法を講じ、驚くべきことにわずか二年で純利益を出して、株主への配当すら可能にしているのである。当初、債務整理完了に十年かかると見込まれていた経営再建計画は前倒しで順調に進み、資本金増資を心がけ、朝鮮製糖、内外製糖、東洋精糖などを合併して、大日本精糖を伸張させ、藤山はさらには東京商業会議所会頭、日本商業会議所連合会会頭にも就任して、幅広い財界活動に乗り出していく。

 藤山は海外財界との交渉にも尽力しており、特に米国と中国との親善関係が日本の将来を左右するとして、あるいは米国全商業会議所連合大会に出席し、日米親善を強調して感銘を与えたり、あるいは中国・満州・朝鮮に何度も渡って、張作霖、張学良、蒋介石らと親睦を深め、日支経済同盟を提唱したり、さらには慶應義塾で学ぶ息子達を中国や米国に旅行や留学で送り込み、民間外交の推進者としても内外にその名を知られることとなるのである。

参考文献:『財界人思想全集6 財界人の外国観』(会田雄次編集・解説、ダイヤモンド社)、『別冊太陽 慶應義塾百人』(平凡社)、『福沢山脈 下』(小島直記、河出文庫)

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